田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan -28ページ目

田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。


今から38年前の1978年3月、羽田国際空港からアメリカ本土に旅立った。
目的はマンザナ収容所跡地を自費で取材撮影をすることであった。ニコンF2一眼レフのカメラを担いでハワイ経由ロスアンジェルスについた。
当時ロスアンジェルスの東LA市役所の近くにある「リトル東京」にある日本食レストラン「栄菊」に勤めていたボイルハイツの妹のアパートに転がり込んだ。
どうしてマンザナなのかを思い出すとアンセルアダムスの写真集「ヨセミテ」からか、それとも篠山紀信の写真集「デスバレー」から影響されたのは確かなようだ。

ウィリアムソン山を背景に農作業を行う収容者。(アンセル・アダムズによる写真)
宮武東洋(みやたけとうよう)がマンザナ収容所にて撮影した記録により内部の生活が明らかになった。
--------------香川県のHPよりコピー(感謝)
官武東洋男は1895(明治28)年、香川県仲多度郡満濃町公文で生れ、幼時を善通寺市で過した。先にアメリカへ出かせぎに出ていた父に呼び寄せられて一家が渡米したのは1909年、東洋は高等科4年に在学中の時であった。母、兄、弟と東洋男の四人は日本郵船・丹後丸で神戸からシアトルヘ向った。上陸先をシアトルにしたのは「移民の取扱いが、サンフランシスコよりシアトルの方がよほど寛大だから」という父のアドバイスに従ったからである。
 一家はロスアンゼルスの、当時のチャイナタウンで父が経営していた菓子屋「松風堂」うらの住宅におちついたが、程なく店とともに下町のジャクソン街に移った。東洋男ら三人の兄弟はアメーリアストリート・グラマースクールへ入学した。初日に校長から名前を訊かれて答えると、「東洋男では長すぎるからトーヨーにしたら」と校長は言い、彼は「よろしけれは……」と答えた。以来、自らも東洋を名乗るようになった。
 当時のロスアンゼルスでは東一街とサンビドロ街、それからジャクソソ街周辺に、いわゆる日本人町が出来上っていたのである。
 父に呼び寄せられたアメリカで、どんな職業で身を立てたらよいか - 捜し求めるうちに2年が過ぎた。その間、東洋はフレスノの日本人経営の農園でブドウ摘みのアルバイトをして稼いだ。

ロスアンゼルスに帰って、思い屈しながら荷を歩いているとき、突然、脳裡にひらめくものがあり、東洋は思わずひとりごとに、「オレは写真屋になるんだ」。
 のちになって彼は写真師になった遠因をこのように語っている。「私は小学生時代から絵が好きで、将来は画家になりたいという淡い夢を抱いていたが、母に猛反対された。絵かきではメシが喰えない、というのが反対の理由だった」。絵から写真 - の連想が一瞬のうちに働いたのであろうか。

数分後、東洋は街頭で親しい友人に出会い、早速胸のうちを打明けると、その友人は「それはまったく君の素質に合っている。向う(道の反対側に見えるトモエホテルを指して)の二階でハリー重田さんが写真館を開いていて、写真術講習のクラスもある。重田さんに会ってみたらどうか」と言ってくれた。東洋はその足で重田氏に会って希望を述べ、講習会に入れてもらうことになった。

ハリー重田はその後、シカゴに移り、ライトと共同で「シゲタ・ライト・フォトスタジオ」という大きなスタジオを開いて成功した。重田の考案した商業写真の方式は全世界に拡がっている。

「東洋スタジオ 」
1923年9月、28歳の東洋は東一街にあった、その名も「東洋写真館」を譲りうけて一城の主となった。買いとったのが自分の名前と同じ名称の写真館だったのはまったくの偶然だったが、それも幸運のしるしのように、東洋は感じたことだろう。その前年の1922年、彼はひろ子と結婚、1924年には長男アーチー淳文が誕生している。順風満帆であった。

東洋は、グレンデールでスタジオを開いていた、当時、世界的に有名な写真家、エドワード・ウェストンと親交を結び、彼の指導を受けて写真技術の向上につとめた。1924年ロスアンゼルスの日系人が集まって開かれた初の芸術写真展で一等賞を得たのも、この精進の現われであった。舞踏家として著名だった伊藤道郎が、かけ出しの写真家である東洋をハリウッドの有名人に紹介してくれたことも幸いした。1926年、ロンドン万国写真展に出品して入賞、全米各地で開かれる芸術写真展にも度々入賞するなど、東洋の写真家としての評価はおおいに上った。

