以下ウィッキより
盛岡藩は、盛岡城で奥羽列藩同盟と新政府のどちらに味方するべきか連日論議を続けていた。勤王攘夷思想のある有力者も、謹慎中の家老・東次郎など多数いたからである。そこへ京都へ上洛していた主席家老・楢山佐渡が帰国し、各国の情勢を伝えた。楢山は京都で会見した西郷隆盛らの態度に不信感を募らせ、同盟側に味方することを決めていた。家臣の一人は楢山を諫めるために切腹し、また一人は脱藩して抗議したが、楢山には伝わらなかった。盛岡藩は列藩同盟に味方し、久保田藩へ攻め込むことを決定した。
ただ、盛岡藩の影響が強いとはいえ独立した藩である八戸藩は、藩主南部信順が薩摩藩主島津重豪からの養子ということもあり勤王派で、久保田藩と密かに連絡を取り合い、秋田戦争には参加しなかった。また盛岡藩内でも、南北朝時代に本家三戸南部氏から分かれて南朝側として戦った歴史を持つ遠野南部氏は大評定で強硬に新政府へ味方することを主張して宗家と対立し、こちらも秋田戦争には参加しなかった。