悲しみでいたたまれない。

 なぜ体罰(暴力指導)がなくならないのか。

 大阪の桜宮高校のバスケ部の主将2年男子生徒(17歳)が自殺した。


 彼は、顧問の体罰指導に耐えられず「私が思っていること」という手紙を書いた。(朝日新聞1月10日・夕刊)

 「自分なりに頑張っているが、顧問の言うことを全部はできない」「殴られるのがつらい」と。しかし、それは「こんなこと書いたらまた怒られる」という友の言葉で手渡されなかった。


 12月23日彼は命を絶つのだが、その日の通夜で顧問に腫れあがった顔を見せ「これが指導なのか体罰なのかと問いただした」と言う。顧問は「体罰です」と答えたという。


 一度や二度でなく彼は、何度も何度も繰り返し叩かれている。

 少年の心がつぶれていく…。壊されていく…。バスケットが大好きだったのだろうに。

 顧問はまるで独裁者か「神様」か。

 

 この顧問の指導をめぐって、朝日の9日付夕刊の中段に『熱血?暴力?割れる評価』という見出しがある。この見出しを読むと、朝日は部外者のような立場で、暴力と彼の死をみつめているように読み取れる。残念だ。

 

 記事の中味については以下のようなことが記されている。

・顧問は「過去5年でインターハイに3回出場させるなどの指導力が評価さ  れ、2012年度には16歳以下の男子日本代表チームのアシスタントコーチに選ばれた」

・「また大阪府内の別の高校のバスケ関係者は『熱意があり、生徒に対して本気で接する人』と評価する」

・「兼任していた女子バスケ部の試合で敗戦後『勝たしてあげられなくて悪かった』と選手に涙を流して謝っていたのが目撃されている」

・「桜宮高校の関係者は『顧問もまじめな先生で、自殺した生徒にも問題はなかった。お互いに純粋な性格で、指導が行き過ぎてしまった結果ではないか』と話した」


 ここに描かれている部活指導における『熱意』、『生徒に対して本気で接する』、『勝たしてあげ(る)』、『純粋な性格』…という言葉。ここに問われるべき本質的問題がある。

 熱意となにか。何よりも生徒たちが主人公だということ。生徒たち自身が、自らを鼓舞し、意欲をもって仲間と共に技術を向上させたり、試合に臨んでいくことを、支え励ますのが本来の熱意のある指導といえる。

 熱意は、この指導における顧問の技術的支援や彼らの意欲が高まる方法へをどう具体化すべきかの葛藤の中において発揮されるべきだ。

 勿論、共に手を重ね合い『ファイト!』『行くぞ!』などの声をかけるような生徒と一体化した熱意を見せる人もあっていいだろう。

 しかし。体罰と熱意は両立しない。体罰を超える指導をめざしてこそ本来の『純粋さ』や『熱意』と言えるだろう。


 体罰で怯えながら、あるいは試合をする喜びを忘れ、顧問の顔や一挙手一動を気にしてバスケや他のスポーツの活動をするようでは、それは顧問による部活の私物化でしかすぎない。少年や少女たちにスポーツをする本来の喜びを与えることはできないと思う。


 体罰を乗り越えたところにある勝利への挑戦や技術的向上、仲間の共感や共同、敗戦への的確なコメントと暖かな人間的総括、そして相手への尊敬。なによりもそのスポーツをする喜びと仲間への信頼や友情がまえよりもいっそう高まること。こうしたことが部活指導には求められているのだ。