しかし、盛業に反して宮武一家の経済的状況は若しかった。東洋の経済感覚はゼロに近かったのである。夫人ひろ子の苦労は絶えなかった。

1932年に開かれたロスアンゼルスオリンピック大会では競技の写真撮影に当っただけでなく、自費を投じて朝日新聞社の報道写真の日本直送の便宜をはかり、大いに感謝された。この年、母とともに日本へ帰っていた父の病が篤くなった。東洋夫妻は長男と次男バービーを連れて帰国する決心をした。しかし、帰国の旅費もない。彼は羅府新報社長の駒井豊策や三好峰人らの助力を得て写真展を開き、どうやら族費に足りる収入を得た。しかし、洋上の浅間丸で、一家は「父病急変他界」の報せを受けたのであった。一家の日本滞在は一年で終った。故郷で写真館を開いて暮そうという東洋の望みは実現しなかった。東洋はとりあえず妻子を残して、再びロスアンゼルスへ戻った。ロスアンゼルスを永住の地と心に決めたのはこの時である。
 ちょうどセントラル街角に空店があったのを借り、しまいこんでおいた機材を取り出して「東洋官武スタジオ」は再スタートを切った。こんどの店は地の利にも恵まれて繁昌した。伊藤道郎が主宰する舞踏団がハリウッド・ボウルに出演して絶讃を博したのもこの頃である。この公演の指揮者として日本から招かれたのが近衛秀麿である。東洋と近衛との親交はこの時から始まった。伊藤道郎の依頼で公演の写真撮影を引受けたことも、東洋の商売にとって益するところ小さくなかった。

「禁制のカメラとラジオ 」

マンザナーでの日々を漫然と過ごすことに、東洋は耐えられなかった。彼はこれまでの多忙にまぎれての勉強不足を取り戻そうと、とりあえず「ブック・オブ・ザ・マンス」クラブの会員となり、送られてくるベストセラーを次から次へとむさぼり読んだ。
 収容所では、当局の方針で各自に適した仕事が割りふられた。東洋は教育部管轄の博物館の、美術部助手というものになり、月給19ドルを支給されることになった。キャンプ内の最高給ということだった。

マンザナーでの思い出を、のちに東洋が語ったことのひとつに、次のようなことがある。
「私は禁制品のラジオを持ち込んでいたが、ある日、友人がやってきて日本からの短波放送が聴けるように改造できる」といって持ち去った。数日後、返してもらうと、何と、日本から放送されている戦況がハッキリと聞こえる。
妻のひろ子は毎晩のようにそれをノートし、それを所内の物識りが整理して所内の各所に配る。所内だけでなく、各地に散在する10カ所のキャンプにも配られるようになった。
この事がやがてマンザナーのメリット所長の耳に入ったが、彼は『日本人である以上、日本勝ったのニュースを信じ、喜ぶのは当然だ』と平然としていたという。私はメリット所長の太ッ腹と見識に感心させられた」。

カメラももとより持込み禁止品だった。にもかかわらず、東洋の撮影は大目に見られたことについては、彼は次のように語っている。
「マンザナ一書察署長はウィリアムという人で、この人はたまたまエドワード・ウエストソのスタジオの常連で、写真術の歴史に詳しかった。そういう縁でウィリアム署長は私に好感を持っていて、禁止品のカメラで撮影することを暗黙のうちに許してくれたのだろう。キャンプの最高地位にあるメリット氏と法的取締の最高兼任者だったウィリアム氏の二人が私の違反行為に寛大だったのほ、彼らがいわゆる親日家で知日家でもあったことに因るように思える」。

「さらばマンザナ一 」
例の日本からの短波放送が、8月15日午前8時に重大声明があることを伝えた。友人数名とラジオの前に待機したが何事もない。10分ほどしてアメリカの放送が日本の降伏を伝えた。「ある者は声をあげて男泣きに泣き、ある者は声を殺して暗涙にむせんだ」と東洋は語っている。

