先日、ふと本屋でデヴィッド・クリスタルという人が書いた『消滅する言語』(中公新書)を見つけて買いました。
現在(2000年)、地球上で人間が用いている言語は6000から7000あるということです。
そのうち、滅びる心配のない言語はわずか600、つまり9割の言語が絶滅に瀕しているというのです。
「死語」というのがありますが、こちらはそんな生易しいものではありません。

誰も使わなくなったとたん、あるいは話者が1人になったとき、言語は滅びます。
判読不能になった古代文字がありますが、古代に限ったことではありません。
古代においても、文字を持っていた言語はごくわずかで、大半が痕跡すら残さず消えていきました。
歴史の教科書に出てくるのでいえば、たとえばスキタイ人などがそうです。
日本人もある時期までは文字を持たず、中国から来た漢字によって、ようやく歴史と物語が書き留められました。
文字を持つ以前にあったはずの、膨大な神話や伝説、歌謡などはすべて消え去り、
ごくわずかの物語が断片的に残され、現在にまで伝わっています。
そして、文字を持って以来、作られる物語や歌、文学の一切は、
文字に寄り添うように、文字に影響を受けずにはいられません。
これらはあらゆる言語の宿命です。

プラトンの『パイドロス』の中で、ソクラテスが文字を批判したことは有名ですが、
文字のおかげでソクラテスの哲学が残り、以降のヨーロッパ哲学のすべてがその文字を読んだのですから、
たしかに文字の力は大きいのです。

さて、話が飛びました。
現在でも、少数民族や同じ民族でも集落ごとに独立した生活が営まれている場合、
方言では収まらない語彙や文法の差異がある言語が膨大にあります。
それらは、言語学者が収集して保存するといっても限度があります。
言語の絶滅を恐れるのは、その言語の担い手たちが培ってきた思考や文化の最も豊かなものが失われるためです。
人間は言語、とりわけ母語によって思考します。
その思考プロセスは、母語の文法や統辞法に否応なく影響されます。
日本人が、とくにヨーロッパの思考に苦しむ、あるいは違和感を覚えるとしたら、
まず言語のせいではないかと思います。
言語はただ思考のために存在するのではなく、
その生活環境や文化的背景、歴史といった使用者たちのコミュニティのあらゆるものと関わってきます。
それゆえに、言語が失われることは恐ろしいことだといえます。

方言もそうです。
結局使用者が減れば、その元々に持っていた豊かさは消えていきますし、
その社会的身分や境遇によっても方言や言語は多様な展開を見せています。

ところで、この『消滅する言語』にはアフリカの例が数多く載っています。
そこでつい思い出すのは、詩人ランボーが晩年をアフリカで過ごしたということです。
商人として砂漠を経巡り、一箇所に留まらず、思索を放棄して「沈黙」した後半生。
鈴木和成『ランボー 沙漠を行く』には、ランボーの旅そのもの、また書簡というエクリチュールと、それが発送され到着するまでの時間まですらが、一つの詩的な営みであったという、
大変にスリリングな内容でした。

「ベルベラでは、沖合で取れた緑石や珊瑚で立てられた家が若干あり、アラブ人、インド人、ユダヤ人の家ですが、これは焼け残りました。…ベルベラは、過去においてそうであったように、すぐに再建されるでしょうが、時ならずしてまた燃えるでしょう。」

引用されていたアフリカ書簡の中で、ひときわ私が想像力をかき立てられた一節です。
カルヴィーノの『見えない都市』のように、存在しない街であるかのようです。
具体的でありながら、なんだか夢見がちで、しかも火災で焼けて再建され、また焼けるという反復、
それは即物的な観察でありながら、一つの歴史を内包しており、
建材の面白さが異国情緒を作りだし、列挙される民族がいずれも金満の、『アラビアンナイト』の登場人物じみてくる。
ここに虚構と現実の閾がゆらぐのは、それが書簡によって遠くへと運ばれたことにあります。

そして、私はランボーのこの本と、消滅する言語を読みながら、
ひとつの小説のプランを夢想するのです。
それは、ランボーが絶滅する言語を次々にマスターし、
その語族がかつて持たなかったほどのすばらしい詩を次々に読んでは、
書き留められずに消えていくという小説です。
ただ、これは残念ながらほとんど言語学者でなければ不可能な作品でしょうし、
それを美しいと思うのは、ごくわずかな人に限られるでしょう。
まったく費用対効果の合わないこの小説は、
予告だけがなされて決して現れない小説なのだろうと。

それもまたよし。
言語の消滅の話から、随分と飛びましたが。