君が好き -8ページ目

君が好き

アイドルの話でもしようず。

男女平等の価値観がまだまだ浸透せず、磯野家さながらに男性は外で働く、女性は家庭を守るステレオタイプが生きていた昭和の時代、カルビーの「かっぱえびせん」のCMで、こんなキャッチコピーがあった。

「かしこい母さんのかっぱえびせん」

ご存じの通り、「かっぱえびせん」はカルビーを日本最大のスナック菓子メーカーに押し上げた大ヒット商品であり、先駆者である湖池屋からポテトチップスのシェアを奪った会社である。
そのカルビーの躍進に、このコピーがどれほど効果があったかはわからないが、このコピーを見るだけで当時の男性が抱く女性への偏見が見て取れる。
すなわち、「女は褒めておけばいいだろう」という偏見である。
これは平成になってからなのだが「すてきな奥さん」という雑誌は今も発売されている。
昭和の時代には、女性を特に視聴者層にしたサスペンスには「美人弁護士」や「知的なマダム」など女性を褒める言葉をタイトルにしたものがあふれていた。それはそういう言葉が女性に支持されていた証拠になるだろう。そして推測すると、それを仕掛けていたのは「女は褒めておけばいいだろう」という偏見を持った男性だったと思う。
なぜならば、昭和の男性社会の中で生きていた男性にとってこれらの価値観は信じられないから、新鮮に映るのだ。
たとえば、逆にこれを男性に置き換えてコピーにしてみると、売れないことは想像に難くない。
「かしこい父さんのかっぱえびせん」などと宣伝されれば、買いたくなるどころか、これをレジに持っていくことでかしこい父さんを気取っていると思われるのが恥ずかしくて、買えなくなるのが男性なのだ。
「すてきな夫さん」なんて本だって恥ずかしくて読めない。
そういう男性にとって、コピーを無批判に受け入れ、「わたしってかしこい母さんなの」と思いながらかっぱえびせんを買ったり、「すてきな奥さん」という本を、「わたしってすてきな奥さん」と思いながら読める女性が男性には不思議なのである。
このような男女の違いの典型的なのは誰かに物を贈るときだ。男性は「つまらないものですが」とへりくだって渡すのに対して、女性は「これとてもおいしいんですよ」と言って渡す。
内心では「かしこい父さん」になりたいと思っていながらも、表向きではへりくだって、「おれはそんなに立派なもんじゃないダメ親父」という顔をするのが昭和の男性であり、「わたしってかしこい母さんなの」とうきうきでかっぱえびせんに手を伸ばすのが昭和の女性なのである。
そしてそのような昭和の男性にとって、昭和の女性のポジティブすぎる自己肯定感は苦手なものだった。昭和の男性の価値観からすると、「かしこい」や「すてき」というのは自分から宣言するものではなく、他人様が決めるもので、その他人様にたいしては「ぼくはバカです」とか「すてきなんてとんでもない」とへりくだるのが美学なのだ。
だからこそ、藤崎みくりなのである。

てなわけで、昨日は藤崎みくりさんの24歳の生誕祭、#みくり24に行ってきました。
今月初めに延岡のくろいわ祭りで見て二週間ぶり。
なかなかこんなに短期間でみくりさんを見られる機会もないので、この日はライブを見られる楽しさに加え、冷静にみくりさんの魅力を感じることもできました。
そこでいちばんに感じたのが、「かしこい母さんのかっぱえびせん」とは真逆のそのスタイルなのかと思ったのです。
これはソロ初期からプロデュースしていたひぃかさんの影響も強いだろうし、女性にしてはさっぱりしているみなみぶちょーの影響もあり、正直、ご本人が望んでいたスタイルではないのかもしれないとは思います。むしろご本人は、並みのアイドルと同じく、なにをやってもヲタクたちから「かわいい」と褒められる姿を望んでいたのかもしれません。しかし、周りの影響もあってそのスタイルをやらなかったからこそ、並みのアイドルではない藤崎みくりさんが出来上がったのだと感じました。
みくりさんのステージと言えば、とにかく楽曲のパワフルさが売りです。話し声からは想像もつかないほどの野太い声量で攻める歌声は、コールするヲタクの気持ちを高ぶらせ、狭いステージを所狭しと飛び跳ねるダンスの力強さも圧倒的です。
ただ、そのパワフルな楽曲の合間に見せるエッセンスもすごく効いていると感じました。アイドルはプロの歌手でもダンサーでもありません。歌を聴かせるだけが仕事ではなく、踊りを見せる事だけが仕事ではありません。むしろぼくはアイドル本人がファンの間で人気者となることが大事で、歌やダンスもそのための手段だと考えています。
そして藤崎みくりさんがステージで見せるエッセンスとは、一言でいえば「自虐」。
MCに入った瞬間に「MCは苦手」と自虐したり、「もう少し痩せます」と言ってみたり、へりくだっているのです。途中の企画で天の声をしていたみなみぶちょーが「みくりは友達がいない」と言われてるシーンもありました。
それを見ているヲタクの反応もシニカルです。
みくりさんが「MCが苦手で」と言えば、「嘘だ。めちゃくちゃ得意じゃん」とわざとハードルを上げる声が飛んだりと、なにかツッコミを入れようと構えています。
でも、ヲタクたちにとってはそれが男らしい愛のカタチなんです。
アイドルは、褒められたいアイドルと大げさに褒めるヲタクという関係が普通です。もちろんその関係性を否定する気はありませんし、それはそれで素晴らしいのですが、自虐気味にへりくだっているアイドルにシニカルにツッコミを入れるというののほうが、男性にとっては自然なコミュニケーションなのです。好きな女の子に意地悪をしてしまうという、ある意味女性が不快になる、小学生時代から続く男性のさがなのです。そしてそれをみくりさんは受け止めてくれるから素晴らしいのです。
しかもそうやってシニカルにツッコミを入れていたヲタクも、みくりさんが歌を唄いだすとその迫力に叫ばないといられなくなります。あんだけへりくだっていたのに、圧倒的に力強く、激しいパフォーマンスを見せてくれるんです。
そのギャップも最高じゃないですか。

