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田窪一世 独白ノート

ブログを再開することにしました。
舞台のこと、世の中のこと、心の中のこと、綴っていきます。

歌舞伎では演技を「型」で教えます。

 

先祖代々が培ってきた型を子々孫々に伝え改良を加えて演技の高みを目指すのです。十代二十代の頃はこの型がなかなか身につきません。こういう役者のことを「型なし」と言うのだそうです。そして三十代の頃になってやっと「型通り」の演技が出来るようになり、四十代五十代の役者の中で特に優れた才能のある役者だけが「型破り」の演技を会得するようになれるのです。

 

先年亡くなった十八代中村勘三郎がまさに型破りな役者でした。舞台上ではそりゃもう自由自在、天衣無縫。後年は1960年代に一世を風靡した劇団、唐十郎率いる「赤テント」の演出方法を歌舞伎風にアレンジした演出で観客を驚かせました。歌舞伎界では他にも芸の頂点を極めた坂東玉三郎などなど天才が大勢います。

映画界テレビ界にも型破りな俳優はたくさんいます。萩原健一、松田優作、桃井かおり、木村拓哉、等々、枚挙に遑がありません。

 

これらはすべて天才と呼ばれる人たちです。ところが物語の中には主役だけではなく脇役、端役など色んな人物が登場して来ます。しかし彼らはたまたまそのドラマの中では脇役、端役ですが、彼らの人生ではみんな主役のはずです。それぞれの人物が仕事を持ち、人間関係に悩み、人生を歩んでいるのです。天才だけに主人公としての重責を負わせるのではなく、全ての俳優が「型破り」の域までなんとか行けないものか。ずっと考えているテーマです。

 

 

 

 

 

 

 

2008年のアメリカ映画「ウォンテッド」千年前から神に代わって“運命の意志”を実践してきた秘密の暗殺組織のメンバーだった父が殺害されたことを知らされる平凡なサラリーマンのジェームズ・マカヴォイ。組織のボスから父の後を継ぐよう強制され不承不承訓練を始める、という荒唐無稽なアクション映画をつい先日観ました。

 

先輩の暗殺者アンジェリーナ・ジョリーの指導の下、撃った銃の弾丸の軌道を曲げて物陰に隠れている敵を倒す訓練のシーンがありました。彼は尋ねます。「どんな方法で?」そこへ組織のリーダーのモーガン・フリーマンが現れこう言います。「方法ではない、意志で曲げるのだ」と。

 

同じくアメリカの演技学校「アクターズ・スタジオ」では学生たちに対して講師はこう言います。「自分の力で世の中を変えたいと願わない人間は俳優になれない」

 

欧米では小学校の頃から「ディベート」という授業を行います。ある公的な主題について異なる立場から討論するという内容で、相手の理論を覆し、納得させるというものです。

 

意志の力で物事(相手役)を動かしていく。日本の俳優に不足している要素です。この部分を磨くしかチームプレイ(あるいは格闘)の演技は成立し得ないと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

夢の中に一度も会ったことのない見知らぬ人が登場して来ることがあります。でも実はこれ現実世界で実際に会ったことのある人たちなのです。

 

ただ、知り合いということではありません。信号待ちをしている時に向こうの歩道に立っていた人や、電車の中でちょっと目が合っただけの人など脳はその一瞬で記憶するのだそうです。そして真夜中、脳はそれらの情報を夢の中に登場させて、記憶する価値のないものは捨て、大事なものだけを倉庫に陳列するという仕分作業をするのです。

 

例えば台本なども、実は一瞬見ただけで脳は完璧に記憶すると言います。台本を一回読んだだけで覚えてしまうという驚異的な記憶力を持った女優の話などときどき耳にすることがありますが、最近の脳科学では、実はこの能力は誰にでも備わっている能力なのだそうです。

 

