「死生観を考える」勉強会(第8回) | 武狼太のブログ

武狼太のブログ

大学の通信教育過程で心理学を学んでおり、教科書やスクーリングから学んだことをメインに更新しています。忙しくて書けなかった、過去の科目についても遡って更新中です。

――――――――――――――――――――――
●勉強会各回と資料内容●

第1回:【1】死生学について
           【2】なぜ死生学を学ぶのか
第2回:【3】死生観調査
第3回:【4】伝統文化と死生観 
第4回:【5】近代日本の死生観の流行 
第5回:【6】小中学生アンケート 「生と死について」
           【7】死ぬ瞬間
第7回:【8】生きる意味
              【9】死後の生
各回の数字を押すと対象ページに移動します

――――――――――――――――――――――

■「死生観を考える」第8回
■日時: 2022/12/18(日) 20:00~22:30
■場所:オンライン
■参加者:4名
■内容:
 【8】生きる意味
■資料:死生観を考える.pdf
     *資料のダウンロードはコチラ




 【8】生きる意味 

■人間の価値像 
(2) 体験価値 
▼愛の意味 
◎愛は、生命を意味で充たす1つの可能な機会ではあるが、必ずしも最大の機会とは限らない
 ⇒生命は、豊かな価値を実現する機会を無限にもっている
 ⇒それは、創造的な価値実現の優位性を考えるだけでも明らかである
◎愛し愛されない人間も、その生命を最高に有意義に形成しうる
 ・ある人が愛の幸福に対して、何の機会もないというとき
        ⇒それは果たして真に運命的であるのか、それとも神経症的な思い過ごしであるのか
        ⇒人は、外的な魅力の意義は相対的に小さいこと、愛の生活には人格性が重要であることを忘れやすい
◎価値が見えるようになることは、その人間を豊かにする
 ⇒内容的に豊かになることは、部分的に人間の生命の意味を形成する
 ⇒愛においては、愛する者をいかなる場合にも豊かにする

▼事例:強制収容所のある囚人の手記 
◎我々が自殺をしなかったのは、何らかの形で義務を背負っていたから
 ・私は母の愛に対して生命を維持する義務があった
 ・私は天と契約を結んだ
     ⇒私が死ぬ運命ならば、私の死の代わりに私の母を生き永らえさせること
     ⇒私が私の死まで、苦悩を耐え忍べば忍ぶほど、私の母は苦しみのない死を迎えられること
◎私の生命が意味を持つときにのみ、「犠牲」という観念においてのみ、苦痛に満ちた生活に、私は耐えて生きることができた
 ・苦悩と死とが意味を持つならば、私は私の苦悩を苦しみ、私の死を死のうと思った
◎互いに何の便りも出来ず、私は母自身がまだ生きているのかを知らなかった
 ・私が母の生死を全く知らないという事実は、精神の中で私が母と交わした多くの対話において、何の妨げにもならなかった
 *愛は、愛される者の身体性をほとんど問題とせず、その死を超えて続き、愛する者の自己自身の死まで続きうる
★この囚人は、創造価値を実現化できない状況の中、愛の観照の中に体験価値を実現化した、とも言えるだろう

▼真の愛 
◎我々は、認識した真理そのものを、永遠の真理と呼ぶ
 ⇒しかし、真理をいくら求めても人間は誤ることがある
◎我々は、「真の愛」を体験する瞬間、それを永遠のものとして体験する
 ⇒愛においても人間は誤るものである
 ⇒恋情によって盲目になり、後になって初めて、それが誤りだったと判ることもある
 ・人間は「時間を限って」一時的にだけ愛する、ということは不可能である
        ⇒後になって、真実の愛に相応しくないと判り、その価値が失われるかもしれない
        *その危険を冒して愛することが出来るだけである
★真の愛は、一夫一婦制の関係を促す要因をもっている
 ⇒さらに「排他性」という第二の要因も存在する
◎真の愛を喚起するもの
 ・相手の身体的なものによって、直観的な印象を受け取ること
        ⇒表面的な人間は、相手の「表面」にのみこだわり、その深みを把握することが出来ない
        ⇒深い人間は、相手の「表面」すらも、なお深みの表現として把握する
 ・真の愛は、身体的なものを必ずしも必要としないが、その充足のために利用することはある
◎外貌的なものを強調すること
 ⇒身体的な「美」がエロティシズムの中で過大評価される
 ⇒同時に、人間自身は価値を貶められる
☆平均的な人間
 ・真の愛が可能になることは極めて稀である
 ・愛の生活の成熟した段階へ達することも極めて稀である
 
