「死生観を考える」勉強会(第4回) | 武狼太のブログ

武狼太のブログ

大学の通信教育過程で心理学を学んでおり、教科書やスクーリングから学んだことをメインに更新しています。忙しくて書けなかった、過去の科目についても遡って更新中です。

――――――――――――――――――――――
●勉強会各回と資料内容●

第1回:【1】死生学について
           【2】なぜ死生学を学ぶのか
第2回:【3】死生観調査
第3回:【4】伝統文化と死生観 
第4回:【5】近代日本の死生観の流行 
第5回:【6】小中学生アンケート 「生と死について」
           【7】死ぬ瞬間
第7回:【8】生きる意味
              【9】死後の生
各回の数字を押すと対象ページに移動します

――――――――――――――――――――――

■「死生観を考える」第4回
■日時: 2022/9/11(日) 20:00~22:30
■場所:オンライン
■参加者:6名
■内容:
 【5】近代日本の死生観の流行
■資料:死生観を考える.pdf
     *資料のダウンロードはコチラ




 【5】近代日本の死生観の流行 

■第一次ブーム 
▼時代背景 
・日露戦争(1904.2~1905.9)
・マスメディアの時代
 1871年(明治4年)に「横浜毎日新聞」が日本初の日刊紙として創刊
▼『死生観』(加藤咄堂:1904年) 
・内容
 現代日本人は、死にどう向き合って生きていくべきなのか
 ①死生観の変遷、②武士道の死生観、③古聖の死生観、④近世の死生観、⑤死生問題の解決
・加藤咄堂(1870-1949年)
 仏教の「華厳経」を好んだ
 華厳経:全てのものが因縁により結びつき、自己の生死は宇宙という大いなるものの中に溶け込むという世界観
 死生に関する本を次々と出版し、人気を博した
・「教育勅語」1890年(明治23)10月30日発布
 天皇制国家の思想、教育の基本理念を示した勅語
 正式名称は「教育ニ関スル勅語」
 1937年、日中戦争の激化により国民強化運動の発展に繋がった
▼死生問題 
・「○○問題」という言葉が使われるようになり、「死生問題」という言葉が生じた
 死んでどうなるか、その疑問にどう答えるのか
 その問題に答えずにあなたは人生を送れますか
 全ての人間が死という問題に向き合わなければならない
▼現世主義 
・日本では江戸時代頃から見られた、東アジアの近世の共通の世界観とも言える思想
・前世や来世を考えず、現世の生活を重んじる立場
★そもそも「死」というものをあまり問題にしないというのが、戦後の宗教運動の特徴
 ⇒生命は無くなることはなく、形を変えて永遠に存在するという解釈
 
■第二次ブーム 
▼時代背景 
・太平洋戦争(1941.12~1945.9)
・死を覚悟する多くの若者が「死生観」という言葉に魅かれざるを得なかった時代
▼戦中の死生観 
・死に急ぐことを促すような死生観
▼『日本的霊性』(鈴木大拙:1944年) 
・内容
 霊性とは何か、悟りとは何か、死に急ぐ若者を危惧していた
 ①鎌倉時代と日本的霊性、②日本的霊性の顕現、③法然上人と念仏称名、④妙好人、⑤金剛経の禅
・鈴木大拙(1870-1966年)
 禅宗と浄土真宗に傾倒
▼戦後の死生観 
・『戦艦大和の最期』(吉田満著:1952年)
・『死・愛・信仰』(吉田満著:1952年)
・『憂 国』(三島由紀夫著:1966年)
・『殉 死』(司馬遼太郎著:1967年)
▼日本の新宗教 
・戦前に始まり、戦後に復興し、1970年代頃まで大きく発展した
・生命主義:世界のすべては根源的な生命から派生したものである、という思想
・宇宙大生命:宇宙の本体は生命、仏様というのはその生命の根源である、という思想
*中世人は「死を想え」ということを強調し、死ぬまで充実した人生を生きることを考えた
*近世人は死を遠ざけ、この世のことばかり一生懸命に考えて、死を見るのを避けてきた
 ⇒日本の新宗教は死から遠ざかる傾向が強かった
 ⇒今でも伝統仏教の中には、死や死者との親しみの感覚が強く残っている

■第三次ブーム 
▼時代背景 
・死生学への関心(1980年代以降)
・病院で亡くなる人の圧倒的な増加 ←死にゆく人の自覚やケアへのニーズが高まる
▼核家族化と病院死 
・かつては家族の周りに親族等のネットワークがあった
 ⇒死者との親しみの感覚が強かったのではないか
・現代では、本当に孤立した人がいる
 ⇒かつてはネットワークの中へ何とか抱え込まれていた
▼医療倫理 
・医療やケアの活動においては、様々な倫理問題が生じている
 ⇒難しい決断の場面に突き当たる
・延命治療:「死」は敗北を意味するという意識
 ⇒何としても心臓を止めない →苦しんで亡くなる人も多い
 *自然死:死の瞬間、脳内モルヒネが分泌されて安らかに死を迎えられる
▼葬式や墓の変化 
・今までのような葬式では慰められない、何か心が晴れない
・今までの家の墓をいつまでも続けていくのか
・慰霊:戦争の死者をどう弔うかが大きな問題となっている ←死生学に期待や関心が集まる
▼多死社会の到来 
・団塊世代の人達の死がこの先、大きな社会問題となりうる
▼死の非日常化
・18世紀後半:イギリスの産業革命 →産業と関わらない「死」を疎外
 ○「死」の存在は、社会にとってマイナス要因
 ○「死」は効率、均一、非個性優先社会を阻害する要因
 ○「死」は目に触れないところに隠蔽、排除すべき対象
・科学が進めば進むほど、死の現実を恐れ、否認する傾向が強くなってしまうのではないか
 ⇒死生学の需要の高まり