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エドワード・ウェストン(Edward Weston、1886年3月24日 - 1958年1月1日)はアメリカの写真家で、グループf/64の創設メンバー。彼の写真は、ほとんど8X10インチの木製大判カメラ(ビュー・カメラ)で撮られている。
エドワード・ウェストンは1886年にイリノイ州ハイランド・パークに生まれた。1902年、彼は16歳の誕生日に初めてのカメラ(コダック・ブルズアイ#2)をもらい、シカゴの公園や伯母の農場で写真を撮り始めた。その1年後、1903年にはシカゴ・アート・インスティテュート(シカゴ美術館)で作品が展示され、10代の少年としては異例の成功を収めた。
1906年、ウェストンはカリフォルニア州に移り、そこにとどまり肖像写真家としての道を追求することを決意する。彼は最初の妻、フローラ・メイ・チャンドラーと1909年に結婚し、4人の息子をもうけた。1911年、ウェストンは最初のスタジオをカリフォルニア州トロピコ(ロサンゼルス近郊、現在のグレンデール市)に開設し、慣習に当てはまらない彼の肖像写真の方法論を発行部数の多い雑誌複数に執筆した。
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グループf/64(英: Group f/64)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州(主としてサンフランシスコ)において、ストレートフォトグラフィの実践を標榜した写真家のグループ。アルフレッド・スティーグリッツの影響を強く受けて1932年に結成され、1935年まで存続した。
結成当初のメンバーは

アンセル・アダムス(Ansel Easton Adams)
イモージン・カニンガム(Imogen Cunningham)
ジョン・ポール・エドワーズ(John Paul Edwards)
コンスエロ・カナガ(Consuelo Kanaga)
ヘンリー・スウィフト(Henry Swift)
ソニア・ノスコイアック(Sonya Noskowiak)
ウィラード・ファン・ダイク(Willard Van Dyke)
エドワード・ウェストン(Edward Weston)
である。 メンバーの中でも特にアダムスとウエストンはストレートフォトグラフィの普及において後世へ決定的な影響を与えている。
グループ名の由来は、大判カメラにおいて最もシャープな像を得られるレンズの絞りの値である。このことは、ソフトフォーカスをその基本的な特徴とする従来のピクトリアリスム(絵画的写真)を捨て、より焦点のはっきりした鮮明なストレートフォトグラフィを目指すという、グループの方向性・強い希望を明確に示している。
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アンセルアダムスは1902年、カリフォルニア州のサンフランシスコで生まれた。4歳でサンフランシスコ地震に被災して鼻の骨を折り、鼻が左に曲がったままになった。画一的な学校教育にあわず、12歳で学校を飛び出した。ピアニストになる夢を持っていたが、ポール・ストランドのネガを見て写真に興味を持った。彼は長い間、生涯の仕事としてピアニストになるか写真家になるか迷っていた。ヨセミテにて、後に妻となるバージニア・ベストと出会った。
 17歳の時、自然保護団体シエラクラブに入会し、妻と共に一生涯会員であった。若い頃は熱心な登山家として毎年恒例の高山登山に参加、シエラネバダ山脈の登山を行った。1927年にハーフ・ドームを撮影し、彼自身写真を(彼自身の言葉によるところの)「実在の、厳格で燃えるような詩」として撮影できることを実感した。その後、環境保護主義を唱え、彼の作品は人の手が入る前のアメリカの国立公園の記録として、シエラクラブの活動を支え、環境問題への注目のきっかけとなった。

第二次世界大戦中は内務省のために記録写真の撮影に取り組んだ。しかし、アダムスは真珠湾攻撃後の日系人抑留にショックを受け、ウィリアムソン山を含むシエラネバダ山脈のふもとにあるカリフォルニア州オーエンズヴァレーのマンザナール強制収容所への訪問を行った。その後制作したフォトエッセーはニューヨーク近代美術館で「カリフォルニア州インヨー郡マンザナール強制収容所の忠誠心ある日系アメリカ人 (Photographs of the loyal Japanese-Americans at Manzanar Relocation Center, Inyo County, California)」として発表した。