▼愛の生活に対する準備期にある青年たち 
◎時期を外さずに「学ぶ」ことが求められる
 ①正しい相手を求めて見出すこと
 ②それに誠実を尽くすこと
★この2つの要求にはジレンマが生じる
 ①あるエロティシズムな人間知識の獲得と練習をしなければならない
        ⇒正しい関係に対して決断するために、多くの関係を体験すべきか
 ②唯一の人間に対して、内的な関係を維持するよう努めねばならない
        ⇒関係を出来るだけ長く維持し、出来るだけ早く誠実さを学ぶべきか
◎ジレンマに直面する若い人に対して
 ⇒この問題を消極的に考察することを勧めるべきである
 ⇒逆説的な問いにより、即事的な決断が容易となる
 ①束縛性や責任性から逃避するために、有意義な関係から飛び出すのか
 ②孤独を恐れるが故に、破れた関係に対して無理に執着するのか

▼結婚
◎個人的な体験以上の複雑なもの
 ⇒国家的に法律化され、または教会的に定められた社会生活の制度で、社会的な関係を持つ
 ⇒この意味において、結婚が結ばれる前に、ある条件が満たされていなければならない
 ・一時的な感情状態としての単なる恋情は、結婚に対してほとんど禁忌である
        ⇒しかし、真の愛それ自身が結婚の積極的な条件になるとも限らない
 ・結婚は、2人の個人間の生物学的な生殖行為を唯一の目的とせず、いわば精神的な生活共同体が重要とされるときのみ、為されるべきである
 ・結婚は、一定の相手に対して決断する能力、を前提としている
     ⇒結婚を正しく維持することは、誠実であることを示す
     ⇒一夫一婦的な関係に対する内的成熟は、二重の要求を含んでいる
         ①決定的に、相手に誠実を尽くすという能力への要求
         ②排他的に、1人の相手に対して決断する能力への要求
◎一夫一婦的な関係
 ・性的発達の最終段階であり、性教育の最終目的であり、性倫理の理想である
     ⇒1人の人間の性的心理的な成熟をはかる基準となる
◎結婚の動機
 ・特に経済的な動機が最も重要とされる場合
     ⇒それは「所有」を欲する唯物論的な考え方を基盤としている
     ⇒結婚媒介所という施設が存在することは、この意味で了解される
     ⇒結婚のキッカケだけが考慮され、主として経済的なことに限定されている
     ★人間が被る尊厳の低下は、次の世代にまでも及ぶだろう
 ・真の愛の体験の領域外に存在する場合
     ⇒主として「所有」というカテゴリーが支配する、エロティシズムの領域に存在する可能性が高い

▼「不幸な」愛 
 ⇒存在しないし、存在し得ない
 ⇒論理的には矛盾している
*もし、真に愛しているのなら
 ⇒その愛が報いられようと報いられまいと、内的に豊かにされていることを感じる
*もし、真に愛していないのなら
 ⇒人格ではなく、ある身体的なもの、またはある心理的な性格特性だけをみるのならば、確かに不幸と言えるだろう
 ⇒しかし、そこに真に愛している人間はいない
★愛の生活において「不幸な」経過を辿った体験にも、我々は豊かにされ、また深められ、かつ成熟への道を辿る
◎不幸な結果となった愛の体験の背後に隠れること
 ・人生を見なくてもすむように、不幸な体験にのみ眼を注ぐ
     ⇒二度目の不幸な体験が来ないよう、その不幸な体験から眼を逸らそうとしない
     ⇒過去の不幸に隠れることで、未来の幸福の可能性を避けることになる
 ・通常、人は多くの不幸な愛の体験を経て、1つの幸福な愛の関係に至る
     ★将来の豊かな可能性に対して、常に備えておくことが重要

