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田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

1974年の古い手帳のメモを頼りに思い起こす。

9月26日 御苑にてナンシー 「goro」、海援隊 「エレック」

9月27日 中野サンプラザにて「チューリップ」ヤングフォーク。

赤坂MSにて岡林信康レコーディングと書いてあった。事務所泊。
28日 10時には名古屋へ、巨人中日戦の長嶋茂雄を取材にいく。小学館がこの年に発売した「GORO」という写真グラビア雑誌にのせるために、10月に引退する長島さんを追っかけていた川仁忍さんの助手で、多岐な取材にて非常に忙しい毎日だった。名古屋に3泊。巨人X中日戦。

川仁さん撮影の長島茂雄の後ろ姿がGOROに載った。
 カメラマンをめざしていたので、すべてが勉強であった。「GORO」からは「激写」という言葉も生れた。

10月5日 チューリップをヤングタウン東京TBSにて。これは川仁さんが行ってこい、と。名古屋から来たというファン2人が泊るところがないらしく、事務所に。いま思えば、やばい感じ。

6日 「趣味と園芸」の撮影。午後には東名高速で浜松へ。7日浜北市へ壺天荘。

8日 常滑へ

9日 安城市へ  で東京へ帰ったら夜8時。 

10月3日 読売ホールにて 川村江一リサイタル。

11月11日 「トワエモア」撮影。

18日 表参道にてナンシー撮影。

27日 週刊現代で大岡昇平と南沙織

12月3日 六本木スタジオにて

9日 よみうりランドにて秋吉久美子

講談社の仮眠室に宿泊できた。

10日は四谷へ

11日は週刊現代 叶 優子。 新年号で井上ひさし氏。

14日 モデル撮影10人。

16日は 千葉へ

17日はK2スタジオと71セブンティワンスタジオ合同忘年会を新宿末廣亭そばのレオナルドにて

出席は 渡辺義雄氏 参考・・写真家としては日本で最初の文化功労者

 細江英公氏。熊切圭介氏。木村恵一氏

事務所泊とありメガネを落とすともメモにある。???

18日 六本木スタジオ
川仁忍といえば、フォークの神様と呼ばれていた岡林信康のコンサート、ジャケット写真を撮っていたので、助手の仕事として現像の手伝いをした。それで暗室での作業をおぼえた。

 

※川仁忍 1945年東京小金井で生 日大芸術学部写真科卒「ドヤ街」の潜入撮影写真にて、1968年日本写真協会新人賞を受賞した。管洋志氏と「71セブンティワン事務所」を開設。

Gの祈り』(Gのいのり)は、岡林信康1980年4月21日に、ビクターレコードより発売したシングル。のB面 「君に捧げるラブ・ソング」[編集]は

岡林信康を記録者として撮影していたカメラマンの川仁忍(1979年11月26日没)を想って作った曲[1]。だとある。

2月にカメラマン助手の仕事で3ヶ月たった。
 持っているのはようやく買ったペンタックス。早くニコンを持ちたいとおもっているが、全く手がでないくらい高価であった。ニコンをもっていないとカメラマンと見てもらえない時代でもあった。
6月5日に木村伊兵衛氏の葬儀。

週刊誌で東名高速を取材で東京から静岡、静岡から名古屋、名古屋から東京

古川タクさんの写真伸ばし

以下ウィッキ

古川 タク(ふるかわ タク、本名:古川 肇郁(ふるかわ ただいく)、1941年9月25日 - )は、日本の男性アニメーション作家、イラストレーター絵本作家である。日本アニメーション協会(JAA)会長。

