阪神淡路大震災30年にちなんで〜作家・土居豊の著作紹介「ハルキとハルヒ」
阪神淡路大震災30年にちなんで
作家・土居豊の著作紹介
その1
ハルキとハルヒ 村上春樹と涼宮ハルヒを解読する
ASシリーズ第5巻
『ハルキとハルヒ 村上春樹と涼宮ハルヒを解読する』土居 豊(どい ゆたか) 著
定価:本体2,000円 + 税
2012/04/20発行
概要
《『涼宮ハルヒ』シリーズと村上春樹作品との意外な関連を読み解く。どちらも現代日本人が求めてやまない魅力的な物語を描き、世界的に大ヒットした、両者を並べて論じた初めての一冊。》
※大学教育出版
https://www.kyoiku.co.jp/00search/book-item.html?pk=875
阪神淡路大震災30年、当時の思い出を書いておく
阪神淡路大震災30年、当時の思い出を書いておく
(神戸港に保存された、震災当時のままの岩壁)
ちょうど27歳だった。大阪府立高校の教諭になって5年。あの年の1月17日は火曜日で、前日16日月曜日は成人の日の振替休日だった。センター試験が前々日に行われていて、勤務校も試験会場に使われていた。それなのに、筆者も含めて勤務校の複数の教師たちは、センター試験なぞどこ吹く風で、「職員劇」の公演をやって浮かれていた。
というのも、勤務校は当時の中の下ぐらいの偏差値で、在校生でセンター試験受験生はほぼ0だった。この頃はまだ、センター試験は純粋に国公立の1次試験であり、私立大学短大進学希望ばかりの勤務校には全く無縁だったのだ。
そんなわけで、前々日の15日に「職員劇」をやらかした翌日の16日振替休日は、センター試験後でまだ校舎内立ち入り禁止だった。その劇の伴奏を、吹奏楽部の顧問だった筆者が指揮して演奏させた吹奏楽部の楽器は、会場からワゴン車に積んで勤務校に運んだまま、校内に駐車して放置していた。連休明けの火曜日に、吹奏楽部員を使って、楽器をワゴン車から校舎4階の音楽準備室に運ぶ段取りだったのだ。
まさか、その火曜日早朝、あの震災がくるとは、想像もできなかった。
この当時の筆者は、大阪府茨木市の実家住まいで、勤務校は豊中市の少路というところにあった。今でもそうだが、豊中市の中でも高級住宅地で有名な地域で、有名タレントの豪邸があるので知られていた。全体が平地の豊中市の中でも珍しく小高い山になっており、昔は『万葉集』に、「島熊山」の地名で歌に詠まれた景勝の地だったそうだ。
1995年1月17日の早朝。
筆者は明け方、ふと首筋にビリビリと痺れるような嫌な感触があり、目を覚ましていた。まだ寝ていられる時間なので布団の中にいて、それでももうすぐ起きなければいけないので、枕元の石油ファンヒーターのスイッチを入れて部屋を間温めし始めていた。
震災発災時、何が起きたかわからなかったが、直前からゴゴゴゴと地響きがきて床から頭に振動が伝わってきたことは覚えている。すぐに大音響と共に揺れが襲い、時間はほんの数秒だったはずだがずいぶん長い間、布団にただしがみついて揺れに耐えていた。
揺れが止んであわてて枕元のファンヒーターを見ると、振動による自動消火が作動してすでに消えていて、ほっとした。轟音だと思ったのは、自室のあちこちに積み上げていた本の山が一気に崩れた音だったようだ。自室の被害はとりあえずそのぐらいで、筆者は急いで階下におり、とるものもとりあえずドアを開けて外に出た。近所の人たちも数人、様子を見に出てきていた。隣接する母屋から父親も出てきて、家族の無事はすぐに確認できた。一安心して、母屋のテレビでようやく、何が起きたかを知ったのだった。
兵庫県在住の兄に電話して無事を確認したり、知人数人に電話して無事を確認したりしていた。しかし、確か午前6時台の間だったはずだが、電話はどこも繋がらなくなってしまった。おそらく筆者のような間抜けが大勢いて、無事を確認する電話をかけていたために回線がパンクしてしまったのだろう。
その後、当日はただテレビの前で呆然と事態の推移をながめたり、家の片付けをしたりする以外、なすすべもなかった。
大阪府の教育公務員だった筆者は、本来ならすぐに勤務校に駆けつけなければならないのだが、茨木市の自宅と、勤務校の豊中市の間に、地震による被害が多数あり、震災当日は通勤手段が絶たれていた。
勤務校に一番近い駅は、大阪モノレールの少路駅だが、モノレールはもちろんのこと、この日は阪急電鉄もしばらく運行できなかった。モノレール以外の通勤ルートは、阪急宝塚線豊中駅からバス、あるいは北大阪急行線の千里中央駅からバスなのだが、どっちの駅も辿り着くことは難しく、バスも豊中市内の道路の被害がひどくて、運行していたかどうか不明だった。
そんなわけで、発災当日は通勤できず、翌日18日にようやく勤務校に出勤したのだが、この時もまだ、最寄駅は阪急豊中駅しか使えず、バス路線も復旧していないため、勤務校まで数キロ、市街地を歩いて行った。各所で水道管が破裂したまま水があふれていたり、アスファルトに大きな亀裂があったり、散々な有様を横目に、とにかく出勤した。
ところが、出勤してみて唖然としたのだが、豊中市内の生徒が多い勤務校で、まだ被災した生徒の状況も把握できていない発災2日目で、この時の校長は授業を再開すると命じたのだ。
発災2日目の勤務校は実際には被災がひどく、校舎内は水道断水、水漏れで教室なども水浸しの箇所が多く、グラウンドは片方が崖だったため大きく崩落し、鉄筋4階建一棟の校舎にも、素人目にもはっきりと亀裂が入っている状態だった。
この状況で授業?
