”「江戸幕府を倒し、新しい日本を作ろう!」そう意気込んで、熊本から立ち上がった宮部鼎蔵&春蔵兄弟。彼らのふるさとで、クールで熱いものを感じた。”
おごめ~ん、大分のtakatch親方です(`・ω・´)ゞ
今回は文化財の話題。熊本県御船町ご出身のとある兄弟ゆかりの地を訪問。
あなたは、「宮部鼎蔵(みやべていぞう)」「宮部春蔵(みやべはるぞう)」先生をご存知でしょうか?
▽兄の宮部鼎蔵先生(弟の宮部春蔵先生の写真はなし💦)
現在の御船町ご出身の宮部兄弟は、「江戸幕府の暴挙を止めるために立ち上がった熊本藩士」です(詳細は後述)。
▽彼らを称える公園が、熊本県御船町の「鼎春園(ていしゅんえん)」です。
「鼎蔵」「春蔵」の名前に由来の公園。彼らに関する石碑や彫像がございます。
今回、同じ御船町の「八勢目鑑橋」と サウナ「ミフネテラス」 と一緒に訪問。
<💡鼎春園を訪ねての感想3つ>
- 「宮部鼎蔵や春蔵、肥後勤王党の名前は聞いたことがあるけど、どんな人物なのか初めて知った」
- 「強い意を決した宮部兄弟ゆかりの地、どこかクールで熱いものを感じた」
- 「これまで御船町はあまり行くことがなかったけど、興味深いスポットが多いなあと感じた」
▽この記事では、強い意志を持たれた宮部鼎蔵先生・宮部春蔵先生の足跡を探ります。
鼎春園散策を通じ、宮部兄弟のことを一緒に学びましょう♪
<🔥目次>
- 【人物】宮部鼎蔵&宮部春蔵兄弟は、幕府の暴挙をとめるために立ち上がった尊王攘夷派。鼎蔵先生は「肥後勤王党」にも属する。
- 【アクセス】理容店近くにある公園が鼎春園|駐車場も数台分あり
- 【歩く】鼎春園にはたくさんの石碑や銅像あり|宮部鼎蔵先生の像、「孝忠」の碑などを眺めよう
熊本県御船町「鼎春園」紹介ティザー映像はこちら→https://youtube.com/shorts/BasJEB0zo1o
先に、鼎春園の主役となる宮部鼎蔵先生と宮部春蔵先生をご紹介いたします。
【人物】宮部鼎蔵&宮部春蔵兄弟は、幕府の暴挙をとめるために立ち上がった尊王攘夷派。鼎蔵先生は「肥後勤王党」にも属する。
▽宮部鼎蔵先生。弟は、宮部春蔵先生。
宮部兄弟は幕末、江戸幕府による政治を改革(倒幕)するために動いた人物です。現在の御船町(当時の「益城郡田代村」)で生まれました。
💡倒幕の動きと尊王攘夷について|自国の君主を大切に&外国の敵は排除する考え方が広まった
倒幕運動のきっかけは、諸外国から通商を求めて侵攻されたこと。幕府の暴挙を止めようと、各地の武士が立ち上がりました。
彼らは、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という考えを持っていました。この考えは、「自国の君主(日本では天皇)を大切にする一方、外国の敵を排除する」というものです。
💡兄の宮部鼎蔵先生|肥後勤王党という熊本の尊王攘夷派集団に所属&池田屋事件で命を落とす
兄の鼎蔵先生は、「肥後勤王党(ひごきんのうとう)」と呼ばれる、熊本の勤王志士の集まりに所属。
30歳の頃に熊本藩に召集。熊本出身の国学者:林桜園(はやしおうえん)先生に出会い、肥後勤王党にも参加。
▽📝熊本市中央区黒髪にある「桜山神社」には、肥後勤王党ゆかりのある文化財があり。
Cf1:桜山神社内にある、肥後勤王党に影響を与えた思想家:林桜園先生のお墓。
Cf2:同じく桜山神社にある、宮部鼎蔵先生の歌碑
鼎蔵先生は、元治元年(1864年)6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃します=池田屋事件。享年45。
💡弟の宮部春蔵先生|長州藩にて尊王攘夷運動
春蔵先生は熊本藩士でしたが、文久2年(1862年)に脱藩して長州へ。三条実美先生に仕えます。
池田屋事件では、春蔵先生は長州藩邸へ逃げ込んで難を逃れました。しかし、 同年に禁門の変で敗走。最後は立てこもっていた小屋にて爆死。享年26。
▽宮部兄弟&鼎春園の詳しい内容は、鼎春園の説明看板をご覧ください。
先生のことを学んだ上で、鼎春園へお邪魔いたします。
【アクセス】理容店近くにある公園が鼎春園|駐車場も数台分あり
