田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan -10ページ目

田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

以下ウィッキより

蒲生氏郷

近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる[7]。幼名は鶴千代と名付けられた。

永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した[8]。鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)[8]

相応院(そうおういん、永禄4年(1561年) - 寛永18年5月9日1641年6月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。織田信長の次女。蒲生氏郷の正室。

 

南部利直

父:南部信直(1546-1599)

母:慈照院 - 泉山古康の娘

以下コピペです

e-たわごと No.098

投稿日 2004/06/21  「調査要約」 盛岡の近江商人(2)
寄稿者 八柳修之
 

~なぜ盛岡にやって来たのか~


初めて盛岡にやって来た近江商人は、村井伝七(慶長18年―1613)、南部利直公から京町(本町)に土地を与えられ、郷里の近江商人の「わらじ脱ぎ場(拠点)」となったことは先に述べた。ではなぜ、近江商人をして盛岡へ惹きつけたものは何であったろうか。それは金と南部利直の政策にあった。
 

ゴールドラッシュ

金はいつの時代も人を惹きつける。村井・小野一統が目をつけたものは、南部領内から産出する砂金であった。その頃、農民は農閑期に採取した砂金を竹筒に入れて保管し、通貨として使っていた。南部の砂金は純度が高いにもかかわらず、当時の金貨(小判)との交換相場は、砂金が1~2割安かった。

ここに目を付けた近江商人は南部の砂金を買い集め、これを上方で銀貨に換えると、ゆうに1倍半、5割以上の利を得ることができた。「南部の砂金割り」と呼ばれ、砂金で取引する商人は「ごわりごわり(5割5割)」と儲かったという話が伝えられている。
 

南部利直の経済政策

南部藩二十七代藩主南部利直は、慶長年間、盛岡城を築城したことで知られているが、経済感覚に優れていた名君であったという。

利直は産金に熱心で、鉱山師を優遇し、鹿角、佐比内をはじめ領内に20数箇所の金山を開発した。特に鹿角の白銀金山では、鉱石百匁から粒金や砂金五〇匁が採れたというから、文字どおり「一攫千金」であった。蛇足ながら、盛岡民謡「からめ節」の元唄は、当時の金山の作業唄であったという。
 

利直は泰平の世の訪れを読んで商人を優遇し盛岡を商業都市にすることを目指した。近江商人には大手門先、城の正面玄関に近い一等地を「京町」と名づけ、無償で土地を提供した。また、盛岡城下にやって来る百姓町人なら敵性国の者も自由に受け入れた。仙北町や津軽町などはその名残である。
 

盛岡に根を張った近江商人は、酒造業、質屋、呉服商を励む一方、上方と往復するいわゆる「のこぎり商い」で巨利を得た。盛岡から運んだ砂金のほかに生糸や海産物。帰り荷は木綿の古着や日用雑貨だった。

南部藩特産の染色原料である紫根は専売品であったが、移出税を払ってもそのメリットは大きかった。江戸や京都へ送られ、歌舞伎の「助六」が紫の鉢巻を締めているように江戸っ子に歓迎される江戸紫の原料となった。

紫根、山形の紅花の上方における代表的な荷受問屋は、小野の一族の井筒屋善右衛門家であった。 (以下つづく)
 

以下ウィッキより

南部信直の子彦九郎は

天正4年(1576年)、26代当主・南部信直の長男[1]として三戸の田子城にて誕生。

天正18年(1590年)、前田利家烏帽子親として元服し、その際に利家から「利」の一字を授与されて利正と名乗り、後に利直に改名する[2][3]

蒲生氏郷の娘 武姫と

正室:武姫 - 於武の方、源秀院、蒲生氏郷の娘(一説に養妹)[4]

どうしても、この流れをおさえないと、この陸奥の歴史を語れない。・・・

 

以下ウィッキより

伊勢商人(いせしょうにん)は、大坂商人近江商人と並ぶ日本三大商人の1つである[1]江戸時代伊勢国出身の商人で、安土桃山時代16世紀後半から、本所となる伊勢以外にも江戸、京(京都)、大坂(大阪)のいわゆる三都に出店し、日本全国に商売のネットワークを広げていったと言われている。特に松阪射和相可の街から有力な伊勢商人が輩出した。

近江商人(おうみしょうにん、おうみあきんど)または江州商人(ごうしゅうしょうにん)、江商(ごうしょう)は、中世から近代にかけて活動した近江国(現在の滋賀県)出身の商人大坂商人伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである[1]。現在でも俗に滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。

以下ウィッキより

盛岡藩は、盛岡城で奥羽列藩同盟と新政府のどちらに味方するべきか連日論議を続けていた。勤王攘夷思想のある有力者も、謹慎中の家老・東次郎など多数いたからである。そこへ京都へ上洛していた主席家老・楢山佐渡が帰国し、各国の情勢を伝えた。楢山は京都で会見した西郷隆盛らの態度に不信感を募らせ、同盟側に味方することを決めていた。家臣の一人は楢山を諫めるために切腹し、また一人は脱藩して抗議したが、楢山には伝わらなかった。盛岡藩は列藩同盟に味方し、久保田藩へ攻め込むことを決定した。

ただ、盛岡藩の影響が強いとはいえ独立した藩である八戸藩は、藩主南部信順が薩摩藩主島津重豪からの養子ということもあり勤王派で、久保田藩と密かに連絡を取り合い、秋田戦争には参加しなかった。また盛岡藩内でも、南北朝時代に本家三戸南部氏から分かれて南朝側として戦った歴史を持つ遠野南部氏は大評定で強硬に新政府へ味方することを主張して宗家と対立し、こちらも秋田戦争には参加しなかった。

朝鮮通信使

江戸期第一回 徳川秀忠 慶長十二年1607年から

  第十二回 徳川家斉 文化八年1811年まで

アゴアシ については幕府が全国諸藩に賦課金を・・・。

以下ウィッキより

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし)と言う。