田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan -27ページ目

田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

Who You are I
こんな言葉が中国語では
福 原 愛 を中国語北京標準台湾標準では、このように聞こえる。
『萬日記』より。
慶応四年正月二十三日雪天
 鳥羽伏見の戦のこと
二月一三日風
 今日右金五百両持参 御代官非番太田七蔵盛岡へ出立の事
二月二九日晴天
 昨二八日御官所より八郎宛呼出書状参り、今日御官所へ出頭
 当勤御代官今渕直之丞より御達
 此の度会津為御征伐応援被蒙仰候に付
 魁御遣方有之出府仰付候間来月五日此の元出立可致旨
三月三日晴天
 御代官より出立の節は御上り御届可有候、尚以甲冑並鉄砲槍持参に及不申役々により
 御渡被成由の旨申来る
 差出人数十八人程被仰付、五日立二十四人に相成候事

慶応四年戊辰三月七日雨雪
 昨六日は大雪降る。今日七日十六人出立 此の度出兵人数計四〇人。
左の如し
田中館熊太  工藤愛之助  川村隆蔵  梅内良太郎  金田一太治馬
米田左平太  佐藤内蔵太  貝守求馬  赤石藤五郎  佐藤達之助
馬場勝馬    石井順蔵   大向九郎治 堀内順平   釜渕平馬
梅内犬次郎  江刺家其太  梅内勝馬  泉山金太郎  泉山哲蔵
堀内茂平太  梅内多喜太  和田左司馬 田中館勇吾  滝沢長六
小笠原勇治  松尾民太   冨田善作   関 昇平   村井五次郎
飯堂理兵太  石井八郎   田中館寛蔵  工藤金吾  福田忠吉 
松尾官助   玉懸石蔵   石ケ守專左衛門  釜渕安衛 一戸善一郎

道中壱人に御伝馬壱疋宛被下
昼泊賄切手差置 一戸沼宮内泊にて出府の事
※西暦1868年3月30日の事

以下ウィッキより
鳥羽・伏見の戦い 慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦いである。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。
 
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する
慶応四年三月七日雨雪と「萬日記」よろずにっき・・にある。
西暦1868年3月30日であった。
今から148年前の三戸御給人の石井久左衛門(友司)
とその子八郎(久太郎)が二代にわたり、天保十四年(1843)から大正八年(1919)の76年間に記録された日記である。

ギルロイ市メインストリートにあるグラフェティには、ジミーヒラサキの名前があります。熊本から移民でアメリカに渡り、アメリカにて「ガーリックキング」と呼ばれた平崎さん。

「羅府新報」の発刊は1903年である。日本人社会が安定した結果生れたものである。
日系人の方々から話を聞くと、1940年当時最大の発行部数を誇っていたアメリカの地元紙LAタイムズなどが、日本に対して徹底的に叩くキャンペーンをはり、アメリカ生まれであるのに、「日系社会」に対して攻撃したことの思い出として「いいことではなかった」と語ってくれた。この日本人日系人東洋人に対しての反発はずうっと以前から続いていたものであるが、アメリカの移民の歴史のなかで繰り返されたことである。

アメリカでは日本から来た県人同士の結びつきがあり、沖縄、和歌山、鹿児島、広島、山口、熊本、福岡などすべて東京より以南の県人会が数千人規模で会合を開いていた。
では青森県人会はいつできたのかというと約38年ぐらい前で、初代会長を南郷村出身の長根氏にして設立した。当時LAの南にガーディナ市があり、日本人日系人が多く暮らしていて、日系の商店街スーパー等ありリトル東京とともの栄えていた、長根氏はその大きなレストランのオーナーであった。私も青森県人会設立に関係し、初のアメリカ青森県人会を発足させた。全米から30名ほど集まった。その「青森県人会の設立」を羅府新報に載せた。


ロスアンジェルスの日本語の新聞社である「羅府新報」