田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan -29ページ目

田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。


熊本生まれのジミーヒラサキがギルロイにて栽培取り組んだ「香りの良い作物」がアメリカ中に広まった。
1930年代、カーボーイスタイルのコメディアン、ウィルロジャースが旅行の途中にギルロイを通ることになって、刺激の強いニオイをかいだことによる。彼の契約している新聞雑誌連盟の新聞紙上のコラムに「ギルロイは物干し竿につるしたステーキが良く漬かるアメリカで唯一の場所である」と評した。

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【ウィルロジャースは1922年暮れに『投げ縄を滑らせて』と題する毎週のコラムを書き始めた。既に気の利いた言葉について本を出版しており、ユーモアのある本の流れが着実に始まっていた。1922年から1935年にかけて、マクノート・シンジケートのために一連のコラムを書き続けること、さらには自ら出演したりラジオ放送を通じることで、アメリカ大衆の愛情溢れる称賛を得、当時の問題や著名な人々、特に政治家をウィットに富んだ方法でからかっていた。党派に偏らない立場から文章を書いたので、大統領の友人や偉人に信頼される人になった。冷静な思考と暖かい人柄で愛され、アートマス・ウォードやマーク・トウェインの後継者と考えられることも多かった。ロジャースは観客の前で政治をユーモアで表現したことでは最初のエンタテナーではなかった。ブロードウェイのコメディアン、レイモンド・ヒッチコックやイギリスのハリー・ラウダー卿の方が数年先行していた。伝説的なボブ・ホープはロジャースの例に倣った最大の政治ユモリストである。
 1925年から1928年、ロジャースはアメリカ合衆国を長くまた幅広く「講演旅行」に出た(「ユーモリストは楽しませ、講演者は悩ませる」と指摘することでその講演を始めた)。この期間、初期の航空郵便を運ぶパイロットと共に海岸から海岸まで飛んだ初めての市民となった。ナショナル記者クラブはロジャースのことを「アメリカ合衆国の全州大使」と呼んだ。アメリカ合衆国からのゲストとしてチャールズ・リンドバーグと共にメキシコシティを訪問した。このときの駐メキシコ大使ドワイト・モローの娘アンが後にリンドバーグと結婚した。その後、ロジャースは多くの晩餐後スピーチを行い、人気のある集会演説者となり、洪水、干魃あるいは自身の犠牲者に数多い慈善を行った。1932年、ロジャースはアメリカ合衆国大統領選挙に出馬した】・・・以上ウィッキより
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Hirasaki's odoriferous crop even received national recognition in the 1930s when Will Rogers once traveled through town and breathed in the sharp stink. In his syndicated newspaper column, the cowboy comedian described Gilroy as "the only place in America where you can marinate a steak by hanging it on a clothesline."
$田子のぐだめぎ(愚駄目技)

歴史をみると、サンフランシスコより南の地域でサウスバレーと呼ばれるところで、最初に「にんにく」を植え付けしたのはイタリアからの移民(イタリア系アメリカ人)であった。
しかし、彼らが2分の1エーカーに栽培しただけであり、自分達のイタリア料理のために使うだけのもので、他に売るということではなかった。
しかし、ジミーヒラサキはこの地方では先駆者であり、このサウスバレーにおいて商業的に「にんにく」を植え付け収穫したのが最初であった。
1930年代の半ば頃には、ジミーは農業者にて大成功を収めた。彼は良き友人クラーセン氏が「ジェントリーフーズ」というにんにくの乾燥工場を立ち上げ、建てるための敷地として、自分の所有しているパキコパスハイウェイの沿道の土地の権利をクラーセン氏に売った。

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Historically, Italians in the South Valley were the first to grow garlic here. But they had done it on half-acre plots and for their own personal use. Hirasaki, however, was a local pioneer. He was the first to grow it commercially in the South Valley.
So successful did the farmer become that in the mid-1930s, he sold a portion of his property along Pacheco Pass Highway to Clausen to build the Gentry Foods dehydration plant.
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【1930年代のアメリカ西海岸地域といえば当時アメリカ経済の中心だった東海岸は天候が悪かった。当時の映画は、フィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影できなかった。電球などの照明はあったが、映画撮影を行うには十分な明るさを確保できなかった。そのため映画会社は、日が長く、地中海性気候のため夏にまばゆい太陽が輝くカリフォルニア州に次々に移っていった。また、まだ民族差別の激しかった時代の出演者やクリエイター達は、出自を偽ることが多かった。当時はまだ東海岸を中心にワスプがアメリカの支配層であり、イタリア系やユダヤ系などの真の出自を表に出してはスターにはなれなかったからである。
最初のハリウッドの映画スタジオは、1911年にネストール社が建てたものである。同じ年に、さらに15のスタジオが建てられた。】・・・以上ウィキより