地図を見ての通りカリフォルニア州最大の日系人の町ロスアンジェルス「リトル東京」から強制収用されるために、砂漠の中に建てられた「収容所」に向かった。
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アメリカ国内における全ての強制収容所は人里離れた内陸部、その多くは砂漠地帯に設けられていた。しかも、逃亡者を防ぐために有刺鉄線のフェンスで外部と完全に隔てられている上、警備員の銃口は常に収容所内部に向けられていた。
マンザナー、カリフォルニア州(Manzanar、1942年6月開設)
ツール・レイク、カリフォルニア州(Tule Lake、1942年5月開設)
ポストン、アリゾナ州(Poston、1942年5月開設)
ヒラ・リバー、アリゾナ州(Gila River、1942年7月開設)
ハート・マウンテン、ワイオミング州(Heart Mountain、1942年8月開設)
ミニドカ、アイダホ州(Minidoka、1942年8月開設)
トパーズ、ユタ州(Topaz、1942年9月開設)
ローワー、アーカンソー州(Rohwer、1942年9月開設)
ジェローム、アーカンソー州(Jerome、1942年10月開設)
アマチ、コロラド州(Amache、1942年8月開設)
クリスタル・シティー、テキサス州(Crystal City、1942年11月開設/司法省が管轄する拘置所)

全米に分散された収容施設等)
結果的に敵国としての扱いは日系人だけに対するものであった。
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【フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、日系人人口が多いハワイにおける日本側の情報活動に危機感を抱き、1936年に作戦部長にあてられた覚書で「わたしに明確な考えが浮かんだ。日本の船舶と乗組員に接触するオアフ島の日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際して強制収容所に最初に送り込む特別リストに氏名を記載しておくべきだ」と提案している。

その後、1937年7月に行われた大日本帝国陸軍による中華民国への軍事行動に対する通商航海条約の継続停止措置。1940年9月に行われたフランス領インドシナ北部への進駐に対するアメリカ国内の日本人資産の凍結と貿易制限。さらに1941年7月に行われたフランス領インドシナ南部への進駐に対する8月1日の大日本帝国への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度を増した。日米間における開戦が危惧される中、同年11月にアメリカ政府は国内に在住する日系アメリカ人および日本人名簿の作成を完了した。

真珠湾攻撃その後アメリカが12月8日(アメリカ時間では12月7日)に大日本帝国海軍(以下日本海軍)艦隊によって行われた真珠湾攻撃をきっかけに、日本や日本を追ってアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツ、イタリアなどの枢軸国と戦争状態に入った後、アメリカ政府はアメリカ本土及び友好国がその大半を占める中南米諸国に住む、枢軸国の国家をルーツに持つ日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」としての監視の目を向けることになった。

なお、開戦前にフランクリン・D・ルーズベルト大統領の命により日系アメリカ人および日本人の忠誠度を調査したカーティス・B・マンソンは「90パーセント以上の日系二世は合衆国に対して忠誠であり、日系人より共産主義者の方が危険である」と報告していた。
 ドイツ海軍の潜水艦「Uボート」によりアメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾沿岸からアメリカ国内に送られたスパイへの、ドイツ系アメリカ人による支援に対する疑いなど、大戦中を通じてドイツやイタリア系アメリカ人にも複数見られた。】

【この法令は「すべての敵性外国人に向けたもの」であるとされ、実際に、施行当初においてアメリカ国内で一時的に強制収容された半数近くは日米間の開戦直後にアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツやイタリア系の移民とその子孫であった。さらにアメリカが経済的・政治的に大きな影響力を持っていたメキシコやペルー、コロンビアなどの中南米諸国でも、日系人のみならず、ドイツ系やイタリア系のユダヤ系を含む移民とその子孫が一時的に強制収容された。

アメリカ国内においては、この行政令が、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイ地域に住み、市民権が与えられない(あるいは剥奪された)日本人、アメリカ国籍を持つ移民一世と、その子孫で日本人の血が16分の1以上混ざっている日系アメリカ人達の強制立ち退きと「戦時転住センター」への強制収容に発展した。従軍中の日系人は収容こそされなかったが、除隊され敵性外国人とみなされたり、軍隊内で差別を受けるなど憂き目を見た。
 在米ナチス党員(傘下のアメリカ・ナチス党党員を含む)やファシスト党員など本国政府との結びつきが強く、スパイ行為やテロなどの破壊行為などに携わる可能性が高いと思われるもの以外の殆どのドイツ系やイタリア系移民とその子孫は釈放されたものの、日系移民についてはその多くが釈放されないままであった だけでなく、その後の財産の放棄や、強制収容所への収容を行われることとなる。】・・以上ウィッキより