この場合の記憶はそのほとんどが「映像」です。台本を記憶する場合でも、そのページをまるでカメラで撮影するように脳は記憶しているのだそうです。そしてこの能力は男性よりも女性の方が優れていると言います。つまり女性は視覚や聴覚や感覚を処理する右脳を使って記憶するのです。男性の場合言語処理を行う左脳を使って改めて台詞を覚えようとするので、一度撮影した記憶が役に立たないというわけなのです。

 

演技をするときにも、この「映像」を思い浮かべることで認知作業が格段に具体的になります。彼はあのときなんて言ってたんだろうと記憶を辿るときに、彼が喋った言葉を思い浮かべるよりも、そのときの彼の表情を思い浮かべた方がよほど明確な認知が出来ます。この映像を多用する演技方法を俳優たちには積極的に実施して貰いたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

こんな話を聞いたことがあります。結婚詐欺師が捕まって刑務所に服役していると、騙された女性の何人かが面会にやって来て詐欺師に向かってこういうそうです。「他の女性は騙されたかもしれないけど、あなたは私を愛してくれた。だから罪を償って出所して来たら結婚しましょうね」と。まだ騙されたという自覚がないのかと、その女性のことが心配になりますが、実は彼女はある瞬間本当に愛されたのです。

 

結婚詐欺師は、最初金銭を騙し取ろうとして女性に近づきますが、会うたびに「好きだ」「愛してる」と繰り返し、肉体関係を続けているうちに、(俺は本当にこの女を好きかも知れない)と錯覚する瞬間があります。そしてその瞬間を女性は敏感にキャッチしていたのです。しかし、その日彼女と別れて帰りの電車の中で詐欺師は冷静さを取り戻します。そして再びどうやって彼女から金を引き出してやろうかと算段を練るのです。

 

ある実験でこんなのもありました。小学校の同窓会でひとりの男性を除いた全員で結託しある架空の思い出を創作します。同窓会が始まってある一人が口火を切り、その嘘の出来事を楽しそうに語り始め、まわりもそれに同調して行きます。最初「ええ、そんなことあったかなあ」と懐疑的だった男性も、みんなのあまりにも具体的で楽しそうなエピソードに、やがて(そう言えばそんなことがあったなあ)と錯覚を起こして行き、最後は全員で盛り上がって行くのです。

 

僕たち俳優は人を殺したことが無いのに殺人者の役を演じ、死んだことも無いのに殺される役を演じなければなりません。しかし、脳は無かったことすらあったように錯覚出来る臓器だと言うことが最近の脳科学でわかって来ました。これは俳優にとって朗報です。

 

 

 

 

 

 

 

1971年アメリカ・スタンフォード大学心理学部で、刑務所を舞台にして、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまうことを証明しようとした実験が行われました。新聞広告などで集めた普通の大学生などの心身ともに健康な21人の被験者の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせました。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるということが証明されたのです。

 

囚人達には屈辱感を与え、囚人役をよりリアルに演じてもらうためパトカーを用いて逮捕し、指紋採取し、看守達の前で脱衣させ、シラミ駆除剤を彼らに散布しました。そして歩行時に不快感を与えるため彼らの片足には常時南京錠が付いた金属製の鎖が巻かれました。次第に看守役は誰かに指示されるわけでもなく囚人役に罰則を与え始めます。反抗した囚人の主犯格は独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制しました。やがて精神を錯乱させた囚人役が1人実験から離脱。さらに、精神的に追い詰められたもう1人の囚人役を看守役は独房に見立てた倉庫へ移動させて、他の囚人役にその囚人に対しての非難を強制した結果、錯乱した囚人役も離脱。

 

この状況を実際の監獄でカウンセリングをしている牧師に見せたところ、牧師は、監獄へいれられた囚人の初期症状と全く同じで、実験にしては出来すぎていると非難しこの危険な状況を家族へ連絡。家族達は弁護士を連れて中止を訴え協議の末、実験は6日間で中止されました。しかし看守役は「話が違う」と続行を希望したと言います。

 

この実験自体は人道的に問題のあるものでしたが、演技をする上でのヒントがここにあります。つまり脳は錯覚するのです。