▼売春 
◎エロティシズムな唯物論的思想
 ⇒相手を所有物とみなすのみならず、エロティシズム自身を商品とする
◎心理学的な問題
 ⇒売春する人よりもむしろ、売春の「消費者」の方に問題がある
 ⇒主な危険は、理性的な性教育に反する性への態度に、若い人間が訓練されてしまう点
  *性に対して、ただ快楽を獲得するための手段とする態度
◎売春女性
 ・精神病理学的には、自身の価値を低く見ている傾向がある
 ・心理学的には、ある精神病質人格の特徴である、道徳的な背徳性がほぼ示される
   ⇒経済的困難は、それだけで一定の行動を人に強いることは不可能
   ⇒極度の困難にもかかわらず、売春に逃避する誘惑に逆らう女性は多い
◎売春の消費者
 ・あたかも「愛の生活」の商品に対するがごとく、非人格的な形式をその中に求める
 ・「快感原理からの性生活」
  ⇒愛の表現手段の1つではなく、衝動充足や性的享楽が自己目的となってしまう
  ⇒愛に憧れる若い人が、単に享楽に飢えている成人になってしまう
◎売春への逸脱の危険
 ・若い人が自己目的としての性的享楽に固着してしまうこと
  ⇒場合によっては、未来の結婚生活に暗い影を落とす
 ・女性の場合も、愛の表現としての性の体験、そこに達する正常な発達が妨げられる
  ⇒心理療法によって、その毀傷を治療する場合には、常に著しい困難が伴う
 ★人間は本来、享楽としての幸福に向かい努力するのでも、快感を求めるのでもない
  ⇒真に愛する者にとって性行為は、心理的精神的な統合性を示す身体的な表現に過ぎない

▼性的心理的な成熟
・成熟の過程では、多くの障害に悩むことがある
 ⇒典型的な3つの障害に区別される
①「遺恨型」
 ・失望の体験から成熟過程に障害が生じる
   ⇒自身が精神的に尊敬し、同時に性的に望みうるような1人の人間を、いつか見出せるだろうということを全く信じられなくする
 ・純然たる性的享楽に陥り、性的な陶酔のうちに、エロティシズムな不幸を忘れようとする
 *失望の体験は、人を単なる性欲の低い層へ押し戻し、発達以前の段階へ逆行させる
②「諦念型」
 ・初めから単なる性的なものにのみ留まっている
  ⇒少しもエロティシズムな態度や関係に至ろうとしない
 ・性的な相手を尊敬し、愛するということを初めから放棄している
  ⇒自らの人格に対して、愛の能力が存在することを信じていない
③「消極型」
 ・①②は「性欲以上」のものを求めないが、消極型は更に相手との性的接触すら求めない
 ・このタイプは、性的にもエロティシズムにも能動的ではない
   ⇒性欲は全く「状態的」な様式で体験される
◎正常な発達過程
 ・愛の関係には、エロティシズムが先行すべきである
  ⇒あまりに早く性生活が始められてしまうと、若い人は性的にのみ生き抜こうとする
  ⇒性欲とエロティシズムとの総合の道、が閉ざされてしまう
 ★性的心迫 → 性的衝動 → 性的努力
  ⇒この順序が、性的心理的な成熟過程の段階の特徴を示している
  ⇒増加する指向性を示している(性交それ自身から一定の人格へ向かう)
  ⇒性欲は、個人の成熟の過程において、ますます人格に対する表現を獲得してゆく
◎誤った発達過程
 *エロティシズムから性的なものへの逆行
  ⇒それが生じたときに初めて、「性の悩み」を形成する葛藤と心理的緊張とが生じる
 ・エロティシズムが優位を示している限り、性衝動との相対的な対立(=内的な葛藤)が生じることはない
 *性的なものからエロティシズムへの移行
  ⇒成熟の過程に応じて、性衝動は遅かれ早かれ、再び現れてその要求を貫こうとする
  ⇒それが延期されている間、責任感はよく発達する
  ⇒自己と相手との責任から、いつ相手と性的な真摯な関係をもつべきかを決定できるようになる

