Takaoの闘うブログ

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肉食獣系ドラマーTakaoが吠えますよ!ワン!

気付けば明日から12月

 

 

 

早いものです馬

 

 

 

そして今年も残すは1か月を迎える前に、愛車のネオクラッシックカー『ジョニー号』のエンジンが不調となり残念ながらお別れすることになりました

 

 

 

そんなジョニーは平成9年の日産ラシーン

現車を見ずに購入したのでボディーの下側に穴が空いていたり、非常に残念な状態だったけど車検を取る前にしっかりと直してもらった某工場にてカメラ

 

 

 

我が家の一員になってからいろんなところへ出かけたねぇ

あちこち釣りにも行ったし

 

 

 

あちこち山登りにも行ったし

約3年半の短い付き合いだったけど、とてもよい思い出です

 

 

 

そんなジョニーはスクラップとしてではなく南米はペルーに旅立ち、かの地でエンジンを載せ替え新たな車生を送ることになったので今はある意味『ホッ』としています

 

 

 

ジョニー!

 

 

 

ムチャ・グラシアス!(たくさんありがとう!) 

 

 

 

ケ・レ・バジャ・ビエン!(お元気で!)

言いたいことは数々あれど!!!

 

 

 

まずは今月12日(日曜日)

 

 

 

マチャキ夫妻とボス&俺の4人で恒例の鹿沼秋祭りへ足あと足あと足あと足あと

 

 

 

祭りの起源は慶長13年(1608)に起きた大干ばつの際、鹿沼の鎮守である今宮神社に雨乞いをし、雨が降ったことへの感謝として鉾(ホコ)や榊(サカキ)を奉納したことが始まりとされている

 

 

 

そんな祭りの中心と言える『鹿沼今宮神社祭の屋台行事』は!

2003年に国の重要無形民俗文化財に指定され、さらに2016年にはユネスコ無形文化遺産にも登録されたのです!

 

 

 

 

ではでは!

そんな無形民俗でユネスコな屋台の『ぶっつけ』を!

なんか不思議と涙が出てくるんだよなぁ、、、

 

 

 

そんなこんなでルネッサーーーーーンス!!!

 

 

 

恒例の4人も確実に高齢に近づいてますが(韻を踏んでますYo)

そんなマチャキ夫妻とボスに感謝なのです(_ _)

 

 

 

 

 

 

さてさて

日付は変わり16日(木曜日)はボッチで栃木市立美術館へ足あと

 

 

 

大河ドラマ『べらぼう』で脚光を浴びてる喜多川歌麿さんや北尾政演(マサノブ・山東京伝)さんたちの浮世絵や、五・七・五・七・七の和歌の形式をとって風刺する狂歌師であり戯作者の大家・大田南畝(ナンポ)さんや栃木の豪商・通用亭徳成さん(善野喜兵衛)たちの狂歌入りの浮世絵などが展示されている!

老中・松平定信さんが強いる質素倹約な『寛政の改革』に抗った浮世絵師と狂歌師たちの片鱗を見ることができました(_ _)

 

 

 

 

 

さてさて

日付は変わり19日(日曜日)は第14回歌麿祭りへ足あと足あと足あと

 

 

 

 

栃木と江戸をつないだ巴波川(ウズマガワ)

 

 

 

そんな江戸風情に触れた鹿沼秋祭りと歌麿祭りでした(/・ω・)/

 

 

 

 

 

 

そして一昨日

維新との連立で第104代総理大臣になった高市早苗さん

 

 

 

まぁ流れとしたらガソリンの暫定税率の廃止と103万円の壁の見直しと食料品に限っての消費減税は行うだろうけど

 

 

 

財務省の力に抗しきれずに新たな課税が始まるだろうな、、、

 

 

 

「あぁやっぱりね、、、」とならないよう願うけど

 

 

 

正直、期待もしていない

 

 

 

ただ

憲法改正に大きく前進してしまうことを懸念している僕なのです

これは5日(日曜日)のお話です(_ _)

 

 

 

俺のルーツの地!埼玉県は毛呂山へGoGo馬DASH!

 

 

 

2ヶ月ほど前に机の中を整理していたら96歳で亡くなった親戚のオジサンから何年も前に聞いてメモしていた紙が出てきて、そこには曾祖父(ソウソフ・ひいじいさん)である分家初代の婿養子・栄助さんは前久保村の新井家の出であると!

 

 

 

ずっと探していたメモにいてもたってもいられず栄助さんの戸籍謄本を取ると確かに入間郡前久保村の新井周次郎(天保9年生まれ)の次男(明治5年生まれ)で明治31年に曾祖母『ちか』さんの夫になったと記されている

 

 

 

そんなこんなで今回は今年1月に引き続いてのルーツ探し第2章なのだっ馬

 

 

 

八高線の線路横にある毛呂氏末期の居城・山根城の碑

 

 

 

そんな線路を渡ると、ご先祖さまが眠る妙玄寺(_ _)

創建は天文3年(1533)

 

 

 

そして毛呂氏の供養塔(_ _)

 

 

 

そして俺にとっての本家(分家)のお墓へ(_ _)

栄助さんは明治34年に28歳で亡くなってるから、婿に来てたった3年で亡くなったんだねぇ、、、

 

 

 

死因はこの時代だから結核だったのだろうか、、、

 

 

 

そして本当の本家のお墓へ(_ _)

前回、風化していて諦めてしまった墓石を丹念に調べると7代前の延享4年(1747)生まれの半四郎さんの奥さんと思われる墓石と6代前のご先祖さまと思われる名前がわかったのです!

