現在、模型というと、ガンプラとかキャラクターのフィギュアが主流だが、建築模型という分野は、それと違いドイツ系とアメリカ系のパーツにて作っていた。それに無いものは自作する。
おもちゃレベルの模型と想像されますが、コンピューターのなかった時代、2次元の図面を立体におこすことは、実際の図面を基に縮尺を正確に計算し3次元にすることになる。
日本の70年代最大の大型プロジェクトは原子力発電所であろう。原発の図面はアメリカGE(ジェネラルエレクトロニクス)社より購入したもので、日本の大手の会社が受注したものである。
東海村の現場の近くのプレハブには、図面を書ける設計士を大人数確保していた。
初めて建築模型の会社も参入することができた。仕事場所は、設計者たちのプレハブとは別の大型プレハブの2階だった。
縮尺した模型を作り上げることの目的は、現場の原発建築にかかわる大量の図面から、2次元の図面を立体にする中で、緩衝する(ぶつかる)部分をさがすことであった。5人から10人の人員で1年近くかかるようなものであった。最終的に130ヶ所以上の緩衝部分を発見?することになった。
受注した大手の担当者にとってやっかいなことと思われるのは、高円寺の小さな会社が作り上げた模型によって、発見された場所を特定し、それを図面の間違いだとして、図面購入元のアメリカGEに伝えることであっただろう。
アメリカ最新の技術に対して異議?を申すことになる。しかし間違っているものは間違っているということで、GEの設計グループが、この出来上がった模型を見にくることにな
った。
解決した。この仕事にかかわったことは、自分の人生にとっての分岐点かもしれなかった。
この次の年に台湾に行くことになるが、その台湾でも原発関係者と会ったことがある。当時の台湾でも国力をつける必要から同じアメリカGEから台湾に派遣されていた人であった。
参考:日本ではじめての原子力発電所である。【東海発電所は、日本で初めての商業用原子力発電所として、1966年7月に営業運転を開始しました。炉型は、英国で開発・実用化されたコールダーホール型の天然ウラン・炭酸ガス冷却型原子炉を原型とし、日本独自の耐震設計を取り入れた改良型です。
東海発電所の建設・運転によって得られた技術と経験は、その後の日本の原子力発電技術の基礎を築いてきました。しかし、東海発電所の炉型は原子炉や熱交換器などが大きな割に出力が小さく、軽水炉に比べて発電単価が割高であり、かつ国内唯一の炉型であるため、保守費や燃料サイクルコストが割高になっていたことから、1998年3月31日をもって営業運転を停止し、現在は、日本の商業用原子力発電所では初めての廃止措置工事を行っています東海第二発電所は、日本初の大型原子力発電所として1973年4月に着工(第1回工事計画認可)、同年6月に建設工事を開始し、1978年に営業運転を開始しました。】以上HPより