Тама 公式ブログ 『泥沼に咲くコスモス』
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田園葬



Тамаこと、玉田です。

生きてます。


今月、大学時代の友人達に誘われ、

群馬県板倉町を、
訪問してきた。


…大学時代、この町にある、

東洋大学・板倉キャンパスに、
最初の1年間だけ通っていたのだが、

その翌年度から、所属学科が、
東京の本部キャンパスに近接する、
新設キャンパスに、移転となり、
(※現在は本部キャンパスに統合)

以降も、板倉キャンパスには、
一部の学部が所在してきたが、

今年度、今月をもって、
全学部、他キャンパスへ移転し、
廃校になるとのことで、

最後に行かないか?と、
大学時代の友人達が、誘ってくれた。


…当初、私は、もう、
人生を生き終えており、

残り僅かの余命を、ひっそりと、
過ごしているということもあって、

あまりノリ気ではなかった。


しかしながら…

そんな、生き終えた、
この、現在の人生は、

…故郷・友人・家族、自分自身さえも、
何もかも、全てを、失った、
凄惨な、高校時代の、(第一次)転落人生から、

大学時代の始まりと共に、
この、板倉で、解放され、

その後、遠距離通学をしていた大学の、
近隣地域へ、家出をしての、

さらに、所属学科のキャンパス移転に伴い、
後に上京もして、各地を転々としての、

大学に通いながら、
生活費や家賃や学費のための、
アルバイトもしながらの、

孤独で壮絶な、人生再起劇の果て、

人生再起を成し遂げ、
新たな地に移住・定住し、

新たな自分自身として、
新たに、スタートした。


…板倉は、この、
再起後の人生にとって、

前史である、人生再起劇の、

さらに前史である、
第一次転落人生から解放された、

“全てが始まった地”…


…なので、最後に、

全てが始まった地を、
訪れてみてもいいかな…と、

激動の時代を共に過ごした、
大学時代の友人達が一緒なら、
なおさら、そう思い、

誘いに乗ることにしたのであった。


また、個人的に、一人で、

当時、人生再起のため、家出をして、
秋から半年間、滞在していた、大学の近くの町、

埼玉県宮代町も、
その道中に、訪問し、

その当時、生活費や家賃や学費を稼ぐため、
大学に通いながら、働いていた、
アルバイト先があった、大学の近くの街、

栃木県栃木市に、
その日の夜は、宿泊し、

ちょうど、翌日も仕事が休みであり、
せっかく、遠出する機会に恵まれたため、
近くの温泉地、

湯西川温泉に、
帰りに立ち寄り、保養もしてきた。


まずは、板倉へ向かう道中、

大学1年生の秋から、
人生再起のため、家出をして、
半年間、滞在していた、

孤独で、壮絶な、
人生再起劇が、幕を開けた地、

埼玉県宮代町を、訪問--


東京からは、新幹線や長距離列車で、
遥々と、埼玉県の最大都市、大宮へ行き、

東北線に乗り換え、
栃木県との県境の町、栗橋へ行き、

日光鬼怒川線に乗り換え、
板倉とは逆の春日部方面へ向かい、

宮代に、到着。


栃木県に近接する、埼玉県北東部の、
長閑な田園風景が広がる、田舎町で、

通学先の板倉まで、快速列車(※現在は廃止)で、
1駅で行くことができたため、家出先に選び、

当時は、快速停車駅があるだけあって、
昔ながらの街並みではあるものの、
市街地は栄えており、

生活に必要な店は、少ないながらも、
揃っている町であった。


ところが…

久々に訪れた宮代の町は、

駅前にあった、
コンビニも、ネットカフェも、

当時の滞在先のアパートの近くにあった、
スーパーも、コインランドリーも、

想い出の、弁当屋も、銭湯も、
全て、閉店しており、

駅前通りに建ち並ぶ、昔ながらの商店は、
軒並み、シャッターが下りているか、
空家や更地になっており、

残っていたのは、市街地から離れた郊外にある、
郊外型のホームセンターとファミレスだけで、

何もなくなった町には、
遠方へ買い出しに行くためであろうか、

(当時から車社会の田舎町ではあったが、)
当時よりも明らかに、車通りが増えており、

狭い田舎道を、次々と車が行き交い、
常時、車を気にしながら、散策しなくてはならず…

…せっかく、想い入れ深い町への、
再訪を、果たしたのに、

感傷に浸るどころではなかった…


一方で、新たにドラッグストアが開店していたり、
駅裏(西口)の再開発がなされていたりと、
新たな町の発展の様子も窺えたものの…

…いずれにしても、なんだか、

もう、あの当時の宮代は、
ここには無いような、

虚しさを感じてしまった。


しかしながら…

当時の、一番の想い出である、

遥か遠く離れた、(故郷も田舎であったが、)
故郷以上に田舎である、見知らぬ町へ、
家出をし、孤独な人生再起劇が始まり、

とてつもなく不安であった当時、

ボリューム満点の、
手作り感と昔懐かしさを感じさせる弁当で、
お腹も心も満たしてくれた、

ローカルチェーンの弁当屋、
『日本亭』が、

駅裏と駅前通りの2店舗とも、
閉店していた代わりに、

表通りから離れた場所に、
新店舗が開店していたため、

当時に、よく食べていた、
弁当を、購入し、

その日の深夜、宿泊先で、夕食として、
購入から12時間が経ち、冷めきっていた弁当を、
ラウンジの電子レンジで温め直して、食べると…

(※私は管理に慣れており、自己責任で食べたが、
本来は消費期限切れなので、非推奨)

…当時と変わらない味で、

宮代で、不安を抱えながらも、
人生再起のため、孤独に闘っていた、
あの日々の、記憶が甦り、

感傷に浸りながら、弁当を食べ、

日本亭の弁当だけは、裏切ることなく、

こうして、15年後も、
お腹も心も、満たしてくれた。


続いて、今回のメインイベント、

大学時代の友人達と、
群馬県板倉町を、訪問--


(私が住んでいる東京・東北部の、)
近隣地域(千葉県)に住んでおり、
現在でも、よく連絡をくれる、
当時は板倉で下宿もしていた友人が、主催し、

もう1名、板倉に隣接する栃木県の、
宇都宮に住んでいる友人も、参加し、

板倉で、再会。


…宮代では、町の変化に、
ショックを受けてしまっていたが、

板倉は、何も変わっておらず、ひと安心。

…板倉は、広大な田園風景だけが、
ただただ果てしなく、
一面に広がっているだけの町なので、

変わりようがない…


そして、みんなで、かつて通っていた、
板倉キャンパスを、見学。

所属学科のキャンパス移転以来、
15年振りに訪れたが、

キャンパス内の様子は、全く変わらず、

授業、サークル、大学祭、
昼休みや放課後のことまで…

当時の記憶が、次から次へと甦り、

大学生活の4年間のうち、
1年間しか通っていなかったのに、

3年間も通った東京のキャンパスよりも、
想い出も、想い入れも、深くて、

想い出話に、花が咲いた。


別れ際、友人達に、私は、
残り僅かの余命を過ごしているため、

『もう生きて会えるのも最後かもしれないな』
…と、言うと、

『そんなこと言わないでくださいよ』、
『また会いましょう』と、言ってくれて、

もう、その御言葉だけで、充分で…


…16年前、大学入学当時、

高校時代の凄惨な転落人生の影響で、
第5志望の大学という受験結果となったため、
学歴コンプレックスを抱いていたり、
周囲に不信感を抱き、警戒していたうえ、

ただでさえ、派手な風貌と、
独特な世界観やライフスタイルで、
強烈な個性を放っていた私と、

この板倉キャンパスで出会った、
非常に多くの人々が、友達になってくれて、

学外では、孤独で壮絶な人生再起劇に見舞われ、
人生再起後も波瀾万丈が続いていったなか、

この板倉キャンパスでも、キャンパス移転後も、
共に学習・研究し、共に教養・知性を培い、
楽しい大学生活を、共に過ごしてくれて、

卒業後も、最期まで、
生涯で最も長い期間、
生き様を見送ってくれた、

大学時代の友人達には、改めて、
(今回に再会した友人達以外も含め、)

心から、この上ない、
感謝を、申し上げたい。


夕方、友人達と別れ、
栃木県栃木市へ--

板倉からは、日光鬼怒川線で、
さらに先へ進み、4駅。

由緒ある古風な街並みと、
夜の暗さと冬の肌寒さが、

宮代に滞在していた当時、肌寒い季節に、
放課後の夜、栃木のアルバイト先で働き、
勤労学生として、苦労した日々の、記憶を甦らせ、

感傷に浸りながら、宿泊先へ向かい、

この日の夜は、栃木駅の近くの、
ユースホステル(簡易宿泊所)に、宿泊した。


翌日は、せっかく、
鬼怒川温泉の近くまで来たので、

帰りに、温泉に立ち寄り、
保養をすることに。


しかしながら…

私は、もう、人生を生き終えており、

陽の当たるような場所には、
姿を現すことができないので…

…多くの観光客で賑わう有名温泉地の、
鬼怒川温泉ではなく、

鬼怒川温泉の“奥座敷”と言われている、
川治温泉…でもなく、

さらに奥にある、
“秘湯”と言われている、

『湯西川温泉』に、
ひっそりと、立ち寄ってきた--

(本当は、さらに最奥地にある、
中三依温泉に行きたかったのだが、
秘境すぎて、冬は営業していなかった。)


栃木駅から、日光鬼怒川線で、さらに奥へ。

同じ路線とはいえ、
長距離列車で、約2時間…

…予想通り、いや、予想以上に、

乗客は、多くが、鬼怒川温泉で、
一部が、川治湯元で、下車し、

湯西川温泉で下車したのは、
私を含め、僅か2名のみで、

残りは、終点の、
会津高原尾瀬口(福島県)まで、
行くようであった。


駅に併設している、日帰り温泉へ行くと、

さすが、奥座敷の、さらに奥の、秘湯…

…まさかの、誰も居らず、貸切状態で、

一人きりで、のびのびと、
誰もいない、露天風呂で、

雪山と湖の美しい景色を眺めながら、
澄んだ綺麗な空気に包まれながら、
天然温泉に入浴し、

とても心地よかった。


遠出をしたのは、約2年振りで、

その後、大怪我をして、
足に後遺症を抱えてきたため、

少し不安もあったのだが、
特に問題はなく、

良いリハビリにもなった。


…かつては、こうして、
鉄道で旅をするのが、趣味であったが、

思い返せば、
鉄道や旅に興味が湧いたのも、

大学の所属学科が、
国際観光学科であった影響であり、

…その他、長年、
音楽活動を行なっていたが、

それまでもやっていたバンド活動を、
新たなバンドを結成し、本格的に始めたのも、
大学進学と共にであり、

人生再起後、移住した地域で、
政治活動も行なってきたが、

政治的な思想・哲学や運動と出会ったのも、
(キャンパス移転後ではあったが、)
大学時代であり、

仕事も、前職までは、大学時代のアルバイト経験、
現在の仕事は、大学時代の人生再起の経験を、
活かした仕事に従事してきて、

(その後、再びの人生壊滅の危機に、
当時の彼女によって、導かれたことは、さておき…)
恋愛どころではなかった境遇の私に、

初めて彼女ができたのも、
(学外ではあったが、)大学時代であり、

私の全ては、大学時代と共に、
板倉で、始まった。


そんな、全てが始まった板倉で、
最初に見た景色を、

こうして、全てが終わった今、
最後に見ることができて…

…安らかに、眠れそうだ。


板倉で大学時代を共に過ごした、
当時の全ての関係者の皆様方に、

末永い御健康と御多幸を、
心より御祈り申し上げたい。




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あれから



お久しぶりです。

Тамаこと、玉田です。

生きてます。


覚えてますか?