丘みつ子撮影

7月3日寺山修司。厚生年金小ホールにて、大道具の仲間と一緒に。

6日青木英美、村地ひろみ撮影

8日藤本義一氏を日比谷スタジオにて

11日プレイボーイで中村とうよう氏

17日夢の島近くでヌード

21日 木暮実千代

24日 石坂浩二

26日 今野雄二氏

27日 あのねのね 現像に

8月5日 司葉子

6日 女子プロの マッハ文朱

7日 岸部シロー氏

8日 上野桜木へ

9日 横浜 野毛山動物園へ

10日 トミナガオートランドへ

お盆は田舎へ帰省

27日 深町純氏

29日は花巻空港よりセスナ機で松尾鉱山の空撮

9月4日 雑誌GORO にて新宿ゴールデン街で 東映の藤竜也氏

6日 田名網敬一氏

以下ウィッキより

1970年代初めのエロティックなペインティングのシリーズは、アメリカ文化をウィットに富んだ視線で捉えた日本人アーティスト田名網の告白を示す重要な作品である。

田名網は、その後1975年に、日本版「月刊プレイボーイ」の初代アートディレクターに就任するに当たり、「PLAYBOY Magazine」本社を訪れるべく、再びニューヨークへ渡っている。この時、田名網は現地の編集者の案内で、アンディ・ウォーホルのスタジオを訪れている。

11日 よみうりランドにてモデル撮影

17日 12chにてアオイてるよし、八田英二

    NHKにて郷ひろみ

※週刊誌の小さなカットだから、行ってこい、ということでカメラ一式借りて、郷ひろみのカットを撮りに。そこの廊下にて撮るとき、手にコーラの瓶をを持ってきたので、ワンカットだったが、ポーズをとってもらおうとした。その瓶を顔のそばに持ち上げてもらえますか?といったら、このコーラのメーカーがわかるのですが、と言われた。・・・さすがだと思った。

24日  グレープのさだまさし氏

※ 撮影が終わって、原宿でランチをということで、

終わってから先生より、もっと高いのを頼んでも良いんだぞ,といわれた。遠慮していたの見られたのかな・・・田舎者だなあ。

 

 

 74年2月19日浜松出身のY君がカメラマンの助手という仕事があるけど、やるか?ということで次の日、管洋志さんと面接した。
Y君は松本徳彦写真事務所にて働いていたばかりで、新宿区一丁目の現在花園少学校の向かいあった事務所の隣に『セブンティワン』という写真事務所を開いていた。

2月20日新宿にて管洋志さんと川仁忍さんと会う。

翌21日に目白にて管さんの撮影について行く。その後フィルム現像する。23日吉祥寺にてハウス会社のインテリア撮影、4X5にてポラロイドがとれるなんて。

四谷スタジオにて講談社週刊誌のヌード二人撮影。

3月にヌード3人。毎日いそがしかった。

当時はフォーク歌手のジャケットを撮っていた川仁さんの撮影は盆栽の撮影もしていた。

原宿にてリリー。4月三番町にてかまやつひろし氏・・ジャックダニエルというバーボンウィスキーのことを知った。新宿自宅にて福富太郎氏・・歌舞伎町など新宿の成り立ちを知った、帰りに助手にも洋酒を1本もらう。5月に五木ひろし。多岐川ユミ。テレサテン。水沢アキ。18日には三浦海岸にてモデル8人。19日にはモデル4人。20日に油壷ヨットハーバーにてモデル撮影。22日に三戸浜海岸にて外人10人。23日は鈴木ひろみつ氏。27日勝海舟役のショーケンをNHKにて。31日は大阪にて藤本義一氏。

この3か月忙しかった。カメラマン助手の仕事はあくまでも仕事をおぼえることで、お手伝い料しかもらえない、アパート代を払えないので、毎日曜日には、ビルの清掃作業のバイトをした。当時億ションといわれるくらいの高級マンションがどんどん建設されていた。その完成前の清掃の仕事があった。

1972年約3か月の旅で東京に帰ってから、さてバイト探しだ。

70年代昭和の日本の景気状況は非常にいい状態であったにもかかわらず、まともな?会社に勤めることも選択肢にあったが、どうしてもそのような考え方にはならなかった。

11月にちょこっと。12月から前に助手バイトしたことのある運送業で、こんどは運転手。事故があったが、大したことにならなくて良かった。新築団地へ引っ越しの仕事が増えた。大みそかまで仕事。