結果的にみくりさん自身が望んた形ではないかもしれませんが、男性が苦手な「かしこい母さんのかっぱえびせん」のような女性の自己肯定を消して男性のようにへりくだってくれる。しかも、女性が嫌いな、好きな子にちょっかいを出すような男心を受け止めてくれる。そんなところが、藤崎みくりさんの魅力かなと感じました。その関係性で、ステージとフロアの間にゆるい空気が流れるからこそ、ゆるキャラ系アイドルと言われているのもあるのでしょう。

そしてこれは24歳という大人になるとさらに磨きがかかってきたと感じました。正直、普通のことではありますが、アイドル「かわいい?」ヲタク「かわいいよ」の関係は年齢を重ねるとつらくなるものです。それに比較して、みくりさんの魅力は年を重ねるごとに増していく魅力だと思います。
まだまだずっと歌い続けて欲しいです。





 

2020年に世の中を暗くしたコロナ禍は、アイドルにも大きな影響があった。まずイベントが減り、かろうじて開催されたイベントでもライブでの声出し禁止や交流会での握手廃止など、心持ちヲタクは元気を失い、アイドル現場が大きく勢いを失っていた。
そんな時代にメンバーカラーのツナギを着て、オリジナルだからそうなのだが聞いたこともない歌を元気よく歌い踊るグループがMonster Factoryだった。ぼくが彼女たちを初めて見たのは、ユニドルも出演しているようなイベントで、アイドルでもカバー曲でヲタクを引き付けるようなアイドルが多いイベントだったので、なおさらそのツナギという奇抜な衣装と、オリジナル曲の印象が強く、妙に異色のアイドルに映ったのを覚えている。
当時は5人ほどメンバーがいたと記憶しているが、その後メンバーチェンジや、衣装もツナギから黒を基調としたシックなものに代わり、それからメンバーカラーを基調にした私服風になったかと思うと、ツナギ以来のメンバー統一風の衣装に戻ったりと紆余曲折を重ねたようだ。
現在のメンバーはドルフィンエンターテイメント研究生時代からのオリジナルメンバーの優羽美さん、百華さん、美有紀さんの三人。
そんなMonster Factoryを今日見てきた。
つるフェスというお祭りのゲストで、会場はコンサートでも使うような大きなホール。そこでたっぷり30分のステージのセットリストは、「Monster Factory」「Monster Factory Party Night」「Fairy Tail」「革命の時」「地球に生まれた冒険者」のオリジナル曲五曲。
オリジナル曲だから当たり前だが、曲や歌詞にグループ名が入っていることもあり、Monster Factoryでないと成り立たないステージだった。その個性は、やはり初期の頃から感じていた異色の印象が強かったが、むしろそれがいい意味で完成されているように感じた。
いまではYoutubeのチャンネルを2つ運営しているMonster Factoryは、ドルフィンエンターテイメント研究生時代からYoutubeで発信をしていて、初期から力を入れていた。また当初からオリジナル曲を持っていたことも大きく、独自の成長を遂げているグループである。
事務所の先輩に元26時のマスカレイドの江島綾恵梨がいたこともあり既存のアイドルに影響を受けている面も多々あるだろうが、「Monster Factory」や「革命の時」の歌詞を聴くと、これまでのアイドルの概念にないスタイルを打ち出そうと初期から意図していたことが感じられる。
そのため、既存のアイドルとは少し違うアプローチで進化していたようだ。

