鹿角市出身の内田武志氏が菅江真澄という人物を掘り起こし編纂。
・・・・この近くを歩いていた。
宮本常一著作 『辺境を歩いた人々』にあった。
鹿角市出身の内田武志氏が菅江真澄という人物を掘り起こし編纂。
・・・・この近くを歩いていた。
宮本常一著作 『辺境を歩いた人々』にあった。
美術系にはいって、なぜ民俗学の授業があるのだろう・・
70年安保で荒れていた東京の生活において、デザインをと思っていたのに・・・
今思い出すのは宮本常一教授の授業を受けたこと。
以下ウィッキより
山口県屋代島(周防大島)生まれ。大阪府立天王寺師範学校(現大阪教育大学)専攻科卒業。
学生時代に柳田國男の研究に関心を示し、その後渋沢敬三に見込まれて食客となり、本格的に民俗学の研究を行うようになった。
1930年代から1981年に亡くなるまで、生涯に渡り日本各地をフィールドワークし続け(1200軒以上の民家に宿泊したと言われる)、膨大な記録を残した。
宮本の民俗学は、非常に幅が広く後年は観光学研究のさきがけとしても活躍した。民俗学の分野では特に生活用具や技術に関心を寄せ、民具学という新たな領域を築いた。
慶応四年三月七日雨雪と「萬日記」よろずにっき・・にある。
西暦1868年3月30日であった。
今から154年前の三戸御給人の石井久左衛門(友司)
とその子八郎(久太郎)が二代にわたり、天保十四年(1843)から大正八年(1919)の76年間に記録された日記である。
『萬日記』より。
慶応四年正月二十三日雪天
鳥羽伏見の戦のこと
二月一三日風
今日右金五百両持参 御代官非番太田七蔵盛岡へ出立の事
二月二九日晴天
昨二八日御官所より八郎宛呼出書状参り、今日御官所へ出頭
当勤御代官今渕直之丞より御達
此の度会津為御征伐応援被蒙仰候に付
魁御遣方有之出府仰付候間来月五日此の元出立可致旨
三月三日晴天
御代官より出立の節は御上り御届可有候、尚以甲冑並鉄砲槍持参に及不申役々により
御渡被成由の旨申来る
差出人数十八人程被仰付、五日立二十四人に相成候事
慶応四年戊辰三月七日雨雪
昨六日は大雪降る。今日七日十六人出立 此の度出兵人数計四〇人。
左の如し
田中館熊太 工藤愛之助 川村隆蔵 梅内良太郎 金田一太治馬
米田左平太 佐藤内蔵太 貝守求馬 赤石藤五郎 佐藤達之助
馬場勝馬 石井順蔵 大向九郎治 堀内順平 釜渕平馬
梅内犬次郎 江刺家其太 梅内勝馬 泉山金太郎 泉山哲蔵
堀内茂平太 梅内多喜太 和田左司馬 田中館勇吾 滝沢長六
小笠原勇治 松尾民太 冨田善作 関 昇平 村井五次郎
飯堂理兵太 石井八郎 田中館寛蔵 工藤金吾 福田忠吉
松尾官助 玉懸石蔵 石ケ守專左衛門 釜渕安衛 一戸善一郎
道中壱人に御伝馬壱疋宛被下
昼泊賄切手差置 一戸沼宮内泊にて出府の事
※西暦1868年3月30日の事
以下ウィッキより
鳥羽・伏見の戦い 慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦いである。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する
現在、模型というと、ガンプラとかキャラクターのフィギュアが主流だが、建築模型という分野は、それと違いドイツ系とアメリカ系のパーツにて作っていた。それに無いものは自作する。
おもちゃレベルの模型と想像されますが、コンピューターのなかった時代、2次元の図面を立体におこすことは、実際の図面を基に縮尺を正確に計算し3次元にすることになる。
日本の70年代最大の大型プロジェクトは原子力発電所であろう。原発の図面はアメリカGE(ジェネラルエレクトロニクス)社より購入したもので、日本の大手の会社が受注したものである。
東海村の現場の近くのプレハブには、図面を書ける設計士を大人数確保していた。
初めて建築模型の会社も参入することができた。仕事場所は、設計者たちのプレハブとは別の大型プレハブの2階だった。
縮尺した模型を作り上げることの目的は、現場の原発建築にかかわる大量の図面から、2次元の図面を立体にする中で、緩衝する(ぶつかる)部分をさがすことであった。5人から10人の人員で1年近くかかるようなものであった。最終的に130ヶ所以上の緩衝部分を発見?することになった。
