「死生観を考える」勉強会(第3回) | 武狼太のブログ

武狼太のブログ

大学の通信教育過程で心理学を学んでおり、教科書やスクーリングから学んだことをメインに更新しています。忙しくて書けなかった、過去の科目についても遡って更新中です。

――――――――――――――――――――――
●勉強会各回と資料内容●

第1回:【1】死生学について
           【2】なぜ死生学を学ぶのか
第2回:【3】死生観調査
第3回:【4】伝統文化と死生観 
第4回:【5】近代日本の死生観の流行 
第5回:【6】小中学生アンケート 「生と死について」
           【7】死ぬ瞬間
第7回:【8】生きる意味
              【9】死後の生
各回の数字を押すと対象ページに移動します

――――――――――――――――――――――

■「死生観を考える」第3回
■日時: 2022/8/7(日) 20:00~22:30
■場所:オンライン
■参加者:6名
■内容:

 【4】伝統文化と死生観
■資料:死生観を考える.pdf
     *資料のダウンロードはコチラ




 【4】伝統文化と死生観 

■近現代の日 
・「死生学」とは、死の作法や弔いの伝統的な文化を取り戻そうとする意欲、その反映である
・2007年には超高齢社会を迎えた日本では、死を強く意識する中高年の人々が増えた
 自らの死生観を確かめたいという欲求が強まった
・日本の「死生観の伝統」に関心が集まっている
▼『おくりびと』(滝田洋二郎監督:2008年) 
・納棺師という職種に光が当てられ、人々の死生観が浮かび上がってくる作品
▼近代人は死を遠ざけてきた 
・凄惨な戦争体験 →医学の進歩 →死を忌避 →死生学の興隆
▼ホスピスが大きな原動力に 
・西洋では、施設で働くチャプレン(聖職者)がいて、病院でも魂や心の問題に対応する体制があった
 ⇒無宗教の人達が増加し、その死を迎える施設としてホスピスが起こる
・日本では、病院にそのような体制はない(僧が病院を歩けば縁起が悪いと追い返されるだろう)
・医学は命を長らえさせるためのもの →「死に逝く人のための治療は無駄」という意識
 反発:人間の尊厳の回復 →死生学の興隆
▼中世日本人の死生観 
・諸行無常 ←釈迦の仏教を弟子が記録した『涅槃経』の句
・西洋では「永遠なるもの」に、日本では「移ろいゆくもの」に、美を感じる傾向を持つ
▼『古今和歌集』(紀貫之ら編纂:905年)
・紀貫之:親しい人との別れを偲ぶ歌。「死」という断絶により、儚い夢のように消えてしまった。
・小野小町:色あせた桜に老いた自分の姿を重ねた歌
・紀友則:のどかな春の一日に、どうして花びらがあわただしく散っていくのか、静める心はないのか、という歌
▼『源氏物語』(紫式部:1008年) 
・冒頭の文は、天皇からとても寵愛された、光源氏の母である桐壺を指す言葉
・母の身分が低かったため、皇族から臣下の身分になり、源の姓を賜った光源氏の興隆の話
▼『方丈記』(鴨長明:1212年) 
・由緒ある神社の後継者争いに破れて隠棲した鴨長明の随筆
・当時起きた災害や世情、草庵での暮らしなどを仏教的無常観を基調に書き記した
▼『平家物語』(作者不明:鎌倉時代) 
・祇園精舎:終末期を迎えた僧たちが、最後のひとときを過ごす場所(今のホスピスに近い)
・鐘:除夜の鐘の音色とは違う、水晶でできた小型の鐘
*祇園精舎の鐘の声は、僧の命が一つ消えたことを示している、世の無常を感じさせた
・沙羅双樹:釈迦が最期を迎えた場所にあった二本の沙羅の木。お釈迦様でもなくなるときが来る。最期のとき、花が咲き、頭上からは神々が音楽を響かせた。
▼『徒然草』(吉田兼好:鎌倉時代末期) 
・約100年間は特に注目されず、室町時代に共感を寄せた僧が現われ、江戸時代には町民たちにも親しみやすい古典として愛読された。
・吉田兼好は出家者であり、釈迦の教えや倫理観を説いた