▼性教育学 
◎3つの信頼に向かって努めなければならない
①若い人達の教育者に対する信頼
 ・両親、教師、青年指導者、主治医その他、助言者に対する信頼である
  ⇒性的啓蒙の問題に関しては、特に重要となる
  ⇒性的啓蒙を集団的に行う際には注意が必要である
   ある者には早すぎて当惑させるだけ、ある者には遅すぎて可笑しく思われるだけ
 ★若い人達に性の問題が迫ったときに、直ちに教育者へ伝えられる信頼が重要
②若い人達が自分自身に対して持つ信頼
 ・成熟した調和的な人格に至る険しい道において、勇気を失ってしまわないような自身への信頼
③教育者が若い人達に対してもつ信頼
 ・①②を基礎づけるのに役立つ
 ・この信頼によって、若い人達を思考や行動における依存心から遠ざけ、内的な自由と意識的な責任への道に歩ませることができる

――――――――――――――――――――――

 Breaktime

①「愛される」または「愛する」という道についてどう思いますか
・・・・・・

(①について)
 「愛される」という道については、子どもの頃に通ったと感じる人が多いのかと思います。改めて今、私の子どもの頃の親子関係を振り返ってみると、それほど深い愛情は受けてこなかったように感じています。愛の反対は無関心である、という言葉がありますが、私の家族間には互いへの関心の低さが強く感じられるからです。以前、祖母が通う介護施設のサービス担当者会議に参加したとき、祖母の生活態度や好き嫌いなどの質問に対して、共に暮らす伯父が正しく回答できず、祖母への関心の低さを目の当たりにしたのですが、私自身も大して差がないことに気づかされました。私の中では、それが普通という感覚があり、それを悲しんだり恨んだりという感情は特にないのですが、両親や祖父母の生きた時代や環境を聞いた限りで考えてみると、それも当然のこと自然なことのように思われます。家系的な特徴も影響しているかもしれませんが、太平洋戦争や公衆衛生、高度経済成長、核家族化などの社会からの影響も大きいように思っています。
 少し余談になりますが。著書「菊と刀」にてベネディクトは、欧米では「親孝行」という言葉はなく、子に親が与えたものを「愛」と呼ぶが、日本ではそれを「恩」と呼ぶ、ということを書いています。私自身、親子間にあるものを「愛」と表現することに何となく違和感があったので、納得するところがありました。親子関係に限らず、「恩」を重視して考える、貸し借りという意識が強い、という感覚が特に若い頃の私には強かったように思います。
 それでも、私自身、子どもの頃に「愛される」という道を通ったようには感じています。どんなことがあっても、自己肯定感がゼロになった経験がないのはその証しではないかと考えています。たとえ、子どもの頃に「愛される」という道を通らなかったとしても、それ自体は特に不幸なことではないようにも考えています。個人的には、「〇〇がないから不幸」という考え方に違和感を覚えることがあり、様々な経験を通して、自身をどう自己教育していくかを考えることが肝要だとも考えています。そのため、「愛」に関する体験価値を実現できなくても、他の体験価値、もしくは創造価値や態度価値を実現することで、人生に価値を見出せるというフランクルの考えに、私は強い関心を持ちました。

 「愛する」という道については、資料に記載した「真の愛」に近いものを経験したことがあります。数年前に会った3歳の女の子の言動に大きな衝撃を受けたことがあり、その瞬間に「この子のためなら死んでも構わない」と思ったことがありました。その時は「この子は私なんかよりもずっと多くの人に、笑顔や幸福感を与えるに違いない」というような感覚を覚えました。その子と会ったのはその一度きりですが、私の子ども時代と少しだけ境遇が似ているところもあって、感情移入した部分もあるように思います。
 経験したことのないその感情を、当初は、子に対する父親の愛情に近いものだろうか、と考えていました。しかし、そのうちに愛情よりも「信仰」に近いものではないか、と思うようになりました。もう二度と会うことがなくても、生きていると思うだけで何か満たされるような感覚があり、その子が私のことを忘れてもどう思っていても関係なく、私の命よりも大事な存在であることは変わらないと思えたからです。神や仏というよりも、天使や御地蔵に対する信仰のような感じではないか、と考えていました。
 フランクルの「真の愛の態度」を読んだとき、恋愛に関する部分を除けば、私のその “信仰” に近いもののように感じました。所有を欲する感覚は無く、精神的なものを指向し、時間的に永続的で人間を豊かにするもの、という部分は同じように感じました。漠然としていた「幸福」や「絶望」、「生きる意味」などを具体的に考えるキッカケとなり、そこから様々な気づきを得られたという私の体験は、フランクルの言う「愛する」という道の豊さと一致しているように感じました。

