「エモい」日本アニメのOP演出と、クラシック音楽の先行例を考える
「エモい」日本アニメのOP演出と、クラシック音楽の先行例を考える
まず、以下のポストを書いたラトビアの日本アニメファンさんに、お礼を言います。
※引用
《私はアニメきっかけで日本を好きになったラトビア人なんですが、アニメが最終回に近づき、物語の終盤でエンディング曲ではなく、オープニングの曲が流れるという、激アツ展開に心が躍り、ついつい『うぉぉぉぉ!!!ありがとぉぉぉ!!』と雄叫びをあげてしまうほどのアニメにたくさん出会いたい。》
そこで、思ったのだが、その感覚を私たちに(というか全人類に)最初に教えてくれたのは、あなた方ヨーロッパ人だった。
その感覚の最も有名な例は、音楽の素人にもわかるように「エモい」感じを叩き込んでくれた、ベートーヴェンの第九交響曲の4楽章だ。それまで特にクラシック音楽を聴き慣れていなくても、ベートーヴェンの第九の楽章で、歓喜のメロディーが始まると、わけもわからず鳥肌立つ人が多いはずだ。その理由を多くの人は気づいていないかもしれないが、誰もが知る歓喜のメロディーが始まる前に、実はそれまでに聞いた1、2、3楽章のモチーフが、改めて紹介されていることにある。これがまさに、アニメのOPをクライマックスで使うのと似たような効果になっているのだ。どこかで聞き覚えのあるメロディーが改めて流れると、いよいよこれからクライマックスかな?と身構えさせる効果があるのではないかと、筆者は考えている。
さらに、ベートーヴェンの第九の先行例として、モーツァルトの歌劇「ドンジョバンニ」と、同じくジュピター交響曲(交響曲第41番)があることを、押さえておきたい。
例えば、「ドン・ジョバンニ」の序曲は、歌劇全体のクライマックスである騎士長の石像が登場する場面の音楽から始まるのだ。一番最初に聞いたメロディーが、いよいよクライマックスという時に再び鳴ることで、誰しもゾワゾワとすることだろう。
もともと、歌劇の序曲は、その歌劇の主なモチーフを組み合わせて、いわばミックスという感じでできているのだが、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」以前には、あれほどクライマックスを効果的に先取りした序曲はなかったのではあるまいか。イタリア・オペラでそういう例があるかもしれないが、寡聞にして知らない。
それに、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」は、それまでの交響曲と一味違って、終楽章に重点が置かれている。そこで天才の技をこれでもかと駆使して、唖然とするほどの楽曲展開が繰り広げられる。
ただ、こういったモーツァルトの例が高度すぎてわからない素人の聴衆にも、間違いなく「エモさ」が伝わるのが、ベートーヴェンの第九だった。
このパターンを意識的に、もっと露骨にリメイクしたのは、のちのブラームスの交響曲第1番と、ワーグナーの楽劇だ。それに同時並行したのが、ベルリオーズの幻想交響曲の例だといえる。
さらにブラームスとワーグナーの場合を踏まえて、ひとひねりしてリミックスしたのがマーラーの交響曲群だった。
こうして見ると、20世紀にマーラーの交響曲がリバイバルしたのは必然だったといえよう。「エモい」という感じは、我々のような異民族の、それも西洋音楽の素人でもよくわかるからだ。
以上を噛み砕いて説明すると、アニメOPがラストで「エモく」流れるパターンを、(おそらく)最初にやったのがモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」だった。序曲であらかじめ終幕のクライマックスの音楽を聴かせてあるから、当然「エモい」のだ。
同じモーツァルトのジュピター交響曲の場合は、音楽の素人には理解しにくいが、あの複雑な4楽章で何か異様な展開が起きたことは伝わるはずだ。
そこで、ベートーヴェンの第九の場合、さらにわかりやすく「これまでのベートーヴェン」、あるいは「これまでの西洋音楽」、を総集編でおさらいしてくれる。そうしておいて、おもむろに4楽章の歓喜のメロディーが登場するのが「エモい」のだ。
ところで、前述のラトビアの人が感動したアニメのOP抜きのパターンを、おそらく最初にやったのは宇宙戦艦ヤマトの最終話ではないか? それとも、他にあったかな?
そうだ、この話を、小中学の特別授業で、具体例をアニメで見せながらやったら、子どもたちにうけるかな。
どこか公立でも私立でも、校長さん、呼んでください。
連載更新! 土居豊の文芸批評 ドストエフスキー最大の問題作『悪霊』
連載更新!
