1972年6月2日午前4時荻窪のアパートを出た。妹には夏頃までと言っておいた。東北靑森の天気しか知らない、この時期に南の方へ行くことは後悔することになった。
関東地方は梅雨の時期になることを計算に入れていなかった。
しかし、朝早くバックパックのスタイルにてアパートから出ていくのも不審者のようだと思いつつ、一歩を踏み出した。荻窪から西の方に歩きだした。
環状8号を通り青梅街道をひたすら西へ歩いた。途中で職務質問にあうこともなく。
この昭和の日本は人手不足の景気が良くなっている時代であり、ホームレスということばは当時は無かったし、いうなれば浮浪者?変な人?であった。
もちろんウオークマンはまだ発明されていなかったので、トランジスタラジオが唯一の天気予報等の情報源として忘れてはいけないものとしてリュックに入れておいた。
立川福生といえばアメリカ軍基地と米軍の家族住宅があった。その米軍基地の脇をとおりながら、ここで「ベトナム戦争反対」と大きな声をはりあげることもなく、当時のアメリカの風俗ヒッピーのマネをして右手でピースをふりあげるなんてこともなく、米軍払い下げの歩兵のリュックに寝袋テントをしょって歩いているなんてことも、誰にも注目されているわけでもなく通り過ぎた。
問題はどこに寝泊り出来るかを考えていた。当時はコンビニもあるわけではなく、夜食として、コッペパンを買って飲みものは水筒の水。暗くなってきて多摩川の上流についた。河原の砂利が積まれている場所はどうかな。最初の夜はここで野宿と決めた。といっても不審者と思われないようにしないと。
今グーグルマップにて荻窪から福生までと検索し、徒歩で行くとしたら28.8kmで約6時間とでてくる。
6月3日 天気は小雨のち晴れ。多摩川上流からキャンプ場を目指して歩く。川井キャンプ場シーズン前にて誰もいない。料金は100円。
6月4日 日曜日雨のち晴れ、川井から水根沢キャンプ場へ。料金は200円。
6月5日 月曜日天気は雨のち晴れ。小菅まで歩く。
6月6日 快晴上日川峠まで(現在かみにっかわ峠)は地図では検索できない。大菩薩峠の方がわかりやすい。この大菩薩峠でその頃何が行われていたか(連合赤軍の)は、後で知ることになる。駐車場にテントを張ること許可されて寝た。
大菩薩峠から甲府盆地に下りながら塩山を通過し天気も晴れから雨になり、夕方ころには笛吹川に近いところのそば屋に入る。東京荻窪を出てからキャンプ自炊ではなく久しぶりの外食で玉子丼などを食べた。そこを出てテントを張り寝るところを探す。後で思うとこれが運命の分かれ道というところかと。というのはそば屋は橋の近くであったので、橋から笛吹川の河川敷にて中洲を見ていると、中洲で自転車遊びしている子供たちがいた。モトクロスみたいにバイクも入り込んでいた。これだけ広い中洲であれば充分であり、ここならいいだろうと、川の中洲にテントを張り寝ることに決めた。今思うと警察に通報されなかったものだ。・・・・・・