442連隊
【1942年6月に、在ハワイの日系二世の陸軍将兵、約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られた。同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、第100歩兵大隊(100th infantry battalion)と命名される。大隊長以下三人の幹部は白人だったが、その他の士官と兵員は日系アメリカ人で占められていた。ここで部隊は訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐する。これ以前にも、既に3,500人の日系人がアメリカ軍でさまざまな任務に当たっていた。
1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた。部隊名は第442連隊であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは2,600人、アメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊した。本土の強制収容所からの入隊者が少ないのは、その強制収容所における親日派・親米派の対立や境遇が影響していたが、ハワイではまるで事情が違い、募集定員1,500人の6倍以上が志願したため、定員が1,000人増やされた。なお、徴兵年齢(18-39才男性)の日系人人口は、ハワイで23,000人強、本土では25,000人程度で大差はなかった。
編成当初、背景事情の違いから本土出身とハワイ出身者の対立は深刻で、ハワイ出身者は本土出身者を「コトンク(空っぽ頭)」、自分たちを「ブッダヘッド(刈上げ髪を揶揄した言葉、もしくは釈迦の頭)」と呼んで互いに嫌いあい、第100大隊の兵士も加わった暴力沙汰もあった。
 そこで上層部は、双方の対立を解消すべく、ハワイ出身者に本土の強制収容所を見学させることした。彼らは当初「自分達と同年代の女の子達に会える」と喜んでいたものの、有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の現状を目の当たりにして、如何に本土出身者が辛い状況に置かれているかを知り、対立は解消されることとなった。
 日系人部隊の合言葉であった"Go for broke!"(「当たって砕けろ!」、「死力を尽くせ!」、「撃ちてし止まん」)は、元来は有り金すべてをつぎ込むことを意味するハワイ(ハワイの移民プランテーションでは、賭博が盛んに行われていた)のギャンブル用語であり、ピジン英語である。
第442連隊戦闘団( 英: 442nd Regimental Combat Team)は、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国陸軍において日系アメリカ人のみで編成された部隊。ただし士官はその限りではない。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が雄弁に物語っている。さらにアメリカ合衆国の歴史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊としても有名
ダッハウ収容所は1945年4月29日にアメリカ第7軍第42歩兵師団により解放されたということになっていたが、場所や存在は知られていなかった。
実際には日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊が収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていたが、このことは戦後しばらく隠された。】・・以上ウィッキより
ジミーヒラサキの長男マナビヒラサキは1923年3月3日にカリフォルニア州サンノゼにて生れた。
ジミーヒラサキが14才で熊本からアメリカに移民で来てから、22才で帰り嫁さんと一緒にアメリカに移住してから生れた子であった。マナビはギルロイ高校卒業し、カリフォルニア州立大学デイビス校入学した。真珠湾攻撃後のアメリカ国内にいる日本人その子供達には収容所にはいるように連邦政府から強制的に収容された。マナビも両親とともにコロラド州アマチ収容所に入った。そこからアメリカの兵士として志願し陸軍に入り1943年から1946年まで入隊した。
ヒラサキの入ったのは第522連隊砲兵大隊通信部に所属した。ヨーロッパ戦線に出兵した。
いわゆる「二世部隊」である。マナビと彼ら522部隊はヒットラーの生家の近くやベヒテスガーデンにあるところまで攻め駐屯した。

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Manabi Hirasaki
522nd Field Artillery Battalion
Manabi Hirasaki was born and raised in San Jose, CA on March 3, 1923. Hirasaki graduated from Gilroy High School and later attended University of California at Davis. During his college years, he was forcibly removed to the Amache, Colorado camp where he eventually volunteered to join the military from 1943-1946.
Hirasaki joined the 522nd C Battery and assisted with communications, wire section, and radio. Later in the war, he and his unit were stationed in the area of Berchtesgaden, near Hitler's hometown.
He currently lives in Camarillo, CA and has two children
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$田子のぐだめぎ(愚駄目技)