1973年3月に運送屋の3畳に移る。それで6月末まで仕事。

7月世田谷祖師谷大蔵のアパート借りた。

S君が金沢松任の自動車関連のバイトを見つけてきた。バス等の床を張る仕事で10月までそこの寮に泊まり働いた。今ふりかえると日本の成長にしたがって産業も成長してきた。なんて考えてしまった。

12月に今度は大道具のバイトがあるとのこと。

その12月19日よりテレビ舞台の大道具のアルバイトが入ってきた。暮れから正月まで、12チャンネルの大道具。夜遅くまでセイラー服がいた、百恵ちゃん

花の中三トリオとよばれていたらしい。

1974年1月12日より74年新年船橋ヘルスセンターにて「春日八郎ショー」幕引き照明など。1週間。

16日より宝塚劇場にて某大手電気会社が主催している全国の電器店の新春お客様招待で全国から電気屋さん集合。

演目「紙屋治兵衛」(長谷川一夫、山田五十鈴、淡島千景)の大道具であったが、手が足りずに舞台裏の松の背景を動かす係りになった。これはある意味大事な係であった。奈落から長谷川一夫さんがこちらを見て何か言っていた。後で何ていっていたのかと、同僚に聞いたら「あいつでだいじょうぶか?」と言っていたらしい。

1ヶ月のロングランで、その舞台で淡島千景さんがスポットライトをあびて舞台中央にて倒れ込んでしまった、当然演技であろうとみていたら、

その次の展開にいかない。そのうちにスポットがハズレて、袖から「いけいけ」と言われた。それは松の背景を舞台に出して、彼女を袖まで連れてくることだった。それで松の背景を持ち、動かしながら舞台中央に行き彼女を背景で隠しつれてきた。見ている人はこれも演技のうちだろうと思ったに違いなかった。2月5日に千秋楽をむかえた。このバイトもおしまい。

以下ウィッキより

東京宝塚劇場は、1934年1月1日から1997年12月29日まで東京都千代田区有楽町1-12にあった宝塚歌劇団の東京での本拠地の劇場、および東宝が保有していた映画館。


パー

1972年昭和47年6月1日に出発しようとしたが、準備に時間がかかり2日の朝4時に荻窪のアパートをでた、青梅街道をひたすら歩き、初日は福生に入り、多摩川の河原にて1泊。

4日は川井キャンプ場に100円。5日は水根沢キャンプ場にて200円。

6日は小菅。7日は上日川峠。8日は笛吹川原に・・あぶなく濁流に流されるところだった。9日は湯村温泉の旅館に3060円。10日は千代田湖のほとりに。甲府駅。11日は茅野駅から白樺湖のキャンプ場に100円。15日まで、16日は霧ヶ峰キャンプ場。17日は下諏訪駅より松本駅。18日は松本駅より糸魚川駅まで。歩いて姫川河原に。20日は富山駅から高岡駅に。22日は松太枝浜キャンプ場に。6月26日高岡にて職務質問された。

一日の予算を500円ということにしてきた。これは宿泊施設に泊まらず野宿キャンプだけということで65000円を持って出かけたのだが、残金が40000円になっていた。

 

7月1日富山県氷見より山をこえて石川県羽咋につく、千里浜キャンプ場に2日いた。

これから能登半島を輪島まで歩く予定をたてた。

7月3日柴垣キャンプ場で50円。高浜海岸にて野宿。

7月6日五色が浜キャンプ場、

7月7日 酒見キャンプ場

7月9日 黒崎岬キャンプ場に8日間

7月17日 輪島に入り袖ヶ浜キャンプ場に18日間いた。日本海を毎日泳いでいた。

8月に入りキャンプ場も混んできて毎日うるさいので、もう出なきゃとおもうが、どこへ行こうか?と思案した。この際長崎のH君ところに行ってみようかと思い広島経由で長崎に向かうことにした。