その進化の経過を現在もっとも感じられるのは、グループも軌道に乗り出した去年に発表された「Monster Factory Party Night」である。

この曲はミドルテンポのなじみやすいメロディーの曲で、サビになるとフロアのファンが右手を上げたり、左手を上げたりする振りがある。
これが本州のアイドルがやるのならば、BiSやBISHなどがよくやるシンプルなフリコピ曲として感じられるのだが、Monster Factoryはフリコピ文化不毛の地・九州のアイドルである。
ではなぜこのような曲が生まれたかというと、ぼくはこれはコロナ禍の中で独自の成長をする上でのたどり着いたひとつの結論なのだと感じている。
つまり、ライブアイドルはファンと一緒にライブを盛り上げることで、ファンにカタルシスを与えるものである。
多くのライブアイドルは曲に入る前に「盛り上がってください」と言うし、ファンだって演者とともに盛り上がることで、何度も聴いたことのある曲でもその場でステージにあおられ興奮することで、一回のライブがかけがえのないものになる。その結果が、毎週同じ曲を聴いてもどっぷりはまってしまうことになる。
ただし、コロナ禍の頃にデビューし、それから二年以上マスクを外すこともできず、ファンは声を出せず、換気の義務づけられた会場では、コロナ以前と同じ盛り上がり方をするのはむつかしい。
そこで、それでもファンと一緒に盛り上がろうと考えた末のアンサーがあの「右手を上げて飛び跳ねろ」なのである。
そこには、たとえ結果としては同じ形に見えても、安易に真似をするのではなく、自らの手でつかみ取ったMonster Factoryのスタイルが確実にある。
そのように真似ではなく、自分たちらしさを確実にオリジナル曲の中で積み重ねてきたからこそ、Monster Factoryのスタイルはアイドルの中では異色に見えてしまうが、素晴らしいのだとぼくは今日、改めて感じた。
独自の進化を遂げているグループなのだ。
それがアイドルとして正しいのかはわからない。
ただ、これまでにない方向で進化することは、なにかを変える力を生んでいるのはたしかである。
そうやって既存のアイドルとは違う形で完成度を高めているMonster Factory。
その力はいつか、まさに怪物のように大きなものを動かす気がぼくはしている。

 


 

昨日は一年間楽しみにしていた推しの生誕祭「ういたんさん2023」だった。
生誕祭は普通のイベントよりも年に一回しかないプレミア感があって常に楽しいものだけど、それが推しの生誕となると格別ってなわけで、終わるのが寂しくなるほど楽しかった。
イベント終了後は楽しい時間から帰宅するのも惜しく、余韻に浸りたいこともあって、数名のヲタさんたちと打ち上げに、とあるチェーン店に食事に行った。
たまたまそのチェーン店が、いくらとサーモンの海鮮丼をメニューに出していた。
一緒にいた方が「いくらとサーモンが東雲さんお好きだったよ」と助言をしてくれたことで海鮮丼ををオーダーし、チェキと一緒に撮影して、おいしくいただいた。
んで、ヲタさんたちと別れ、帰りに車を運転しながら、ふと考えた。
ぼくはういたんさいのあとじゃなかったら、この海鮮丼を食べていただろうか?
たしかにおいしかった。
ただ、また食べたいかと言われたらどうだろうと。

そのお店はチェーン店らしく、多彩なメニューでとんかつや唐揚げ、ハンバーグも置いているようなお店だった。なんでもあるけど、これを食べたいというのが思い浮かぶお店でもない。
逆に世の中には海鮮丼だけで行列のできるようなお店もある。
この違いはなんだろうと。
そこで更に思い出したのは、その食事中になぜか盛り上がった焼肉の話である。
それも「あそこの焼肉は安いんだけどタレがおいしくない」などという、ひどいヲタクの世間話だった。
ただ、それを思い出して考えた。
逆を言えば、タレがおいしいだけで焼肉屋に行くきっかけになる。そして焼肉のタレは大体のお店が製造方法が秘伝で、そういうお店のタレはニンニクがきつかったり、逆に果物の甘みが強かったりと、市販の焼肉のタレよりもずっと癖の強いのが多い。
結局、人の心を射止めるには、普通においしいだけではだめで、焼肉のタレのように、ちょっと癖のある特色が必要なのだ。