受注した大手の担当者にとってやっかいなことと思われるのは、高円寺の小さな会社が作り上げた模型によって、発見された場所を特定し、それを図面の間違いだとして、図面購入元のアメリカGEに伝えることであっただろう。
アメリカ最新の技術に対して異議?を申すことになる。しかし間違っているものは間違っているということで、GEの設計グループが、この出来上がった模型を見にくることにな
った。
解決した。この仕事にかかわったことは、自分の人生にとっての分岐点かもしれなかった。
この次の年に台湾に行くことになるが、その台湾でも原発関係者と会ったことがある。当時の台湾でも国力をつける必要から同じアメリカGEから台湾に派遣されていた人であった。
参考:日本ではじめての原子力発電所である。【東海発電所は、日本で初めての商業用原子力発電所として、1966年7月に営業運転を開始しました。炉型は、英国で開発・実用化されたコールダーホール型の天然ウラン・炭酸ガス冷却型原子炉を原型とし、日本独自の耐震設計を取り入れた改良型です。
東海発電所の建設・運転によって得られた技術と経験は、その後の日本の原子力発電技術の基礎を築いてきました。しかし、東海発電所の炉型は原子炉や熱交換器などが大きな割に出力が小さく、軽水炉に比べて発電単価が割高であり、かつ国内唯一の炉型であるため、保守費や燃料サイクルコストが割高になっていたことから、1998年3月31日をもって営業運転を停止し、現在は、日本の商業用原子力発電所では初めての廃止措置工事を行っています東海第二発電所は、日本初の大型原子力発電所として1973年4月に着工(第1回工事計画認可)、同年6月に建設工事を開始し、1978年に営業運転を開始しました。】以上HPより
管洋志さん、川仁忍さんの新宿一丁目の71セブンティワン事務所に大川奘一郎さんが出入りしていた。まだ独立してまもなくなので暗室作業を良く手伝った。
検索したら、このブログにあった。
以下のブログにアクセスしてください。
※カメラマンとしての職業を維持するためには、まず器材をそろえなければ、大変な資金が必要とすることがわかってきた。しかし当時はフリーランスフォトグラファーなんてかっこよく名乗っても、その日暮らしには違いなかった、夢は夢としても現実にその元があるわけではないので、また職を変えた。
またY君の紹介にて、5月連休明けから高円寺北口環七沿いにある建築模型の会社でアルバイトをやることになった。
その年の3ヶ月は日立東海村にいた。アパートがなかったので、会社に泊まっていた。
※何で、記憶があって、古い手帳に記録がなかったのか。小金井公会堂にてエレキグループのコンサートがあって、その中に、あるグループにドラマーがいなかったので、参加した。高校のときに文化祭でドラマーをやったので。その準備で借りスタジオにて練習した。残念なことに写真も手元に無い。この文化祭程度に・・・・・・
75年1月16日 フジテレビにてマリークリステーヌ
17日ニューオオタニでアスレチック、ビッグボックスにてレーザークレー、ドウスポーツプラザにてスカッシュ
18日掛川にてアーチェリー、東京スイミングセンター
1月31日に管さん結婚式。
3月に長崎のH君からニコンFにレンズ35mmと105mm、ようやくニコンを持てた。
4月2日に銀座白樺画廊にて古川タクさんの個展の準備で手伝い。
13日 「ふきのとう」
16日新宿厚生年金にてエレクトーンコンサート
4月30日新人助手が2人入ってきた。 「セブンティワン」をやめた。
8月には新宿「セブンティワン」を解散することになって、それぞれの事務所をかまえた。解散パーティは新宿末広亭の前の「レオナルド」にて。管さん夫妻、川仁さん、大川さん、スクーロック美恵子さん、安保夫妻、大久保夫妻、鈴木君、安達君が集合した。管さんは講談社の近くで「アトリエゾロ」としてオープン。12月に川仁さんは代官山に「スタジオプロペラ」をかまえた。