8月4日9時46分輪島駅から急行電車に乗った。どうせなら8月6日前に広島入して、原爆ドームのあたりを見てみたい。ということで広島に着いた。どうしても自分のような格好のものが浮き上がってしまっていたが、YMCAの人から、盆踊りに招待されたような記憶があるが、その後は広島駅構内はベンチにも寝ることは出来ないということで、追い出された。しょうがなく駅の脇にて、夜をすごした。

8月6日にドームの周辺を歩いて驚いたのは、川に鯉がたくさん泳いでいた。後から分かった「広島カープ」の意味が
8月7日午後2時33分発下関行きに乗車。8日昼ごろ長崎駅着した。H君に電話した。その日は泊まり8月9日に長崎周辺を案内されたが、雲仙岳に行ってみようということで8月10日愛野から11日田代原キャンプ場に1泊白雲の池キャンプ場に2泊普賢岳を登りスワの池に1泊加津佐に1泊し

8月15日にはヒッチハイクで長崎まで帰った。

その日の夜は「精霊流し(しょうろうながし)」でありお盆であった。各町内から山車がでてくるので、伊勢町の山車をおすことになった。
 そのお盆にひかれるように8月17日午後13時56分長崎発の電車にのった。

8月18日午後16時5分に東京に着いた。
 東京脱出の旅も2ヶ月半にて終了した。

1972年(昭和47年)東京荻窪のアパートを出発して青梅街道をひたすら歩き、

6月7日笛吹川の夜の川原の中洲は静かで邪魔なものはなく、ぐっすり眠れたがなんだか夢なのかチャプチャプと音がしてきた。

なんだろうと思ったら川の水がテントに入るところまで来ていた。周りを見ても濁流であり、完全に中洲に取り残された。浅瀬だと思われるところを探そうとしたが、河川の上流には大きな岩と石だけで飛び飛びしながら水をこぎながらようやく脱出出来た。

  前日の山の雨が上流では短時間で水かさが増してくることは、今考えると当たり前のことである。大いに反省した。危うく濁流に飲み込まれ、行方不明者の一人になるところであった。

6月8日は雨のち晴れであったが、旅館に泊まるような旅ではなかったが、気分転換ということで温泉に入り、ゆっくり休もうと湯村温泉つるや旅館に泊まった1泊3060円であった。

6月9日千代田湖という人造湖畔のほとりでテントを張った。  

6月10日に茅野駅まで歩き駅構内のベンチにてねむる。当時は登山のグループが新宿から夜行で来るので早朝まで、それに紛れ込んでも全く不審者ではなく、溶け合っていた。登山者のように駅で着替えしたり用をたして、白樺湖まで歩いた。快晴だった。白樺湖キャンプ場料金1日100円。

6月14日(水)には東京からきたという、いかにも登山者と格好できた真面目な同年代の会社員と山に登ることになったが、食料は用意していない、その日限りの登山者であった。一泊で帰っていった。

6月15日白樺湖より移動。

6月16日(金)は霧ヶ峰キャンプ場。

6月17日には松本駅に行った。

白樺湖キャンプ場にテントを張っているころには、本格的な梅雨の季節になり、毎日雨が降っていて、やることといえばテントの中で、ジーンズのすりきれたところを縫ったりするだけ、毎日テントにいるので、管理人が不審がってか、心配になったのか、というのも土、日曜日だけでなく平日にテントを張っていること自体、おかしいと思われてもしかたがなかった。