…私のことではなく、

“乃木坂46”のこと…


先日、なんと、約2年半振りに、

乃木坂46の、イベントに、
参加する機会に恵まれた。

…4年前、新型コロナウイルス流行のため、
中止となった、握手会の、

振替イベントである。


…乃木坂46は、私にとって、

かつて、命を救ってくれて、
人生の存続を支えてくれて、

無かったはずの時間を、
与えてくれた存在--


…ただでさえ、凄惨な(第一次)転落人生により、
何もかも全てを失い、

孤独で壮絶な人生再起劇の果て、
築き上げた、再起後の人生を、

当時に付き合っていた彼女によって、
再びの壊滅の危機(第二次転落人生)に導かれ、

とても辛かった、10年前…

アイドルに興味のない私が、
乃木坂46と、出会い、

ピュアで感傷的な世界観が、
元気をくれて、心の支えになってくれて、

過酷な闘いに勝利することができ、
当時の彼女と別れることができ、

新たな仕事に再転職することができ、
止まっていた音楽活動を再開することができ、

新たな体制を樹立することができ、
改めて再スタートすることができ、

以降、7年半、ファンとして、
応援し、支えられ、共に過ごし、
人生は存続していった。

そして、乃木坂46に支えられた新体制下で、

苦労が祟ってか、途中からは、
不治の病も抱えるなど、困難な環境のなか、

不幸な過去の清算から、新たな未来の夢まで、
何もかも全て、悔いなく果たすことができ、

身辺整理をも完了させ、
人生が終末となっていた状況下、

約2年半前、推しメンとして、
一番に応援していたメンバーが、
グループを卒業することとなり、

私も一緒に、
乃木坂ファンを卒業することとなり、

その約半年後には、
音楽活動も引退することとなり、

人生を生き終え、

人生再起後に移住した地域で行なってきた、
政治活動の遺志継承に取り組みながら、

残り僅かの余命を、
ひっそりと過ごしている。


…そんな私の元に、乃木坂46から、

4年も前に、新型コロナウイルス流行のため、
中止となった、握手会の、振替イベントが、

今さら、開催されるとの、
御知らせが、届いた。


…この期に及んで、今さら、
参加しようかどうか、迷っていたが…

…これも、人生を生き終えた私への、
死期が近いことを知らせる、
仏様からの御告げであると悟り、

新型コロナウイルス流行時代に定着した、
オンライン形式のイベントで、
自宅で参加できるということもあり、

生き終えた、この人生を、
かつて支えてくれた、乃木坂46と、

最後に、再会することにした。


…約2年半振りに再会した乃木坂46は、

私がファンになった当時の在籍メンバーであった、
1期生と2期生は、

なんと、全メンバー、卒業しており、

新たに5期生が加入しており、
これから6期生も加入するとのことで、

半数近くもが、
知らないメンバーとなっていた…


今回は、4年前に中止となった握手会の、
2枚分の握手券の振替として、

オンライントーク会に、2回分、
オンライン参加することとなり、

3期生の、伊藤理々杏さん、
4期生の、佐藤璃果さんと、

(理々杏さんのペアとして、
5期生の、菅原咲月さんという方、
璃果さんのペアとして、
4期生の、松尾美佑さんとも、)

画面越しながら、御会いして、
御話しさせていただいた--


《伊藤理々杏・菅原咲月レーン》
◎伊藤理々杏さん
『7年振りに会いに来ました~』
理々杏さん
『わぁ!ありがとう~』
『今後とも御活躍ください!』
理々杏さん
『はーい!もちろんっ』

◎菅原咲月さん
『えぇっと…5期生の方?』
菅原さん
『はい!』
『あっ、そうなんですね~
今後とも御活躍ください!』
菅原さん
『ありがとうございます…ふふふっ(笑)』

《佐藤璃果・松尾美佑レーン》
◎佐藤璃果さん
『新4期生で一番推してます~』
璃果さん
『わぁ~、嬉しい~』
『今後とも御活躍ください!』
璃果さん
『あぁ~、ありがとう~』

◎松尾美佑さん
『センターの曲、好きですよ~』
松尾さん
『あっ、ホントに~』
『今後とも御活躍ください!』
松尾さん
『ありがとう~』


…もう、約2年半も前に、
乃木坂ファンを卒業してしまっており、

(音楽好きなので、楽曲だけは、
それ以降の新曲も聴いてはきたものの、)

今さら乃木坂メンバーと再会できたところで、
話せる話題もなかったため、

挨拶と応援の言葉だけ、
御伝えさせていただいたが、

理々杏さんは、乃木坂ファン時代、
握手会で御会いしたことがあり、
約7年振りの再会で、

当時、多彩な才能を発揮し、個人的に将来性を感じ、
もしも乃木坂ファンを卒業しなかったら、
特に応援していったであろうメンバーであったため、

璃果さんは、乃木坂ファンを卒業する直前に、
加入したばかりであった、
4期生の追加加入メンバー(新4期生)で、

当時、新4期生の中では、個人的に魅力を感じ、
最も気になっていたメンバーであったが、
御話しする機会もないまま終わってしまっていたため、

再会や御話しができて、よかった。

(ペアであった、松尾さんと、
5期生の方にも、御礼を申し上げたい。)


…なんだか、死に際に、
遠い昔に生き別れた孫娘との再会を果たした、
老人のような気分で…

…安らかに、眠れそうだ。


乃木坂46と全ての関係者の皆様方に、

改めて、この上ない、
感謝を申し上げるとともに、

末永い御健康と御多幸を、
心より御祈り申し上げたい。




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狂い咲いた同志よ



お久しぶりです。

Тамаこと、玉田です。

生きてます。

…いや、私のことなんて、
もう、どうでもいいんです。


一週間前(日付変更後)、今月の24日…

私が、一番好きな音楽と、公言してきた、

ロックバンド、
BUCK-TICK(バクチク)の、

Vocalのメンバー、
櫻井敦司さんが、

御逝去されたことが、
報道された。


今月の19日、ライヴの公演中に、
体調不良を訴えられ、病院に救急搬送され、

そのまま、息を引き取られたとのこと。

死因は脳幹出血で、享年・57歳。


BUCK-TICK結成以来、約38年間、
Vocalのメンバーとして、

力強く狂おしくも、美しく優しく、
切なさや儚さも感じさせる歌声と、

妖艶なライヴパフォーマンスで、

半数以上の楽曲の作詞も担当なさり、

芸術的で哲学的で、闇深く繊細で感傷的な、
BUCK-TICKの楽曲の音楽性と世界観を、
表現・創造し続けてこられ、

最期の最後まで、ステージに立たれ、
この世を去られた。


…BUCK-TICKは、私にとって、

一番の想い出のバンドであり、
人格形成や精神世界にも影響を与えたバンドであり、
世界観に共感できる理解者のような存在のバンドでもあり、

生涯で、最も、長い時間、
唯一、途切れることなく、
楽曲を聴き続けてきたバンドであり、

最終的に一番好きな音楽となったバンドであり、
今でも毎日のように楽曲を聴いているバンドであり、

櫻井さんの訃報を知った、
その瞬間も、いつものように、
BUCK-TICKの楽曲を聴いていた…--


…約20年前、2003年、中学時代、

BUCK-TICKの、
“初期”(1985年~1990年)の楽曲を、
約15年遅れで聴き、

鋭く刺激的ながらも、切なく感傷的な、
歌謡ビートロックの音楽性が、

若かりし当時の私には、心に沁みて、
夢中になって、聴きまくり、

私の故郷が、BUCK-TICKの地元と、
近かったということもあり、

故郷で過ごした中学時代の、
一番の想い出の音楽となり…

…その後、高校時代、凄惨な転落人生に見舞われ、
故郷も友人も家族も、何もかも全てを失い、

大学時代、家出をして各地を転々としての、
孤独で壮絶な人生再起劇となり、

人生再起後も、波瀾万丈や苦悩が続くと、

その間、故郷で平穏な人生を送っていた、
中学時代の過去に縋るかのように、
ずっと、BUCK-TICKの初期の楽曲を聴き続け…

…2013年の年末、
過酷な二度目の転落人生と闘っていた時、
また心の救いを求めるかのように、
初めて、BUCK-TICKのライヴに参加し、

ライヴを通して聴いた、
音楽性が進化した、1991年以降の楽曲も、
より闇深く、悟り開かれた、
世界観に共感・共鳴し、気に入ってしまい、

二度目の転落人生から再スタートした、
2014年以降は、
ライヴに定期的に参加するようになり、
一時期は、ファンクラブにも加入し、

最終的には、一番好きなバンドとなり…

…約1年半前を最後に、
自身が音楽活動を引退したということや、
人生も生き終えたということもあり、

(BUCK-TICK以外のアーティストも含め、)
CDの購入やライヴの参加も、終わりにしたが、

以降も、新たにリリースされた作品は、
楽曲のみダウンロードで購入し、
Music Videoも動画サイトの公式チャンネルにて、
変わらず、視聴してきて…

…自身が、壮絶で波瀾万丈な境遇の中で、
変わっていったなか、

BUCK-TICKもまた、長い活動の中で、
音楽性が変化(進化)していったなか、

連続性なく断絶された、
人生再起の前後をも繋いで、

生涯を、最も、長い時間、
唯一、途切れることなく、
共に過ごしてきたバンドであり…

…自身も、かつては、バンドで、
その後は、ソロで、音楽活動を行なっていたが、

BUCK-TICKは、私の音楽性には、
あまり影響を与えなかった一方で、

その世界観は、私の人格形成や精神世界に、
多大なる影響を与えた音楽でもあり…

…BUCK-TICKの繊細で独特な世界観は、

境遇に苦労しながらも、
個性的に生きてきた私にとっては、

理解者のような存在でもあったため…


…もちろん、決して、櫻井さんだけが、
BUCK-TICKの全てというわけではないが、

やはり、Vocalは、楽曲では主旋律であり、
ライヴではフロントパフォーマーであり、

BUCK-TICKの世界観を具現化したような、
ミステリアスなオーラの方でもあったため…

…あまりにも大きな存在の方を、
ずっと聴いてきた歌声の方を、

亡くしてしまい、失ってしまった、

喪失感と、悲しみは、
とてつもないものであり、

私も、あの世に、また一歩近づいた、
御告げであると、悟ってしまった…


…今日(日付変更前)は、弔問として、

TOWER RECORDS・錦糸町店が、
BUCK-TICKの特設コーナーを設け、
櫻井さんを追悼してくださっているという噂を聞き、

ちょうど、通勤先が、錦糸町なので、
仕事帰りに立ち寄り、訪れてきた。


BUCK-TICKに関しては、
音楽だけ熱心に聴いてきて、

メンバーの、プライベートな、
プロフィールや性格などは、
あまり存じ上げないのだが、

ライヴの時、MCで少しだけ話されていた、
櫻井さんを思い出すと、

大御所のロックミュージシャンなのに、
とても謙虚で、礼儀正しくて、
上品で、優しい雰囲気で、

垣間見えた、御人柄も含め、
とても素敵な御方であった。


櫻井敦司さんの、御冥福を、
心から、御祈り申し上げるとともに、

BUCK-TICKの楽曲を、
櫻井さんが遺された歌を、

そして、主に作曲を担当なさっておられ、
櫻井さんと共に作詞も担当なさってこられた、
Guitarのメンバー、今井寿さんから、

活動は続けていくという、
声明が出されているので、

遺されたBUCK-TICKメンバーの皆様方による、
これからの新たな音楽も、

…私の人生も、残り僅かとなっており、
もうすぐ、櫻井さんと同じ處へ逝くことになるが、

最期の最後まで、
聴き続けていきたい。


最後に…

櫻井さんの遺作となった、

半年前にリリースされた、
BUCK-TICKの最新アルバム、
『異空-IZORA-』の、

(一番最後の収録曲はSEなので、)
一番最後の1曲前の収録曲、

『名も無きわたし』…
(作詞:櫻井敦司・作曲:今井寿)