土居豊の文芸批評
ドストエフスキー最大の問題作『悪霊』〜なぜ村上春樹は「悪霊」を「神の子どもたちはみな踊る」のエピグラフに選んだか?
https://note.com/doiyutaka/n/ne0e65cda3ffc?flash_message_key=twitter_status_posted
※土居豊の文芸批評
「ドストエフスキー『罪と罰』 ラスコーリニコフの老婆殺しは、妹推しの兄が切羽詰まってやっちまったこと」
https://note.com/doiyutaka/n/n347d83e2d083
《唐突だが、ドストエフスキーを語ることにする。それというのも、筆者は長らく村上春樹作品を批評してきたが、村上作品の根底には、ドストエフスキーからの影響が色濃いからだ。》
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阪神淡路大震災30年にちなんで〜作家・土居豊の著作紹介「ハルキとハルヒ」
阪神淡路大震災30年にちなんで
作家・土居豊の著作紹介
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概要
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阪神淡路大震災30年、当時の思い出を書いておく
阪神淡路大震災30年、当時の思い出を書いておく
(神戸港に保存された、震災当時のままの岩壁)
ちょうど27歳だった。大阪府立高校の教諭になって5年。あの年の1月17日は火曜日で、前日16日月曜日は成人の日の振替休日だった。センター試験が前々日に行われていて、勤務校も試験会場に使われていた。それなのに、筆者も含めて勤務校の複数の教師たちは、センター試験なぞどこ吹く風で、「職員劇」の公演をやって浮かれていた。
というのも、勤務校は当時の中の下ぐらいの偏差値で、在校生でセンター試験受験生はほぼ0だった。この頃はまだ、センター試験は純粋に国公立の1次試験であり、私立大学短大進学希望ばかりの勤務校には全く無縁だったのだ。
そんなわけで、前々日の15日に「職員劇」をやらかした翌日の16日振替休日は、センター試験後でまだ校舎内立ち入り禁止だった。その劇の伴奏を、吹奏楽部の顧問だった筆者が指揮して演奏させた吹奏楽部の楽器は、会場からワゴン車に積んで勤務校に運んだまま、校内に駐車して放置していた。連休明けの火曜日に、吹奏楽部員を使って、楽器をワゴン車から校舎4階の音楽準備室に運ぶ段取りだったのだ。
まさか、その火曜日早朝、あの震災がくるとは、想像もできなかった。
この当時の筆者は、大阪府茨木市の実家住まいで、勤務校は豊中市の少路というところにあった。今でもそうだが、豊中市の中でも高級住宅地で有名な地域で、有名タレントの豪邸があるので知られていた。全体が平地の豊中市の中でも珍しく小高い山になっており、昔は『万葉集』に、「島熊山」の地名で歌に詠まれた景勝の地だったそうだ。
1995年1月17日の早朝。
筆者は明け方、ふと首筋にビリビリと痺れるような嫌な感触があり、目を覚ましていた。まだ寝ていられる時間なので布団の中にいて、それでももうすぐ起きなければいけないので、枕元の石油ファンヒーターのスイッチを入れて部屋を間温めし始めていた。
震災発災時、何が起きたかわからなかったが、直前からゴゴゴゴと地響きがきて床から頭に振動が伝わってきたことは覚えている。すぐに大音響と共に揺れが襲い、時間はほんの数秒だったはずだがずいぶん長い間、布団にただしがみついて揺れに耐えていた。
揺れが止んであわてて枕元のファンヒーターを見ると、振動による自動消火が作動してすでに消えていて、ほっとした。轟音だと思ったのは、自室のあちこちに積み上げていた本の山が一気に崩れた音だったようだ。自室の被害はとりあえずそのぐらいで、筆者は急いで階下におり、とるものもとりあえずドアを開けて外に出た。近所の人たちも数人、様子を見に出てきていた。隣接する母屋から父親も出てきて、家族の無事はすぐに確認できた。一安心して、母屋のテレビでようやく、何が起きたかを知ったのだった。
兵庫県在住の兄に電話して無事を確認したり、知人数人に電話して無事を確認したりしていた。しかし、確か午前6時台の間だったはずだが、電話はどこも繋がらなくなってしまった。おそらく筆者のような間抜けが大勢いて、無事を確認する電話をかけていたために回線がパンクしてしまったのだろう。
その後、当日はただテレビの前で呆然と事態の推移をながめたり、家の片付けをしたりする以外、なすすべもなかった。
大阪府の教育公務員だった筆者は、本来ならすぐに勤務校に駆けつけなければならないのだが、茨木市の自宅と、勤務校の豊中市の間に、地震による被害が多数あり、震災当日は通勤手段が絶たれていた。
勤務校に一番近い駅は、大阪モノレールの少路駅だが、モノレールはもちろんのこと、この日は阪急電鉄もしばらく運行できなかった。モノレール以外の通勤ルートは、阪急宝塚線豊中駅からバス、あるいは北大阪急行線の千里中央駅からバスなのだが、どっちの駅も辿り着くことは難しく、バスも豊中市内の道路の被害がひどくて、運行していたかどうか不明だった。
そんなわけで、発災当日は通勤できず、翌日18日にようやく勤務校に出勤したのだが、この時もまだ、最寄駅は阪急豊中駅しか使えず、バス路線も復旧していないため、勤務校まで数キロ、市街地を歩いて行った。各所で水道管が破裂したまま水があふれていたり、アスファルトに大きな亀裂があったり、散々な有様を横目に、とにかく出勤した。
ところが、出勤してみて唖然としたのだが、豊中市内の生徒が多い勤務校で、まだ被災した生徒の状況も把握できていない発災2日目で、この時の校長は授業を再開すると命じたのだ。
発災2日目の勤務校は実際には被災がひどく、校舎内は水道断水、水漏れで教室なども水浸しの箇所が多く、グラウンドは片方が崖だったため大きく崩落し、鉄筋4階建一棟の校舎にも、素人目にもはっきりと亀裂が入っている状態だった。
この状況で授業?