Aerial Photo of Granada Center from the Water Tower - Granada Relocation Center, Amache, Colorado. Photo by Joe McClelland , 6/20/1943

The following is a presentation of records in the custody of the Colorado State Archives that document the Japanese Internment Camp at Granada, Colorado. These documents, publications and photographs come from several collections at the Archives. The Governor’s collection contains the official acts of Governor Ralph L. Carr, his correspondence with individuals and groups concerning the war and the Japanese, and many speeches that he gave. The Governor’s Council of Defense collection documents all aspects of World War II and is quite extensive. Many publications and photographs originate with this collection. We also have information from the war governor John C. Vivian, who followed Carr in 1943, but since we have been unable to research his collection in depth we are not including documents from his administration in this presentation.

In addition to the governors’ collections we also have information from various agencies. We include an Abstract of Votes from the 1944 General Election and excerpts from a report from the Department of Education, Superintendent of the Amache schools which documents the school system, the adult education available at Amache as well as many other aspects of camp life. There are undoubtedly additional agencies such as the Colorado Department of Labor and the Department of Agriculture for which we have records. We have also presented Liley Havey’s collection of watercolors that she graciously let us use on our site as well as photographs from our collections which include donations from the Optimists Club and Elaine Wischnowsky whose mother taught at the Amache school. As with any primary source, these materials may show the bias of the author. In order to balance your research you may wish to find more resources especially from the point of view of the Amache internees.
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ベルヒテスガーデンの近郊の山腹オーバーザルツベルクは1920年代にナチス党によって買収されてから、ナチス最高幹部用のリゾート地兼、軍事拠点としての様相を帯び始める。 のちにベルクホーフと呼ばれることになるヒトラーの別荘を中心に、菜食主義者のヒトラーのために菜園が、ヘルマン・ゲーリング、マルティン・ボルマンのために別荘が、ベルヒテスガーデンを警護する武装親衛隊のために宿舎が、他にも発電所や燃料庫、弾薬庫、果ては幼稚園までが建造された。 ベルヒテスガーデンの山腹にはこれらの施設と連絡するために地下トンネルが多く掘られていて、現在でもコンクリート製の警備用シェルターの残骸や、地下トンネルの廃墟を見ることができる。
世界一周した寛平さんも寄っています。アマチ収容所跡地です。
第2次大戦以前「ガーリックキング」として呼ばれたジミーことキヨシヒラサキはヨネミツハルエとの間に8人の子供ができた。長男のマナビ(manabi)1923年サンノゼで生れた。その息子マナビヒラサキ氏は現在81歳、カリフォルニア日系人の間で著名な人物である。
その彼のことを発見した。ガーリックキングの息子さんの物語も語り継がないとギルロイの交流に欠けたものになる。
ギルロイ市と田子町が姉妹都市締結したのは1988年であった。
そのギルロイ市の博物館にてヒラサキ氏の情報を得たのは同時期の頃の20年以上前であった。
 昨年2010年がジョン万次郎がアメリカに渡ってから150年記念としてサンフランシスコにて祝賀記念を開催した。
 ギルロイとの交流を続けてきたわけであるが、初心に立ち返って日米間ギルロイ田子間の交流を掘り下げてみようと思い歴史を調べていると、『縁』が浮かび上がってくる
現在日本で「熊本生まれ、北米移民、成功者、ガーリックキング、ギルロイ」とパソコン上で検索しても、どれも出てこない。最初は熊本県にでもメールを出してみようかと思ったけど、結局個人の情報云々で返ってこないことは、この町での前例があるので、期待しても「がっかり」することが多いので、今回もあきらめ「パソコン検索エンジン」をフルの活用することにした。
 そこで知られていない「ガーリックキング」ユーチューブの動画にて発見した。


1941年に起きた日本による真珠湾攻撃から後に、ジミーヒラサキの身分は日系人社会のリーダーとして、FBI(Federal Bureau of Investigation)米連邦捜査局によって検挙された。それは国家安全に対しての「脅迫」の可能性ありとの罪であった。
1942年2月彼は司法省管理のノースダコタ州ビスマックにある抑留キャンプに送られた。(ここにはドイツ系ラテン系日系の「危険人物」とみられたものたちが収容されていた。)
また西部防衛指令部によって、ギルロイ地区から一番にジミーの妻や子供達はコロラド州グランドジャンクションに強制疎開させられ家族が分かれてしまった。(その後禁が解かれ一番先にギルロイに帰ってきた)

