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父は小卒、母は中卒の貧困家庭だった…前明石市長・泉房穂が「親ガチャに外れた」という言葉に違和感をもつ理由
1/1(月) 10:17配信
プレジデントオンライン

「親ガチャ」という言葉をよく耳にするようになった。前明石市長の泉房穂さんは「父は小卒、母は中卒で、一般的には『親ガチャに外れた』という貧乏な家庭だった。だが、政治家になる時にはそれが武器になった。若い人が『親ガチャ』に嘆くのは早計ではないか」という――。

 ※本稿は、泉房穂『20代をどう生きたらいいのか』(さくら舎)の一部を再編集したものです。

■世界と歴史の変化を意識する

 歴史の変化を意識、なんて言うと大仰に聞こえますが、「時代が変化していく途中に自分たちがいることを自覚しよう」ということです。

 世界の中に、そして歴史の中に私たちはいます。そして世界はつねに動いています。ですので当然のことながら、これからどう変化していくのか先が読めれば、自分たちがどう行動すべきかもわかってきます。

 たとえば私は市長だったとき、まずは地球儀を見るように俯瞰(ふかん)し、日本のほかの地域や世界の国、都市に視野を広げてみました。そうすると、自分たちのまちに必要ないろいろな政策が具体的に見えてきます。

 たとえば明石市で実施した無料のおむつ定期便は、滋賀県の東近江市がすでに行っていました。その制度をバージョンアップして、ただ届けるだけでなく、子育て経験のある人を担当者にして、毎回同じ人が届けて話を聞けば、育児をしている人も助かるのではと考え、自分たちの市により適応させるかたちで導入しました。

 離婚前後の子どもの養育費の立て替えも開始しましたが、これはもともとヨーロッパで行われており、それがお隣の韓国に導入されたものを、輸入しました。これは韓国の制度に準じて行っています。

■明石市の施策は「世界のどこかの成功実績」のまね事

 ソウル市では中学校の給食費無料化も行っていたので、それも導入しました。

 生理用品の無償配布はニュージーランドをまねて、全市立学校の女子トイレに生理用品を置いています。

 各種審議会に障害のある人を1割以上入れること、という条例も全国初でつくりました。これはルワンダの憲法を参考にしています。

 地球儀をぐるっと見まわして、世界のどこかですでに成功実績があり、市民にとって「これいいな」と思った施策をまねているだけなのです。

 日本だけ、自分の近くだけを見て考えていると、「これはできない」「あれもできない」となってしまいますが、視野を広げてみると、「えっ、これやってる国あるやん」「これもできるんちゃうか」となる場合がけっこうあるのです。

■アンテナを張って地球規模で広く世界を見る

 令和5(2023)年6月にようやく国会で成立したLGBT理解増進法も、G7(先進7カ国首脳会議)の国で制度がなかったのは日本だけでした。

 世界をぐるっと見たら、次に、日本における状況を見ます。社会の情勢や世論を見て、受け入れられそうなタイミング、その風はいつ日本に吹くだろうかと先を読んで、政策を打つのです。

 たとえば、令和4年、国が支給する児童手当について、明石市では独自に高校生世代まで対象を広げることに決めました。「もうすぐ時代が追いついてくる」と読んでいたからです。その後、東京都でも同様の施策の導入が決定されました。

 明石市で平成28(2016)年から実施している第2子以降の保育料無料化も、その後、ほかの自治体でも採用しはじめています。

 時代というのは必ず変わっていきます。人の価値観も移り変わっていきます。同性婚だって、少し前までは多くの人が「ノー」と言っていたのに、いまは少なからぬ人が「いいんじゃないかな」という時代でしょう。

 男性が家事育児をすることも、上の世代だとまだ「ノー」かもしれませんが、それこそみなさんの世代では多くの人が「イエス」なのではないでしょうか。

 時の少数者が時代の移り変わりとともに多数者になっていくのが歴史の流れ。いまの時代の少数者は将来の多数者になり、いまの多数者は将来の少数者になる。多数者がずっと多数者であることはなく、歴史の中で入れ替わっていくものなのです。

 アンテナを張って地球規模で広く世界を見ること、そして歴史が動いていくという時間の流れを意識することで、多くの思い込みを取り払うことができると思います。

■能力は高いのに視野が狭いエリート東大生

 視野の広さでさらにいうと、自分の育ってきた環境も影響してきます。自分の生まれ育つ環境は自分では選べませんから、まずは「自分の知っている世界がすべてではない」と意識することが大事です。

 たとえば、学校は公立だろうが私立だろうが、どこに行くのもアリ、個人の自由です。

 ただ、それこそ私立の進学校といわれるような学校に行くと、同じような高い収入で、教育意識の高い親のもとで育った人間ばかりが集まります。それはそれで悪いことではないのですが、「その狭い世界であたりまえ」のことは、「一歩出ると、まったくあたりまえでない」なんてことはよくあります。

 同質性により閉じた世界にいると、多様性に富んだ世の中全体が見えにくくなる可能性が高いということです。

 私が東大にいたときにすごくもどかしかったのは、自分たちの能力を世の中のために役立てようとしていない、そんな学生たちが一定数いたことでした。

■官僚が国民のための施策を実現できない理由

 その人たちは将来の出世のことばかりせこく考えていたようです。出世主義の両親のもとで育ってきて、家庭教師をつけてもらって進学校に行って、ゴルフ部に入って、その先輩に引っぱってもらって中央省庁に行く、みたいな人たちです。