――――――――――――――――――――――――――

 BreakTime

①あなたの死生観に大きな影響を受けたと感じる文献や文学、芸術などはありますか
②あなたよりも上の世代、父母や祖父母など身近な人たちの死生観について、あなたはどう感じていますか
③死に関する事柄について、家族や親しい人たちと対話した経験はありますか
・・・・・・

(①について)
 私は死生観について対話した経験はほとんどないため、その基礎部分は子どもの頃に見た絵本や漫画、テレビなどの影響を強く受けたように思います。その中で特に影響を受けたように思う作品は、タイムマシンに乗ってイエス・キリストの生涯を追ったアニメ「トンデラハウスの大冒険」と、ブッダの生涯を描いた手塚治虫の漫画「ブッダ」です。内容はうろ覚えですが、差別が扱われていた記憶があり、子どもの頃は特に「自分ならどうする?」という問いをよく発していたので、色々と刺激を受けたように思います。
 「ブッダ」を読んだのは13歳の頃に入院していたときで、当時は病気や入院生活にある意味刺激を感じつつ、自分が嫌悪してしまうような排泄介助を淡々とこなす看護師の姿に衝撃を受け、それをキッカケに自身の内省を始めた時期でもありました。詳細はうろ覚えですが、「何という人間か!」と自身を強く否定したのを覚えています。後から思ったことは、自己否定感に圧倒されながらも1割程度は肯定感が残っていて、それは両親や周囲にいた人達が与えてくれたものであると感謝の思いを強くもしました。
 私は今も無宗教ではありますが、私の倫理観などの価値観については、様々な作品などを通して宗教の影響も強く受けていたのだなと改めて感じました。

(②③について)
 「死」について言えば、私の両親や祖父母には、死に関することを口にすることは不吉なこと、という雰囲気を何となく感じていました。そのため、私自身、死生に関して自問自答をすることがあっても、それを家族や誰かに話そうと思ったことは、これまで一度もありませんでした。死を身近に感じる経験をしてからは、私の死生観や倫理観は家族には理解されにくいだろうとも感じていました。それは、経験前の自分自身にも理解できないと思うからです。
 母方の祖母については数年前、10歳の頃に両親が赤痢で亡くなったこと、戦争で兄が2人亡くなったことなど、その生い立ちを初めて知る機会がありました。祖母の介護援助をしていた頃で、私の母が聞いたことのない話もあり、色々と聞きたいと思いましたが、その胸のうちを話すことは避けたまま亡くなりました。祖母は思いもかけず人生が暗転してしまったことに、当時は強い憤りを感じていたようで、その矛先を誰かに向けなければ生きていけないような、「私は悪くない」と自分を守りながら過ごしたのではないかと感じました。
 私はそれまで祖母とは離れて暮らしていましたが、介護援助で通うようになり、祖母の家族との人間関係などを改めて知ることになり、理由や原因は不明瞭ではあるものの、そうした祖母の死生観は私の子ども時代のものと重なる部分もあり、感覚的に腑に落ちる部分もありました。祖母のことを知ることが、母のことを知ることに繋がり、私自身の思考や価値観の理由を紐解くキッカケにもなりました。二世代だとボンヤリとしているものが、三世代だとハッキリと繋がりが見えてくるような気もして、とても貴重な体験をしたように思いました。

(追加) 看取りを経験したことがありますか
 私には看取りの経験はありません。私の近親で自宅で看取られた人はいないように思います。母方の祖母は、亡くなる2年くらい前から入院転院を繰り返し、嚥下能力の低下で食事が出来なくなると胃ろうはせず、絶食して1週間後の深夜に病院で息を引き取りました。胃ろうの拒否を決めたのは伯父と叔母で、私は最初、少し抵抗を感じましたが、「自然死」などについて色々と思い起こし段々と納得をしました。最後の5日間は病院に毎日通っていたので、看取りに少し近い状況ではあったかもしれません。
 祖母は入れ歯などの問題もあって、言葉でのコミュニケーションがほぼ取れない状況となっており、特に終活もしていなかったため、祖母は自身の胃ろうの選択には関わることなく亡くなりました。軽度認知症の診断も受けていましたが、祖母が最期に何を思って亡くなったのかは分かりません。祖母のそばで私が出来たことは、手を握ることと祖母の好きな音楽をかけることくらいでした。将来、もし私が似たような状況を体験することがあれば、祖母のことを思い起こして考えるのではないかと思います。