15年ほど前、秋元康は「ファンの人は音楽よりもイベントの方が好きでしょ」と発言し、CDに握手券を付けた。その癖の強い発言ら世間からは否定されたものの、その流れが現在のアイドルブームを作ったと言っても過言ではないだろう。毎週のように我々の生活の中にアイドルのイベントが存在しているのは、秋元康が「会いに行けるアイドル」の文化を作った功績だ。
それから15年。ご当地アイドルブームなんてのもあったが、少子化で弱るこの国の国内経済と同様に、アイドルも供給過多になりつつある。
そんな中、10年ほど前に「ポストアイドル」と呼ばれたももいろクローバーを始めとする、癖の強い、これまでのアイドルにない形のアイドルが生まれた。これまでの焼肉にはない癖の強いタレを生み出すように、アイドルやそれを取り囲む大人たちが試行錯誤を続けた結果であろう。それらのグループは場合によっては、正統派のアイドルよりもその個性の強さで多くのファンに受け入れられた。
アイドルのもっともファンを増やす要素はビジュアルだとは思うが、かわいいだけではだめなのである。そこにプラスアルファがないと、ファンにとってアイドルが特別な存在にならないのだ。そういう意味で、ポストアイドル的なアイドルは、正統派アイドルとは違うことをやることで、プラスアルファがわかりやすかったため、受け入れられているのだと思う。
昨今、その傾向は強くなっている気がする。
最近では、老人のぼくにはアイドルヲタクであっても「ついていけない」と思う過激なパフォーマンスをするジャンクなアイドルグループもたくさん生まれているし、そういうグループがこれまでにない癖の強さから多くのファンに支持されているという話も聞く。
そんななか、Re:fiveはコンサバティブとも言えるほどの正統派のアイドルグループだ。これには理由があって、前身のMONECCO5が「天草市唯一のアイドル」という特色を持っていたので、ジャンクな方向に傾倒する必要がなかったのが要因だと思う。
ただ、だからこそ東雲ういは最高なのだ。

あくまで老害の偏見に満ちた持論であるが、これまでのアイドルにない癖の強さをグループ全体で表現しているポストアイドル的なグループは、アイドル本人のタレント以上に、周りの大人たちがデザインした世界観が強調されることが多いと感じている。少女たちが、中年男性が主流のヲタクのニーズを読み取ることなどむつかしく、それらのニーズを読み取った大人たちがまずクリエイティブにアイドルのスタイルをデザインし、そのデザインを与えられた少女たちが大人たちの理想のアイドルを演じる。もちろん各メンバーごとに特色はあるだろうが、そのひとりひとりの特色の前に、まずは大人がデザインしたグループの方向性が優先されている印象だ。そのデザインが受け入れられなければ「性格が真面目なのでBiSについていけない」とBiSを脱退したテラシマユフのようになってしまうのだ。
それに対して、正統派アイドルというのはアイドル本人のタレントに依存している部分が強い。LinQが第一期生オーディションのときに、上原あさみが「こういう女の子に来てほしい」とばらばらの個性を14個紙に書いて並べたCMを流していたが、正統派アイドルだからこそ、メンバーひとりひとりのばらばらの個性がぶつかりあうことで、癖の強い焼肉のタレのように、癖になるグループになるのである。それがわかっているから、あのようなCMが流れ、LinQがローカルアイドル離れした成功をしたのだとぼくは思う。

正統派のアイドルだからこそ、他とは違う特色が必要。
東雲ういさんは当初からその意識が非常に高かった。
一年半前の研究生お披露目の時からいわゆる「#ういちゃんポーズ」は開発されていた。研究生時代の東雲さんのチェキやデジショでは「#ういちゃんポーズ」で撮られた方も多いはずだ。
昨日の生誕祭では入場者にお菓子と一緒に東雲さんのメッセージカードが配られたけど、そのひとつひとつにはそれぞれダジャレが書かれていた。ダジャレに関しては、去年の生誕祭でもクライマックスで披露されたが、研究生の頃から、かわいい顔しておっさんみたいなダジャレを言うそのキャラが、東雲さんの特色のひとつとなり、たくさんのヲタクを楽しませていた。
そのように他のアイドルにはない武器を開発し、自分の特色にする力が東雲さんは強いのだ。
歌って踊れる正統派アイドル、だけど、15年ほどのアイドルブーム以降、アイドルヲタクの目は大変肥えたものになってしまった。歌えるのも踊れるのも当たり前、アイドルだからかわいいのも当たり前、その中で他のアイドルにはない長けたものを努力して生み出さないと、ファンは楽しんでくれない。だから東雲さんは、自らの特色を開発する。

最低限度の外食レベルの料理を出すチェーン店ではなく、人を虜にするような焼肉のタレのような癖の強さを生み出し、ファンを楽しませる。

アイドルとしてやらなければいけないことだけじゃなく、プラスアルファを加えるアイデアと努力を惜しまない。

だから東雲さんは最高なのである。
去年の年末には、メンバー初のSHOWROOM毎日配信もやり遂げた。
このようにコツコツとチャレンジして、いわゆるアイドルとしての歌やダンス以外のプラスアルファの実績を積み上げているのが東雲ういさんなのである。