当然、教員たちは反対の声を上げた。そもそも水道断水でどうやって? トイレはどうする?
すると校長は、信じ難いことに、「プールの水を運んでトイレを流せ」と言い放ったのだ。
この時、筆者は痛感した。リーダーがボンクラだと組織は緊急時、とんでもない目に合うのだ、と。
このボンクラ校長は、その後もボンクラぶりを発揮し続けていたが、そのくだりは省略しよう。
ともあれ、数日間、水道復旧するまで休校していたのだが、勤務校の生徒の中には、豊中市の南部、庄内地区の子も大勢いた。大阪府内でほとんど唯一の被災地となったのが豊中市だが、その中でも、南部の庄内近辺は戦後に出来上がった下町のため、古い家屋の密集地で、被災の度合いがひどかった。生徒の中には被災者が大勢おり、1月中、しばらくは登校できなかった子も多数いた。
そんな中、筆者は担任ではなかったが、授業の受け持ち生徒には高3生も多く、ちょうど受験直前だった。前述のように、勤務校は国公立受験には縁がなく、多数が私立の中堅大学・短大の進学を目指す生徒層だった。もうすぐ私立の入試時期だったのだが、この時の関西圏の大学短大はかなり良心的な対応をしてくれた。被災を配慮して入試日程を可能な限り後ろにずらしてくれたのだ。
そもそもが、兵庫県の私立大学短大は自身も被災したところが多く、学生に死者も多数いた。そんな中、入試どころではなくなっていたに違いないが、日程を遅らせて回数も増やして、この年の3月ギリギリまで入試をどうにかやり切ったことは、特筆に値する。
ところで、今の若い人には想像できないだろうけど、1995年にはまだインターネットは普及しておらず、情報は新聞・テレビ・ラジオが主だった。入試情報もどこから得るかというと、新聞などに発表される記事・広告でいちいち確認するしかなかった。各大学から公立・私立高校に受験情報は伝達されるが、それぞれの進路指導担当宛にファックスで来るのがメインだったのだ。
震災後の緊急状況の中で、高3生になんとか入試情報の変更を伝えるべく、筆者は担当ではなかったが自主的に新聞の記事・広告を切り抜いて拡大コピーし、3年生の教室フロアの壁に掲示して回ったりした。
そんなこんなで、ようやく震災後の3月、高3生が卒業して、ひと段落ついたと思ったら、筆者は勤務校を転勤になった。豊中市内の元の勤務校がその後どうなったかは知らないが、4月、新しい勤務校に赴任して愕然とした。その高校では被災生徒はほぼおらず、教員にも被災体験者は少なく、学校では震災のことなど完全に過去の話題だった。
この点が、阪神淡路大震災の最も酷な部分だっただろうと思う。ほんの数百メートル、数キロしか離れていない兵庫県と大阪府の、この感覚の差の大きさは、どうにも埋められないものがあった。しかも、大阪府内にあってほぼ唯一被災した豊中市の、南部地域の悲惨な有様は、同じ大阪府民にもほとんど知られていないようだった。
このことは、30年経った今でも、変わっていない。世間的には、阪神淡路大震災という呼び名の通り、被災したのは兵庫県の阪神地域、それも全国的には「神戸」の被災、しか事実上、知られていないだろう。だが当時も今もひっそりと、大阪府内の豊中市の特に庄内周辺の被災地が、歴史に埋もれたままで忘れられているのだ。
一つ書き忘れたが、センター試験当日にやらかしていた罰当たりな職員劇に使った勤務校の楽器は、ワゴン車に積んだまま校内の駐車場に放置していたことが逆に幸いし、被害を免れた。校舎内の4階にある音楽準備室は、かなり揺れたらしく、ものが落ちて散乱していたので、もし楽器を置いてあったら少しは被害があっただろう。何が幸いするか、本当にわからない。
※復興なった神戸の風景
(旧居留地)
(新長田の商店街)
土居豊&浦澄彬の2大エッセイ、新春から連載再開! テーマは教員不足、バブル崩壊後の教育現場
(1)
連載再開!(2000年代物書き盛衰記・特別編)
「バブル期高校教師盛衰記〜バブル真っ最中に超難関の教員採用合格した私だが?」
第1章「バブル真っ最中に超難関の教員採用合格した私だが、同期たちは今どこに?」
その1 かくいう自分も教員生活20年を待たずに退職してしまったのだが
https://note.com/doiyutaka/n/nc607878569ef?flash_message_key=twitter_status_posted
《まえがき
すでに現代史の領域となった、30年以上前のバブル崩壊直後の教員採用合格者の裏話を書いておきたい。それというのも、最近、以下の記事のように、教員不足の話題がネットでバズったりしているのだが、その根本的な原因、ボタンのかけ違いの最初を、知っている人が現場にも報道にも言論界にもすでにいなくなっているのかも?と思ったのだ。
※参考記事
全国の教員不足、過去最多の4700人超…「現場は限界を迎えている」
2025/01/09
https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20250109-OYT1T50146/
まだ、その当時現役だった関係各位はご存命のはずだが、おそらくは、これも最近話題の「守秘義務」を重く受け止め過ぎて、硬く口を閉ざしているのではないか?と疑っている。