(余談)
 著書「愛するということ」でA.フロムは、愛するという行為は、本能的なものではなく、自身で努力して技術を磨いて身につけられるもの、と書いています。

●愛の「基本要素」は、①配慮②責任③尊重④知ること(関心)、でバランスよく成立させることが重要
●愛に必要な「特質」は、①客観力②敏感さ③信念④能動性
●愛の「技術習得」には、①規律を守る自制心、②物事1つ1つに対する集中力、③焦らず地道に進む忍耐力、④技術に対する最大限の関心、を日常生活で意識的に実践することが肝要

愛するということは、途方もなく険しい道であり、それを経験できるかどうかは、容姿や金銭などの表面的な条件や運ではなく、本人の技術や能力の問題である、と書いています。
 また、1人の人間を愛するということは、その人と共に生きる人々を愛し、人間そのものを愛するということ。自分自身もまた愛すべき対象であり、「博愛」こそ一番大切な愛である。「愛」とは、特定の人間や1つの対象に対して向けるものではなく、人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。無力な者、貧しい者、自分に何一つ利益をもたらさない人を愛せるかどうかが肝心なのだ、とも書いています。
 私は「死生」と同様に「愛」についても、これまで特に深く学んだ経験はありませんでしたが、何となく愛情とは本能的なもののように思っていました。改めて体験を振り返りながら考えてみると、フロムやフランクルの考えにはとても興味深いものを感じました。私はここ数年、「死生観」について深く触れている文献をいくつか見てきましたが、そこには必ずと言っていいほど「愛」に関連する記述もありました。「死」へと向かう「生」の中で「愛」を基盤に置いた人間活動を行うこと、それが内省を深めた人達の「生きる意味」として共通しているのかなと感じました。

――――――――――――――――――――――

 (3) 態度価値 
▼苦悩の意味 
◎創造や人生の喜びの中だけに、人間の価値が求められるのではない
 ⇒苦悩においてすら価値は実現される
◎人間存在の価値と尊厳とに関する、根源的な日常的な判断
 ⇒成功や成果に全く無関係になされる、深い体験がある
 ⇒外的に失敗であっても、内的に充たされる領域がある

▼事例:他人を救うために水中に飛び込んだ人 
・両者とも溺れてしまったら、少しも倫理的に行動したことにならない
 ⇒そう主張する人がいるだろうか
・生命救助者の行動様式を、倫理的だと高く評価するとき
 ⇒そうした危険を前提としているのではないか
 
▼態度価値の本質 
◎人間が「変更しえないもの」に対して、いかに対処するか
 ⇒問題や障害を含む「変更しえないもの」、その中には本質が存在している
◎耐えることの中にも、何らかの意味で「業績」が存在する
 ⇒それは避けられない運命に対する、真の忍耐でなければならない
 ⇒その場合の苦悩は、意味に充ちている
★その苦悩にふさわしくあろうとする人の内に、どれ程の業績が存在するかを知るべきである

▼事例:高貴な精神を持った若い男性 
◎急速に悪化した、脊髄の結核性疾患による両足の麻痺
 ⇒突然、活発な職業生活から引き離された
・脊髄弓切除術が考えられた
 ⇒友人が呼んだ著名な神経外科医は、予後を悲観してその手術を断った
●患者が友人に送った手紙の内容
  • 「数年前にタイタニック号の映画を観て感動したことを想い出している。意識して死に向えることは運命の贈り物であるに違いないと感じた。それが今、私に与えられたのだ。私はもう一度、私の中にあるものとの戦いを試みたい。しかし、この戦いには勝利がなく、ただ力の限り戦うのみである。」
  • 「出来る限り、苦痛を麻痺なしで耐えようと思う。“無益な戦い”という言葉は我々の世界観にはなく、戦うことだけが問題なのだ。」
  • 「クラシック音楽を聴いて、心の中で全てが流れるように快く揺れていた」
  • 「私は毎日数学を研究し、少しも感傷的ではない」
 
