学校教育基礎研究のゲスト講師は、特別支援の学級で、20年を越えて担任を続けているWさんのお話。


 普通学級で騒ぎ暴言を吐き、教室を飛び出すA君。そんな彼がWさんの教室にやってくる。

 A君は、ふつうだれもが傷つかない言葉で傷つきパニックになる。

 「A君、こっち見て」「A君、聞いて」

 と教師が、学習に集中しないA君に声をかけるとA君は、とたんにキレる。

 「うるせぇ!お前なんか監獄へいけ!」

 Wさんは、このA君の様子について次のように語る。

 「『こっち見て』とか『聞いて』という言葉は、やさしく言っているようにみえますが、実は命令を伴っていて『A君、聞くんだ』『A君、こっちを見ろ』こうした教師側のメッセージがこめられている。

 A君にとって、こうした言葉の一つ一つが攻撃的な言葉として感性鋭く受け止めていくんですね」

 だから…と続ける。

 「A君に話すとき、彼の側に立って考えます。A君、あれ何だろうね!」

 するとA君は、顔を上げる。そして指さす方向を見る。

 「やってみようか…。あれ…」(Wさんのお話どうりではありませんが、こうしたニュアンスの言葉をA君にかけていくということ)


 このA君は、文字も書かない子どもだった。ところが絵は限りなく描き続ける。W先生は、このA君の世界、個性ともいえるこだわりを大切にしていく。彼のすぐれた表現方法として。


 私が、今回このお話を聞いて考えたことは、Wさんは、A君の心の世界や内面の動きの中心となる世界を、外側から一方的に支配統制する『指導』をよしとしていない。徹底的に彼の描きだす心の世界や宇宙を大切にしていることだ。

 その世界にWさんがA君の物語の登場人物のようにして参加していることだ。A君の心の宇宙にWさんが位置づく。それは、「ぼくを傷つけたり、枠組みの中に無理やりはめ込もうとする攻撃的他者」としてWさんを見ていないこと、ぼくの仲間とみていることだ。

 ここから、A君の物語の世界を通しながら、次第に外部と行き来する他者、しかし、ぼくを傷つける他者としてではなく、ぼくの世界とあちらの世界とを行き来する他者としてWさんを受け入れ、そのことは同時に、いつのまにかA君をこれまで行き来することのなかった外側の世界とつないでいったことだ。

 

 Wさんは、意図的な指導とは違うとお話されているが、A君が文字を書き、他者の世界を絵の中に表現していく、そうした成長は、Wさんのすぐれた子どもへの共感から生まれる指導といえるだろう。

 改めて教育の本質を学ぶことができたように思う。