皆さんこんにちは。
本日は、「内発的動機付け」について書き留めたいと思います。
「動機付け」という言葉で私が考えることは、人によってまた環境によりますが、大別すると、「自ら動機が湧き出て実行していく人」と、「他人の影に隠れながらなるべく自分の労をとろうとしない人」がいて、でもどうしてそういう違いが生じるのだろう・・・という疑問です。この疑問が、私の今後の勉強の主たるテーマになるのだろうと思っています。
私はこの疑問に対し、今までは、本人のやる気の問題、または精神の高低の問題、といように考えていましたし、今でもそういう解釈をしている部分もあります。
しかしながら、少しずつ勉強をしていく中で、このような大別されるタイプが生じるのは、遺伝だけではなく環境の問題もあり、また環境も様々な要因が絡み合ってその人を作っていくことを学んできました。(思ったよりも遺伝の影響が大きそうだ、ということを知ったときは意外に感じました。)
1970年代のはじめに、デシという学者が実験をしました。デシは、お絵かきが好きな幼児たちに、お絵かきをさせて何もしなかったグループと、お絵かきをさせてできたらご褒美をあげる、とした2つのグループを作り、一定期間後に報酬制度を無くしたところ、元の報酬グループの幼児たちは、自由時間に絵を書くことが少なくなった、ということを実験の結果として得ました。
これは、本来人間は、楽しいことを進んで行う内発動機を持っていると考えられていますが、、報酬を与えることによって内発的な意欲が低下する、ということです。
すなわち、内発動機が外発動機に変わってしまった、ということを示しています。
内発動機は、そのこと自体をすることに楽しみがあって目的となっていて、自律的に行動する状態を指すのに対し、外発動機は、その目的となるものが手段と代わってしまい、目的が報酬やご褒美になってしまうような状態ですね。
私たちは、自分自身は「有能」でその能力を発揮したいと思っていて、また「自分自身で物事を決定」するような自律感を持ち、そのことを他者にも正当に理解してもらえる「関係性」の欲求を持っています。
報酬自体は必ずしも悪いものではないと思います。精神面でも、がんばったことに対する適切なフィードバックのような報酬は、その人のモチベーションを向上させますよね。でもその報酬によって、過度なプレッシャーが降りかかったり、姿勢論ではなく能力論に固執してしまったり、内発動機を忘れてしまったりするような報酬の与え方・受け方自体が問題になるのではないかと、普段の会社生活を通じてもそのように考えさせられました。
東日本大震災の時に、なでしこジャパンがワールドカップを制した感激は今でも忘れられないですけど、彼女たちのモチベーションは、純粋に「サッカーが好き」ということだったのでは、と外山美樹さんが書籍の中で書いておられました。女子サッカーは当時、練習環境も報酬も、まったく他のスポーツと比べて見劣りするものだったようで、逆にそれが、内発動機を揺るがさずにサッカーを継続する良い環境を育んでいたのかもしれませんね。
最後までお読みくださり、どうもありがとうございました。
2020.4.12 #069