…力強く、厳かで、壮大ながらも、

まるで、この死を予見していたかのような、

切なくて、儚くて、
暖かくて、優しい、

遺言のような、歌詞で…

…この曲だけは、もう、

涙なしでは、
聴くことができない…


…その曲の歌詞の中の御言葉、
そのまま、櫻井さんへ…--

『名も 無い わたしは
あなたと 出会いました

名も 無い わたしにも
蝶や 風や 夢が..』

『ありがとう 愛を
陽だまりの 日々を』…




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川は流れている



Тамаこと、玉田です。

生きてます。


…生きて、

人生再起13周年を、
迎えることができた--


13年前…

過去の、凄惨な、(第一次)転落人生により、
故郷・友人・家族、自分自身さえも、
何もかも、全てを、失い、

家出をしての、各地を転々としての、
孤独で壮絶な、人生再起劇の果て、

辿り着いた、新たな地、
荒川区・南千住に、移住・定住し、

新たな自分自身として、
新たな人生が、スタートした。


…この、再起後の人生は、

人生再起後も、波瀾万丈と苦悩が続きながらも、
建設と前進を果たしていき、

その後、悲しいことに、
付き合っていた恋人によって、
再びの人生壊滅の危機、
第二次転落人生に、追い込まれるも、

心支えとなってくれた存在の御蔭もあって、
辛く過酷な、再起後の人生を護る、
第二次転落人生解放闘争に、勝利し、

約9年前、『新体制』が、樹立され、
改めて、再スタートし、
以降、存続が支えられ、

(容態は長期的に安定しているが、)
途中からは、長年の苦労が祟ってか、
不治の病を抱えながらも、

不幸な過去の清算から、新たな未来の夢まで、
何もかも全て、悔いなく果たし、

余生さえも生き終え、身辺整理をも完了させ、
3年前には、一旦の終結が宣言され、
以降は、安らかな終末を過ごしていた。

しかしながら、約1年前…

『新体制』は、崩壊し、

バンド時代を含め、約18年間の、
音楽活動も、引退となり、

音楽活動引退・新体制崩壊の最後も、
悔いなく終えられたことは、
不幸中の幸いではあったものの、

この、再起後の人生は、
存続の支えを、失い、

終焉へと向かう、最期の物語が、
幕を開けてしまったのであった…

(※昨年までについては、2022年7月13日、
および、当該記事に記載の期日の、
各ブログ記事を、御参照いただきたい。)


…新体制崩壊後は、

右足首靭帯損傷の、大怪我をしてしまい、
不自由な体での、通院と一人暮らしで、
辛く苦しい、治療・療養生活となったが、

リハビリと後遺症改善を行いながら、
日常生活や仕事にも復帰していき、

昨年の夏には、
心配してくれた、近隣地域(千葉・茨城)の、
大学時代の友人等との、再会も果たせ、

軽度の後遺障がいは残ってしまったが、
ウォーキング程度の軽い運動なども問題はなく、

鍼灸などの東洋医学での後遺障がい施術も検討しつつ、
理学療法トレーニングを自主的に継続という形で、

今年の冬をもって、
リハビリ施設への通所は、終了となり、

昨年の秋からは、
地域での政治活動を、

荒川区では、私一人だけになってしまった、
所属する、立憲民主党の、党内グループ、

『社会民主主義フォーラム』を、
荒川区に、私亡き後にも遺すための、

“遺志継承活動”として、再開し、

地域の組織と活動に、一緒に参加してくださり、
最終的には、引き継いでいってくださる、
“後継者”も、募集させていただき、

(※詳しくは、2022年9月30日の、
ブログ記事を、御参照。)

生存する限り、残された時間、
取り組んでいくこととなり、

近隣地域(葛飾区・足立区・台東区・墨田区)を含む、
地域での社民フォーラムの活動に参加していき、

今年の春は、

荒川区議会議員選挙が行われ、
立憲民主党の選挙運動を支援し、

社民フォーラム(東京)の総会にも出席した。

どこまでやれるのか、どのような結末となるのか、
どのように人生を終えていくのか、わからないが、

最期の最後まで、
闘って、終わっていきたい。


さて…

新体制崩壊に伴い、
新体制樹立記念日もなくなり、

2年前の年末の服喪を経て、
昨年末をもって、年末年始もなくなり、

人生再起記念日だけが、
一年の節目となったため、

終了した年末年始の行事のうち、
生活の家事として必要な、大掃除と、
死に際して必要な宗教である仏教の、
寺院での厄除けだけは、

今後も、再起後の人生が存続する限り、
毎年、人生再起記念日に、行なっていくこととし、

大掃除の後、混雑を避け、
直近の平日休みの昼下がりに、

昨年から引き続き、葛飾区の仏教寺院、
柴又帝釈天での、厄除けを、

良き最期を迎えられるよう、
『悪星退散』の、願目で、
行なっていくこととする。


そして、この、公式ブログでは、

新体制崩壊以降、年4回のみの更新で、
生存報告を行なってきたが…

…無事、怪我のリハビリが終了し、
遺志継承活動にも着手することができ、

新体制崩壊1年も迎え、
皆様が喪に服す番も終わったため、

これをもって、
生存報告も、終了とし、

今後は、生存する限り、

最低でも年1回、人生再起記念日には、
更新することとしたうえで、

遺志継承活動に関する報告があり次第、
更新することとする。

したがって、1年以上の更新なしをもって、
死亡と判断していただきたい。


…今日の食事は、

人生再起13周年を、
迎えることができたことを、記念して、

自作の、オリジナルの、
チャプチェとチャンジャのビビンパ。

…13年前、人生再起と共に、辿り着いた、

差別や貧困など、様々な事情を抱えた人々が、
私も含め、困難な境遇に苦労しながらも、
多様なライフスタイルで生活しており、

韓国・朝鮮人の方々も、非常に多く居られ、
朝鮮文化が根付いている、荒川区に、

移住して、初めて食べた、朝鮮料理が、
チャプチェとチャンジャであった。


…全てが終結し、存続の支えも失い、
いつまで生存するのか、わからないが、

最期まで、
荒川区で…




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きっと おそらく 僕は僕だよ

Тамаこと、玉田です。

生きてます。


新体制崩壊から、

1年が経った--


ただでさえ、凄惨な(第一次)転落人生からの、
何もかも全てを失い、各地を転々としての、
孤独で壮絶な、人生再起劇の果て、
築き上げた、再起後の人生を、

再びの壊滅の危機から護る、
第二次転落人生解放闘争に勝利し、

悲しいことに、苦悩の第二次転落人生に導いた、
戦犯・加害者という存在となってしまった、
当時に付き合っていた彼女と別れ、

(ただし、元カノは、当時のことを深く反省しており、
その後は酷い目に遭われ、今なお苦労なさっており、
もう責めるつもりはなく、恩赦としている)

第二次転落人生により、
長らく始動が延期となっていた、
ソロでの音楽活動が始動し、
音楽活動が再開し、

再起後の人生を共に生きてきた荒川区にて、
地域での政治活動も新たに始め、

新たな仕事に転職するなどもして、

過酷な第二次転落人生解放闘争の、
とても辛かった時代、心の支えとなり、
命と人生を救ってくれた存在は、
引き続き、新体制を支える存在となり、

新たに樹立され、改めて再スタートさせ、

第二次転落人生解放以降、8年間、
再起後の人生と、音楽活動の、
存続を支えていた、

『新体制』…


…そんな『新体制』は、

支えられていた存在を、
失うこととなってしまった結果、

“崩壊”することが確定し、

バンド時代を含め、約18年間の、
音楽活動も、引退となり、

1年前、2022年4月10日…

新体制は、崩壊し、

再起後の人生は、既に、
途中からは、不治の病を抱えながらも、
不幸な過去の清算から新たな未来の夢、
余生や身辺整理までをも、完全終結させ、
終末に突入しており、

音楽活動引退・新体制崩壊の最後も、
悔いなく終えられたことは、

不幸中の幸いではあったものの、

存続の支えを失った、再起後の人生は、
以降、存続の保証がなくなり、

公式ブログは、年4回のみ更新の、
“生存報告ブログ”となり、

終末は末期に突入し、

最期の物語が、
幕を開けたのであった…--

(※詳しくは、1年前、2022年4月10日と、
当該記事記載期日の、各ブログ記事を、御参照。)


…新体制崩壊後は、

新体制崩壊の最後の最後で、
(全てのイベントを終えていたことは、
不幸中の幸いではあったが、)

右足首靭帯損傷の、大怪我をしてしまい、

不自由な体での、通院と一人暮らしで、
辛く苦しい、治療・療養生活となったが、

その後、リハビリと後遺症改善を行いながら、
日常生活や仕事にも復帰していき、
心配してくれた、近隣地域(千葉・茨城)の、
大学時代の友人等との、再会も果たせ、

リハビリ施設でのトレーニングも、
先々月で、終了となり、

残念ながら、軽度の後遺障がいは、
残ってしまっているが、

日常生活や仕事は勿論ながら、
ウォーキング等の軽い運動なども問題はなく、

服薬も処置も特に必要はなく、
症状や可動域・筋力も改善傾向にあるので、

理学療法トレーニングを自主的に継続し、
鍼灸などの東洋医学での後遺障がい施術も検討しながら、

(人生の状況を鑑みれば、
未来の話はするべきではないかもしれないが…)
これから最期の活動を本格化させていきたい。


そして、昨年の秋には、
地域での政治活動を、

荒川区では、所属する、
立憲民主党の、党内グループ、
『社会民主主義フォーラム』が、
私一人だけになってしまったということもあり、

荒川区に、社民フォーラムの組織を、
私亡き後にも、遺すための、

“遺志継承活動”として、
再開することとなり、

荒川区で、(立憲民主党・)社民フォーラムの、
政治活動に、一緒に参加してくださり、
最終的には、地域での組織と活動を、
引き継いでいってくださる、

“後継者”を、募集させていただき、

(※詳しくは、2022年9月30日の、
ブログ記事を、御参照。)

昨年末にかけて、
社民フォーラムの活動に参加していき、

今年に入ってからは、
社民フォーラムの所属支部(荒川・葛飾)で、

台東区や墨田区など、近隣地域での、
労働組合運動に関する学習会・交流会や、
平和・人権に関する式典・集会に、参加し、

そして、荒川区では、今月、
区議会議員選挙が行われるため、

現職・新人2名の党公認・立候補予定者の方々の、
街頭演説会や総決起集会にも、参加し、

(人生の状況を鑑みれば、
未来の話はするべきではないかもしれないが…)
これから選挙支援を行なっていきたい。


どこまでやれるのか、どのような結末となるのか、
どのように人生を終えていくのか、わからないが、

最期の活動、最期の闘い、最期の物語…

生存する限り、最期の最後まで、
闘って、終わっていきたい。


…生きていたら、3ヶ月後、

人生再起13周年を、
迎えましょう。




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全部 夢の跡



Тамаこと、玉田です。

生きてます。

…生きて、冬を、そして、
年末を、迎えることができたので、

2022年の総括--


2022年は、

ただでさえ、凄惨な(第一次)転落人生からの、
何もかも全てを失い、各地を転々としての、
孤独で壮絶な、人生再起劇の果て、
12年前、築き上げた、再起後の人生を、

8年前、再びの壊滅の危機から護る、
辛く過酷な、第二次転落人生解放闘争に勝利し、
樹立され、改めて再スタートさせ、

第二次転落人生解放以降、
音楽活動と、再起後の人生の、
存続を支えてきた、

『新体制』が、
“崩壊”することとなったため、

音楽活動を、引退することとなり、

それに伴う、最後の音楽活動から始まり、

年始から、約3ヶ月間、

最後の音楽活動として、
ラストシングルCDのリリースと、
ラストライヴ映像の配信を行い、

最後に、音楽活動引退のみならず、
新体制崩壊としての、最後のイベントとして、

新体制を樹立に導いた、第二次転落人生解放闘争の、
戦勝の聖地、富山県富山市にて、

御別れイベントの生配信も行い、

4月10日、新体制は崩壊し、

再起後の人生は、既に、
不幸な過去の清算から新たな未来の夢、
余生や身辺整理までをも、完全終結させ、
終末に突入しており、

音楽活動引退・新体制崩壊の最後も、
悔いなく終えられたことは、

不幸中の幸いではあるものの、

存続の支えを失った、再起後の人生は、
以降、存続の保証がなくなり、

公式ブログは、年4回のみ更新の、
“生存報告ブログ”となり、

終末は、末期に、突入し、

終焉へと向かう、最期の物語が、
幕を開けることとなった。


新体制崩壊後は、

新体制崩壊の最後の最後で、
(全てのイベントを終えていたことは、
不幸中の幸いではあったが、)

