
土居が寄稿した電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』がJstageでも公開
土居が寄稿した電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』がJstageでも公開されました。京アニ作品のみならず、音楽アニメを愛する多くの皆さんへお届けしたい論考です。ご興味ありましたらアクセスしてみてください。
以下
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オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』最新号(Vol.5)
(2023/5/15グーグルサイト公開。同年6/2Jstage公開)
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/epstemindsci/-char/ja
映像メディア時評(特集)「京アニ作品の死生観」論 その2【音楽アニメの死生観~『けいおん!』『響け!ユーフォニアム』の場合】土居豊 著
PDFダウンロード
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https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/5/1/5_131/_pdf/-char/ja
※序文より
《京アニ作品『けいおん!』(第2期、劇場版も含む)と、同じく京アニの音楽アニメの集大成『響け!ユーフォニアム』諸作を今改めて振り返ると、ゼロ年代(2000年代)で終わりをむかえてしまった平和な日常を描く、最後の作品群だったと感じさせられる。2010年代後半から今にいたる日本の日常からは、京アニ作品に代表される平穏な学生生活のリアリティが失われつつある。2020年代、新型コロナ危機やウクライナ戦争などの影響も相まって、ゼロ年代的な日常感覚、「世はなべてこともなし」という10代の青春物語は完全に現実味を失ったといっていいだろう。》
※以前の掲載論考
(1)
こころの科学とエピステモロジー4巻 (2022) 1号
映像メディア時評「京アニ作品の死生観」論その1【ミステリーアニメの死生観〜『涼宮ハルヒ』とP.A.WORKSの『Another』、そして『氷菓』】
土居豊(作家)
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PDFでダウンロード
https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/4/1/4_103/_pdf/-char/ja
(2)
電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』3号
土居豊の担当した文章へのリンク
『京アニ事件の深層―京アニ事件総論』
https://drive.google.com/file/d/1KAcE6n04c3W726AhAgcMRSUttvPKfVIl/view
『京アニ事件の深層―「京アニ作品の死生観」試論』
https://drive.google.com/file/d/1bz3WOIykQOJUwpssYShbbdp60Ug-jllz/view
(3)
映像メディア時評『人文死生学研究会番外編「涼宮ハルヒ」+付記:京都アニメーションお別れの会参列報告』
執筆者
土居豊(作家)
渡辺恒夫(東邦大学名誉教授/心理学・現象学)
三浦俊彦(東京大学文学部教授。専門は芸術学・分析哲学)
https://drive.google.com/file/d/1nLmDGHfDji2Si6u5kduqCCbbsv8OBXgq/view
大阪維新の会、吉村府知事の進める「御堂筋歩道化」に反対する
※参考記事
大阪・御堂筋、側道700メートルを閉鎖 歩道に転換へ(日経2022年10月4日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF045X20U2A001C2000000/
https://kansai-sanpo.com/midosuji-walk2022nov/
※参考資料
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000519152.html
https://minami-midosuji.net/association
御堂筋歩道化計画の噂は聞いていた。まさかと思っていたが、久しぶりに心斎橋に出て、愕然とした。
心斎橋の御堂筋側が、この惨状だ。
心斎橋から難波方向は、こんな有り様に。
この広さの歩道を作り、シャネルの前にキッチンカーを並べるという話だ。なんてみすぼらしい景観になることか。
御堂筋歩道化で、間違いなく心斎橋の商店街の側は荷下ろしが不便になり、客足にも悪影響が出るだろう。まさか、それが御堂筋歩道化の目的なのだろうか?
だが、本来のミナミ、心斎橋の魅力は、こちらの商店街の方にある。
海外ブランドも、商店街側にあると客に近い目線だ。
御堂筋歩道化で御堂筋側にキッチンカーなんか並べても、客はすぐに立ち寄らなくなる。
それよりミナミの商店街の魅力はやはり、こういう雑多な商店街をぶらぶら歩くことだ。
海外観光客も、こういう古本などを見て歩くことの方が日本の魅力を堪能できるというものだ。
そもそも、御堂筋の車道と街路樹の景観は、こういう美しいものなのだ。
街路樹を切ってしまい、広い歩道にしてオープンカフェ風の椅子とテントや、キッチンカーを並べる予定だというが、そんなどこにでもありそうなことを、この歴史ある落ち着いた風景をつぶしてまで、やる必要はない。
連載更新!「土居豊の文芸批評」村上春樹『街とその不確かな壁』
新連載開始!「土居豊の文芸批評」
村上春樹『街とその不確かな壁』を継続中!
