中島みゆきの最大の魅力はその言葉にあることは間違いありませんが、言葉と、言葉を支えながら主役でもあるメロディと、状況に合わせた情感を込められる歌唱。
この三身一体が彼女の音楽の核になっていて、それも大きな魅力。
そこで音とサウンドスケープはどこにポジションされるのか。
サウンドは、基本的に言葉と歌という主役を支えるバランサーの役割を担っています。
ある一時期プロデューサーとサウンドの傾向を変えた時期がありました。
自他ともにご乱心の時期と呼ぶ時期。
自分でもうまくいかなかったと思っているのでしょう。
サウンド的に冒険をしているつもりでも、中島みゆきの歌と戦うのはあまりにも役不足。
新たなサウンドと歌の関係を構築するには至らなかった。
ところが、自分の知る限り、バランサーを逸脱したアルバムが1作だけ存在してます。
1980年リリースの、「生きていてもいいですか」。
後藤次利がアレンジャーとなって制作されたアルバムです。
一般的に、中島みゆきのアルバムでもっとも暗いと言われるアルバム。
過激に振れた言葉と、救いのないような殺伐とした音風景。
一気にレッドゾーンに振り切れたアルバムの、大きな主役がこの自己主張の強い音でした。
ここでは声もサウンドの一部になっています。
でもこれは、例外。
おそらくサウンドまで自分の世界を追求することの限界をここで感じたのかもしれません。
行き過ぎてしまうリスク。
ファンがついてこれない危うさ。
これ以降はノーマルなサウンドに戻ります。
バランサーとして積極的なサウンドスケープはないと言っても、彼女の歌そのものがサウンドスケープとも言っても過言ではありません。
やわらかさ、かたさ、かなしさ、よろこび、せつなさ、きびしさ、よわさ、つよさ。
彼女の歌がサウンドスケープとなり、それらをすべて表現してくれる。
むしろここには、自己主張の過ぎる音は不要です。
今のサウンドのあり方が、彼女の音楽にとってのベストバランス。
1988年リリースの「グッバイガール」から、彼女の全アルバムは瀬尾一三がプロデュースしています。
よほど相性がいいのかと思っていましたが、今回改めて彼女のアルバムを聴いてみたら、彼のプロデュースは、中島みゆきの歌のサウンドスケープに色合いという深みを付ける絶妙なバランスを持っていることがわかりました。
主役を生かし切る、絶妙のバランサー。
単独では個性が見えにくいサウンドでも、彼女の歌と組み合わされると、絶妙のサウンドスケープに化けています。
中島みゆきならではの、サウンドポジションと言えますね。