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After Pearl Harbor, Hirasaki's status as a leader of the Japanese-American community made him among the first rounded up by the FBI as a potential "threat" to national security. In February 1942, he was sent to the U.S. Justice Department's internment camp in Bismarck, N.D. His wife and children were forced to evacuate to Grand Junction, Colo.
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On February 14, 1942, Western Defense Command sent a memorandum to Secretary of War Henry Stimson recommending that "Japanese and other subversive elements" be removed from the West Coast region. This led President Franklin D. Roosevelt to issue Executive Order 9066 on February 19, which gave U.S. military commanders the authority to designate "military areas" and to then exclude any or all people from them. On March 2, 1942 General DeWitt issued a proclamation that designated the western halves of Washington, Oregon and California, and the southern third of Arizona to be military areas from which Americans of Japanese ancestry would be excluded. Americans of German and Italian ancestry were also affected by restrictions and in some cases internment.
February 14, 1942: The U. S. Army’s Western Defense Command sends a memorandum to the Secretary of War recommending the evacuation of “Japanese and other subversive persons” from the Pacific Coast area. February 19, 1942: President Franklin D. Roosevelt issues Executive Order 9066, which empowers the Secretary of War or any military commander authorized by him to designate “military areas” and exclude “any and all persons” from them. Shortly before signing the Executive Order, the President received a memorandum from his advisers which said, “In time of national peril, any reasonable doubt must be resolved in favor of action to preserve the national safety, not for the purpose of punishing those whose liberty may be temporarily affected by such action, but for the purpose of protecting the freedom of the nation, which may be long impaired, if not permanently lost, by nonaction.”
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(photo)In evacuation the Kiyoshi (Jimmy) Hirasaki family was first to leave the Western Defense Command from the Gilroy Section. After the lifting of the ban the family was again first--first to return to Gilroy. Jimmy farms 550 acres of vegetable land at Route 1, Box 156-F, Gilroy. Shown here are Jimmy standing with Fumiko, Midori and Mineko, seated left to right. During evacuation the Hirasakis contributed to the war effort by growing food at Grand Junction, Colorado. Now the entire family is back in California except Manabi, the 22 year old son who is overseas in the army. At the beautiful Hirasaki home are Mr. and Mrs. Hirasaki, Mineko, Fumiko, Aiko, Hisashi, Shinobu, and Midori. Michiko is a freshman at the University of California, Berkeley. -- Photographer: Iwasaki, Hikaru -- Gilroy, California. 7/15/45
Contributing Institution:
The Bancroft Library. University of California, Berkeley.
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JUSTICE DEPARTMENT INTERNMENT CAMPS
27 U.S. Department of Justice Camps (most at Crystal City, Texas, but also Seagoville, Texas; Kooskia, Idaho; Santa Fe, NM; and Ft. Missoula, Montana) were used to incarcerate 2,260 "dangerous persons" of Japanese ancestry taken from 12 Latin American countries by the US State and Justice Departments. Approximately 1,800 were Japanese Peruvians. The U.S. government wanted them as bargaining chips for potential hostage exchanges with Japan, and actually did use. After the war, 1400 were prevented from returning to their former country, Peru. Over 900 Japanese Peruvians were deported to Japan. 300 fought it in the courts and were allowed to settle in Seabrook, NJ. Santa Fe, NM
Bismarck, ND Crystal City, TX
Missoula, MT  Seagoville, Texas Kooskia, Idaho
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「当時のFBIフーヴァー長官はは人種差別主義者として有名であり、当時のFBIの捜査官に有色人種をほとんど起用しなかった」