作家・土居豊が「文芸批評」として各種ジャンルの作品を批評します。
不定期に掲載し、公開後しばらく無料公開したのち、有料とします。
いずれ、マガジンとしてまとめる予定です。
連載更新!
土居豊の文芸批評その4
村上春樹『街とその不確かな壁』の原点は、忘れられた傑作『1973年のピンボール』である
(期間限定、無料公開)
https://note.com/doiyutaka/n/n496a4b188cfa
土居豊の文芸批評その3
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した!
(期間限定、無料公開)
https://note.com/doiyutaka/n/n495ab95b92b8
土居豊の文芸批評その2
村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?
(途中から有料記事)
https://note.com/doiyutaka/n/n0266ed29df2f
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作 2
(途中から有料記事)
https://note.com/doiyutaka/n/nec4c3577cf8d
土居豊の文芸批評その1
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作 1
(途中から有料記事)
https://note.com/doiyutaka/n/nc68693cc0b25
記事より引用
《村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』の元となったオリジナル版である、1980年の中編を今回初めて国会図書館からコピーで取り寄せて読んだ。新作の方と読み比べてみると、興味深いと思ったのだ。
結論からいうと、私にはオリジナル版の方が面白かった。
まずは、それぞれのバージョンの相違点を比較してみよう。
オリジナル版「街と、その不確かな壁」(「文學界」掲載)は、結末で語り手が高校時代の彼女を失ったまま取り戻せない。「影」=「鼠?」=「自分の分身?」とのコンビを回復して、壁の街から現実世界へ帰還するという終り方だ。
このオリジナル版を、村上春樹が5年後にリメイクして完成させた長編が、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)だ。
いわばバージョン2というべきこの『世界の終り…』では、「影」=「鼠?」=「自分の分身?」と別れて、かつて失った彼女の心を取り戻すために、壁の街に隣り合う森の中に留まることになる。
さて、今回の新作『街と…』では、語り手は彼女を心もろとも失ってしまう。その代わりに、壁の街の中で彼女と共に暮らす後継者としての少年を得る。その引き換えのように、語り手自身は現実世界(なのかどうか不明だが)に戻ることをにおわせて締めくくりとなる。
その後の展開は読者がそれぞれ想像するしかないが、私が考えたのは、「代わりの彼女」(『ダンス・ダンス・ダンス』のユミヨシさん?)との現実生活(性愛抜きだが)を試みるのだろうという未来図だ。
だが、それだけではなく、この新しい小説では、未来の可能性は何度でも巡ってくるように思える。小説冒頭と結末が、循環していると考えられるからだ。》
以下、続きはノート記事へ
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土居豊のノート連載
(1)
マガジン発売中!
『コロナ禍の下での文化芸術』
https://note.com/doiyutaka/m/mbfe79043941d
《コロナ後初めてフル編成のオーケストラ演奏会を体験した印象から、今後のクラシック音楽、音楽ライブの行方を考えてみたい。観客と演奏者、興業側の立場の差。まず、コロナ渦中でのオーケストラ演奏会をどう開催するべきか?を考える上で、これら3者の立場がそれぞれあることを見落としてはならない。
観客の立場としては、コロナ危機がくる前、2020年2月中旬までは、まさか今年の演奏会が何もかも聴けなくなってしまうなどとは想像していなかった。》
1本100円の記事をセット価格でどうぞ(連載継続中)
(2)
クラシック演奏定点観測〜バブル期クラシック演奏会
https://note.com/doiyutaka/m/m95eba8e4b1c1
《このエッセイでは80年代からの海外オケ来日ラッシュから始めて、最終的には現在の日本クラシック事情を記録していく。定点観測音楽批評として数十年来、オケ演奏を聴き続けたリスナーとしての耳を武器に、プロの物書きとしての文章を生かして、世間の「音楽評論家」の先生方に負けない読み物を書いていく。