■先祖崇拝の文化 
▼西洋 
・同じ時を生きる“横のつながり”を重視する
◎小泉八雲:ギリシャ人、日本国籍を持つ作家
 「祖先に敬意を払う」の英訳 →「祖先の記憶に敬意を払う」と訳した
 祖先はもう死んでいていない、死んでいるから無、という考え方
▼日本 
・同じ土地に住む人同士の“縦のつながり”に連帯を感じる
・先祖と一緒にいる、子孫と一緒にいる、命の“縦のつながり”を重視する
・狭いところでずっと生まれ変わり、死に変わりしている人間への仲間意識
 ⇒生者と死者が共にいるという感覚

■葬式仏教 
・揶揄、皮肉が少しこもった言葉
▼鎌倉時代 
◎鎌倉時代以前は「死体=穢れ」
*仏教と葬式に密接な結び付きはなかった
・仏教は、民衆よりも貴族など上流階級で嗜まれていた
 ⇒出世や栄達の道具とされることも
◎鎌倉新仏教:
・自己や他者の救いを重んじる「遁世僧」が現れる
*穢れをものともせず、民衆のために葬儀や供養の実践に取り組み始める
 ①法然の浄土宗、②親鸞の浄土真宗、③日蓮の法華宗(=日蓮宗)、
 ④一遍の時宗(=遊行宗)、⑤栄西の臨済宗、⑥道元の曹洞宗
・仏教に対する真摯な問い直しの運動があった

▼江戸時代 
◎檀家制度
 民衆は、いずれかの寺を菩提寺とするように義務付けられた
 寺院は、信徒と収入が保証され、布教活動や新寺院建立を禁止された
*葬式は村社会ではなく、僧侶が行うことが一般的となった
▼明治時代 
◎「僧侶の肉食妻帯勝手たるべし」の布告
 ⇒世襲制度が一般化した
*葬式仏教化に拍車がかかった
▼平成時代 
・「葬式仏教」と揶揄する声が広がる
 ⇒本来のあり方とは異なる日本の仏教に対するもの
*葬式仏教すら成り立たない寺院が増加
 ⇒社会の変化により葬儀のあり方が変化(年忌法要の減少など)
▼葬式仏教の危機 
・寺院と関係なしに葬式をする人の増加
 ⇒寺院で葬式をしても実感がわかない、心がこもってない気がする
*「葬式仏教」になることで、仏教自体の存在意義が弱まった

■葬祭 
▼お盆 
・昔は、亡くなった人の遺影や位牌を飾り、大勢で集まって色々なことを分かち合っていた
▼お墓 
・昔は、個人のお墓があり、造成墓地はとても雑然としていた
 ⇒家の墓が広まったのは明治以降
・今は、集合墓に入る人が増えている
 ⇒独身で一生を終える人、家の墓に入りたくない人or両方に入りたい人、の増加
▼「追弔御和讃」 
・地域社会との一体感、共に悲しむ、あるのとないのとでは感情の昂りが変わる
 ⇒音読してみると分かる気がする
▼死生学がやるべきこと 
・かつての「穏やかだった死」の回復

=================
*フィリップ・アリエス(1914-1984、フランスの歴史家)
西洋の歴史の中で死がどう表されてきたかを研究した人
◎死の5つの類型
 ①飼いならされた死
 【中世以前】静かな諦観とともに共同体の一員として死んでいく
 ②己れの死
 【12世紀頃~】現世へ執着し自分個人が不幸にも死ぬと感じる
 ③遠くて近い死
 【ルネサンス期~18世紀】常に死を身近なものと考える
 ④汝の死
 【19世紀】家族や恋人の死が強い感情を呼び起こすロマン主義
 ⑤倒立した死
 【20世紀(現代)】 医療技術と衛生観念の進歩の下で死は隠蔽され、瀕死者はもはや死の主体ではない