1939年(昭和十四年)「ガーリックキング」と呼ばれたジミーヒラサキは財を成しギルロイに宝物として建物を持ってきた。その年サンフランシスコで開催されたゴールデンゲイト国際博覧会の「宝の島」アトラクション展示として日本建築の家が出展されていた。
ジミーヒラサキは「ワールドフェア」の終了によって取り壊され「ごみため」になる運命の建物を購入し、6人の大工によってギルロイの農場に移築した。
その移築された日本風の建物にサカイさん(ジミーヒラサキの娘さんの婿)の家族が住んでいた。
そしてギルロイの歴史的建造物として保存されていた。
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In 1939, the Garlic King's wealth allowed him to bring an architectural treasure to Gilroy. That year, the Golden Gate International Exposition on San Francisco Bay's Treasure Island displayed an attractive Japanese Pavilion. Instead of seeing it go into the scrap-heap after the world's fair, Hirasaki purchased it. Six carpenters reassembled it on his Gilroy farm. The Sakais now live in this home, which is listed as a historic site.
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$田子のぐだめぎ(愚駄目技)

1929年にアメリカ発で起こった「世界大恐慌」の波はギルロイにも来た。しかしジミーヒラサキはギルロイに住んでいる、たくさんの仲間達のために仕事を与えた。トニーシルヴァとジョージホワイトはギルロイ市会議員になるずっと前から彼のためにトラックを運転していた。
ジミーヒラサキは時には自前の農場で出来たニンジンやトマトやセロリをエリオット学校にて子供達に分け与えていた。アメリカ1930年代は皆が苦しい時であった。

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【狂騒の1920年代と呼ばれる社会と社会的変動は北アメリカに始まり、第一次世界大戦後にヨーロッパに広がった。ヨーロッパはこの時代、大戦からの再建と莫大な人的損失に折り合いをつけることで費やされていた。アメリカ合衆国の経済はヨーロッパの経済との結び付きが強くなっていった。ドイツがもはや賠償金を払えなくなった時、ウォール街はアメリカの大量生産商品の大消費市場としてヨーロッパ経済が流動しておくようにヨーロッパの負債に大きな投資を行った。この10年間の半ばまでに、経済発展はヨーロッパで急上昇し、ドイツ(ヴァイマル共和政)、イギリスおよびフランスで激発し、20年代後半は黄金の20年代(Golden Twenties)と呼ばれるようになった。フランスやカナダのフランス語圏では années folles(狂気の時代)とも呼ばれている。

狂騒の20年代の精神は、現代性に関わる不連続性、すなわち伝統の破壊という一般的な感覚が特徴である。あらゆるものが現代技術を通じて実現可能に思われた。特に自動車、映画およびラジオのような新技術が、大衆の大半に「現代性」を植えつけた。形式的で装飾的で余分なものは実用性のために落とされ、建築や日常生活の面に及んだ。同時に、まだ大衆の心に残っていた第一次世界大戦の恐怖への反動として、娯楽、面白みおよび軽快さがジャズやダンスに取り込まれた。そのためこの時代はジャズ・エイジと呼ばれることもある。
第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。】
移民法
アメリカの1924年移民法では、1890年国勢調査でのアメリカ合衆国全人口の2%がある国からの移民である場合に、その国からの新たな移民を制限した(アフリカ系アメリカ人は除く)。このために、20世紀初めの20年間にアメリカにやってきたヨーロッパ人の大量流入は大幅に減少した。アジア人やインド国籍を持つ者は移民を禁じられた。1913年にカリフォルニア州で成立したウェブ・ヘイニー法の様な外国人土地法は、アメリカ合衆国の市民権を得る権利のない外国人にはカリフォルニア州の土地を所有する権利が無いとした(アメリカ合衆国が支配していたフィリピン人は除外された)。これはまた、上記の外国人に土地を賃貸する場合も最長3年間に制限した。多くの日本人移民すなわち日系1世は、アメリカ生まれの子供達すなわち誕生と同時にアメリカ市民となった2世に土地の所有権を移すことでこの法を回避した。他にも11州が同様な法を成立させた。
 カナダでは、1923年中国人移民法で、アジアからのほとんど全ての移民を制限した。その他にも南欧や東欧からの移民を制限する法を作った。日米紳士協約では日本人移民が国内に入ることを妨げる権利をアメリカに与えた。】・・・以上ウィッキより
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During the Great Depression, Hirasaki helped out many of his fellow Gilroy residents by providing jobs. Tony Silva and George White, long before becoming city council members, drove trucks for him. And Hirasaki often took farm-grown produce such as carrots and tomatoes and celery to help feed children at Eliot School during the hard times of the 1930s.
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