当然、教員たちは反対の声を上げた。そもそも水道断水でどうやって? トイレはどうする?
すると校長は、信じ難いことに、「プールの水を運んでトイレを流せ」と言い放ったのだ。
この時、筆者は痛感した。リーダーがボンクラだと組織は緊急時、とんでもない目に合うのだ、と。
このボンクラ校長は、その後もボンクラぶりを発揮し続けていたが、そのくだりは省略しよう。
ともあれ、数日間、水道復旧するまで休校していたのだが、勤務校の生徒の中には、豊中市の南部、庄内地区の子も大勢いた。大阪府内でほとんど唯一の被災地となったのが豊中市だが、その中でも、南部の庄内近辺は戦後に出来上がった下町のため、古い家屋の密集地で、被災の度合いがひどかった。生徒の中には被災者が大勢おり、1月中、しばらくは登校できなかった子も多数いた。
そんな中、筆者は担任ではなかったが、授業の受け持ち生徒には高3生も多く、ちょうど受験直前だった。前述のように、勤務校は国公立受験には縁がなく、多数が私立の中堅大学・短大の進学を目指す生徒層だった。もうすぐ私立の入試時期だったのだが、この時の関西圏の大学短大はかなり良心的な対応をしてくれた。被災を配慮して入試日程を可能な限り後ろにずらしてくれたのだ。
そもそもが、兵庫県の私立大学短大は自身も被災したところが多く、学生に死者も多数いた。そんな中、入試どころではなくなっていたに違いないが、日程を遅らせて回数も増やして、この年の3月ギリギリまで入試をどうにかやり切ったことは、特筆に値する。
ところで、今の若い人には想像できないだろうけど、1995年にはまだインターネットは普及しておらず、情報は新聞・テレビ・ラジオが主だった。入試情報もどこから得るかというと、新聞などに発表される記事・広告でいちいち確認するしかなかった。各大学から公立・私立高校に受験情報は伝達されるが、それぞれの進路指導担当宛にファックスで来るのがメインだったのだ。
震災後の緊急状況の中で、高3生になんとか入試情報の変更を伝えるべく、筆者は担当ではなかったが自主的に新聞の記事・広告を切り抜いて拡大コピーし、3年生の教室フロアの壁に掲示して回ったりした。
そんなこんなで、ようやく震災後の3月、高3生が卒業して、ひと段落ついたと思ったら、筆者は勤務校を転勤になった。豊中市内の元の勤務校がその後どうなったかは知らないが、4月、新しい勤務校に赴任して愕然とした。その高校では被災生徒はほぼおらず、教員にも被災体験者は少なく、学校では震災のことなど完全に過去の話題だった。
この点が、阪神淡路大震災の最も酷な部分だっただろうと思う。ほんの数百メートル、数キロしか離れていない兵庫県と大阪府の、この感覚の差の大きさは、どうにも埋められないものがあった。しかも、大阪府内にあってほぼ唯一被災した豊中市の、南部地域の悲惨な有様は、同じ大阪府民にもほとんど知られていないようだった。
このことは、30年経った今でも、変わっていない。世間的には、阪神淡路大震災という呼び名の通り、被災したのは兵庫県の阪神地域、それも全国的には「神戸」の被災、しか事実上、知られていないだろう。だが当時も今もひっそりと、大阪府内の豊中市の特に庄内周辺の被災地が、歴史に埋もれたままで忘れられているのだ。
一つ書き忘れたが、センター試験当日にやらかしていた罰当たりな職員劇に使った勤務校の楽器は、ワゴン車に積んだまま校内の駐車場に放置していたことが逆に幸いし、被害を免れた。校舎内の4階にある音楽準備室は、かなり揺れたらしく、ものが落ちて散乱していたので、もし楽器を置いてあったら少しは被害があっただろう。何が幸いするか、本当にわからない。
※復興なった神戸の風景
(旧居留地)
(新長田の商店街)