右足首靭帯損傷の、大怪我をしてしまい、

春は、治療とリハビリのため、
3ヶ月にも亘る長期間、

不自由な体での、通院と一人暮らしで、
辛く苦しい、療養生活となった。


夏には、生きて、
人生再起12周年を迎えることができ、

再会を約束していた、近隣地域(千葉・茨城)の、
大学時代の友人や、音楽仲間であった先輩とも、
再会を果たすことができ、

日常生活や仕事にも、
徐々に復帰していったものの、

怪我は完治せず、杖も必要な生活となり、
リハビリ継続と後遺症改善が必要となったため、

夏は、引き続きリハビリに専念しつつ、
徐々に仕事に復帰していきながらも、

のんびりと安らかな休養生活を送り、

夏の終わりには、リハビリは延長となったものの、
怪我の容態は快方に向かい、

杖の持参も非常に限定的になっていき、
日常生活や仕事にも、完全復帰していった。


秋からは、人生の終焉を迎えるまでの、
最期の活動として、

最後の音楽活動に専念するため、
昨年から休止状態となっていた、

音楽活動(活動当時)や仕事等の傍ら、

人生再起と共に移住・定住し、
再起後の人生を生きてきた、
荒川区にて、行なってきた、

地域での政治活動を、

荒川区では、所属する、
立憲民主党の、党内グループ、
『社会民主主義フォーラム』が、
私一人だけになってしまったということもあり、

荒川区に、社民フォーラムの組織を、
私亡き後にも、遺すための、

“遺志継承活動”として、
再開することとなった。


そして、公式ブログにて、

荒川区で、(立憲民主党・)社民フォーラムの、
政治活動に、一緒に参加してくださり、

最終的には、地域での組織と活動を、
引き継いでいってくださる、

“後継者”を、募集させていただき、
(※詳しくは、前回のブログ記事を、御参照。)

以降、地域での運動としては、

10月は、地域の人権団体の総会に出席し、
(部落差別解放運動)

11月は、地域の護憲団体のフィールドワークにて、
隣の足立区に建立された『憲法9条の碑』を見学し、

また、社民フォーラムの所属支部(荒川・葛飾)で、
東京東部・下町地域での、
在日朝鮮人の人権問題に関する学習会にも参加、

社民フォーラムでの活動としては、

10月の、秋期・政治セミナーでは、
(※ZOOMにて、オンライン参加)
防衛ジャーナリストの、半田滋さんから、
国際情勢や政府の防衛政策の動向と、
戦後平和憲法擁護の立場からの課題について学び、

11月の、第2回・政治セミナーでは、
(※ZOOMにて、オンライン参加)
元・厚生労働大臣で、立憲民主党・政務調査会長の、
長妻昭・衆議院議員から、党の政策課題について学び、

年末は、全国交流会(ZOOM形式)に、オンライン参加し、

元・官房長官で、立憲民主党・前・代表の、
枝野幸男・衆議院議員の、講演を御聞きしたり、

党・組織の、“活動”・“政策”について、
それぞれ分かれての、分科会にて、
(※私は“活動”をテーマとした分科会を選択)
議論や情報交換をしながら、

全国の党員・会員の方々と、
交流をさせていただいた。


人生の状況を鑑みれば、
未来の話はするべきではないかもしれないが、

前述の、この秋の3ヶ月間の、
組織での活動や地域での運動を、

これから、地域に組織を遺す活動に、
活かしていきたい所存であり、

立憲民主党での活動としては、

来年の春、統一地方選挙の時期に、
荒川区でも区議会議員選挙が行われるため、

党所属議員・党公認・推薦候補者の方の、
選挙支援を行なっていきたい意向である。


怪我のリハビリは続いているが、
今後は、リハビリというより、
再発防止トレーニングとなっていく見込みで、
終了の目処も立っており、

新型コロナウイルス感染拡大・第8波に備え、
区の新型コロナウイルスワクチン集団接種にて、
オミクロン株・BA.4/5(変異株・変異種)対応の、
3回目までと同じ、『モデルナ』ワクチンで、
4回目の接種も、完了した。


最期の活動、最期の闘い、最期の物語…

どこまでやれるのか、どのような結末となるのか、
どのように人生を終えていくのか、わからないが、

生存する限り、最期の最後まで、
闘って終わっていく意志はあるので、

再起後の人生を共に生きた、
荒川区の皆様、

最期の最後まで、
よろしく御願い申し上げたい。


さて、ここで、久々に、音楽の話題--

自身が音楽活動を引退したということもあり、

もう、CDを購入することも、
ライヴに参加することも、終わりにしたが、

やはり、音楽を聴くことは、欠かせなくて、

リアルタイムで新曲を聴いてきた、
特定の6アーティストは、

4月10日時点での最新アルバム作品を最後に、
以降リリースされた新曲に関しては、

CDを購入していたアーティストは、
ダウンロードで楽曲のみ購入、

アルバム・ミニアルバムやシングルの、
全収録曲をダウンロードしていたアーティストは、
収録曲から1曲だけ選曲してダウンロードと、

規模は縮小したものの、
引き続き、聴いている。


その中でも、一番好きなロックバンドである、
BUCK-TICK(バクチク)の、

デビュー35周年を記念しての、
ベストアルバム(5枚組CD・Blu-rayDisc付き)が、
ちょうど3ヶ月ほど前、リリースされたため、

遅ればせながら、この年末に、
中古で安価にではあるが、購入。

BUCK-TICKの楽曲は、全て持っているので、
本来、ベストアルバムは、必要なく、

人生の状況も鑑みて、
CDの購入は終わりにしているが、

結果的に、生涯で、最も長い期間、
若かった頃から最期まで、
途切れることなく一貫して、聴き続け、

繊細で哲学的な楽曲の世界観が、
自身の人格形成や精神世界にも影響を与え、
最終的に、一番好きなバンドとなったため、

終末に、生涯で聴いてきた、BUCK-TICKの音楽を、
ベストアルバムで振り返りながら、
自身の生涯も振り返り、最期を迎え、
形見として遺すのに相応しいと思い、

人生最後のCDとして、購入することとした。

選りすぐりの楽曲と全シングル曲のMVを、
高音質・高画質で振り返ることができ、

ちょっと狂気的で切なくも、
幻想的でロマンティックな、新曲、
『さよならシェルター』も、聴くことができ、

改めて、死ぬまで、死んでも、
聴き続けたい音楽だと、思わせられ、

もう、私は、音楽活動を引退し、
私が皆様に届けられる音楽はないので、

私の音楽を聴いてくださっていた、
かつてのファンやリスナーの皆様にも、

是非とも、BUCK-TICKの音楽を、
御聴きいただきたいと願っている。


そして、年末年始は、ここ数年、何故か、
ネパールやインドなど、南アジアの、
エスニック・カレーを食べて、年越しをしてきたので、

インドの“西ベンガル州”の地方料理という、
非常に珍しいエスニック料理の店が、
荒川区に存在するという情報を知ったため、

少し早かったが、混雑を避けるため、
(一般的な)仕事納め前の最後の平日で、
通常は定休の曜日だが臨時営業日の、
昼下がりのランチタイムの終わり際の時間帯に、

町屋にある、西ベンガル料理店、
『Puja』にて、年越しカレー--

日替わりのカレー3種類に、
(この日は、鱸トマトカレー、
海老ココナッツカレー、チキンカレー)

インディカ米ライス、ダル(豆スープ)、
ジャガイモ・ほうれん草・茄子・キャベツのサブジ(煮物)、
生野菜(人参・胡瓜・紫タマネギ)が付いた、

ランチメニューの“Cセット”と、

デザートに、ベンガル地方のヨーグルト、
『ミシュティ・ドイ』を、注文。

バングラデシュ(東ベンガル)と国境を接する、
インド・西ベンガル州のカレーは、

以前に食べたバングラデシュカレーと同様、
揚げた白身魚が使われており、

濃厚でスパイシーな味付けの中に、
素材の旨味やココナッツの甘味が広がり、

デザートの、ミシュティ・ドイは、
甘く香ばしい黒糖が加えられた、
濃厚で滑らかなヨーグルトで、

とても美味しかった。


なお、これをもって、

昨年末、喪に服し、慎んでいたため、行えなかった、
昨年分の年末年始の恒例行事の数々の、代替とし、

年末年始の恒例行事も、全て、
今年で、終わりとする。


したがって、年末年始の御挨拶も、
今年をもって、最後となる--

来年も、そして、再来年も…
…未来永劫、ずっと、ずっと、

未来を生きる、皆様にとって、

良い御年で、
ありますように。




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志の遺し方



生きてます。

…生きて、秋を迎えることができたため、

前々回のブログ記事にて予告の通り、

政治活動に関する御報告--


昨年、2021年11月30日より、

音楽活動引退に伴う、
最後の音楽活動に専念するため、

また、音楽活動引退後も、
自身の人生の状況の都合により、

さらに、その後、大きな怪我もしてしまい、
治療とリハビリに専念することにもなり、

音楽活動(活動当時)や仕事等の傍ら、
地域で行なってきた、政治活動は、
休止をさせていただいてきたが…

…本日より、政治活動は、

“遺志継承活動”として、
再開をすることとする。

したがって、従来の政治活動としては、

これをもって、一旦、
総括とさせていただきたい--


ちょうど9年前、2013年の9月末…

ただでさえ、凄惨な(第一次)転落人生からの、
壮絶な人生再起劇の果てに築き上げた、再起後の人生が、

再びの壊滅の危機に追い込まれていた、
第二次転落人生の状況下…

大学時代に、左翼政党、
日本共産党の、支持者から始まり、
その後、リベラル左派政党、
(旧・)社会民主党の、支援者となっていた私は、

(※それまでの政治的な経緯については、
2018年1月19日のブログ記事を、御参照。)

何もかも全てを失い、各地を転々としての、
孤独で壮絶な、人生再起劇の果て、
最終的に辿り着き、移住・定住し、居場所となり、
再起後の人生を生きてきた地であり、

奇しくも、在日朝鮮人の方々が非常に多く居られたり、
かつて被差別部落が存在した歴史もあったり、
貧困層の方々が多く、ドヤ街の山谷地区も存在したり、
戦時中に『尾久初空襲』被害の歴史もあったりと、

多様な社会的に弱い立場の方々の、
居場所となっている、

荒川区の、人権・福祉・平和を、
護りたいという想いから、

当時の社民党・荒川総支部の代表で、
旧・日本社会党(社民党の前身)の、
元・荒川区議会議員の方(2017年・御逝去)が、
当時の代表を務めておられた、

荒川区の護憲団体に、
入会し、活動に参加し始め、

地域での政治活動は、始まった。


その後、心支えとなる存在との出会いもあり、
過酷な第二次転落人生解放闘争に勝利し、

再びの壊滅から護られた再起後の人生が、
新たに樹立した“新体制”の下、
改めて再スタートした、2014年4月からは、

ソロでの音楽活動の始動や、
新たな仕事への転職などと共に、

地域での政治活動も、本格化し、

(旧・)社会民主党に入党し、荒川区にて、

部落差別問題、在日朝鮮人差別問題などの、
人権分野をメインに、

日朝・日韓友好、
戦前の日本による朝鮮植民地支配に関する諸問題、
朝鮮・韓国との国家・民族間の外交・歴史上の諸問題、

朝鮮南北平和統一、
民主化前の韓国政府による韓国国民弾圧に関する諸問題、

山谷地区支援、尾久初空襲の語り継ぎ、
西日暮里地区再開発問題、

戦後平和憲法擁護、脱原発、
沖縄在日アメリカ軍基地問題などの、
政治的課題に、

自治労、日教組、国労、全労協、
部落解放同盟、在日朝鮮人人権協会、
生活クラブ生協などの、
労働組合、人権団体、生活協同組合、

社会主義協会、労働大学出版センター、
社青同、日音協などの、
旧・社会党関連組織と、連帯をして、

韓統連、民主労総などの、
在日韓国人民族団体や韓国の労働組合と、
国際連帯もして、

音楽活動や仕事等の傍らで、
全盛期の年でも、月1回程度のペースで、
少ない頻度ではあったが、

学習会、機関紙・理論誌購読、
講演会、フィールドワーク、公開授業にて、

共産主義・社会主義、マルクス経済学などの、
進歩的政治理論・経済哲学や、

(※ただし、私の場合は、共産主義を、
あくまでも、学術的な知性・教養として学ぶに止め、
資本主義・民主主義の枠内で、現実的・平和的に、
政策の実現を目指す、“社会民主主義”の立場)