この連載を元に、最終的には単行本としてまとめていく予定。》
(3)
関西オーケストラ演奏会事情
https://note.com/doiyutaka/m/mdda8590d315f
《国内オケの演奏会評、関西を中心とした演奏会事情などをまとめた。いずれこれらの連載を合わせて一冊にまとめる予定。
21世紀前半の今、日本での、それも関西という地方都市を中心としたクラシック音楽の様相を記録しておくことは、歴史的に意義がある。昭和・平成・令和と時代が進む中で、日本の音楽文化の現状は厳しい。バブル期から数十年かけて、クラシック音楽文化も凋落してきている。その現実を考える手がかりにしたい。》
(4)
新連載【バブル期90年代の来日オーケストラ鑑賞 〜 平成日本の音楽リスニング黄金時代】
第1回 アバド指揮ベルリン・フィル来日公演1994年 マーラー交響曲第9番〜数分間もの静寂
https://note.com/doiyutaka/n/nc176109acf0f
第2回 エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団来日公演1995年
マーラー交響曲第5番 〜ロマン派演奏の極北を体験すること
https://note.com/doiyutaka/n/n7e55aa9e9dd6
《戦後日本の文化享受が絶頂に達した90年代の数年間を振り返る。それは、もう2度とないかもしれない、贅沢な文化享受体験だった。
日本人のクラシック音楽家としては唯一無二、空前絶後といえる小澤征爾の海外での活躍ぶりがあった。
文学の面では、村上春樹が海外に打って出始めた90年代の黄金期でもあった。
日本のアニメやマンガが海外に売り出されていく時期でもあった。
売れすぎたために起きた「日本叩き」などという話題もあり、現在ではちょっと信じられないほどの巨大な日本経済を背景に、国内では冷戦終結後のつかの間の平和なエアポケットの中で、我々日本人の音楽リスナーたちは、円高のもたらす膨大な海外文化の爆買いを享受した。
そんな、日本史上2度とないかもしれない文化の爆買い期を経て、21世紀にかけて、日本という一つの先進国があっという間に無残に衰亡していく、歴史的転換期の記録を試みる。》
連載継続中!
大阪市音楽団と、橋下維新と、吹奏楽部の民間委託〜吹奏楽は自腹でやるもの?
大阪市音楽団と、橋下維新と、吹奏楽部の民間委託〜吹奏楽は自腹でやるもの?
今年、「Osaka Shion Wind Orchestra」、旧・大阪市音楽団は創立100年だという。
維新というより橋下・元大阪府知事・元大阪市長のやった大罪が、この大阪市音楽団の市営からの切り捨てだ。
創立100年になるプロ楽団を潰そうとした。大阪市音楽団は、大阪市民のものだったのに、あっさり切り捨てた。
民営で何とか生き残ってきたが、橋下時代から15年、大阪市民が失った音楽文化の恩恵は計り知れない。
そもそも、簡単に100周年というが、創立100年のプロ楽団というだけで、世界的にもなかなかない貴重な存在だ。
だが、橋下大阪府知事・大阪市長の改革は、100年近い音楽文化の蓄積が市民には不用だ、という判断だったわけだ。さらに、当時からそれを熱烈に支持した市民・府民が多数いたのだ。おそらく、今も同じだろう。
日本の吹奏楽文化は欧米の場合と比べて独特なもので、戦後、主に学校部活が吹奏楽活動の中心となってきた。そういった学生バンドの手本役を、長年担ってきた楽団の一つが旧・大阪市音楽団だった。
橋下府知事・市長時代に、大阪市のプロの吹奏楽団は無駄だ、と切り捨てた事実は、今、学校部活の吹奏楽のあり方に疑問が出ていることと無関係ではないといえる。これは、ちょっとわかりにくいかもしれないので、丁寧に書いてみる。
学校部活の吹奏楽がコンクール至上主義に陥った結果、必然的に生徒も教員も家族も加熱しすぎる部活動に疲弊し、他の運動部の場合と同じく、民間への委託が議論されている。それはつまり、吹奏楽のジャンルの今後のあり方として、公共の楽団として再編成される方向性が議論されているのだ。
だが、そういった時代の流れと裏腹に、大阪市の維新政治が全国唯一の市営のプロ吹奏楽団を切り捨ててしまったことは、自治体がプロ楽団を維持することを無駄だと判断したことになる。
これはつまり、大阪府市の、橋下維新の政治による軽率な判断が、ジャンルとしての吹奏楽の存在意義に、少なからぬ傷をつけてしまったといえるのだ。言い換えると、吹奏楽は民間がやるべきもので、公共の音楽活動として税金を使う対象ではない、と決めてしまったことになる。
この考え方は、こののち回り回って、学校部活の吹奏楽を民間委託する場合にも適用されかねない。大阪市音楽団を無駄扱いした事実が、「音楽は全部自腹でやれ」という短絡的な判断の前例として、全国的に定着しかねないからだ。
