約47年前の新宿
過去の整理をしていたら、これが出てきた。
1986年6月当時田子町役場地域振興課宝田班長から、『兼高かおる世界の旅』というTBSのテレビ番組を録画してあるので、テープを見てほしいとのことだった。それで、わかっているようなことを知らせてほしいとのこと。
役場からの頼み事?
親父の他界にて、約6年滞在していたアメリカ合衆国カリフォルニア州から1984年に田子町に帰り、商工会青年部活動をしていた。町からは、長期アメリカ滞在のことから、なにか情報を知りたいということで、連絡があったようだ。ビデオデッキをもっていないので電気屋さんにて見た。その録画された番組は「ガーリックフェスティバル」とあり、どこかの町が映っていた。
昭和40年代から田子町農協が、にんにく生産にチカラをいれて生産量日本一というところまで増えていた。そのことから「にんにく」という農産物をメインに「まちおこし」しようと模索し、3月に再選された渡部剛己町長が、なお一層の「にんにくの町」として「まちづくり」をしようとの政策を打ち出した。町ではどんなことでも「ニンニク」に関してのことを知りたがっていたようだ。放送された「兼高かおる世界の旅」で、今回にんにく関連らしいと田子町の担当者におしえてくれたのが、当時町の農業関係等のむらおこしアドバイザー件コンサルタントの田中さんという人であった。
昭和60年代、田子町では全国に先駆けて、「むらおこし」の取り組みを始めていた。まず「田子川の河川改修事業」に予算がついて着工をすることになり、その代替え地取得にて、地域商業者による「サンモールたっこ商店街オープン」により、全国的にこの小さな町が、その将来が注目されている中で、町の基幹産業である農業に対して、なにかを必要とされていた。
現在の様にインターネットが無い時代であったので、テレビ局各社で視聴率の取れる一つに、海外情報紹介という番組が必須であった。日本の経済発展により海外に目を向けた番組が注目されるなか「兼高かおる」の番組は日本の戦後テレビ局スタート以来の長寿番組であった。
日本人を魅力ある海外に目をむけるためであったが、皮肉なことにスポンサーはパンアメリカン航空という日本航空ではないというのが戦後の雰囲気を引き継いでいたようでもある。
その渡されたテープの内容は85年7月に撮影した番組のなかに「ギルロイにんにく祭り」というカットがあるとのこと。さっそくTBSに電話したら、制作したのは下請け某会社ということで、ギルロイという町の情報を得たくてそこに連絡してみた。一応ギルロイガーリックフェスティバルアソシエーションの連絡先住所電話はわかった。
またギルロイ市の「にんにくまつり」は毎年7月第4週金土日の三日間開催とのことがわかった。1986年は7月25日(金)26日(土)27日(日)だった。
パスポートの期限は切れてはいないので、役場の担当者には「それじゃ行って見てくるから」ということで、7月22日はつかり6号で八戸駅をでた。新幹線は盛岡駅からなので「やまびこ20号」で上野着京成スカイライナーにて成田空港着。成田発午後5時45分のシンガポール航空に搭乗、同日午前11時35分にロスアンジェルスに到着した。完全自費渡航。LA空港にはダウンタウンで日本食レストランを経営していた妹から出迎えてもらった。
この渡航は大義名分にて「田子町のまちづくり」のため、という心持ちだった。このことは、今思えば親父がやり残したことを「町のために協力しろ」ということであったようだ。
人生には『縁』という不思議さを感ぜざるを得ないことがある。この「協力しろ」という同じような言葉を、実際にかけられた「人物」とギルロイ市にて会えることになったのは、その次の年であった。
1986年夏、ロスアンジェルス市ダウンタウンのリトル東京にある食品卸会社に勤めていた宮崎県出身の柴田君に連絡したら、家族連れで同行しようということで、休暇をとってくれた。7月24日(木)朝、柴田ファミリーとダットサン(サニー)でロスアンジェルスから101号線から5号線を北上し、ギルロイ市に向かうことになった。午後4時ごろギルロイ市に入り、モーテルを探したが、どこへいっても開き室無しとのこと。市内を外れツイン55ドル(当時)少し高いモーテルに泊まることにした。
25日(金)10時前にガーリックフェスティバル会場に向かう、指示通りにいくと駐車場は畑のようだ。そこに駐車し会場に入るため並んだ。「祭り」というので無料が普通という日本の感覚でいたら、入場料を徴収するとのことで驚いた。入場料金は大人2ドル。パンフレット1ドル。1986年7月25日金曜日天気加州西海岸100%晴れ天気予報必要なし。数えて第8回目となるギルロイガーリックフェスティバル初日の午前中は混んでいないから家族子供連れの場合、おすすめだった。全米において「にんにく」をテーマにした祭りを開催している町がたくさんあるらしいが、ギルロイの場合「にんにく祭り」を始めたきっかけは、ある人物(大学教授であったルディマローン氏)の提案で商工会議所のメンバーたち(ドンクリストファー氏)が、フランスのある村(ギルロイ市と姉妹都市になる)で行われていたものを視察に行ったことから始めることになった、第1回目はにんにく加工をしているドンクリストファーの会社の敷地にて始めたダンスパーティからだということを、後から知った。
この快晴の空気の中にいると、約8年前の1978年アメリカに入国したことを思い出した。その前の年に台湾台北市の広告写真スタジオを2年契約を1年に短縮した理由は「アメリカに行ってきます」であった。ここから人生設計がずれて来たようだ。どうしても当時アメリカ文化にどっぷり感化されていた世代には、アメリカに上陸することであった。
アメリカ入国目的は『日系人の写真』をテーマにした写真を撮るということだった。第二次大戦中アメリカ国内に住んでいた日系人が1941年12月以降、敵国日本に関係する危険な民族人種とみなされて、日系人全員財産没収され砂漠地帯の収容所に隔離されたことが史実としてあり、そのことに関心があってどうしてもその収容所のひとつの「マンザナ」を訪ねたいとのことであった。
北カリフォルニアのギルロイという街に足を踏み入れたことは、「なにかの縁で」あることの予感はなかったし、ギルロイの歴史も全く未知であった。この町と姉妹都市となることは、その時は予想もしなかった。
1986年ギルロイガーリックフェスティバルを見て田子に帰ってから、全く反応が無い。まったくもって行政はやるきがない連中だと言っても、自分が自費で勝手に行ってきたことであったので、何かの期待を望む方がおかしいことなのだろうか?と思いながら、約10ヶ月たった1987年5月になってから「ギルロイ訪問報告会」なるものを役場有志で山本産業課長、市橋建設課長が(当時)発起人になり3000円会費で開きたいと連絡が来た。
ギルロイにんにく祭りのことなどを役場職員、農協職員、商工会関係者に説明した。持ち帰った調味料などでバーベキュー試食となり、今年は有志で渡米したいとの期待感ある話になり盛り上がったが。
それは日本国内北から南まで町村行政にとって必要なアイテムとして「国際交流」を柱にすることが盛んになってきた。どうゆう手段(てがかり)を見つけても、そこにこぎつけることが、経済大国をめざした日本国の課題としても必須のことであった。
84年田子町に帰ってきて以来、商工会青年部の活動にも積極的参加していた。この田子町の一番の大福山公園にもっと人が来るような事にしようよ。と話が盛り上がってきた。