前述の政治的課題に関する知識・情報を、学び、

選挙運動、集会、街頭宣伝、デモ、
御祭り、コンサートなど、

様々な活動形式で、取り組んでいき、

政治活動を通して、地域交流もでき、
天涯孤独の移住して来た身ながら、
地域に根付いていくこともでき、

政治活動とは関係のない用事等で、
関西地方や沖縄や韓国に訪れた際にも、

水平社博物館、大阪人権博物館、
辺野古地区・在日アメリカ軍基地移設反対運動、
済州4・3平和公園、光州5・18自由公園など、

政治的課題に関連するスポットに立ち寄り、
個人的に視察を行なったりもして、
(辺野古では、現地のデモにも飛び入り参加)

その後も波瀾万丈が続き、苦労・苦悩が祟ってか、
途中からは、不治の病を抱えながらも、
(※ただし、その後の容態は、長期的に安定)

2020年7月に、再起後の人生が、
不幸な過去の清算から新たな未来の夢、
余生や身辺整理までをも、完全終結を果たし、
終末に突入して以降も、

政治活動は、続いていった。


そうしたなか、2020年の年末…

長年、政治活動を共にしてきた、
社会民主党が、事実上の分裂、一部を除き、

政権与党の自由民主党からの離党者の流れも汲み、
リベラル寄り・中道派で穏健ながら保守系も共存するが、
社民党と同じ社会党の流れも一部に汲み、

長年、最大野党であった、社会党に代わり、
その後、最大野党となり、政権交代の経験もある、
民主党の、後継政党であった、民進党の流れを汲む、

多様な政治勢力が、“立憲主義”の下、
総結集した、最大野党で、

リベラル中道左派政党の、
立憲民主党へ、合流となり、

私は、社民党を離党(新生・社民党に不参加)し、

当初、中立の立場から、
短期間、無所属を経たものの、

最終的には、立憲民主党へ、合流し、

社会民主党からの合流者による、
立憲民主党の党内グループ、
『社会民主主義フォーラム』にも、加入、

急進的な部分もあった思想や政策に関しては、
穏健で世俗的で現実的な枠内に軌道修正し、

強い影響力を持つ、最大野党の中で、
多様な同志達と結束し、少しずつ部分的にでも、
政策を実現させていくという方針となった。


…しかしながら、荒川区では、
社民党から立憲民主党への合流者は、
私を含め、2名だけとなり、

さらに、もう御一方は、社民党時代は、
職場・労組が荒川区であったため、
荒川区の総支部に所属なさっていたが、

定年退職されたということもあり、立憲民主党では、
御住まいの、荒川区に近接する、
葛飾区の管轄総支部に合流なさったため、

社民フォーラムの支部は、共同で、
荒川・葛飾支部という形で、結成はできたが、

荒川区では、社民フォーラムの会員は、
私一人だけという結果となってしまった…

(※詳しくは、2021年12月28日の、
ブログ記事を、御参照。)


そして、ちょうど、そんなタイミングで…

翌年、2021年には、

第二次転落人生解放以降、
音楽活動と、再起後の人生の、
存続を支えてきた、

新体制が、崩壊することとなったため、

音楽活動は、引退することとなり、

最後の音楽活動に専念するため、
政治活動は、休止となり、

2022年4月10日、新体制は崩壊し、

前述の通り、再起後の人生は、既に、
身辺整理までをも、完全終結させており、

音楽活動引退・新体制崩壊の最後も、
悔いなく終えられたことは、

不幸中の幸いではあるものの、

存続の支えを失った、再起後の人生は、
以降、存続の保証がなくなり、

終末は、末期に、突入し、

終焉へと向かう、最期の物語が、
幕を開けてしまった…


それに伴い、政治活動は、
本日より、人生の終焉を迎えるまで、
最期の活動として、

荒川区に、社民フォーラムの組織を、
私亡き後にも、遺すための、

“遺志継承活動”として、
再開することとなった。


…遺志継承活動としての政治活動再開に向けて、

政治活動休止中、
社民フォーラム(東京)の総会に出席し、

参議院議員選挙の際には、
立憲民主党の選挙運動に参加し、

まだ怪我の療養から復帰する直前であったため、

地域圏内(錦糸町)での街頭演説会の、
ビラ配りの御手伝いと、
ZOOMでの総決起集会の、
オンライン参加のみではあったが、

社民フォーラム(東京)が支援を呼びかけていた、
東京選挙区の松尾明弘さん(御落選)と、
全国比例区の辻元清美さん(御当選)の、
支援をさせていただき、

総会参加や選挙支援を通じて、
社民フォーラム内での結束や、
立憲民主党内での交流を、より深めた。


怪我の容態も、リハビリは延長となったものの、
日常生活や仕事にも完全復帰しており、

来月には、地域の人権団体の総会や、
社民フォーラムの政治セミナーにも、参加し、

以降、それぞれの活動に、
復帰していく意向である。


…こうした活動に、一緒に参加してくださり、
最終的には、私の遺志を受け継ぎ、

荒川区で、立憲民主党・社会民主主義フォーラムの、
組織を引き継ぎ、政治活動を行なっていってくださる、

“後継者”を、募集させていただきたい--


立憲民主党の綱領(基本政策)に賛同し、
(※党公式サイト(https://cdp-japan.jp/)を御参照。)

その中でも、人権や福祉など、
社会民主主義的な政策に、強く賛同し、

立憲民主党・社民フォーラムの活動に、

荒川区で、取り組んでくださる方。

立憲民主党は、立憲主義の下、
多様な政治勢力が結集した政党で、
社民フォーラムは、柔軟性をもって、
立憲民主党に合流してきた勢力なので、

党の綱領や社会民主主義の理念に、概ね賛同であれば、
個別の政策や個人の思想は、若干の相違があっても可。

取り組む活動は、党・組織の、
日常活動と選挙支援を基本に、
(これだけでも充分)

私は、人権運動に熱心に取り組んできたが、
(故に、他の政治的課題、その中でも特に、
脱原発への取り組みが、不充分であったと反省し、
先日、地域の脱原発団体の街頭宣伝に参加した。)

様々な分野の運動への幅広い取り組みや、
何か熱心に取り組みたい政治的課題があれば、
御自由に取り組んでいただくことができ、
(アドバイスやサポートもさせていただく)

また、社民フォーラムは、
労働組合の組織内議員・組合員の方々が多いので、
労働運動に関心がある方も、大歓迎。

荒川区で活動できる方であれば、
荒川区在住でなくても可、

遠方の方でも、例えば、年に数回だけ、
特別な活動の時のみ、荒川区に来ていただき、
基本はインターネットを利用しての活動という形もあり。

活動の頻度や規模に関しては、

前述の通り、私自身も、音楽活動や仕事等の傍ら、
年に数回、選挙支援をメインに、
学習会や集会等に参加してきた程度なので、

仕事・学業や家事・育児、趣味や交遊、
芸能活動やスポーツ等の傍らでも、

また、私自身も、不治の病を抱え、
現在も大きな怪我からのリハビリ中なので、

御病気や障がいのある方でも、

御自身の可能なペースで無理のない範疇で可、
活動が困難な時は休んでいただいても大丈夫。

立憲民主党・社民フォーラムへの入党・入会は、
最初からは、なかなかハードルが高いと思うので、

まずは、党・組織と一緒に、
活動に参加していただけるだけでも、歓迎で、

立憲民主党に関しては、年会費500円で加入できる、
党外支援者組織、『立憲パートナーズ』もあるので、

少しでも御興味がございましたら、
御気軽に参加していただき、

参加してみて、違うなと思ったら、
御気軽に離脱していただいても、
やっぱり、また活動に参加したいなと思ったら、
御気軽に戻ってきていただいても、構いませんし、

私も、しつこく勧誘されたりするのが、
好きではないタイプで、気持ちが理解できるので、

もしも、活動仲間の同志等から、
無理な参加を強要されたり、
離脱の邪魔をされるようなことがあれば、
私が助けしますし、

学生や若者から高齢者の方まで、年齢は不問、

性別も不問で、女性の方も歓迎で、

女性の場合、見知らぬ男性である私と、
いきなり会って活動するのも、不安だと思うので、
まず、一緒に活動してきた市民団体等の、
女性の方々に紹介するなど、配慮させていただくので、

安心して参加していただき、

個人的には、地域での政治活動は、
政治活動としてだけではなく、
地域交流という側面も大きかったので、

引き継いだ方々にとっても、この地域での政治活動が、
地域交流の場や、居場所にもなれたら思う。


…私、Тамаこと、
本名(姓)、玉田と申します。

ミュージシャン時代に、
CD・ライヴチケット販売・予約等に使用していた、
音楽活動用の公式メールアドレスを、

政治活動用として、
再利用させていただく--

御気軽に、活動参加に関する御相談の、
御問い合わせをしていただけたらと思う。

◎立憲民主党・社会民主主義フォーラム
 荒川・葛飾支部・玉田
tamamsj-official@yahoo.co.jp


社民フォーラムは、荒川区では、
私一人だけとなってしまったが、

前述の通り、支部は、
葛飾区と共同で結成しており、

支部の代表を務める、葛飾区の会員の方も、
旧・社民党の荒川区の総支部から、立憲民主党に合流され、

旧・社会党時代から、
労働組合運動に取り組んでこられた、
ベテランの方であり、

(旧・社民)党全体としては、
立憲民主党への合流者は多数派で、

国会には、衆参共に、議席を有し、
(吉田忠智・参議院議員、吉川元・衆議院議員)
地方議員は、150名以上もが在籍しており、

また、社民フォーラムが所属する、
立憲民主党は、最大野党であり、

荒川区議会にも、議席を有し、
(久家繁・荒川区議会議員)
荒川区内だけで、数十人の党員が存在し、

地方議員は、1200名以上、
国会では、衆参合わせて、130議席以上、
党員数は、10万人以上を誇り、

私が参加してきた地域での人権運動等には、
同じ志を持った地域住民の方々が集まっており、

心強い同志が、たくさん居られる。


最期の活動、最期の闘い、最期の物語…

どこまでやれるのか、どのような結末となるのか、
どのように人生を終えていくのか…

生存する限り、最期の最後まで、
闘って終わっていく意志はあるが、

人生の状況を鑑みれば、もしかしたら、
何もできないまま、これで終わってしまい、

このブログ記事が、
最後の生存報告となるかもしれない…

…仮に、そうなった場合には、
(今回に限らず、今後も同様に)

社民フォーラムや立憲民主党に、
活動や支援をしたいと、問い合わせていただき、

党・組織の同志達と共に、

荒川区で、組織再建と、
政治活動を行なっていただけたら、

亡くなった私も、
あの世で喜んでくれることでしょう。


私亡き後、未来の、荒川区で、

多様な社会的に弱い立場の方々の居場所を、
平和・人権・福祉を、護っていくのは、

旧・社会党・社民党の伝統を、
立憲民主党内で社民フォーラムとして、
継承していくのは、

私の遺志を、受け継ぐのは、

私の後継者は、
あなたです。




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時々 思い出させてください



Тамаです。

生きてます。


生きて、夏を迎えることができた。

しかしながら…

皆様も、この夏は、
御無事でおられたでしょうか?