だが、これは、なかなか理解されないだろうと予想する。現在の日本では、「音楽活動は自腹で」が常識のようになっているからだ。
けれど、それは短絡的な発想だ。特に学生の吹奏楽の場合、音楽活動をする素地を誰がいつ、どう育む手助けをするか、が肝要なのだ。
そもそも、音楽の素地は公教育で育むしかないのだ。そうでないと、近代社会のように上流家庭しか正統な音楽教育を受けられなくなりかねない。
事実、現状の日本では、正統の音楽教育を受けられるのは、富裕な家庭以外はなかなか難しい。現実の公教育の音楽教育で育める音楽的な素地はたかが知れており、その子がよほど努力することと、家庭がよほど無理をすることでしか、音楽の才能を開花させることは実現しにくい。
そこで、日本では戦後からずっと、小中学の「部活」を音楽という公教育課程の代理にして、誤魔化してきたのだ。本来の教育課程の外で、教員もボランティア的に指導し、子どもも放課後の自主的な活動で、音楽的な素地を発展させようとしてきた。もちろん、最初からお金をかけて音楽のレッスンを受けられる余裕のある家庭の子は、近代社会の場合と同じく、英才教育を受けて才能を開花させてきた。
長年、日本では、本来の公教育が担うべき、つまり税金をかけるべき正統な音楽教育を、ボランティア的に「部活」で代替してきた。このことのしわ寄せは、指導者役の教員にも、資金担当の個々の家庭にも、そして学業との両立が難しくなってしまう子ども自身にも、全てにかぶさっていくことになった。言い換えると、無理に無理を重ねた結果、現状の音楽教育レベルはかろうじて維持されてきた。
ここで、話は大阪市音楽団の廃止に戻る。
橋下府知事・市長時代の大阪府市で、公金でのプロ楽団の維持を切り捨てた事実は、音楽教育の公的意義を否定した点で、人々に決定的な影響を与えた。音楽は公共の予算ではなく、やりたい人が個人でやればいい単なる趣味なのだ、と宣告されたことになるからだ。
これとほぼ同じタイミングで、日本では文科省・自公政権の教育改革が情操教育を軽んじる方向に進み、中学高校での芸術科目の時数がどんどん減っていった。それは芸術教科の教員の削減、地位の低下とセットだった。
公教育の中で音楽教育は最小限に減っていき、つまりは「音楽やりたければ自腹で」とされていく。公教育が本来担うべき音楽教育の素地を、家庭の自腹に丸投げすることは結局、富裕な家庭しか正統な音楽教育を受けられない方向へ、つまり近代社会への退行を意味するのだ。
情操教育と教養としての音楽の地位は、どんどん貶められてしまい趣味扱いされていく。それは日本の音楽文化を将来的に損なうだろう。いや、すでに損なわれているのかも知れない。
最後に、橋下時代の大阪府政市政とその後の維新政治が切り捨てた音楽文化は、「100年」に届こうとしていた貴重なものだったのを忘れてはいけない。日本人は100年ぐらいでは長いとも思わないかもしれないが、楽団が100年維持されることは世界的にも貴重なものだ。その値打ちを低く扱いすぎたのだ。
※参考記事
《大阪市音楽団の存否「一から考える」 橋下市長 日経2012年1月19日》
https://www.nikkei.com/article/DGXNASHC1904C_Z10C12A1000000/
《日本で最も古い交響吹奏楽団とされる大阪市音楽団について、同市の橋下徹市長は19日、「一から(あり方を)考える。存続という結論ありきでは考えない」と話し、運営の見直しを示唆した。1923年結成の大阪市音楽団の楽団員は大阪市の職員。人件費は年間約3億8千万円を計上しており、橋下市長は楽団の活動意義を認めながらも、文化行政見直しの一環として「お金の使い方を抜本的に見直さないといけない」と話した。同楽団は定期公演のほか、中学や高校の生徒を対象とした講習会を実施。甲子園球場(兵庫県西宮市)で開催される選抜高校野球大会の入場行進曲を演奏し、録音していることでも知られる。橋下市長は「いろいろな意見が出ると思う。最終決定は行政の反論とか意見を聞いてから」と述べた。》
《なにわの文化 補助金廃止で変わったものは 産経2015/10/18》
https://www.sankei.com/article/20151018-2P6W4CEMCFLFPFMHVZ5CW42RRY/
《大阪市、橋下改革で民営化の吹奏楽団に寄付復活 「自立目指す方向変わらず」吉村市長 産経2018/2/9》
https://www.sankei.com/article/20180209-UMBNWJHXI5OJLED6CBUTMZQZIY/
※参考資料
HPより
《2023年(令和5年)Osaka Shion Wind Orchestraは、おかげさまで創立100 周年を迎えます。