もちろんそのような努力を惜しみなくできるの環境も東雲さんは結果的に幸運だったと思う。もしかしたらやらざるを得なかったのかもしれないが、運も実力のうちだ。
東雲さんのいちばんの幸運は、無名の頃の運営サポートから、研究生お披露目、そしてメンバー昇格までまったく同じ日だった同期、西園寺つきさんの存在が大きいと思う。
同期と言っても西園寺さんは東雲さんより四つも年上である。ぼくらみたいな老人ならば四つぐらいの年齢差は全くと言っていいほど感じないが、十代の頃はひとつ年上の先輩でもずいぶん大人に見えるものだ。それが四つも違う。東雲さんにとって西園寺さんは手の届かない大人に見えていたはずだ。
更に西園寺さんはこれまでのMONECCO5、だけではなく、他のアイドルと比較しても、なかなか見つからないような稀有なカリスマ性の持ち主である。
西園寺さんは去年の生誕祭で「ういちゃんは負けず嫌いでがんばってる」とぼくらの知らない東雲さんの一面を教えてくれたが、そのカリスマ性あふれる西園寺さんに追いつき、追い越そうと、西園寺さんの同期だからこそ東雲さんががんばられていたのも強いのだと思う。自分らしさを磨き、自分のできることをやってきたからこそ、チェーン店に並ぶ無個性な料理ではなく有名店のそこでしか食べられない料理のような、唯一無二の東雲ういができあがったのだ。
そこには切磋琢磨する偉大な同期の存在があったことが幸運だったと思う。

そんな唯一無二の東雲ういさんの世界があるからこそ、昨日は笑いあり涙ありの、一言でいえばいかにも「東雲さんらしい」、楽しさあふれる生誕祭だった。
運営さんも東雲さんの唯一無二の存在感を理解していると感じたのが、ゲストの熊本Flavor、吉川りおさんを交えての「クイズ東雲が正解です」という企画だった。
これはRe:fiveと熊本Flavor、吉川りおさんが「犬に付けたい名前は?」「好きな戦国武将は?」「偉大な総理大臣は?」といった問題に、東雲さんがどう回答するのかを予想するゲームで、なんと柊わかばさんとJunior Flavor熊本のトモカさんが全問正解してしまうぐらい、東雲さんの思考は読まれていたけれど、それだけみんなが東雲さんの考えだけで楽しくなる素晴らしい企画だった。
ステージも普段は落ちサビ前が歌割なのでなかなか見ることができない「This Summer」の落ちサビを東雲さんが歌ったり、アイドル大好きな東雲さんの考えたセットリストらしくカバー曲も四曲と多めに披露され、いつも以上に東雲濃度が高い、東雲ヲタにはたまらないステージだった。
曲や企画、MC、どこでも東雲ういさんらしい東雲濃度の高いライブ。その東雲濃度を感じながら、これこそが東雲さんの特色だよなとぼくが感じたのは、一言でいえば前向きということだと感じた。
とにかく、東雲ういらしいステージを見てると、東雲さんって本当に前向きなんだなと感じる場面が多かったのだ。
東雲さんの考えられた衣装、セットリストといつもと違うステージだったからこそ、段取りの違いなどでメンバーとPAさんで確認を取り合うような場面もあった。だが、そのトラブルさえ楽しむように笑顔を浮かべ、ルンルンで踊る東雲さんを見て、本当に東雲さんらしいなと感じたのだ。
熊本Flavorのステージ中に、ステージ上の壁が倒れる珍しいトラブルがあったのだが、それさえも、「東雲ういの生誕祭だから仕方ない」という空気がフロアに流れているほどだった。
なにか問題が起こっても「ういちゃんらしい」で片付いてしまう空気。それこそが会場で強く流れていた東雲濃度であり、たとえトラブルでも前向きに楽しく処理してしまうことをファンたちが東雲さんらしいと感じてしまうほど、東雲さんの存在の大きさを感じることができた。

実は9月30日が誕生日なので、東雲ういさんにとってはこの「ういたんさい2023」のステージが、14歳最後のステージだった。
百戦錬磨の先輩・柊わかばさん、強い同期・西園寺つきさん、仲良し後輩・空豆かれんさんとともに、Re:fiveはもっともっとたくさんの人に、この楽しさを届ける義務がある。
東雲ういさんという唯一無二のアイドルを知らない人は損をしているので、その人たちにも東雲さんの世界を伝えなければならない。
それが東雲さんにしかできないことだからだ。
そのためには、15歳の東雲さんはこれまでのデビューからの一年半以上に、壁にぶつかられるかもしれない。新たな努力が必要になるかもしれない。
でもきっと、ぼくらの東雲さんなら前向きに笑顔を浮かべ、来年の今頃には更にすごい東雲ういさんを見せてくれるだろうと、ぼくらも前向きになれた生誕祭だった。




 