…新型コロナウイルス感染拡大・第7波に、
災害級の猛暑--


新型コロナウイルス感染拡大情勢に関しては、
3回目のワクチン接種を、3月下旬に行なったため、

残念ながら、その直後に、大怪我をしてしまい、
治療とリハビリの日々となってしまったが、

感染防止に努めつつ、安心して、
通院や日常復帰をしていくことができた。


ちなみに、怪我に関しては、現在も、
リハビリの継続と後遺症の改善が続いており、
一応、外出時には、杖も持参してはいるが、

一部、まだ少し困難な動作はあるものの、
日常生活は、問題なく過ごせており、

一部、まだ少し出来ない業務はあるものの、
仕事にも、復帰できている。


災害級の猛暑に関しては、
前回のブログ記事にて既述の通り、

なんと、あの酷暑のなか、
エアコンが故障してしまい、

繁忙期のため、修理までに、
相当な時間がかかる見込みとなったため、

緊急で、“除湿冷風機”を、
インターネット通信販売にて、購入し、

なんとか、暑さを凌いでいたのだが…


…賃貸マンションの備え付けということもあり、

6月末に、管理会社に修理の依頼をしてから、
まず、管理会社の修理担当が来るまでに、10日、

重度の故障とのことで、管理会社では修理できず、
次に、修理業者が来るまでに、11日、

基盤の故障とのことで、修理業者にも修理できず、
さらに、専門業者が来るまでに、22日と、

あれから、結局、修理まで、
なんと、1ヶ月以上も、かかってしまい、

8月に突入すると、猛暑はピークに達し、
気温は40℃近く、湿度は100%近くとなり、

やはり、あの災害級の猛暑は、
除湿冷風機では、乗り切ることができず、

ついに、熱中症のような症状により、
体調が悪くなってしまったため、

残り数日の辛抱ではあったが、安全のため、
インターネットカフェに、避難をした--


新型コロナウイルス感染拡大情勢と、
しばらく滞在することを鑑み、

鍵付き完全個室に、リクライニングマット、
大浴場ありで、サウナも付いており、

食事付きで、カレーと生卵と御飯が、
いつでもセルフサービスで食べ放題と、

環境や設備の良いネットカフェを、
避難先として、チョイス。

災難ではあったが、

冷房の効いた施設内で、
快適に避難生活を過ごすことができ、

場所は、生活地域圏である東京東部の、
最大の交通ターミナル、上野であったため、

南千住の自宅やリハビリ施設にも、
錦糸町の通勤先にも、通いやすく、

完全個室であるため、(ネットカフェにしては、)
新型コロナウイルス感染のリスクも小さく、
リクライニングマットは、
(ネットカフェにしては、)寝心地も良く、

ネットカフェなのに、
サウナ付き大浴場で入浴もでき、

いつでもセルフサービスで食べ放題の、
2種類のカレーも美味しく、
生卵を加えて味変も楽しむことができ、

ネットカフェではあるが、
カプセルサウナに近い形態の施設で、

かつては、よくカプセルサウナに宿泊して、
趣味の鉄道一人旅や用事での遠征をしていたので、
なんだか、懐かしい気分で、

もう宿泊を伴う遠出をする機会もないので、
近所ではあるが、外泊をして、
のんびりすることができて、よかった。


エアコン修理が完了してからは、
エアコンと除湿冷風機の併用で、

災害級の猛暑が続くなか、
快適な室温と室内湿度に改善でき、

さらに、除湿冷風機には、
プラズマクラスターも搭載されているので、

新型コロナウイルス感染拡大情勢下、
室内空気中のウイルス除去もでき、

非常に快適な環境で、
夏の終わりを過ごしている。


さらに、非常に快適な環境となった空間に、

NEAL'S YARD REMEDIESの、
リードフレグランスディフューザーを、導入--

自宅マンションは、夏に異臭がしたので、
夏には、消臭ビーズを使用し、

冬には、加湿器がアロマ機能付きであるため、
アロマ加湿器を使用してきたのだが、

自宅マンションでは、2年前に、
廊下のリフォーム工事がなされて以降、
夏の異臭がなくなり、

冬にアロマ加湿器に使用してきた、
愛用のアロマオイルは、
製造終了となってしまったため、

愛用のアロマオイルと同じブランドである、
NEAL'S YARD REMEDIESの、

愛用していた『EXOTICA』に含まれていた、
プチグレインとコパイバが含まれている、
『UPLIFTING』の香りの、

リードフレグランスディフューザーを、
通年で使用することに。

オーガニック天然素材100%の、
上品で爽やかなブレンドアロマの香りが、
心身に安らぎを与えてくれて、

前回のブログ記事にて既述の通り、
秋頃まで、お休みをさせていただいているので、

非常に快適な環境の空間の中で、
心地よい香りに包まれながら、

安らかに、休養生活を送っている。


そして、快適で安らかな、
部屋の壁に、飾られているのは、

元・乃木坂46・松村沙友理さんの、
公式カレンダー--


…かつて、ただでさえ、凄惨な転落人生からの、
壮絶な人生再起劇の果てに築き上げた、再起後の人生を、

当時、付き合っていた彼女により、
再びの壊滅の危機に追い込まれ、

(ただし、元カノは、当時のことを深く反省しており、
その後は酷い目に遭われ、今なお苦労なさっており、
もう責めるつもりはなく、恩赦としている)

とても辛かった時、とても苦しかった時、
心の支えになってくれて、命を救い、

その後、7年半に亘り、夢中になって追いかけ、
人生の存続を支えた存在である、

女性アイドルグループ、
乃木坂46で、

推しメンとして、一番に応援していた、
松村沙友理さん…

松村さんのグループ卒業と一緒に、

不幸な過去の清算から新たな未来の夢、
身辺整理までをも、完全終結を果たしている、
自身の人生の状況も鑑みて、

僕も乃木坂46ファンを卒業して以来、

約1年振り…


松村さんは、現在、年齢は30歳になられ、

女優やファッションモデル、
主に地元(大阪)である関西地方を中心に、
バラエティータレントとして、活動され、

そして、YouTuberの男性と、
お付き合いもされているとのことで、

得意分野や地元で活躍され、
幸せな日々も過ごされているようで、

かつてのファンとしては、
嬉しい限りである。


僕は、もう、残り僅かの人生なので、

松村さんの活動を追うこともなく、
乃木坂ファン時代の想い出に浸るのみであり、

このカレンダーも、あと何枚、
めくることができるか、わからないが、

最期に、時々、
思い出させてください。




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喪明けまで闘わなくてもいい



お久しぶりです。

覚えてますか?

Тамаです。

生きてます。


7月1日、

新体制崩壊から、約3ヶ月…

人生再起12周年を、
生きて、迎えることができた。


12年前、凄惨な(第一次)転落人生からの、
何かも全てを失い、各地を転々としての、
壮絶で孤独な、人生再起劇の果て、築き上げた、

この、再起後の人生は、

人生再起後も、波瀾万丈と苦悩が続きながらも、
建設と前進を成し遂げていき、

約8年前には、再びの人生壊滅の危機、
第二次転落人生に見舞われるも、

心支えてくれた存在との出会いもあり、
再起後の人生を護る、辛く過酷な闘いに、
勝利し、樹立された、

『新体制』の下、改めて再スタートし、
以降、存続が支えられ、

(現在、容態は長期的に安定しているが、)
途中からは、長年の苦労が祟ってか、
不治の病を抱えながらも、

不幸な過去の清算から、新たな未来の夢まで、
何もかも全て、悔いなく果たし、

余生さえも生き終え、身辺整理をも完了させ、
2年前には、一旦の終結が宣言され、

以降、昨年までは、
“安らかな終末”に、突入していた。

(※昨年までについては、2021年6月16日、
および、当該記事に記載の期日の、
各ブログ記事を、御参照いただきたい。)


しかしながら、ちょうど1年前、昨年の夏…

再起後の人生を、再びの壊滅から護る、
過酷な、第二次転落人生解放闘争当時、
辛かった時、心支えとなり、
闘争勝利と新体制樹立に導き、命と人生を救い、

その後、新体制を、共に過ごし、
支えていた存在を、

失うこととなってしまった…


そして、新体制を支えていた存在を、
失うこととなってしまった結果、

新体制は、“崩壊”することが、確定し、

昨年の夏から秋にかけては、この影響で、
喪に服すなどしていたということもあり、

4ヶ月半以上もの、長期に亘り、
地域と職場を除き、音信不通にもなってしまい、

昨年の秋の終わりには、

崩壊することとなった、新体制は、

かつて、第二次転落人生により延期されていた、
ソロでの音楽活動の始動を、一番の目的とした、
第二次転落人生解放闘争の、結果として樹立され、

ソロでの音楽活動の、存在意義であったため、

新体制の崩壊に伴い、存在意義を失い、
新体制樹立と共に始動し、新体制下で続いてきた、

ソロでの音楽活動は、終了することとなり、

最後に在籍したバンドの脱退時に、
最後の音楽活動であると宣言していた、
ソロでの音楽活動の終了に伴い、

音楽活動を、“引退”することも、確定し、

年が明け、今年の年始から、約3ヶ月間、

最後の音楽活動として、
ラストシングルCDのリリースと、
ラストライヴ映像の配信を行い、

最後に、音楽活動引退のみならず、
新体制崩壊としての、最後のイベントとして、

新体制を樹立に導いた、第二次転落人生解放闘争の、
戦勝の聖地、富山県富山市にて、

御別れイベントの生配信も行い、

約3ヶ月前、2022年4月10日、
新体制樹立8周年をもって、

新体制は、崩壊することとなり、

こうして、第二次転落人生解放以降、
存続を支えてきた、新体制の、崩壊により、
この再起後の人生は、

身辺整理までをも完全終結させていることは、
不幸中の幸いではあるものの、

安らかな終末は、無しとなり、
この終末も、末期となり、

まだ遠い先のことのように言っていた、
安らかな終末を終えた果てに迎えるであろうとしていた、

最期の物語が、
幕を開けてしまった…


…新体制崩壊後は、

新体制崩壊の最後の最後で、
(全てのイベントを終えていたことは、
不幸中の幸いではあったが、)

近所の路上で、かなり派手に、
足を挫いて、転倒してしまい、

右足首を靭帯損傷、さらに、
歩行困難による二次災害で、右手も負傷し、

全治3,4週間(初診時)の、
大怪我をしてしまったということもあり、

治療とリハビリのため、療養の日々となったが、

全治3,4週間と診断された怪我は、

なんと、約3ヶ月が経った現在も、
まだ完治には至っておらず、

仕事に復帰したのも、
つい、今月からであり、

まだ数ヶ月、リハビリの継続や、
後遺症の改善が、必要となる見込みで、

“杖”も必要な生活となってしまったが、

先月の末から今月の初めにかけては、

再会を約束していた、大学時代の友人や、
近隣地域(茨城県)の先輩とも、再会を果たせ、

ほんの少しだけではあったが、
参議院議員選挙の支援運動にも参加でき、
(※政治活動については、また後日、
秋に更新予定のブログ記事にて。)