▼事例:生活に甘やかされた若い女性 
◎ある日、思いがけず強制収容所へ送られた
 ⇒彼女は病気になり、日に日に衰弱していった
 ⇒死の数日前、次のように述べた
  • 「私にこんなに辛く当たった運命を、私は今となっては感謝しております。以前のブルジョア的な生活で私は確かにあんまりだらしのない人間でした。私は作家気取りで真面目とは言えませんでした。」
・近づいてくる死を、彼女はよく意識していた
◎病舎の窓から、花をつけたカスタニエンの樹を見ることが出来た
 ⇒彼女の頭上から、2本の蝋燭のように花をつけた1本の枝が見えた
  • 「この樹は私の孤独における唯一の友です。この樹と私は話をするのです。」
・幻覚なのか、譫妄(せんもう)状態なのか、樹が答えてくれると言った
 ⇒しかし、幻覚でも譫妄状態でもなかった
 ⇒この奇妙な「対話」は何であったのだろうか
  • 「樹は言ったのです……私はここにいる……私はここにいる……私は生命だ、永遠の生命だ……」
 
▼「悲哀」と「悔恨」
◎人間の内的な歴史において、悲哀と悔恨は意味を持っている
 ・愛する人を失い悲しむことは、その人を何らかの形で生き続けさせる
 ・罪を犯した人の悔恨は、その人を罪から解き放ち、何らかの形で更生させる
 *両者は、何らかの形で過去を修正することが出来る
  ⇒問題を回避したり、ごまかしたりしないで、一つの問題を解決していく
◎不幸に対して身を背けたり、自らを麻痺させたりする人
 ・何ら問題を解決することが出来ず、その不幸を世界から排除することが出来ない
 ・その世界観からつくられるものは、不幸の結果である「不快」という感情状態だけ

▼事例:アルコールに逃避する人 
◎現実から逃れようとする試み
 ⇒主観主義的、心理主義的な過ちに陥る
 ⇒酩酊によって沈黙させたいある情緒とその対象が、世界からなくなると錯覚する
 ⇒無意識に追いやったものは、同時に非現実に追いやったと錯覚する
◎ある対象に目を向けることが、その対象を生み出すということではない
 ⇒同様に、その対象から目を背けることは、その対象をなくすことにはならない
★悲哀の生じることを抑圧することは、悲しむべき事態を取り消しはしない

▼「退屈」と「苦難」
①退屈
 ・絶えざる一つの警告
 ・何が「退屈」を生み出すのか、それは活動しないことである
  ⇒しかし、活動は、我々が「退屈」から逃れる為にあるのではない
 ・活動しないことから逃れて、生命の意味を正しく認めていく、そのために「退屈」がある
②苦難
 ・退屈と同様、一つの警告
  ⇒生物学的な領域において、苦難とは有意義な監視者であり警告者である
 ・苦悩は、無感動に対して、心理的凝固に対して、人間を護ってくれる
  ⇒苦悩する限り、人間は心理的に生き生きとしている
 ・我々は苦悩において成熟し、苦悩において成長する
  ⇒苦悩は、我々をより豊かに、より強力にしてくれる
 
▼運命の主な形式 
◎生物学的な運命と対決させられるとき
 ・身体に起因するものに対して、人間の自由がどこまで影響しうるか
 ・生理学的なものの中に、人間の自由意志の力がどのくらい深く入りうるかという問題に直面する
◎精神的身体的な問題
 ・人間の有機的な身体が、どのくらい心理的精神的なものに依存しているか
 ・いかに心理的精神的なものが、身体的なものに左右されるか
◎「精神の力」と「自然治癒力」は両者とも人間に属しており、人間を通じて両者が互いに関連し合っている

▼ある被験者 
・催眠状態の被験者たちに、純粋な形の感情を引き起こさせた
・ある時は喜ばしい体験、ある時は悲しい感情、を暗示によって生み出した
・喜ばしい興奮の際に採られた血清は、悲しい気分のときのものよりも、チフス菌に対する凝集度が比較にならないほど高かった
 ⇒心気症の不安に悩む人間は、感染症に対して抵抗力が弱まるという事実
 ⇒倫理的な義務に満たされた看護師が、ある感染症に対してほとんど奇跡的に守られたという事実

