ちょっと前のリリースだけれど、けっこう気に入っている女性ボーカル。
カナダのシンガーソングライター、 Sarah McLachlan(サラ・マクラクラン)。

3作目、"Fumbling Towards Ecstasy"
Fumbling Towards Ecstasy/Arista

¥950
Amazon.co.jp

Sarah と言えばこの次の4作目 "Surfacing" が有名で、全米で800万枚、全世界で1000万枚も売れたアルバムです。

とはいえこの3rdアルバムも地味にロングセラーを続け、全米で400万枚売れたというのでかなりメジャーなアルバムです。

このブログでは珍しいくらいの、メジャー感のあるミリオンセラー級の音楽。
しかもポップス系。

ところが、これだけメジャーなミュージシャンでいながら、このアルバムにはメジャーな大げさ感は薄く、インディぽさが漂ってくるのが好きです。
明らかにメガセールスなぞ狙っていない作り。

時にはダークと言ってもいいくらいの、抑え気味のシリアスなサウンドスケープ。
フツーのポップスではありえないギターのトーンが小気味いい曲もあります。
自分が好きな音楽のスタイルを創り上げている。
どことなくケイト・ブッシュ的なサウンドスケープを感じますねえ。





サウンドのことばかり書きましたが、もちろんボーカル自体も秀逸。

しかし、このアルバムを改めてパソコンに取り込んだら、ネットから自動的に取得されたジャンル名が、アダルト・オルタナティブ・ポップですって。

なんとなく言い表せているような、まったく意味不明なような、不思議なジャンル名。
まあ、こういったカテゴリー分けに惑わされないように、聴く耳を育てていきたいものです。

Beck 6年ぶりのアルバムです。
"Morning Phase"

Morning Phase/Capitol

¥1,513
Amazon.co.jp

非常にしっとりと穏やかに、Beck的カントリーフォークが展開されます。
Sea change と同じメンバーによるものだし、同傾向と言われるのもうなずける。

繊細で上質。
広がりのあるサウンドスケープ。
まさしく自分好みの音。

今までのBeckのロックは、刺激的ではあるけれど、どこか独特のアクがあってそこが自分にフィットしきれないところがありました。
しかし今作は違います。

ここまでアクを薄めてしまっていいのかというくらい、BeckではあってもBeckではないくらいに、ある種のニュートラル感が出ています。

しかし逆説的だけれども、そのことでどこかに一抹の不満が残ったのも確か。
Beckなら、これくらいのクオリティを出して当たり前で、自分たちが想定できないワンステップに踏み込んでくれるのではないか。
濃密なサウンドにプラスアルファの何かをもたらしてくれることをどことなく期待していた。

悩ましいところです。

でも聴きこむに連れ、この6年間に彼に起きたさまざまなことを知るに連れ、Beckは自分自身のために、このアルバムの制作が必要だったのかもしれない、と思うようになりました。

自分の中の何かを溶かすために。
自分の中の何かを癒すために。
新たにやってくる朝を受け入れるために。
同じ何かを抱えているリスナーのために。

この音とこのサウンドスケープとイマジネーションが。

どちらかというと、この2曲続く地味目な流れが好きです。




光の目覚め。朝にふさわしい輝きにあふれたタイトル。サウンドスケープも素晴らしい。


最近、いいなあと思うものにはこんなサウンドスケープを持つロックが多くなりました。
自分も溶かしたい何かを抱えているのか。

あんまりそんな感じもないけれど、最近の世の中はあまりも不安と不測に溢れていますからね。
たまの休日くらい、穏やかにゆったりと質感の高い音楽に浸りたいのも確かです。



Coldplay のニューリリースが5月に決まったようですね。

ゴースト・ストーリーズ/ワーナーミュージック・ジャパン

¥2,580
Amazon.co.jp

過去の記事には書いてきましたが、最近の彼らの路線を自分は評価してません。
多幸感にあふれた大きなロックになり過ぎてました。
スタジアムでカタルシスを得るような、そんなロック。