▽地図(熊本県上益城郡御船町上野2215) 九州自動車道の御船ICから車で約40分です。
先日ご紹介「八勢目鑑橋」からは車で数分の位置にございます。
Cf:熊本県御船町「八勢目鑑橋(眼鏡橋)」紹介動画はこちら→https://youtu.be/4Q2_fZIphMA
▽鼎春園の駐車場は、川部理容店さんの近くに3~4台分あり。
▽駐車場から見える緑薫る空間が、鼎春園です。1913年に宮部兄弟を追慕する旧七滝村民によってつくられました。
園内へ歩を進めます。
【歩く】鼎春園にはたくさんの石碑や銅像あり|宮部鼎蔵先生の像、「孝忠」の碑などを眺めよう
▽鼎春園の全体像。奥にある大きな石碑&宮部鼎蔵先生彫像をはじめ、園内には複数の石碑などがあり。
💡宮部鼎蔵先生彫像と顕彰碑
▽彫像は、平成17年(2005年)5月26日に設置。
▽アントニオ猪木ブロンズ像制作で有名な、熊本市の村田善則さんが制作されました。
▽📚プロレス格闘フィギュアの本でも、村田善則さんが登場!(ご購入は下記バナーをクリック/広告)
Cf:村田善則さんは、熊本市のビールバー「ビアホールMAN」も経営🍺
📝大学時代、青年団の先輩と一緒に熊本市ビアホールMANにもお邪魔したことあり!(当時の記事はこちら)→https://ameblo.jp/takatch/entry-12131250232.html
▽宮部鼎蔵先生彫像碑では、顕彰会による鼎蔵先生の生い立ちなどが紹介されています。
▽彫像近くにある大きな顕彰碑も存在感あり。高さ5メールほど。
大正2年(1913年)に、熊本県内の各界の協力により建てられました。
- 碑題→細川氏第15代細川護成公
- 撰文者→天草大矢野町出身の大学者:竹添進一郎(井々)氏
- 書→大家といわれた末廣櫨山氏
💡歌碑|宮部兄弟が詠む
大きな顕彰碑をはさみ、左右に兄弟の歌碑があり。
▽兄:宮部鼎蔵先生の句 「いざ子供 馬に鞍おけ 九重の 御階の桜 散らぬそのまに」
▽弟:春蔵先生の句「故里の 花を見すてて 飛ぶ田鶴は 雲井の空に 羽をやうつらむ」
💡「孝忠」|親に孝行し、天皇に忠誠を誓う
鼎蔵先生が、意を決して京都に出立されるとき、子孫のために遺された「孝忠」の言葉の石碑も必見。
宮部家の家訓です。親に「孝」、天皇に「忠」。鼎蔵先生は、まさにこの言葉の一生を過ごされました。
💡七滝財産区の碑|広大な森林が、小中学校に建設に寄与した
かつてこの辺りは七滝村でした。昭和30年1月1日に合併にて御船町となりました。
その際、旧七滝村の財産区で管理していた森林を売却し、その収益を地元の小中学校などの建設費に充てました(売却総額は、当時の金額で7,130万円)
一方で、残っている森林は環境や観光資源保護のために保全することを決定。森林の所有権も、財産区から御船町へ移管。
▽財産区解散に伴い、森林資源の恩恵を後世に伝えるための石碑が、こちらの七滝財産区の碑です。
📝大分県連合青年団による「大分青年の森」も然り、山林という山の宝物が、未来の教育に役立てられることに感謝です✨
💡仏教の石造信仰物|一字一石塔か?
▽鼎春園入口にある石碑。コンクリートで補修されています。
▽刻時を読むのは困難💦梵字のようなものを確認できることから、「一字一石碑」だと予想。
一字一石碑とは、経典の文字を石に一文字ずつ刻み供養している石碑です。 📝熊本市南区の「良間神社」でも登場しました⛩
▽「卍」の刻時もあることから、仏教の意味が込められたものと推測します(最初は猿田彦信仰物=神道を予想も、卍があることから否定)
▽これにて一周完了。お邪魔いたしました。
日差しの強い昼下がり。しかし、どことなく冷たく重い雰囲気あり。身が引き締まる思いがしました。あくまでも私の主観です。
宮部兄弟の強い決意を感じるような、クールながら熱いものがそこにある気がしました。
公園は明るく爽やかな雰囲気なのに、石碑などを眺めると身が引き締まる=落ち着いたクールな気分になる。不思議な感覚を現場で持ちました。
日本の歴史を変えようと動いた宮部兄弟の足跡を、あなたも辿りませんか。
公園や彫像ができるほど、地元の方々に愛される先人の想いに馳せましょう。
以上です(`・ω・´)ゞ最後までお付き合いいただきありがとうございましたm(__)m