この旅の目的は東京脱出ということだけで、どこにいこうかという目的地もなかったが、日本海側にでようということで、

6月18日松本駅より歩かず電車にのる。糸魚川駅行きの大糸線朝9時ころ乗って夕方前にはついた。いよいよ新潟県にはいり姫川の川原にて野宿ということにした。

6月19日には富山駅まで歩き、富山駅構内ベンチにて一泊。次の日高岡駅まで80円でいき高岡駅構内ベンチにて一泊。

6月21日(水)松太枝浜キャンプ場というところでテントを張る。6月30日まで10日間もいた。さすが不審者ということが伝わっていたらしく、6月26日テントに刑事が来て職務質問にあった。そりゃそうだろと思った。

 最近になってわかったことは70年代の後半頃にあった「拉致未遂事件」なる場所だった。

30日までキャンプ場にいた。黒の野良猫もいた。この間高岡市内に買い出し。

※以下ウィッキより

1978年昭和53年)8月15日夕方5時すぎ、富山県高岡市雨晴海岸(島尾海岸)で松林のなかを散歩していたアベックが4人組の男性に襲われる事件が起こった。

 

 

 1972年6月2日午前4時荻窪のアパートを出た。妹には夏頃までと言っておいた。東北靑森の天気しか知らない、この時期に南の方へ行くことは後悔することになった。

 関東地方は梅雨の時期になることを計算に入れていなかった。

しかし、朝早くバックパックのスタイルにてアパートから出ていくのも不審者のようだと思いつつ、一歩を踏み出した。荻窪から西の方に歩きだした。

環状8号を通り青梅街道をひたすら西へ歩いた。途中で職務質問にあうこともなく。

この昭和の日本は人手不足の景気が良くなっている時代であり、ホームレスということばは当時は無かったし、いうなれば浮浪者?変な人?であった。
 もちろんウオークマンはまだ発明されていなかったので、トランジスタラジオが唯一の天気予報等の情報源として忘れてはいけないものとしてリュックに入れておいた。
 

 立川福生といえばアメリカ軍基地と米軍の家族住宅があった。その米軍基地の脇をとおりながら、ここで「ベトナム戦争反対」と大きな声をはりあげることもなく、当時のアメリカの風俗ヒッピーのマネをして右手でピースをふりあげるなんてこともなく、米軍払い下げの歩兵のリュックに寝袋テントをしょって歩いているなんてことも、誰にも注目されているわけでもなく通り過ぎた。

 問題はどこに寝泊り出来るかを考えていた。当時はコンビニもあるわけではなく、夜食として、コッペパンを買って飲みものは水筒の水。暗くなってきて多摩川の上流についた。河原の砂利が積まれている場所はどうかな。最初の夜はここで野宿と決めた。といっても不審者と思われないようにしないと。

 今グーグルマップにて荻窪から福生までと検索し、徒歩で行くとしたら28.8kmで約6時間とでてくる。

 6月3日 天気は小雨のち晴れ。多摩川上流からキャンプ場を目指して歩く。川井キャンプ場シーズン前にて誰もいない。料金は100円。

 6月4日 日曜日雨のち晴れ、川井から水根沢キャンプ場へ。料金は200円。 

 6月5日 月曜日天気は雨のち晴れ。小菅まで歩く。

 6月6日 快晴上日川峠まで(現在かみにっかわ峠)は地図では検索できない。大菩薩峠の方がわかりやすい。この大菩薩峠でその頃何が行われていたか(連合赤軍の)は、後で知ることになる。駐車場にテントを張ること許可されて寝た。
 大菩薩峠から甲府盆地に下りながら塩山を通過し天気も晴れから雨になり、夕方ころには笛吹川に近いところのそば屋に入る。東京荻窪を出てからキャンプ自炊ではなく久しぶりの外食で玉子丼などを食べた。そこを出てテントを張り寝るところを探す。後で思うとこれが運命の分かれ道というところかと。というのはそば屋は橋の近くであったので、橋から笛吹川の河川敷にて中洲を見ていると、中洲で自転車遊びしている子供たちがいた。モトクロスみたいにバイクも入り込んでいた。これだけ広い中洲であれば充分であり、ここならいいだろうと、川の中洲にテントを張り寝ることに決めた。今思うと警察に通報されなかったものだ。・・・・・・