さらに災難は続き、猛暑が続くなか、
エアコンが故障してしまい、
繁忙期のため、修理までに相当な時間がかかり、
熱中症の危機にも見舞われるも、

“除湿冷風機”を購入し、
エアコンの冷房の代わりとしては程遠いが、
なんとか、暑さを凌ぎ、

こうして、なんとか、生きて、
人生再起12周年を、迎えることができた。


さて、今日は、新体制を支えていた存在を、
失ってしまってから、1年が経ったため、

これをもって、“喪明け”とすることとし、

喪中に相当していたため、延期していた、
毎年恒例の正月行事、

葛飾区の仏教寺院、柴又帝釈天での、
厄除けを、行なってきた。

願目は、安らかな終末が続けば、
『除災得幸』をチョイスする予定であったが、
終わる人生に、幸せは必要ないので、

人生の最期、良き終わりを迎えられるよう、
『悪星退散』をチョイス。

また、身辺整理完了から1年が経った昨年、
“一周忌”に相当したため制作した、

“生前位牌”も、持参し、

厄除けの際に、僧侶の方と共に御経を唱え、
位牌への魂入れとした。


そして、喪中に相当していたため、
正月は、肉も魚も卵も禁止としていたので、

喪明けを祝して、正月に禁止としていた、
肉を、解禁ということで、

1年前の新体制を支えていた存在との別れに際し、
想い入れのある地のうちの一つとなった、
宮崎県から、取り寄せた、

(鶏)肉に(豚)肉を詰めた料理、
『手羽先餃子』を、おつまみに、

天涯孤独で、身寄りのない僕が、孤独死した場合、
荒川区役所によって、死後、
埋葬・供養される予定の、無縁仏がある、

立石(葛飾区)の、名物である、
梅割りハイボールを、

近所のスーパーマーケットの缶酎ハイではあるが、
弔い酒として、嗜んだ。


この再起後の人生は、

第二次転落人生解放以降、存続を支えてきた、
新体制が、崩壊したことにより、

以降、3回目の人生滅亡の危機、
『第三次転落人生』の、情勢下にあり、

もう、存続の保証がない状態となっているが、

存続する限りは、最期の最後まで、

人生の状況としては、既に、
何もかも全ての悔いなき完全終結を果たし、
生き終えているという状況であるため、

人生が終わるか、終わらないかの、闘いではなく、

良き終わりを迎えるか、不幸な終わりを迎えるかの、
闘いになるとは思うが、

むしろ、終わるからこそ、終わるなら終わるで、
終わり方というものがあるので、

かつての、人生再起劇や、
第二次転落人生解放闘争と同じように、

第三次転落人生に対しても、
強い信念で、最後に闘う意志があり、

これだけ波瀾万丈な生涯であった、
この僕らしく、

また何かしら、劇場的で個性的な結末で、
最期を迎えることになるとも思うので、

最期の最後まで、
見送っていただけたら思う。


そして、人生再起と共に始まった、
この、公式ブログも、

再起後の人生が存続する限りは、
最期の最後まで、存続する。

ただし、今後は、

年4回のみ更新の、
“生存報告ブログ”となる。

もしも、更新が途絶えたら、

再起後の人生は滅亡し、僕は死亡したと、
判断していただきたい。


再起後の人生が存続する限りの、
残された時間は、

再起後の人生を、共に生きてきた地であり、
再起後の人生の、神聖なる絶対的象徴である、

荒川区にて、

荒川区に対する、感謝と恩返しの気持ちと、

壮絶で孤独な人生再起劇の果て、最終的に辿り着き、
移住・定住し、僕の居場所となった地でありながら、

奇しくも、多様な社会的に弱い立場の方々の、
居場所となっている、地域特性のある、荒川区の、

人権を護りたいという想いで、活動してきた、

政治活動の、“遺志継承”として、

荒川区では、

旧・日本社会党~社会民主党の流れを汲んで、
立憲民主党に合流し、継承された組織である、
『社会民主主義フォーラム』の会員が、

僕一人だけという結果となってしまったため、

社民フォーラムの組織を、荒川区に築き、
僕亡き後にも、遺すための、

最後の活動に、取り組んでいきたい。


…本来であれば、新体制崩壊後、
この約3ヶ月の間に、計画や準備を行い、

今日から、取り組んでいくつもりであったのだが、

この約3ヶ月間は、怪我により、
治療とリハビリのため、療養となってしまい、

さらに、まだ数ヶ月、リハビリの継続や、
後遺症の改善が、必要となる見込みであるため、

この約3ヶ月の間に出来なかった、
計画や準備を行いつつ、

怪我のリハビリ継続・後遺症改善に、
専念するため、

秋頃まで、もう少し、
お休みをさせていただきたい。


…第二次転落人生解放以降、
再起後の人生の存続を支えた、
新体制は、崩壊し、

大怪我による痛みと、体が不自由な生活に苦しみ、
辛い治療とリハビリの日々を過ごしてきた、

この約3ヶ月間は、

韓国の、ビジュアル系ロックバンド、
트랙스(TraX)(※2019年に解散)で、
Guitarのメンバーであった、

정모(ジョンモ)さんの、ソロ最新曲、

『끝이 좋으면 다 좋아』を、
ずっと、聴いていた--

曲名は、日本語で、
“終わり良ければ、全て良し”。

悩んで辛い時は、考えすぎないで、
疲れて苦しい時は、しばらく休んで、
ゆっくり歩いていっても、
良き終わりを、必ず迎えられるよと、

優しく応援してくれるような歌詞の、
穏やかなポップスバラードナンバーで、

辛い日々の中で、
励まされ、心癒された。

…もう、僕は、音楽活動を引退し、
僕が皆様に届けられる音楽はないので、

代わりに、僕の心を支えた音楽を、
皆様にも、御聴きいただけたらと思う--

◎정모『끝이 좋으면 다 좋아』[Music Video]



緩やかに計画を考えつつ、
もう少し休ませていただき、
ゆっくり歩み出していき、

良き終わりに、
向かっていきたい。




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新体制崩壊

新体制樹立、8周年を迎えた。

しかしながら、これをもって…

この、『新体制』は、
“崩壊”することとなった--


8年前…

ただでさえ、凄惨な(第一次)転落人生からの、
何かも全てを失い、各地を転々としての、
壮絶で孤独な、人生再起劇の果て、
築き上げた、再起後の人生を、

再びの壊滅の危機(第二次転落人生)から護る、
第二次転落人生解放闘争に勝利し、

悲しいことに、苦悩の第二次転落人生に導いた、
戦犯・加害者という存在となってしまった、

当時に付き合っていた彼女とは、
話し合って円満に別れ、

(なお、元カノは、当時のことを、深く反省し、
その後は、酷い目にも遭われ、
現在も、苦労なさっているので、

もう、それ以上、責めるつもりはなく、
むしろ、応援する気持ちであり、
僕以外の犠牲者・被害者の皆様にも、
恩赦を呼びかけている。)

第二次転落人生解放闘争終結により、
第二次転落人生の幕開けとなった事件への、
リベンジのために転職した前職から、
新たに別の好きな仕事を選べるようになり、

第一次転落人生(不登校だった高校時代)の過去から、
同じ辛い境遇の人々を救いたいという想いで、

不登校支援のNPO関連事業所での、
学習支援講師・カウンセラーの、
新たな仕事に転職し、

第二次転落人生の幕開けとなった、
僕の当時の職場を巻き込んで、
元カノが起こした事件により、辞めることになった、
前々職へのリベンジとして転職し、

第二次転落人生を共に闘った、
前々職と同業他社である医薬品小売業の前職にて、
実務経験を経て、資格試験に合格し、取得した、

医薬品登録販売者資格は、
副業で活かせることになり、

第二次転落人生解放の、一番の目的であった、

第二次転落人生により、
長らく始動が延期となっていた、

ソロでの音楽活動が始動し、
音楽活動が再開し、

第二次転落人生により、より尊さを実感した、
再起後の人生を共に生きてきた荒川区にて、

地域事情も鑑みて社会民主党(当時)と共に、
(現在は、立憲民主党に合流)
地域での政治活動も新たに始め、

そして、過酷な第二次転落人生解放闘争の、
とても辛かった時代、心の支えとなり、
闘争勝利と新体制樹立に導き、
命と人生を救ってくれた存在は、

引き続き、新体制を支える存在となり、
共に過ごす日々が始まり、

こうして、第二次転落人生解放闘争勝利の結果、
再びの壊滅から護られた、再起後の人生は、

新たに樹立した、『新体制』の下、
改めて、再スタートした。


新体制樹立以降、
再びの壊滅から護られた、再起後の人生は、
この新体制によって存続が支えられ、

この再起後の人生も、
新体制下での建設と前進が功を奏し、

凄惨な過去の清算から、新たな未来の夢まで、
途中からは、苦労が祟り、不治の病を抱えながらも、
何もかも全ての、完全なる終結を果たせ、

2018年7月より、(それまでと比べたら、)
長年の苦悩から解放され、
余生に、突入し、

2019年7月には、余生さえも、
ある程度、楽しみ、生き終えてしまい、
身辺整理に、突入し、

2020年7月には、身辺整理をも、
全て完了させ、

再起後の人生は、せめてもの悔いなき、
綺麗で円満で平和的で祝賀的な、
一旦の終結の宣言がなされ、

終末に、突入し、

以降、再起後の人生が、
(第二次転落人生解放以降、それを支えてきた、)
新体制によって続く限り、

容態が安定し続けて、
不治の病を抱える体が持つ限り、
長年の壮絶で波瀾万丈な境遇に、
傷だらけになった心が持つ限り、

引き続き、新体制樹立と共に始まり、続けてきた、
仕事や副業を、今後も続けながらの、
ソロでの音楽活動や地域での政治活動も、
ひっそりながらも続けながらの、

ファンや支持者の皆様、仕事等の関係者の方々、
第二次転落人生から救ってくれた存在、
そして、地域の皆様方と共に、

再起後の人生を共に歩んできた、
この、荒川区(および近隣地域)にて、

それらの地域や人々に、
感謝の恩を返し続けながらの、

安らかな終末を過ごすこととなっていた。


しかしながら、それから1年も経たない、
昨年、2021年の、春の終わり…

再起後の人生を、再びの壊滅から護る、
過酷な、第二次転落人生解放闘争当時、
辛かった時、心支えとなり、
闘争勝利と新体制樹立に導き、命と人生を救い、

その後、新体制を、共に過ごし、
支えていた存在を、

失うこととなってしまい…


新体制を、支えていた存在を、
失うこととなってしまった結果、

新体制は、崩壊することが、確定し、

身辺整理までをも完全終結させていることは、
不幸中の幸いではあるが、

安らかな終末は、無しとなり、
この終末も、末期となり、

まだ遠い先のことのように言っていた、
安らかな終末を終えた果てに迎えるであろうとしていた、

最期の物語が、
幕を開けてしまった…


そして、同年の、秋の終わりには、

崩壊することとなった、新体制は、

かつて、第二次転落人生により延期されていた、
ソロでの音楽活動の始動を、一番の目的とした、
第二次転落人生解放闘争の、結果として樹立され、

ソロでの音楽活動の、存在意義であるため、

新体制の崩壊に伴い、存在意義を失い、
新体制樹立と共に始動し、新体制下で続いてきた、

ソロでの音楽活動は、終了することとなり、

最後に在籍したバンドの脱退時に、
最後の音楽活動であると宣言していた、
ソロでの音楽活動の終了に伴い、

音楽活動を、引退することも、確定し、

年が明け、今年、2022年の、
年始から、約3ヶ月間、

最後の音楽活動として、
ラストシングルCDのリリースと、
ラストライヴ映像の配信を行い、

最後に、音楽活動引退のみならず、
新体制崩壊としての、最後のイベントとして、

新体制を樹立に導いた、第二次転落人生解放闘争の、
戦勝の聖地、富山県富山市にて、

御別れイベントの生配信も行い、

こうして迎えた、
新体制樹立8周年をもって、

新体制は、崩壊することとなった。


この新体制の8年間と、その前史である、
第二次転落人生および解放闘争に関しては、

新体制樹立から3年前までについては、
2019年4月20日と、当該記事記載期日、

3年前から昨年までについては、
2021年4月10日と、当該記事記載期日、

第二次転落人生および解放闘争については、
2021年7月13日(23時46分)の、
(※3本立て記事の2ページ目)