Junior flavor熊本が9月1日より大きく変わった。
これまで年長組だったアヤカさんとユキさんがそれぞれ水無月あやか、椎名ゆきと名前が変わり、所属も熊本flavorに変更。ミサキさんとトモカさんはこれまで通りJunior flavor熊本所属で、イベントとしては「熊本flavor+Junior flavor熊本」としてこれまで通り一緒に出演されるのだろうが、名は体を表す。所属名が変わっただけでも、なにか大きな脱皮を期待させる予感がぼくにはあった。

昨日はその新体制での初のステージを、イオン小郡で見てきた。
前日になってXで「新衣装」と告知されていたのでどんなものかと気にはなっていたが、その新衣装がある意味予想を大きく裏切る期待以上のもので、まずステージに登場した時点でぼくは度肝を抜かれた。
全国のflavorにあまり詳しくない田舎者なので適当なことを言っていたら申し訳ないが、ぼくの印象としてflavorの衣装というのは、いわゆるflavorらしい絵の具のようなセーラー服だったり、白のワンピースでもセーラー服だったり、または胸に大きいリボンのネクタイがあったりと、基調は学校の制服で、それをステージ映えする派手さにアレンジしたものというイメージだった。
それが今回の衣装は、まずメンバーの肩が出ていた。そのセクシーさにびっくりした。どうしてもカテゴリー的にジュニアアイドルという印象があったから、こんなに大人っぽさを強調する衣装になるなんて予想もしていなかったからだ。
更に全体で見ると様々な要素が絡み合っていた。色は上品な柄の緑の混じったネイビーでかっこいいが、首元には白い襟がド派手についていて、上品と派手さが共存している。肩を出しているのに肘には大きな水色の襟がつくのもアンバランスながらうまくまとまっていて、よく見ると襟と同じ色のレースがネイビーの衣装の胸元にも飾られているため、ぱっと見はかっこいいを演出しながら、要素要素でかわいさを見せている素敵な衣装だった。
知り合いのフォロワーさんから「flavorらしくない衣装」という話も聞いたが、まさにこれまでの系統からすると大きく予想を裏切る、かといってそれが失望ではなく、新たな期待につながる脱皮を感じさせる衣装だったとぼくは感じた。
そしてぼくは靴にも驚かされた。ブーツにヒールがついていたのだ。
ぼくのJunior flavor熊本の靴のイメージといえば、いわゆる女子高生が制服に合わせるローファーか、アイビー風の白いスニーカーだった。
ペタッとした靴のイメージだったのだ。そしてその靴が低いことで、かわいらしさを演出しているように見えていた。踊るのも踊りやすそうだった。
それがヒールがついていたのだ。おかげでメンバーをこれまで以上に大人っぽく見せていた。
かわいく自由な女子たち、という印象を彼女たちに勝手に持っていたぼくは、この衣装と靴の意外なチョイスに、いままでの魅力に、かっこよさと大人の魅力を加えてきたなと驚きながらも、でもこれはこれで新しい魅力を出してすごいじゃんと感じた。

それから始まったステージも新しかった。
浅はかな知識で申し訳ないが、ぼくがJunior flavor熊本が歌う楽曲で一番印象が強いのは「シエスタ」である。それから定番として感じるのが「NO.1スター」「コイマチ」「LOVE∞無限大」「キャッチマイハート」あたりである。Junior flavor熊本はいわゆるイントロで沸かせるのではなく、必ず「次の曲は××です」と曲名をメンバーが紹介する。その紹介を聞いて、それが定番曲ならヲタクが「やったー」と言ってイントロが始まるのが一連のお約束である。
しかし、この日のステージはいま上で書いた定番曲をまったくやらず、そのお約束の出番もなかった。
「Sweet story」と「Alice」と、あとは何度かは聞いたことあるかもしれないけど浅はかなぼくには珍しい曲で、最後に「ロストジェネレーション」というしっとりとしたセットリストだった。
7月のネバストの1部でこのような新しい曲をやるJunior flavor熊本を見ていたから、このような曲でも魅せられる力が彼女たちにあるのは十分わかっているつもりだ。
でもこの7月のネバストでは、Youtube配信のある二部では「シエスタ」「NO.1スター」「ロストジェネレーション」「コイマチ」と定番曲の連続だったので、ファンが何を待っているのかはグループは把握しているはずだ。しかもネバストと違い、この日の1ステージしかない新規さんも増えるようなオープンライブでは、勝手に定番曲をやるのだろうなとぼくは考えていた。
だからこのセットリストは新衣装の驚きと相まって、新たな感動を生んでいた。
この人たちは脱皮しようとしている。すごい! と。