彼らのロックは決して大音量や大声を張り上げて演るロックではないと信じているので、4作目からどうも目指す方向が違ってきたと思っています。

今回公開されたこの新曲を聴く限り、少なくとも過剰さは薄れてます。
とはいえ、エレクトリックな感触が強く、アコースティック感はほとんどありません。
彼らの初期の作品には、人肌ノスタルジックとでも呼べそうな独特の触感があったのに、それとはやや違うかな。

ベクトルは大きく改善されているが、方法論に納得しきれない、そんな印象。
でも、前作よりは期待値高いぞ。






性懲りもなく、中島みゆきネタです。
好評なんだかどうなんだかよくわかりませんが、アクセスが伸びてるので、調子に乗って。
でも今回が最終回。

最初から宣言しておくと、今回は思い込みによる暴論です。
いつもそうじゃないかと言われれば否定できないけれどね。

中島みゆきと松任谷由実。

ともに当時はニューミュージックにカテゴライズされていたでしょうか。
出すLP出すLP、メガヒットしていた時代があります。
自分がレコード屋でバイトしてた時、入荷したLPを店頭に並べたら並べただけ、売れました。
中身の良し悪しは別にして、あの頃は音楽が人気あったなあ。

ところで。
同じように売れ、同じように女性を中心に人気が高かったシンガーソングライターのふたり。

あの頃、デートドライブのBGMとして欠かせないと女の子が思っていた、松任谷由実。
恋愛での女の子の心情を軽くくすぐって、そうそう!と言わせた音楽。
男もそれがわかってて、積極的に聴くヤツが多かったなあ。

話は脱線するけど、友達で松任谷由実好きの男がいました。
こいつが男だけで何人か集まってクルマでどこか行こうという時にでも、松任谷由実を聴きたがる。
そんなものは彼女といっしょに聴きなさいと、自分はすかさず松田聖子のカセットを取り出して、差し替えようとする。
周りから見たら、ほんとにどうでもいい低レベルの争いに見えたんだろうなあ。
自分にとってはなんとしてでも松任谷由実を聴きたくなかったんだけどね。

自分を取り巻く生活のアクセサリーとしての音楽。
恋愛を思い出深いものにするための演出のひとつ。
音楽は目的ではなく、手段。
松任谷由実の音楽はそんなポジションだったのだろうと思います。

一方、中島みゆき。
たぶんドライブで中島みゆきなぞかけると、一気に雰囲気悪くなるでしょう。
こいつ、何考えてデート中に中島みゆきなんぞかけるんだと、女の子は思うでしょう。
男もそんなリスクは冒さない。
前の男と別れた時のキズなんぞ思い出されてもイヤだしね。
彼女の音楽は基本、ひとりで向き合うためのものだと思います。

言葉と、メロディーと、歌に浸るための音楽。
ひとりで音楽と感情の一体感に浸るための、聴くことは手段でなく目的となる音楽。
それが中島みゆきのポジション。

明らかに音楽としての求められ方が違います。

時代とともにその機能が薄れていき、懐メロになった松任谷由実。
ある種の普遍性とともに、いつまでもその存在が揺るがない中島みゆき。

その盛衰の変遷は必然だったのだと思います。

そして、自分は昔、松任谷由実が大嫌いだった。
今もまったく好きじゃないけど。
そもそも声と素人レベルの歌が女性ボーカルとして聴くに堪えません。
楽曲にも魅力を感じないし。

だからちゃんと松任谷由実の音楽を聴いたことがありません。
方や、中島みゆきは語れるレベルまで聴いてます。
それで両方を同じ土俵で語ろうなんて相当な片手落ち。
だから、この記事は思い込みによる暴論なんです。