1923 年(大正12年)に誕生以来、大正・昭和・平成・令和と100年の歴史を歩んできました》
《1923(大正12年)
元第四師団軍楽隊の有志で、「大阪市音楽隊」を結成。中央公会堂にて記念演奏会を開催》
《1946(昭和21年)
6月 大阪市音楽団と改称、団員40名》
《1950(昭和25年)
5月〜10月 「たそがれコンサート」(天王寺音楽堂)を開始。全国の発祥となる》
《2012(平成24年)
市政改革プランにより「大阪市音楽団」の廃止が決定》
《2015(平成27年)
「大阪市音楽団」より「Osaka Shion Wind Orchestra(通称Shion)」と改称》
生駒ビルヂング読書会、久々に開催 村上春樹最新長編『街とその不確かな壁』を語り合う
生駒ビルヂング読書会、久々に開催しました。
※「村上春樹最新長編、『街とその不確かな壁』を語り合いましょう」
4月30日14時〜
【会場】生駒ビルヂング 地下サロン
大阪市中央区平野町2丁目2番12号(最寄駅:大阪メトロ堺筋線北浜駅 南へ200m)
生駒ビルヂングHP
【講師】土居豊(作家・文芸ソムリエ)
今回、村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』を読んで、語り合いました。
長らく春樹作品を読書会で取り上げてきただけあって、集まったみなさん、初読でも作品の奥深いところまで読み取ろうと、さまざまに意見を交わしていました。
本作に登場する「針のない時計」が、なんと偶然にも、会場の生駒ビルヂングに存在していました!
オーナーのご厚意で、普段滅多に上がれない屋上に案内していただき、作品に出てきたようなイメージの、針のない不思議な時計を見学できました。
この読書会は、不定期に開催なので、次回はいつになるかわからないのですが、再び村上春樹を読むか、また別の作品を読むか、決まったらお知らせします。
※生駒ビルヂング
※配信しました!
youtubeライブ
村上春樹「街とその不確かな壁」を語る その3
4月29日
村上春樹「街とその不確かな壁」を語りつつ自分の春樹批評本の話も(ネタバレあり)
https://www.youtube.com/live/3KYFOjDxFg0?feature=share
その2
https://www.youtube.com/live/54KAqW3Rk-0?feature=share
その1
https://www.youtube.com/live/Yd-NzWfRec4?feature=share
【新刊発売!】
村上春樹最新長編と一緒にどうぞ!
『村上春樹を歩く・その後 〜読書会と文学聖地巡礼の試み〜』
土居豊 著
Kindle版
KADOKAWAのBOOK⭐︎WALKER
https://bookwalker.jp/de590f1e88-a62b-4c87-9b6e-115718b6acd2/
村上春樹の故郷・西宮市を中心に「村上春樹読書会」を長年主催してきた筆者は、本書で活動のまとめを試みたい。
前半第1部は「村上春樹読書会」参加者たちの春樹愛や、アンチ春樹の意見など、読者の生の声を紹介する、筆者の新聞連載をまとめた。
後半は、かつて筆者が足を運んだ春樹ワールド聖地巡礼による作品考察を通じて、本を読んだ後から始める読書体験の試みを再構成して収録する。
文芸批評
『村上春樹の猿〜獣と嫉妬と謎の死の系譜』
浦澄彬 著
Kindle版
KADOKAWAのBOOK⭐︎WALKER
https://bookwalker.jp/de452ab942-4737-42f1-b21d-d89836c8ef59/
村上春樹の初期3部作は叙述トリックだった?
デビュー当時から村上春樹の小説の最大の特徴とされ、読者や批評家たちを夢中にさせたクールな語りこそ、語り手の本性が「獣=猿」であることを隠す叙述トリックとなっていた、という仮説。
それを考えるきっかけは、デビュー作『風の歌を聴け』から『ノルウェイの森』を経て近作まで共通して現れるモチーフ、「猿」・「猿のコンビ」・「獣」である。
『ノルウェイの森』もまた、「リアリズムの皮をかぶったポストモダン」であり、語り手であるワタナベの1人称の語りは、実はアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』のような、叙述トリックか?
考察の全ては、芦屋の公園の「猿の檻」から始まる。
デビュー作『風の歌を聴け』のあの猿たちは、「僕」の二重性、隠された獣性の暗喩なのか?
近作の短編集『一人称単数』所収の「品川猿の告白」の猿から、前作「品川猿」へとつながる女性の謎の死の系譜は、村上春樹の描く暴力性・獣性を描き出す。
そう、この品川猿こそ、『風の歌を聴け』のあの猿たちの同族ではないのか?