▼生物学的な運命 
 ⇒精神の自由に相対するもの
・いかに人間がその運命を歴史的、生活史的構造の中に有意義に取り入れるか
 ⇒生まれながらの自由の制限を、精神発達における困難を、模範的に克服した多くの人々
・そのたる生活形式は、真の芸術的活動およびスポーツ活動に似ている
 ⇒芸術活動: 御しがたい素材から、自由意志によってよい作品を創り上げる
 ⇒スポーツ活動: スポーツマンのモラルである「ベストを尽くす」ことを実践
・1人の人間の生涯
 ⇒運命的な生物学的ハンディキャップに対する抵抗に彩られる
 ⇒困難なスタートにもかかわらず、偉大な業績を示すこともありうる

▼社会学的な運命 
・個々の人間は、社会的な関連の中に常に組み入れられている
・人間は、共同体から二重の意味で規定されている
 ①個人は、社会的な全組織によって条件づけられる
 ②他方で、この全組織へと意識づけられている
*個人のうちにおける「社会的因果性」と「社会的目的性」とが共存している
◎社会的因果性
 ・社会学的な諸法則は、個人を完全に規定すること、は決して出来ない
     ⇒そのため、人間の意思の自由を決して奪わないこと、が強調されねばならない
     ⇒諸法則が個人の行動に影響する前に、個人の自由の選択肢の中を通過しなければならない
     ⇒社会的な運命に対しても、生物学的、心理学的な運命に対するのと同様に、人間は自由な決断可能性の余地を持っている
◎社会的目的性
 ・心理療法の領域で、特に「個人心理学」が陥った誤った見解
 「あらゆる価値に富む人間の行動は結局、社会的に正しい行動に他ならない」
     ★共同体に役立つ者だけが価値に富む、という立場は倫理的に支持しがたい
     ⇒人間の実存の価値、存在価値の貧困化に繋がるだろう
 ・価値の領域においては、個人的な“留保”が存在する
 ※留保… 物事の決定をしばらく差し控えておくこと
     ⇒価値の実現化は、あらゆる共同体とは無関係に為される
     ⇒共同体とは無関係に為されねばならない、という価値が存在する
     *体験価値においては、共同体に対する有用性という基準を当てはめることはできない
     ⇒個々の人間の芸術的体験や自然体験、その中に開かれる豊かな価値社会がそこから有用性を引き出すかどうかは、本質的かつ根本的に個人とは無関係である
 ・人間に対立する運命的なものとして、社会学的なものに向わなければならない
     ⇒個人が悩まざるをえないような社会的環境が与えられることがある
     ⇒人間の心理について、世界大戦の中で多くのことが明らかにされた
         強制収容所のおける心理もその一つである

▼客観主義の帰結 
◎体験の中に実現化されたもの
 ⇒それが忘却されようとも、その本人が死亡しようとも、決して無に帰したのではない
 ・過去の不変性によってこそ、人間の自由は喚び起こされる
     ⇒運命は、常に“責任”を意識した行為に対する刺激、であらねばならない
 ・人間は、各瞬間に多くの可能性の中から1つを選択し、それを実現して過去へと送ってゆく
     ⇒過去の領域に過ぎ去ったものは「留まっている」
 ・過去は、現実の中に“止揚”されており、「あった」ということは存在の最も確かな形式である
※止揚… ある者を否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること
◎もはや変えることのできない過去は、運命的なものに属している
 ⇒「為されたもの」「生じたもの」「過ぎ去ったもの」という事実は最も本来的な運命である
にもかかわらず、なお過去に対しても、運命的なものに対しても、人間は自由である
 ・過去は現在を理解せしめる
     ⇒過去の過ちは、よりよい未来をつくるための材料として、役立つ学びとなり得る
     ⇒人間にとって、過去に対して単に宿命論的な態度をとるか、そこから学ぶかは自由である
     ⇒学ぶことは、いつでも決して遅すぎず、早すぎもせず、いつでも「適時」である
*主観主義や心理主義の帰結
 ⇒不幸に直面したとき、嗜癖や自殺の中に逃避させて、人間の自己を麻痺させる