・「飼い慣らされた死」は、穏やかになった死、という考え方 (=古代の人の感覚)
 死と親しみ、穏やかだった死が、段々と個人の死になってくる
 ⇒何とか自分は助かりたいという意識になる
・かつての西洋でも、生者と死者の連帯の意識があった
 “個”の死の意識が圧倒的優位に変化していった
 “個”が全く一人きりで死に向き合う、という意識になった
 ※死を疎外する人間が増え、「倒立して裏返ったような死」という、そういう時代になった
=================

――――――――――――――――――――――

 BreakTime

①あなたは「諸行無常」という言葉から、どのようなことを連想しますか
②あなたは何代前までの先祖を知っていますか、先祖供養についてどのように考えていますか
③共同体の一員として死んでいく、かつての「穏やかだった死」についてどう思いますか
・・・・・・

(①について)
 私はまず、平家物語の冒頭の句「祇園精舎の鐘の声~」が頭に浮かびました。物語には人生には、いずれ必ず終わりが来る、その過程や捉え方に何か大切なものがあるような、漠然としたイメージを子どもの頃に持っていました。祇園精舎や鐘の音の詳細については今回初めて知り、自分の中のイメージが変わりました。
 また、無常観というものは日本特有という感覚はなかったのですが、改めて地域による文化や価値観の違いを感じました。私の中の「諸行無常」のイメージは、どことなく侘しくもあり、どことなく温かみもあるようなイメージを持っています。

(②について)
 私は三代前の曽祖父母までですが、曽祖父母は両親が幼い頃に亡くなっているため、詳しい人物像をよく知りません。父方の曽祖父は大工、母方の相祖父は茅葺職人、曾祖母は旅館の娘、だったそうです。母方の曽祖父母のことは4~5年前に祖母から聞いた話ですが、祖母の介護補助に行った際に初めて、祖母の親きょうだいのことを知りました。
 改めて考えてみると、私の両親の家では、先祖や家に対して、関心が少し低いような印象を受けます。幼い頃、墓参りの際に何を思えばいいのかと親に尋ねると、「挨拶をしなさい」と少し雑な回答をされ、石のお墓に、そこに眠る知らない人に、何を挨拶すればいいのかと悩んだ記憶があります。そのため、先祖供養のことは特に真剣に考えたことがなく、それは私も私の親も先祖のことをよく知らないことが大きく関係しているように思います。
 どのくらい前か覚えていませんが、NHKの「ファミリーヒストリー」という番組を観たときに、自身の先祖やルーツを知るという感覚はこういうものか、とある種の感動を覚えたことがあります。よくよく考えてみると、私より5代前の先祖となると32人、10代前になると1024人、先祖供養を広く考えてゆくと、日本社会や世界、あらゆる生物や地球への「感謝」と繋がってゆくのでしょうか。人は先祖供養に何を求めているのか、何を得ているのか、文献などを通じてそんなことを考えました。

(③について)
 ここでいう「共同体」とは、住んでる地域の集落にて、葬儀などの行事を共に行う比較的結びつきの強い社会集団を指していますが、私は比較的人口の多い都市部で生活してきたため、この「共同体の一員」という感覚を持ったことがほとんどありませんでした。ただ、母方の祖母が住む地域には今も「共同体」が残っており、介護で長期滞在していた頃にその雰囲気を感じることが出来ました。
 祖母の葬儀の際には、その集落の方達が線香をあげに訪問したり、出棺の際には門前に集まって言葉を交わし合ったり、返礼品を渡しに喪主が各家を訪問するなどしていました。30年程前の祖父の葬儀のときよりも大分簡素化されたようですが、家族よりも大きな集団で喪に服すという儀式には「癒し」のようなものがあるようにも感じられました。
 私は今に残る共同体を垣間見たに過ぎませんが、共同体という意識が強い時代、その一員として死んでいくことに対して、「穏やかだった死」という表現はとても合っているようにも思えました。追弔御和讃にも同様のことを感じたのですが、悲しみを多くの人で共有すること自体に「癒し」があるように感じました。