だが、そろそろ書いておかなくては当時のことなど、誰も知らないまま忘れられてしまう。途中退職した自分などは、比較的赤裸々に書きやすい立場なので(原則的には退職後も守秘義務はあるのだが)、あの頃何があったのか、誰かが語り伝えておかないといけないだろうと思い、義務感からも書いていくつもりだ。
今の若い教員・教育職志望の方々に。
今ならまだ間に合うかもしれない。教育職に就くのはやめておくがいい。もしどうしてもやる気なら、政治を変えることと並行してやらないと無駄死にする。
また、すでに高齢者であるはずの元教育職の方々に。
この国が滅んでいくのを少しでも遅らせるための、最後の機会を見過ごさないよう、もし心ある方がいれば筆者の本稿の細部について、補完をお願いしたい。》
連載再開!
『平成文学・私史』浦澄彬 著
第2章 昭和64年=平成元年前後の文学系学生事情など
その1「バブル真っ最中にあえて民間を受けずに競争倍率過去最高の教員採用試験に挑むバカ」
前段まで
第1章完結 『平成文学・私史』(浦澄彬 著)
第1章「平成時代直前の文学部系大学生」
その1「小松左京とニアミスだった大学入学・有名人の多い大学」
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/10/30/143121
その2 「芸大生の文学活動」1
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/01/230454
その3 「芸大生の文学活動」2
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/03/110844
その4「芸大生の文学活動」3
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/07/181615
その5「芸大生の文学活動」4
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/17/141258
※昨年末、発売開始した新刊評論、筆者渾身の1冊をぜひお求めくださいますよう、お願い申し上げます。
フォレスト2545新書『なぜあのキャラは死ななければならなかったのか? 名作の「死」の描写で辿るマンガ・アニメ史』浦澄彬 著
ネット書店でも発売中(電子書籍版もあります)
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京都新聞の書評でも紹介!
ネットでの反応
高橋一彰📖書籍PRの専門家
https://note.com/ichi_kazsun/n/n725e3b55b263
Yahoo!ニュースに転載(現在は見れません)
エキサイトニュースに転載(現在は見れません)
元記事
https://kai-you.net/article/91275
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000090.000009347.html
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韓国のネット書店でも販売!
https://www.yes24.com/product/goods/140076954
毎年恒例、元旦の大手4紙1面比較
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産経新聞がびっくり!「強靭化」推進しろとの論調。確か、2011年東日本大震災ののちの民主党政権(当時)のスーパー堤防には反対の論陣を張っていた気がするのだが、違ったかな?
ともあれ、産経らしく中の紙面では国粋的な主張ばかりではあった。
朝日新聞はいかにも朝日らしく「寄り添う」姿勢を強調。だが振り返ってみれば2024年元旦の発災以来、被災地に寄り添うどころか、見捨てる方向へ進む日本政府と現地自治体の政治家たちの無慈悲な動きや、国民の無関心を朝日も止められなかった。
毎日新聞はネット(SNS)選挙の衝撃を前向きに受け止めようとしている。だがそうはいっても毎日自身もSNS選挙の暴走を手をこまねいていたのは同じ。今年の参院選まで、新聞紙面でどのような言論を展開するのか、よく見張っていよう。
読売新聞だけは、安定の国粋路線か。なべつね亡き後も方針は堅持されている? 中国敵視路線が2025年も継続か。
最後に、今年の元旦のNHKニュース7は、かつてなかったほどの沈鬱なムードで構成された。能登半島自身から1年、の現地取材が大部分を占めていた。
それはいいのだが、そこまでやるなら、むしろ今日より前、昨年2024年の間に、もっと能登半島の苦境を報道し、日本政府や地元自治体の政治の意思を被災地復旧に全力で向き合わせるよう、政治と世論を動かしてもらいたかった。特に、NHKと大手4紙が同じように2025年大阪万博を推進する方向に一致しているのは、支持できない。能登半島地震被災地の復旧には、万博を中止して国の土木建設の全力を被災地に集中させる必要があったはずだと思う。