田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan -13ページ目

田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

1983年6月26日アメリカ再入国

友達の車で出発。7月30日サンフランシスコまで

8月1日シアトルまで2日3日ナショナルパークめぐり。

4日サクラメントからサンフランシスコ 5日6日はサンフランシスコ 友達帰る。

8月7日アメリパスを240ドルで購入。15日分で全米どこへでもグレイハウンドバスにて行ける。これで西から東へから南を回って、大陸一周に。

8月10日オハイオ クリーブランド

8月11日マサチューセッツ ボストン

8月12日 New York

8月13日 ニューヨーク市内を見て回る。2.75ドルでエンパイヤステートビルへ。

 それからブラブラしていたら、なんか新しいビルがオープンということで、誰でも入れるのかどうかわからないけど

名前がトランプということで、なにかゲームセンターかラスベガスのようなものかな。。

 入ってみた。ホテルの大きなフロントのようであった。大きなステップのほうから、見られていた。背の高い男子。なんか視線がということは、これは場違いの格好で来たのでかな。なにしろバックパックの東洋人が入ってきた。警戒されても、、、

・・・ トランプタワーだった。

あの彼が大統領になるとは・・・・・・

※42年前のニューヨークでした。

 

以下ウィッキより

このビルはアメリカの不動産王ドナルド・トランプエクイタブル生命保険が共同所有し、デア・スカット (Der Scutt) が設計を担当した。HRH Constructionがこのビルの開発を担当した[1]。高さ202mの58階建てで、ニューヨークでは52番目の高さのビルである。

1983年2月14日にアトリウムとショップのグランド・オープン・セレモニーが行われ、オフィスとマンションはその後すぐにオープンした。11月30日にショップは正式にオープンした。高さ5階建て分のアトリウムには滝が流れている。

吉田拓郎引退というニュースで思い出した。

昔の手帳をひっぱりだし探した。

1980年3月11日、カメラマン大川奘一郎氏より連絡あり、ロスアンジェルス フランクリンプラザへ行ったら、拓郎さんのグループと新婚さんの〇〇子さんも。

 翌日レコードジャケット撮影のため大川さんを、マリブにあるスタジオへ64年型VWにて送る。

 

以下ウィッキより

拓郎自身初の海外レコーディング作品で[1]、日本からミュージシャンは誰一人同行させず単身渡米し、プロデューサーアレンジャーに、少年期のあこがれの人物であるブッカー・T・ジョーンズを起用し、スタッフ全員を外国人で固めた。スタジオ・ミュージシャンの一人に、元ザ・バンドガース・ハドソンを起用した。そのためか、このアルバムは拓郎とザ・バンドの邂逅とともにザ・バンドの公式ウェブサイトで紹介されている[2]

アルバムタイトルは、ザ・バンドのドキュメンタリー映画『ラスト・ワルツ』(マーティン・スコセッシ監督)の舞台となったロサンゼルス郊外マリブにある『シャングリ・ラ スタジオ』での録音によるため。

1849年はフォウテイナイナーズ

以下ウィッキより

カリフォルニアの名前は永久にゴールドラッシュと結びつけられ、その結果、「カリフォルニア・ドリーム」と呼ばれるものに結びつけられた。カリフォルニアは新しいことの始まる場所として認識され、一生懸命働くことと幸運があれば大きな富となって返ってくると考えられた。歴史家のH・W・ブランズはゴールドラッシュの後の時代にカリフォルニア・ドリームがアメリカ合衆国の他地域に拡がり、新しいアメリカン・ドリームの一部になったと述べた。

 

何世代もの移民がカリフォルニア・ドリームに惹き付けられた。カリフォルニアの農業[118]、石油採掘業者[119]映画制作者[120]、航空機製造業[121]、およびインターネット事業[122]がゴールドラッシュの後の数十年間にそれぞれの興隆の時期を持った。

 

 

カリフォルニアに起こったゴールドラッシュでした。 万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようと西部に向かい、600ドルを稼ぐと、直ちに漂流仲間のいるハワイへと向かいました。

 

日本で弘化5年1848年にギルロイは。。

以下ウィッキより

カリフォルニアが1848年にアメリカ合衆国に併合されたことに続いて、シエラネバダ山脈で金が発見され、それまでは細々とだった東部州からの移民が大挙押しかけてくるようになった。元々のカリフォルニア土地所有者の多くが土地を切り売りし、不法占有者のために失い、あるいは所有権に関する聞き取り調査で取り上げられ、サンイシドロ周辺の地域はプレザント・バレーと呼ばれるようになった。1870年3月12日、ギルロイ町として州議会により公式に法人化された。

天保12年1841年14才の中浜万次郎が。。

ウィッキより

伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し[2]、この島でわずかな溜水と海藻海鳥を口にしながら143日間を生き延びた[2]。同年5月9日(1841年6月27日[4]、万次郎達は、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカ合衆国捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料として海亀を確保しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された[2]

慶応4年1868年より10年前の安政五年1858年に

以下ウィッキより

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行った弾圧。 当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた。

幕府の大老井伊直弼老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊王攘夷一橋派大名公卿志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。

今から154年前江戸時代末期の慶長4年1868年に戦があった。

ウィッキよりコピー

盛岡藩[編集]

盛岡藩は、盛岡城で奥羽列藩同盟と新政府のどちらに味方するべきか連日論議を続けていた。勤王攘夷思想のある有力者も、謹慎中の家老・東次郎など多数いたからである。そこへ京都へ上洛していた主席家老・楢山佐渡が帰国し、各国の情勢を伝えた。楢山は京都で会見した西郷隆盛らの態度に不信感を募らせ、同盟側に味方することを決めていた。家臣の一人は楢山を諫めるために切腹し、また一人は脱藩して抗議したが、楢山には伝わらなかった。盛岡藩は列藩同盟に味方し、久保田藩へ攻め込むことを決定した。

ただ、盛岡藩の影響が強いとはいえ独立した藩である八戸藩は、藩主南部信順が薩摩藩主島津重豪からの養子ということもあり勤王派で、久保田藩と密かに連絡を取り合い、秋田戦争には参加しなかった。また盛岡藩内でも、南北朝時代に本家三戸南部氏から分かれて南朝側として戦った歴史を持つ遠野南部氏は大評定で強硬に新政府へ味方することを主張して宗家と対立し、こちらも秋田戦争には参加しなかった。