▼絶望 
・人間は、その存在に対して自由に決断する可能性を持っている
 ⇒あらゆる決断の自由、いわゆる意志の自由は、人間にとっては自明のことである
・生命の意味を疑うばかりでなく、絶望に至るような最も極端な自己疑問視
 ⇒人間は、自己を否定する可能性を持ちえており、自殺を決断する可能性をも持っている
*神経症的な人間は、自身の可能性に対する道を自ら閉ざしている
 ⇒その生命の形を歪め、「生成可能性」を実現する代わりに、そこから逃げようとしてしまう

▼事例:失業に絶望した若い男性 
◎長い失業期間
・絶望により、自殺への思いに追いやられていた
・ある日、独りで公園に座っていると、隣のベンチで座って泣いている少女に気がついた
 ⇒彼はそちらに行き、なぜそんなに絶望しているかを彼女に尋ねた
 ⇒彼女はその苦しみを語り、自殺をしようと堅く決心していると話した
・男性は、彼女のその決心を覆すために、全力を尽くして説得した
 ⇒そして遂に成功した
 ⇒それは長い失業期間の中で、久しくなかった、唯一の喜ばしい瞬間であった
・彼は再び以前のように使命をもち、活動を為し遂げたいという感情をもった
 ⇒この感情は、例え一過性であれ、彼をその無感動から引き離した

――――――――――――――――――――――

 Breaktime

②「態度価値」という概念について、その実現化について、あなたはどのように考えますか
③「苦悩の意味」についてどう思いますか
・・・・・・

(②について)
 私は「態度価値」という言葉を、フランクルの文献で初めて知りました。人生において人が価値を見出すものに「創造」や「体験」があることは自然と理解していましたが、それと並ぶものとして「態度」を位置づける考え方に驚きました。改めて考えてみると、本や映画などで物語に感動するときは、主に登場人物の「態度」が影響をしており、リアルの世界でも目の前の人物の「態度」に衝撃や感銘を受けることがあり、価値観や人生を変える程の影響があったりもします。人は自負や誇りに価値を見出だすときもあるので、「態度価値」という言葉に納得するところが大きかったです。
 運命的な出来事によって、創造や体験から価値を得ることが困難な人も「態度」から得られる価値があるという考え方には、温かさや厳しさを感じる気がしました。以前は「生きる意味」というものは特にないものと考えていましたが、どんな運命を背負った人にも「生きる意味」があるのであれば、それはあるのだろうと考えるようになりました。
 態度価値の実現化については、社会人になってから知った「仕事では結果が重要、人生では過程が重要」という言葉を思い出しました。その過程の中で示される「態度」こそが、人生に価値を見出させる対象なのだと感じました。思い返してみると、今までに「態度価値」というものを意識したことはありませんでしたが、人生を生きる上で自然と、自他の態度について何らかの価値を見出だしていたように思います。これまでは意識することなく、態度価値として実現化してきたことを、改めて思い返すことで自分自身の価値観を再確認してみたいと思っています。

(③について)
 資料には記載しませんでしたが、フランクルが経験したナチスの強制収容所での生活は、私の想像を絶するもので、その経験を元に語られた「苦悩の意味」については重みを感じました。収容所に送られた人々が一番辛く、苦悩していたことは、その過酷な状況の終わりが見えなかったことだそうです。私自身、具体的な将来像を描けなかった少年期青年期には、漠然とした不安感を心のどこかで常に抱いていたことがあり、終わりの見えない苦悩について少し分かる気がしました。
 私は糖尿病1型を患って入院したとき、それまでの自分自身を客観視して内省することを始めたのですが、当初は自分自身の嫌なところばかりが見えてきて、そのときが個人的には一番苦悩した瞬間だったように思います。しかし、目指す人間像や倫理観などを考えたり、他者評価よりも自己評価を優先すべきと考えたり、時間はかかりましたが、否定の中から肯定を引き出していくことは、私自身、とても意義のある経験でした。
 出来るなら避けたいと考える苦悩について、全てがよいものとは言いきれませんが、振り返ってみれば、一生懸命に取り組んだものほど苦悩や苦労が大きかったように思います。懸命になればこそ苦悩が生じ、それを越えようと努力する態度に価値が見出だされる、そのような解釈が出来るようにも思いました。あの苦悩がなければ気づけないままだったと思うことが沢山思い浮かぶため、苦悩とは、生命や人生に意味を見出ださせてくれるもののようにも思います。