 

 

1969年(昭和44年)高校を出て、青森の山奥から東京に出てきた。

70年安保の大学紛争の高まりによって、全共闘の乱戦場の舞台となり、大学当局が対策として学園閉鎖ロックアウトを決断。・・・勉強したい夢が潰えてしまった。
 それで、新聞にて、西荻窪の運送屋の助手バイトをさがした。

またその年に、妹が八戸の高校を卒業し上京することになり、荻窪南口から歩いて15分ほどの2部屋のアパートを借りた。
 前から考えていた徒歩での東京脱出?の準備をしていた。そのため足を鍛えるため、バスに乗らないで走ってバイト先に通ったりした。
 全共闘がヘルメットゲバ棒で暴れまわっていた頃、まだ日本にはバックパッカーのわか者たちがいなかったのか、当時の若者達が背負っていたリュックサックは山用登山用専門であり、重くて価格も高かった。東京でそれが揃うところは上野か神田の登山用品のお店だけであった。いろいろ探した結果4月に上野アメ横の米軍の放出品(アメリカ軍で使われたものを中古品として販売できるようにした)の店があり、当時ベトナム戦争かそれ以前のものかはわからなかったがアメリカ軍の歩兵用のリュックサック
LightWeightRacksack なるものを3000円で手に入れた。これはジュラルミンの枠にレーヨンの生地で、戦闘様に使うためのものであるので当然手榴弾が入るところもあり軽く合理的に作られてあった。

それと寝袋は軽くていいものがあったが、これは死んだ兵士のものかシミもあり、気持ちが悪いので、重かったが登山用を購入した。あとはキャンプ用として自炊用のアルミ製の食器類も買った。それと野宿できるように1人用のテントも手に入れた。
 一年は帰ってこないと意気込んで、あれもこれもと用意して背負ってみようとしたが重すぎて背負えなかった。再点検した。出発予定を6月1日にしたが、その日は出発できなかった。

 

 

1983年7月30日LA出発8月20日戻る。 

 22日間の収支を・・

 ホテル、ユースホステル 宿泊 13日で455ドル

 グレイハウンドのアメリパスは240ドル

 LAからシアトルからSFまで友達の車で、ガソリン代 50ドル

 食事代は 330ドル

 1日にすると  約45ドルだった。・・・・と手帳に記帳していた。

8月21日はロスアンジェルス2世ウィークの祭だった。

1983年8月13日はニューヨークのCADLERホテルに宿泊34ドル。

 8月14日ニューヨークからワシントンDCへ ユースホステル宿泊30ドル

 8月15日はスミソニアン美術館。 ユースホステル宿泊30ドル

 8月16日はワシントンDCよりニューオーリンズへ

 8月17日は、なぜかアトランタへ

 8月18日はニューオーリンズに朝5時着。ヒューストンへ。

 8月19日はエルパソ。夜10時フィニックス着。移動

 8月20日土、朝6時にロスアンジェルス着。

この旅は西海岸から東海岸からメキシコ湾より回ってきた。グレイハウンドバスで。

 

※ 当時1979年発売のソニーウオークマンは高かったので,各社似たものを発売したなかで新宿で東芝製を買って、アメリカに持ち込んだが、田舎巡りしたこともあるけど、その当時、誰も持って歩いてはいなかった。

 この話は、夜移動のグレイハウンドの車内でのこと。ニューオリンズからヒューストンへ向かってのこと。長い移動のため、ウオークマンのようなもので、イヤーフォンで聞きながらリラックス。と、前の席のカップルより,すごい剣幕で、なんか怒っているようだが、音はもれてはいない。

なんか、シートのあたりを指さし怒っている。どうやら、前の席の下で足でリズムをとっていたらしく前の彼女のお尻の下をしげきしていたようだ。やばい・・やばい・・・