1972年昭和47年。1973年昭和48年。1974年昭和49年。 | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

1972年約3か月の旅で東京に帰ってから、さてバイト探しだ。

70年代昭和の日本の景気状況は非常にいい状態であったにもかかわらず、まともな?会社に勤めることも選択肢にあったが、どうしてもそのような考え方にはならなかった。

11月にちょこっと。12月から前に助手バイトしたことのある運送業で、こんどは運転手。事故があったが、大したことにならなくて良かった。新築団地へ引っ越しの仕事が増えた。大みそかまで仕事。

1973年3月に運送屋の3畳に移る。それで6月末まで仕事。

7月世田谷祖師谷大蔵のアパート借りた。

S君が金沢松任の自動車関連のバイトを見つけてきた。バス等の床を張る仕事で10月までそこの寮に泊まり働いた。今ふりかえると日本の成長にしたがって産業も成長してきた。なんて考えてしまった。

12月に今度は大道具のバイトがあるとのこと。

その12月19日よりテレビ舞台の大道具のアルバイトが入ってきた。暮れから正月まで、12チャンネルの大道具。夜遅くまでセイラー服がいた、百恵ちゃん

花の中三トリオとよばれていたらしい。

1974年1月12日より74年新年船橋ヘルスセンターにて「春日八郎ショー」幕引き照明など。1週間。

16日より宝塚劇場にて某大手電気会社が主催している全国の電器店の新春お客様招待で全国から電気屋さん集合。

演目「紙屋治兵衛」(長谷川一夫、山田五十鈴、淡島千景)の大道具であったが、手が足りずに舞台裏の松の背景を動かす係りになった。これはある意味大事な係であった。奈落から長谷川一夫さんがこちらを見て何か言っていた。後で何ていっていたのかと、同僚に聞いたら「あいつでだいじょうぶか?」と言っていたらしい。

1ヶ月のロングランで、その舞台で淡島千景さんがスポットライトをあびて舞台中央にて倒れ込んでしまった、当然演技であろうとみていたら、

その次の展開にいかない。そのうちにスポットがハズレて、袖から「いけいけ」と言われた。それは松の背景を舞台に出して、彼女を袖まで連れてくることだった。それで松の背景を持ち、動かしながら舞台中央に行き彼女を背景で隠しつれてきた。見ている人はこれも演技のうちだろうと思ったに違いなかった。2月5日に千秋楽をむかえた。このバイトもおしまい。

以下ウィッキより

東京宝塚劇場は、1934年1月1日から1997年12月29日まで東京都千代田区有楽町1-12にあった宝塚歌劇団の東京での本拠地の劇場、および東宝が保有していた映画館。


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