各ブログ記事にて、詳しく振り返っているので、
それぞれ、御参照いただくこととさせていただきたい。


音楽活動に関しては、

既に、最後の活動を終えており、
引退の御挨拶もさせていただいているが、

日付としては、本日をもって、引退となり、

最後に、動画サイト・YouTubeにて、

3月22日に、新体制崩壊の最後のイベントも兼ねて、
新体制を樹立に導いた、第二次転落人生解放闘争の、
戦勝の聖地、富山県富山市より、
配信サイト・TwitCastingにて、生配信を行なった、

御別れイベント生配信、
『#お別れ富山』の、アーカイブ映像に、

富山訪問紀も、織り交ぜ、

ラストシングルCDに、
カップリング曲として収録した、
『孤高とは (Last Version)』(※Instrumental)を、
BGMとした、

“アーカイブ ミニ動画”を、
公開させていただき、

(◎視聴URL

また、公式ウェブサイトにて、

バンド時代を含む、
過去のプロフィール写真を纏めた、

『音楽活動引退メモリアル写真集』も、
掲載させていただき、

(◎Тама 公式ウェブサイト

最後の事務的な御知らせとして、

音楽活動引退に伴い、本日をもって、

リリースされている、全ての、
CD,Blu-rayDisc作品は、廃盤となる旨、

以降、作品に関する御問い合わせ、
在庫限りの作品の販売に関しては、
その他、各種の御問い合わせも含め、
個別に御対応させていただくこととなるが、

明日以降、公式ウェブサイトに掲載の、
公式メールアドレスへの、御問い合わせに対しては、
対応させていただける保証はなく、

いわゆる、“ダメ元”で、
御問い合わせをしてみていただくこととなることを、
御容赦いただきたい旨、

また、公式ウェブサイトは、
更新が終了となる旨、

ただし、音楽活動記録や楽曲等を、
資料として残すため、閉鎖はしない旨を、

御知らせさせていただきたい。


さて、ここで、最後の最後に、

残念な、御知らせがある--

3月28日…

近所の路上で、かなり派手に、
足を挫いて、転倒してしまい、

右足首を靭帯損傷、さらに、
歩行困難による二次災害で、右手も負傷し、

全治3,4週間の、大怪我をしてしまった…

近所であったため、足を引きずり、
なんとか、帰宅できたものの、

帰宅後は、歩くどころか、
足を着くことすらできず、

その影響で、自宅内で、壁づたいに、
片足で移動した際、変な手の着き方をしてしまい、
手も負傷してしまい、

凄惨な過去の(第一次)転落人生により、
故郷も友人も家族も、何もかも全てを失い、

各地を転々としての、壮絶で孤独な人生再起劇の果て、
最終的に辿り着いた、荒川区に、移住し、
新たな人生をスタートさせ、
天涯孤独に生きてきたということもあり、

身寄りのない、一人暮らしで、
誰にも頼ることができない環境で、

足を負傷してしまい、歩くことができず、
病院にも行くことができず、

非常に、困ってしまっていた。

しかしながら、人生再起と共に、
荒川区に移住して、約12年…

再起後の人生は、移住地域に根付いて、
地域の方々と、共に過ごしてきたということもあり、

地域の方に、救急車を呼ぶしかないだろうかと、
電話で相談させていただいたところ、

区内の訪問介護のNPO団体の、
理事の方に連絡してくださり、

車椅子と、車椅子が乗せられる、
福祉車両の車を、派遣してくださり、
病院に連れて行ってくださり、

本当に、本当に、助かり、
この上ない、感謝の気持ちである。

最後の御別れイベント生配信まで、
何もかも全て、終えていたことが、
不幸中の幸いではあったものの、

最後の最後まで、御心配をおかけして、
申し訳ない気持ちであり、

新体制崩壊の最後が、
このような形で終わってしまい、
後味は悪いかもしれないが、

まぁ…非常に波瀾万丈な人生を生きてきた、
僕らしい、最後まで波瀾万丈な、
終わり方であったと言えるかもしれない。

(第二次転落人生解放以降、)
再起後の人生の存続を支えてきた、
新体制が崩壊するため、

明日以降、人生の存続が、どうなるか、
命の存続が、どうなるか、わからないが、

生きている限りは、最期まで、
治療とリハビリに取り組む所存である。


…ということもあり、

音楽活動用に開設した、
TwitterとFacebookの公式アカウントに関しては、

音楽活動引退に伴い、
本日をもって、終了の予定であったが、

ケガの治療報告も兼ねて、
月末まで、継続したいと思う。

こちらも、そもそも、新体制の崩壊により、
明日以降、人生の存続が、どうなるか、
命の存続が、どうなるか、わからないが、

いずれにしても、以降、
プライベートアカウントとして、
継続するかどうかは、未定である。


新体制と共に始まったのは、
音楽活動だけではない。

現在の仕事と、

第二次転落人生解放闘争の過程で、
取得することとなった、
公的専門資格を活かした、副業も、

新体制樹立と共に、転職し、
新体制下で、働いてきた。

…なので、新体制崩壊に伴い、

実は、仕事と、副業も、

“退職”しようと、考えていた。

しかしながら…

現在の仕事に関しては、
たしかに、新体制樹立と共に転職し、
新体制下で働いてはきたのだが、

第二次転落人生解放闘争終結に伴い、
新体制下では、新たな仕事を選べるようになり、
現在の仕事に転職したという経緯であり、

新体制そのものとは、
あまり関係がないということ、

また、今年度から、
学習指導要領が改訂となり、

需要の少なかった僕の専門科目(地理)が、
高校で必修科目となったということもあり、

副業に関しては、
第二次転落人生解放闘争の過程で取得した、
資格そのものは、新体制を象徴する、
重要な存在の一つでもあるのだが、

そもそも、副業は、
現在の仕事に転職した当初、

専門的な仕事柄、賃金は普通の約2倍だが、
(転職した当時の賃金水準と当時の僕の年齢で)
普通の人の2倍の収入というわけではなく、
勤務時間が短く(一部在宅業務を除く)、

普通の人の半分の労働時間(一部在宅業務を除く)で、
普通の人と同じ収入という計算になるが、

当初、その少し変わった働き方に、
少し不安を覚えていたことと、

せっかく勤務時間が短く、
時間に余裕があるので、有効活用し、

ちょうど専門資格も取得しており、
資格手当てで、効率的に稼げるということもあり、

週に数日、夕方の数時間だけ、
資格を活かした副業も始めたという経緯であり、

まず副業を始めることが先で、副業を選ぶにあたり、
せっかくなので、保有している専門資格を、
活かそうと思っただけのことであり、

また、法律が改正され、有資格者の要件として、
有資格者として、特定期間内に、
一定時間数、勤務しなければ、

有資格者としては、失効してしまうようになったため、
(資格自体は有効だが、有資格者になるには、
実務経験要件として、一定時間数を特定期間、
無資格者として、勤務し直すことになってしまう)

こちらも、そもそも、新体制の崩壊により、
明日以降、人生の存続が、どうなるか、
命の存続が、どうなるかは、わからないが、

前述のケガの療養とリハビリのため、
現在、仕事・副業共に、休職させていただいており、
双方の職場に対しては、御迷惑をおかけして、
申し訳ない気持ちではあるが、

今後とも、仕事では、受講生・クライエントの皆様に、
副業では、患者様の皆様に、心から寄り添い、

仕事も、副業も、当面の間、
続けていく意向となった。


いずれにしても、

第二次転落人生解放以降、
再起後の人生の存続を支えてきた、
新体制が、崩壊することにより、

明日以降、この、再起後の人生が、
存続しているという保証はなく、

人生が終われば、当然、
命が終わる可能性も高くなり、
もはや、生きている保証すら、
なくなることとなった。

しかしながら、
これは、悲しいことではない。

この、新体制とは、何だったのか、
思い返していただきたい--

…第二次転落人生により、
再起後の人生が、再びの壊滅に導かれ、

本来であれば、その時点で、

この、人生も、命も、
もう、終わってしまうはずであった。

しかしながら、

過酷な、第二次転落人生解放闘争の、
辛かった時、心支えとなる存在と、
出会うことができ、

闘争に勝利でき、樹立した新体制により、

本来、終わってしまうはずであった、
再起後の人生は、再びの壊滅から護られ、

支えられ、存続することとなり、

無かったはずの、命と人生が、

しかも、(もちろん、凄惨な過去や、
消えない悲しみを、背負っていたり、
引き続き、波瀾万丈で、苦労や苦悩もありながらも、)
とても素敵な日々として、

8年間も、与えられ、

さらに、その8年間で、
過去の清算から、新たな夢、身辺整理までをも、

人生における、何もかも全てを、
悔いなく、完全終結を果たすことができた。

無かったはずの命と人生を、
素敵な日々を、

何もかも全ての、悔いなき、
完全終結を、果たす時間を、

8年間も与えてくれた、
新体制と、

新体制を共に過ごした、
全ての関係者の皆様方に、

この上なく、深く、
心から、感謝を申し上げたい。


前述の通り、第二次転落人生解放以降、
再起後の人生の存続を支えてきた、
新体制が、崩壊することにより、

明日以降、この、再起後の人生が、
存続しているという保証はなく、

もはや、生きている保証すら、
なくなることとなった。

第二次転落人生終結以来、
8年振りの、人生滅亡の危機、

『第三次転落人生』(仮称)が、
幕を開けることとなった。


しかしながら、存続の保証がなくなり、
常に存亡の危機にある、
不安定な状態になるというだけで、

この、再起後の人生は、
滅亡しない限り、存続はしていく。

明日以降、存続の保証はないが、
再起後の人生が、存続する限り、

再起後の人生を、
共に生きてきた地であり、

再起後の人生の、
神聖なる絶対的象徴である、

荒川区にて、

活動してきた、地域での政治活動は、
再起後の人生の、具現化であり、

前述の、ケガで困った時、
地域の方々が、手助けしてくださった件も含め、

荒川区に対する、感謝と恩返しの気持ちと、

壮絶で孤独な人生再起劇の果て、最終的に辿り着き、
移住・定住し、僕の居場所となった地でありながら、

奇しくも、多様な社会的に弱い立場の方々の、
居場所となっている、地域特性のある、

荒川区の、人権を護りたいという想いで、

そして、荒川区では、

旧・日本社会党~社会民主党の流れを汲んで、
立憲民主党に合流し、継承された組織である、
『社会民主主義フォーラム』の会員が、

僕一人だけという結果となってしまったため、

社民フォーラムの組織を、荒川区に築き、
僕亡き後にも、遺すため、

再起後の人生の、最期の最後まで、

地域での政治活動に、
取り組み続けていく所存であり、

再起後の人生は、身辺整理までをも、
完全終結させてしまっており、

人生殲滅から新たな人生を築いていった、
かつての、人生再起劇や、

人生壊滅を阻止するために闘った、
かつての、第二次転落人生解放闘争とは違い、

今回の、第三次転落人生(仮称)は、

人生の状況としては、既に、
何もかも全ての悔いなき完全終結を果たし、
生き終えているという状況で、迎えるため、

人生が終わるか、終わらないかの、闘いではなく、

良き終わりを迎えるか、
不幸な終わりを迎えるかの、
闘いになるとは思うが、

むしろ、終わるからこそ、
終わるなら終わるで、
終わり方というものがあるので、

かつての、人生再起劇や、
第二次転落人生解放闘争と同じように、

第三次転落人生(仮称)に対しても、
強い信念で、最後に闘う意志があり、

これだけ波瀾万丈な生涯であった、
この僕らしく、

最期は、また何かしら、
劇場的で個性的な結末で、
迎えることになるとも思うので、

最後の活動、最後の闘い、最期の物語…

最期の最後まで、
見送っていただけたら思う。


もしも、再起後の人生が存続していた場合、

7月には、人生再起12周年を、
迎えることとなる。

人生再起と共に始まった、
この、公式ブログは、

再起後の人生が存続する限り、
存続する。

…もしも、生きて、
人生再起12周年を迎えることができたら、

7月13日に、
ブログを更新したいと思っている。


これをもって、

『新体制』“崩壊”を、
宣言する。




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