ギルロイ市のHPより

現在日系人(ジャパニーズアメリカン)の歴史の本には、ヒラサキ氏の会話による「思い出集」が残されており、記録されている。
それによると、前述のジェントリーフーズ社のクローセン氏がヒラサキ青年に『にんにくは大変大きな商いになっている、どうして、もっと大きくやらないのか?ジミー』と聞いてきた。
ヒラサキ青年はジミーと呼ばれていたので、ジミーは『私の知っているのは種を植え付けることだけなんだ、にんにくを成長させることについては、何も知らないよ』と答えた。
商売人としてのクローセン氏は、ジミーが大変良い種を育てる農業人であることを賞賛していた。そこで『良い種を作れるのだから、良いにんにく栽培農家になれるよ』と助言した。
そこでジミーヒラサキはクローセン氏のいうとおりに、にんにくで利益をだすためには、もっと土地が必要となった。彼は最終的には1500エーカーもの土地を「にんにく畑」として使うことになった。
 どうしてクローセン氏がにんにく増産のアドバイスをしたかがわかるのは1920年代のアメリカの景気がどうであったかを知れば理解できる。
 特に重工業にシフトしたアメリカでは「農業従事者」に必要とされたのは、真面目に一生懸命働く日本からの移民たちであった。1864年のサンフランシスコ鉄道開通後サリナスやギルロイ周辺からの果樹や野菜の農産物を鉄道にてアメリカ東部に移出するためにサンノゼが発展。サンノゼはカリフォルニアで最初の州都となった。

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【アメリカの1920年代・・・狂騒の20年代は多岐にわたる新しい大衆消費財の導入で駆り立てられた大きな経済的繁栄の時代として捉えられるのがこれまでのやり方である。北アメリカ、特にアメリカ合衆国の経済は戦時経済から平和時の経済に移行し、その結果活況となった。アメリカ合衆国は世界で最も富める国としての立場を強化し、製造業は大量生産を行い、社会は大量消費時代に入った。一方第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパでは、1924年まで経済の繁栄は始まらなかった。
 この社会、経済および技術の進歩にも拘らず、アフリカ系アメリカ人、最近やってきた移民および農夫、さらには労働者階級の大半は、この期間の影響を大して受けなかった。事実、1家族1年あたり2,000ドルという貧困線以下で暮らす人々が何百万人もいた。
世界恐慌が1930年代と狂騒の20年代の概念との間に一線を引いている。狂騒の20年代を始めさせた第一次世界大戦後の希望に溢れた状態は、その後の時代の衰退する経済の困難さに道を譲った。

第一次世界大戦が終わると、兵士達は可処分所得を持ってアメリカ合衆国やカナダに復員し、市場にはそれを消費するための新製品が待っていた。最初は、戦時生産の減少で短期間だが深い不況が訪れた。これは第一次世界大戦後不況と呼ばれている。しかし、アメリカ合衆国とカナダの経済は、復員した兵士達が労働力として復帰し、工場が一新されて大衆消費財を生産するようになると直ぐに立ち直った。】・・以上ウィッキペディアより抜粋

そしてヒラサキ氏が「にんにく」とどのように関係して来たのかを探ってみる。
 1922年(大正11年)ヒラサキ青年は、ミリピタスとギルロイに800エーカーの農地をもっていたルイ・キンバリン農場で働いていたときに、現在のギルロイダウンタウンを通っているモンタレイストリートの東に当たるエルラーガス小川沿いの沼地とミラー沼地を開拓して、農産物栽培の植え付け収穫していた。
 22才になったヒラサキ青年は、他のたくさんの日本人移民たちのように、一生懸命に働き500エーカーの土地を手に入れて、この土地を農地に変えた。
 この当時の「にんにく」の植え付け収穫は、いわゆる「粗放農法」によって、主にカリフォルニアの南部にて生産されていた。
「ジェントリーフーズ」社の重役ジョージ・クローセン氏はヒラサキ青年と知り合いであり、その彼からギルロイにてにんにくの植え付け生産してみたら、と提案された。

(注:1エーカーは約40アールで約4反になる。)
(ミラー沼地: the Gilroy Planning Area bounded on the east by Monterey Street, the Miller Slough drainage channel on the west, and extending 1000 feet to the north and south of Welburn Avenue.
(キンブリン社:The Kimberlin Company--C. R., L. M. and J. L. Kimberlin--controls about 800 acres, the farms being in Milpitas and Gilroy. Like the other companies, the seeds grown have the whole world as a market.
(ジェントリー社)現McCormick & Companyになっているが、 Gentry Foodsはギルロイフーズに売却、その後Gilroy Foods of Gilroy, California became a wholly owned subsidiary in 1961.

現在にんにくの町として取り組んでいる田子町と姉妹都市締結しているアメリカ合衆国カリフォルニア州ギルロイ市は「世界のにんにくの首都」を宣言している。この姉妹都市には『にんにく』の縁にて交流を続けている。
 この「にんにく」という農産物がとりもった不思議な縁において「国際交流が成功」していることは、知られていない。そのためには歴史的なことから掘り下げていかないと、その「不思議な縁」は見えてこないので、これをたどることにした。
 画期的なT型フォードのベストセラーにて、好景気に沸くアメリカにおいて、世界中から「移民」を受け付けていた。
 欧州からの移民が増大する中、日本からも移民としてアメリカ大陸を目指したものたちがいた。
大正三年(1914)熊本県八代からヒラサキ・キヨシという若者が兄と父親とカリフォルニアについた。ヒラサキ青年は1900年(明治33年)2月29日生れの14歳。彼らはミリピタスというところで玉ねぎやにんじんの栽培に従事働いていた。
22歳になって一時期日本に帰って八代で子供の時からの許婚(婚約者)米満はるえという娘と結婚しアメリカで3人の息子5人の娘を育てた。