 「何のために勉強しとんねん! 世の中よくするためやないんか! そんなんで人生楽しいか!」

 と思いました。

 「せっかく勉強して東大に合格するだけの能力があるのなら、その力をもっとみんなのために生かそうよ」
「せこい将来設計なんてしていないで、困っている人を助けるとか、もっと世の中を変えていったほうが楽しいんちゃうの」

 とも思っていました。

 そんな人たちが中央省庁に行っても、「国民」のためのことなんてできるわけがありません。だって多くの国民の実態を知らないのですから。

 私はというと、貧しい漁師の家に生まれたことは前述のとおりです。

 父は小卒、母は中卒で、会話で使う言葉も小学生レベルくらいにしないと難しいし、弟は障害者です。でもそういう庶民の生活、また少数者の生活を「肌感覚として知っている」というのは、まちづくりをしていく際には大きな強みになったと思っています。

 くり返しになりますが、進学校に行くな、と言っているのではありません。大学だってそうです。ただ、

 「試験や家庭の経済力で選別された環境にいるあいだは、見ている世界が狭いかもしれない」

 と自覚しておく必要があるということです。

■小卒の父、中卒の母の「ハズレ」家庭でも発想の転換次第でうまくいく

 「親ガチャ」という言葉をよく耳にするようになりました。たしかに、「ランダムで出てくるので自分では選べない」ガチャガチャのように、生まれてくる子どもは決して親を選べません。容姿や身体能力などの遺伝的なものや、金持ちかそうでないかといった家庭環境も子どもが選べるものではありません。運しだいで「アタリ」か「ハズレ」かが決まる。うまいことを言うものだなと思います。

 ただこの言葉は、「親ガチャに当たった」なんて言い方はほとんどされず、あきらめやいらだちをこめて「親ガチャに外れた」などと言われることが多いようです。

 私は「親ガチャ」という言葉にはよい面と悪い面の両方があると思っています。

 家族内で虐待があるような場合は明らかに「ハズレ」だと言っていいかもしれません。でも実際は、この言葉がそれほど大変でない状況で、「あきらめや自分に対する言い訳のように使われている」ように見受けられます。

 私の場合を言えば、貧乏な家庭環境に育ちました。一般的に、これは「ハズレ」と言えると思います。ところが、ここからが発想の転換のしどころです。

■選挙は「ハズレ」エピソードのほうが有権者に刺さる

 選挙では、「ハズレ」であるこの貧乏が、大きな武器に変わります。というのも、どれだけ人々の共感を得られるかが重要だからです。貧乏話は人々の共感をよびます。実際には、貧乏の話そのものよりも、貧乏でくやしかったことや苦しかったことがみんなの共感をよぶようです。そもそも富裕層は国民の1割にも満たないのですから、当然といえば当然です。

 一方、裕福な家庭で育った「アタリ」候補者は、少なくとも自分の経歴についてはそれほど語ることがないように思います。選挙で「私は金持ちの家に生まれました」なんて言ったら、人々から反感をもたれることでしょう。

 これはあくまでも一例ですが、家が貧乏だからすべてマイナスかというと、決してそういうわけでもありません。貧乏だから大切なことに気づくこともあるし、「貧乏だから頑張ろう」という動機につながることもあります。

 「親の年収が子どもの学歴に影響する」という統計はありますが、親ガチャが「ハズレ」だったとしても、それで自分の人生をはじめからあきらめるのは、もったいない気がしてなりません。

■貧乏でなければ人生が裕福になるとは限らない

 よく「やる気スイッチ」なんて言いますが、厳しい環境があってこそ、心がふるえるような気づきや自分自身の頑張りにつながることもあると思います。

 「親が子どもに理解がない」という理由で、自分の道をあきらめようとする人もいるかもしれません。

 でも、考えようによっては、親に中途半端な理解があると、子どもはかえって親に気をつかって、顔色をうかがいながら自分の道を決めてしまうこともあります。

 そういう意味では、いっそまったく理解がない親のほうが自由にできるものです。だから、親がまったく無関心ということも、必ずマイナスになるとは限りません。

 「うちは貧乏だから」とか、「親の理解がないから」とか言うのは個人の自由です。

 でも、そのときに少し考えてみてください。

 もし貧乏でなければ、人生はよりよくなったのでしょうか。親の理解があったら、人生は成功したのでしょうか。

 冷静に考えてみて、もしそれが「自分が何かをできていないこと」に対する言い訳だとしたら、「やる気スイッチ」を入れるべき時期が来たということなのかもしれません。

 さらにいうと、本当に「ハズレ」だとしても、「この親でなければ」と不満を言うより、「生まれた家庭環境によって自分の道を閉ざすような社会」のほうに目を向けて、そんな冷たい社会を変えていく方向へと、発想を転換してはいかがでしょうか。

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泉 房穂(いずみ・ふさほ)
前明石市長
1963年、兵庫県明石市生まれ。東京大学教育学部卒業。NHKディレクター、弁護士を経て、2003年に衆議院議員となり、犯罪被害者等基本法や高齢者虐待防止法などの立法化を担当。2011年に明石市長に就任。特に少子化対策に力を入れた街づくりを行う。主な著書に『社会の変え方』(ライツ社)、『子どものまちのつくり方』(明石書店)ほか。
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