川仁忍、管洋志先生は、日大芸術学部写真科系統だと思われるモノクロ印画紙引き伸ばし時の暗室作業は個性がでていた。勉強になった。フィルムの特性と現像液の温度管理など、厳しかった。フジ、サクラでもモノクロフィルムはあったが、60年代以降コダックフィルム全盛期のなかで、プロの人たちはコダックフィルムをロール缶で買ってきて、それを使用済みのパトローネ(使用済のサクラとかフジの35mmフィルムケース、コダックは使いっきりであるので使用で不可である)を大手のカメラ屋からもらってきて、巻き取っていた。助手の仕事でまず最初に覚えることは暗室でこの作業をすることであった。アメリカからの輸入された、トライX缶?フィートで36枚撮りに計算して何本取れるかどうかを手を広げて測りながら完全闇黒のなかでやる。コダックトライXという高感度に耐えるフィルムで撮るのが流行っていた時代でもあった。70年代は微粒な写真もあったが、荒れた粒子を出すような写真も受け止められつつあった。アメリカの映画産業から発展し世界のコダック35mmフィルムは最高であった。
新宿「さくらや」「ヨドバシカメラ」に行って「コダックのトライXロール缶下さい」と言って買うだけでも、もうカメラ小僧になっていた。
以下ウィッキより
管 洋志すがひろし 1945年 博多生まれ
◎ 博多祇園山笠で育ち、"山笠のぼせ"の男達に囲まれ、人間のタテ社会を知る。大学時代、幇間、故 悠玄亭玉介師匠の運転手をしながら、芸伎界に働く、幇間と芸者そして女将さんの人間模様をドキュメント日本大学 芸術学部 写真学科の卒業制作として発表。
◎ 1969年から始まったアジアへの旅で、各地で出会った、アジア人の強い生活力と生き様に触れ、"人間写真"を撮ることを目指す。
◎ 27歳のとき、終わることのない人間への興味から、"人間の生き様"を追及しようと、日本全国60ヵ所以上のストリップ劇場の楽屋を訪問し、ライトマンをやりながら、踊り子の舞台裏を撮り、「花のヴィーナス86人衆」を発表。
◎ アジアと日本の往復運動をしているうちに、共通するコスモロジーの存在に魅かれ、写真表現をもって日本とアジアの神意識、自然感をベースに撮影
[ 受賞 ]
1977年 ・・・ 第 8 回 講談社出版文化賞写真賞「走るワセダ」(週刊現代)
1984年 ・・・ 第15回 講談社出版文化賞写真賞
1984年 ・・・「戦火くすぶるアンコールワット」(ペントハウス)
1987年 ・・・ 第 6 回 土門拳賞「バリ・超夢幻界」(旺文社)
1998年 ・・・ 第14回 東川賞国内作家賞「ミャンマー黄金」(東方出版)
(社)日本写真家協会 常務理事
日本大学 藝術学部 写真学科 客員教授
ニッコールクラブ 顧問・・・・・・・・2013年4月、逝去。
時には事務所にて助手たちと先生との飲み会があるので、近くの八百屋魚屋にて調達し、手作りの酒のサカナを用意する。ある日の魚の煮物はうまかったと言われたので気をよくしていたら、あとで川仁さんから「隣にいる大家の猫のエサをみたら、同じようなものを食っていたぞ」といわれた。同じ魚屋で買った魚のぶつ切りは大家は猫に、こちらは酒のサカナになっていた。となりのアパートの松本事務所とは、物干しのスペースで行き来をしていた。松本徳彦事務所とは、アシスタント達と情報交換できた。
12月20日の合同忘年会ということで、この中に管、川仁さんの先輩にあたる『K2』スタジオ(熊切圭介、木村恵一)の事務所に22才の新人が入ってきた。
※2001年1月に新宿区新大久保駅にて線路に落ちた人を助けようとし、電車に轢かれて死んだカメラマンというニュースがあった。一緒に死んだ韓国人留学生だけがクローズアップされたようだが、昔のアルバムを引っ張り出して見ていたら「あのひとか」と思った。あの真面目なカメラマン関根史郎さん(享年47才)であった。
【松本徳彦(まつもと のりひこ、1936年 - )は写真評論家、写真家。広島県尾道市に生まれる。
日本大学芸術学部写真学科卒業。
九州産業大学芸術学部・大学院講師、東京工芸大学芸術学部講師などを務める。
写真史に関する啓蒙活動、美術館の写真収集に関する協力活動などを、きわめて積極的に行う。
写真弘社のカレンダーの制作にも協力している(解説など)。
写真家としても作品を残している。越路吹雪のことを一番撮っている。