以下コピペです
e-たわごと No.098
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~なぜ盛岡にやって来たのか~
ゴールドラッシュ 金はいつの時代も人を惹きつける。村井・小野一統が目をつけたものは、南部領内から産出する砂金であった。その頃、農民は農閑期に採取した砂金を竹筒に入れて保管し、通貨として使っていた。南部の砂金は純度が高いにもかかわらず、当時の金貨(小判)との交換相場は、砂金が1~2割安かった。 ここに目を付けた近江商人は南部の砂金を買い集め、これを上方で銀貨に換えると、ゆうに1倍半、5割以上の利を得ることができた。「南部の砂金割り」と呼ばれ、砂金で取引する商人は「ごわりごわり(5割5割)」と儲かったという話が伝えられている。 南部利直の経済政策 南部藩二十七代藩主南部利直は、慶長年間、盛岡城を築城したことで知られているが、経済感覚に優れていた名君であったという。 利直は産金に熱心で、鉱山師を優遇し、鹿角、佐比内をはじめ領内に20数箇所の金山を開発した。特に鹿角の白銀金山では、鉱石百匁から粒金や砂金五〇匁が採れたというから、文字どおり「一攫千金」であった。蛇足ながら、盛岡民謡「からめ節」の元唄は、当時の金山の作業唄であったという。 利直は泰平の世の訪れを読んで商人を優遇し盛岡を商業都市にすることを目指した。近江商人には大手門先、城の正面玄関に近い一等地を「京町」と名づけ、無償で土地を提供した。また、盛岡城下にやって来る百姓町人なら敵性国の者も自由に受け入れた。仙北町や津軽町などはその名残である。 盛岡に根を張った近江商人は、酒造業、質屋、呉服商を励む一方、上方と往復するいわゆる「のこぎり商い」で巨利を得た。盛岡から運んだ砂金のほかに生糸や海産物。帰り荷は木綿の古着や日用雑貨だった。 南部藩特産の染色原料である紫根は専売品であったが、移出税を払ってもそのメリットは大きかった。江戸や京都へ送られ、歌舞伎の「助六」が紫の鉢巻を締めているように江戸っ子に歓迎される江戸紫の原料となった。 紫根、山形の紅花の上方における代表的な荷受問屋は、小野の一族の井筒屋善右衛門家であった。 (以下つづく) |