でも、松任谷由実の音楽は聴きたくなくても否応なく耳に入ってきましたからね。
それなりに、イメージはできてます。

そして1980年代初頭。
音楽をアクセサリーとして消費する時代の始まり。
貸しレコード屋で借りてカセットコピー。
ニューミュージック、フュージョン、AOR、産業ロック。
どれもただのムードミュージックだ。

優れたミュージシャンからいい音楽が創られそれが売れた時代から、大量に売るための音楽をシステムで生産し始めた時代。
音楽を必要とする人だけでなく、本来音楽を必要としない人たちまでもが、手を伸ばした伸ばさせられた時代。
作り手も受け手も、音楽を消費するモノに変え、貶めていった時代。
ある種の音楽バブルに飲み込まれていった時代。

自分は、この時代にもてはやされた軽さや明るさが、たまらなく嫌いだった。
ひとつのものにのめり込むと、暗いヤツと軽く言われるのが情けなかった。
流行っていない音楽なんて興味ない、という態度に憤った。
この時のトラウマが自分の音楽の好き嫌いを増幅してますね、明らかに。

松任谷由実は、その時代の寵児のひとり。
彼女もそこに巻き込まれた被害者なのかもしれないけれど、そこに迎合していったのは間違いない。

対極的にこの時代のノリを利用してBGMをリリースし、大量に買わせ聴かせたYMOには、大きな拍手を送りたいです。

中島みゆきの最大の魅力はその言葉にあることは間違いありませんが、言葉と、言葉を支えながら主役でもあるメロディと、状況に合わせた情感を込められる歌唱。
この三身一体が彼女の音楽の核になっていて、それも大きな魅力。


そこで音とサウンドスケープはどこにポジションされるのか。

サウンドは、基本的に言葉と歌という主役を支えるバランサーの役割を担っています。


ある一時期プロデューサーとサウンドの傾向を変えた時期がありました。

自他ともにご乱心の時期と呼ぶ時期。

自分でもうまくいかなかったと思っているのでしょう。

サウンド的に冒険をしているつもりでも、中島みゆきの歌と戦うのはあまりにも役不足。

新たなサウンドと歌の関係を構築するには至らなかった。


ところが、自分の知る限り、バランサーを逸脱したアルバムが1作だけ存在してます。


1980年リリースの、「生きていてもいいですか」。


後藤次利がアレンジャーとなって制作されたアルバムです。

一般的に、中島みゆきのアルバムでもっとも暗いと言われるアルバム。


過激に振れた言葉と、救いのないような殺伐とした音風景。
一気にレッドゾーンに振り切れたアルバムの、大きな主役がこの自己主張の強い音でした。

ここでは声もサウンドの一部になっています。

でもこれは、例外。


おそらくサウンドまで自分の世界を追求することの限界をここで感じたのかもしれません。

行き過ぎてしまうリスク。

ファンがついてこれない危うさ。

これ以降はノーマルなサウンドに戻ります。


バランサーとして積極的なサウンドスケープはないと言っても、彼女の歌そのものがサウンドスケープとも言っても過言ではありません。
やわらかさ、かたさ、かなしさ、よろこび、せつなさ、きびしさ、よわさ、つよさ。

彼女の歌がサウンドスケープとなり、それらをすべて表現してくれる。


むしろここには、自己主張の過ぎる音は不要です。
今のサウンドのあり方が、彼女の音楽にとってのベストバランス。


1988年リリースの「グッバイガール」から、彼女の全アルバムは瀬尾一三がプロデュースしています。

よほど相性がいいのかと思っていましたが、今回改めて彼女のアルバムを聴いてみたら、彼のプロデュースは、中島みゆきの歌のサウンドスケープに色合いという深みを付ける絶妙なバランスを持っていることがわかりました。


主役を生かし切る、絶妙のバランサー。

単独では個性が見えにくいサウンドでも、彼女の歌と組み合わされると、絶妙のサウンドスケープに化けています。


中島みゆきならではの、サウンドポジションと言えますね。