脱皮しないヘビは死ぬ。脱皮は進化だからだ。
しかし、ヲタクのアンビヴァレントとして、ヲタクは変化を嫌うものだ。

ヲタクのアンビヴァレントというのはしかたのないもので、別にヲタクに限らず、誰でもそうだがアイドルに限らず、なにかものを好きになるときは、好きになった瞬間がいちばんそのものに惹かれている瞬間だからである。無の状態から好きになる瞬間というのは、もともと好きなものをさらに好きになる瞬間よりも、好意のエネルギーを必要とするのだ。その大量のエネルギーで好きになった時が、印象に残ってしまうから、人はなにか好きになったときは、愛し始めたときが最高になってしまう。

J-POPのアーティストだって、ローリングストーンズだって、ライブの後半やアンコールではヒットした古い曲を演奏する。彼らはその場に集まったオーディエンスの多くが、ニューアルバムで好きになってくれているわけではなく、かつてのヒット曲で好きになってくれているのを知っているからだ。好きでい続けていてくれるから、ニューアルバムも買ってくれるしライブにも来てくれる。でもファンは好きになった瞬間が最高だから、ニューアルバムの曲が好きでも、それ以上に古い曲で興奮するのだ。ヲタクのアンビレントもそのようなものだからしかたがない。
ただ、そのニーズに答えて古いことばっかりやっていても飽きられてしまう。脱皮しないヘビは死ぬからだ。
むしろ、新しいことにチャレンジをし続けることで、ファンは演者の新鮮な一面に目を見張り、演者の深さを感じますます好きになるのである。その深さを加えたうえだからこそ、古い曲も輝く。1970年代のローリングストーンズの「ブラウンシュガー」のライブ演奏は3分ちょっとだったが、90年代以降は7分近い演奏時間になっている。これは新しいアルバムを出し続けるうちに、たくさんのライブを重ねるうちに脱皮し、進化しているからである。
そういう意味で、熊本flavorの最初のステージは、まさに脱皮の瞬間を見せてくれたような素晴らしいステージだった。これからの進化には期待せずにはいられない。





 

いきなりオカルトチックな話で申し訳ないが、人が使える運の量は同じだという説がある。
たしかに、普段生活をしていると、「あの人は運がいい」や、またその逆に「あの人はついていない」と言われる人もいるが、かといって「運がいい」と言われる人が常に運が良くてまわりでもいいことばかり起こっているわけではなく、運が悪いと言われている人だって、たまにはいいことがあってるように思う。
更にひとりの人の運だって、いいときもあれば悪いときもある。
たとえば最も運に左右されるギャンブルだって、運のいいときは買い間違えた馬券さえ当たるほど好調のときもあるが、その好調は長くは続かず、だいたいそのあとは、好調のときに儲かった分まで失うほどなにをやっても損をするものである。
そのように人の運には量があり、波があるものだというのは、ぼくも経験的に感じている。
ただ、平等に量があり、好調の波も平等にやってきているはずなのに、これも経験的に感じているが、幸運な人も不運な人もいる気がする。


ということで、ここからやっと本題ですが、昨日はRe:fiveの研究生かれんさんの生誕祭に行ってきました。
かれんさんが運がいいか悪いかと考えれば、ぼくは相対的には不運なのかなと思っていました。
もちろんステージに立ってアイドルとして活動できるというだけで、そのような夢も叶わない人もたくさんいるわけですから幸運とは言えるのでしょうが、なにぶん、かれんさんの前に研究生だった西園寺つきさんと東雲ういさんが幸運すぎるので相対的に不運と感じてしまうのです。
2021年に研究生3人を含め4人が辞めてしまったRe:fiveは、2022年前半はタレントの吉川りおさんをサポートメンバーに加えるほど、人手不足感がありました。そんな2022年5月に登場した研究生ふたりが、のちの西園寺つきさんと東雲ういさんでした。みんながRe:fiveの次の展開を待っているときの加入は多くのファンに歓迎され、つきさんとういさんの相性もキャラもかぶらず非常によく、このおふたりが全く同時期にお披露目されたことはRe:fiveにとってもですが、おふたりにも幸運だったと思います。お披露目からひと月ほどで「ういつきー」という言葉も生まれ愛されていました。
その期待の高さが励みになったところもあったのでしょう。めきめきと成長され、このふたりはお披露目からわずか2か月半後の2022年7月末に正規メンバーに昇格されました。
そのふたりに比べると、相対的にかれんさんは不運と言わざるを得ない感じがしました。
かれんさんが研究生としてお披露目されたのは、人手不足から一転、研究生二人が西園寺つき、東雲ういとして昇格し、そのふたりに期待が高まっている2022年の8月でした。
つきさんとういさんのように切磋琢磨する相棒がいるわけではなく、またそれまでは正規メンバー2人に研究生2人とある意味変則的にバランスが取れていた見栄えだったのが、正規メンバー4人についてくるようなひとりぼっちの研究生というヴィジュアルなのも、お披露目の時期が不運だなと感じさせていました。
そんな一人だけの研究生としてかれんさんの月日は流れていました。西園寺つきさんや東雲ういさんが昇格した2カ月半での昇格は叶わず、気づけば昨日の生誕祭当日でお披露目から10か月半の月日が経っていました。
つきさんとういさんが研究生のときは、研究生でも正規メンバーと同じ衣装を着ることもあったのですが、そのようなこともなく、正規メンバーはイベントごとに衣装が変わるのに、いつも黒のセーラーの研究生衣装のかれんさん。もし、つきさんやういさんと同じ時期にお披露目されていたら、とっくに正規メンバーになれていたかもしれないと思うと、10カ月半の研究生の期間はやはり不運だと感じてしまいます。
とはいえ、やっぱりこの日は生誕祭ということで主役でした。
研究生としてお披露目当時はダンスだけでも出演できない曲も多かったかれんさんでしたが、この日のRe:fiveのステージにはもちろんフル出演。この日もひとりだけ研究生衣装でしたが、手足の長い恵まれた身体からは目を見張るようなダンスを見せ、歌割も自信をもって歌っているのが伝わり、もちろん他のメンバーが主役のかれんさんに対するサポートもあったのでしょうが、抜群のパフォーマンスで楽しませてくれました。
ゲストのJunior Flaver Kumamotoも会場を盛り上げてくれ、いよいよアンコール。
フロアでは「かれん」のコールが広がります。
Re:fiveの生誕祭ではアンコールで、主役のメンバーがドレスを着て登場し、ソロ曲を歌うのが恒例になっていますが、アンコール明けに姿を現したかれんさんがお召しになっていたのは、ドレスではなくRe:fiveの正規メンバーの衣装でした。
「ドレスも着てみたかったのですが、研究生にとってはこの衣装は憧れなので……」
そう話されると、水色のサイリウムがフロアに浮かぶ中、ソロ曲を唄われました。
長いか短いかはわかりませんが、2カ月半で昇格した直近の先輩の二人に比べたら明らかに長い10カ月半の研究生生活。その先の見えない中で憧れた正規メンバーの衣装を着て歌うかれんさん。じんとくる場面でした。しかし、更なる不運がかれんさんを襲います。
なんとそのソロ曲の伴奏が機材トラブルで止まってしまったのです。
それでもかれんさんは歌うことをやめませんでした。
フロアでサイリウムを振っていたファンの人たちが、サイリウムを指に挟んだり、膝の上に置いて、かれんさんの歌を盛り上げるように手拍子を始めました。
圧巻の光景でした。
「禍を転じて福と為す」とは言いますが、不運が来てもそれにめげずに続けることで、それ以上の光景を生み出す。これはまさに10カ月半の研究生生活をつづけたかれんさんの強さだなと感じました。
そして生誕委員からのセレモニーが終わったところで、4月に卒業した前リーダーの橘かえでさんからのビデオメッセージが会場に流れました。
そのメッセージの中で、ついにかれんさんの正規メンバーへの昇格が発表されました。
ただでさえ、生誕祭ということでかれんさんのお祝いモードだった中での昇格のお祝い。
しかも10カ月半という長い研究生生活を乗り越えた記念すべき昇格。涙を浮かべるかれんさんに、自分のことのように喜び、涙を流す他のメンバー。
どうしても不運に見えてしまっていたかれんさんに幸運がやってきた瞬間に立ち会えた気がして、ぼくも幸せでした。
10カ月半の研究生生活があったからこそ、他のメンバーにはない強みがかれんさんには生まれるとぼくは思いますし、それがこれからも楽しみです。

最後に余談をひとつ。
上天草や天草にもまだ地名として残っているが全国的に「網代」と呼ばれる場所がある。
網代とは、その名の通り、古から漁師さんが網を入れていた所である。なぜその場所に網を入れていたからというと、そこが魚の集まる好漁場だからだ。
ただし、そんな良い場所でも潮によっては全く魚が獲れないことことも昔からあったらしい。
さて、漁師さんは網代で魚が獲れないとき、どうするか。
基本的にはあわてない。
現在でも漁師さんは、確定申告では作家や作曲家などの芸術家と同じ「変動所得」が使われているが、変動所得での申告を税務署が許すほど、獲れなくてもあわてずじっと待つのである。
なぜか?
潮目が変われば、またたくさんの魚に恵まれるのを漁師さんは知っているからだ。
そして大漁に漁師さんが恵まれたときに、まわりの人は漁師さんを見て「運が良い人」というのではないだろうか。
しかし、その幸運は漁師さんが信じて待ち続けたこそ、やってきたとぼくは思う。
そしてこの漁師さんのように、悪いときでも信じて待ち続けられる人にこそ、幸運がやってくるのではないかとぼくは経験的に考えている。