 

 

 

そんなこんなで毛呂山町立図書館へ足あと

 

 

 

今回も毛呂山町史を手にする

まずはお墓に眠るご先祖さまたちが生きていた時代背景を調べてみる

 

 

 

ここ毛呂宿(毛呂山)は往来が多かった八王子往還(横浜~八王子~日光)沿いであるため、伝馬の引き継ぎ(テンマ・幕府などが公用の書状や荷物を目的地へ運ぶ際に、ここで人や馬を交代する)を命じられていて、村の百姓たちは交代する馬の世話などをさせられ田畑を手入れする時間もなく、中には田畑を捨てて逃げる人も、、、

 

 

 

このため毛呂宿の村役人である名主(村の最高責任者)や組頭(名主の補佐)や百姓代(名主や組頭の行政を監視する農民代表)は村人の負担が減るようにとお上に何度も訴え、時には江戸へ行き村へ戻らず訴え続けたとある

 

 

 

さらにその後、天保年間(1830~1844)に入ると全国的に飢饉が起こり、生活苦からくる社会的不安は増大したという

 

 

 

お米は高騰し、暮らしに困った人たちは不穏な動きをみせ、無宿・無頼の徒は長脇差(刀)を腰に差して不法狼藉三昧のまるで『北斗の拳』状態!!!

 

 

 

幕末になると浪人たちが「俺は水戸浪士だ!」とか「俺は新微組(シンチョウグミ)だ!」などと名乗って在所の農民たちをも仲間に引き入れ、「攘夷のためだ!お金を出せ!」と荒らし回ったことから、帯刀(タイトウ・武士として2本の刀を腰に差してること)していても、あやしげな浪人ならば捕まえ、もし相手が刃向かえば切って殺そうがぶん殴って殺そうがかまわない的な『悪党取締』のお触れが幕府機関の関東取締出役から出された(文久3年 1863)

 

 

 

そして慶応2年(1866)6月13日に上名栗村(現・飯能市名栗地区)を発端とした『武州世直し一揆』が起こり、米の値下げや給付米や給付金や借金証文の破棄を求めて名主・豪農・豪商の家を打ち壊し、一揆の波はまたたく間に現・埼玉と群馬の200ヵ村以上に広がり鎮圧されるまでの7日間でおよそ10万人が参加!!!

 

 

 

これらの時代背景がまるで今のようだと思いません?

 

 

 

米もガソリンも何でも高く多くの人が困っているのに、与党である自民党は政(マツリゴト)を止めて権力闘争の総裁選をし、野党も野党でやってる感だけで政を前に進めようとしない

 

 

 

しかし残念ながらこの頃と大きく違うのは日本人は戦後教育により牙を抜かれた大人しい日本人になってしまい、この物価高も「仕方ないよねぇ」と受け止め、政をしない政治屋に対してもある意味寛大(違う意味で無関心)なことである

 

 

 

ヒッヒッフー ヒッヒッフー

 

 

 

別のテーマで書こうと思ってたけどついつい、、、

 

 

 

そんなこんなを調べているとお腹がグーグーと鳴り

 

 

 

近くのガストでお昼を食べ

 

 

 

再び図書館に戻り曾祖父・栄助さんの新井家について調べる

と、天文年間(1532~1555)の室町時代に忍城主の成田氏に拘留されていた新井雅楽之助(ウタノスケ)さんは許され前久保村に住み村を開拓、雅楽之助さんは永禄元年(1588)2月18日に没したが、その後新井家は内蔵助→昌常→善蔵とつづき名主制度が始まると善蔵の子ども忠兵衛が初代前久保村名主となり世襲して明治に至るとある

 

 

 

ここでなぜ雅楽之助さんは有力大名で忍城主の成田氏に捕まっていたかだけど、毛呂山町史では「その理由は不明である」と

 

 

 

気になる、、、

 

 

 

けど許されて村を開拓したことから1人ではなく一族郎党で前久保村に来たのは間違いないだろう

 

 

 

 

その他、うちと血縁関係が濃い亀井家については江戸初期に亀井丹波守(タンバノカミ)が一族とともに相州鎌倉より土着し、その子 三右衛門が名主となり世襲して明治に至るとある

 

 

 

そんなご先祖さまたちは村人の負担が減るようにとお上に訴えたり、長脇差を差した無宿・無頼の徒を取り締まったり、武州世直し一揆ではなだめすかしたりしただろうし、もしかしたら屋敷を打ち壊されたかもしれない

 

 

 

もう少しこの辺を調べたいなと思うのでした

 

 

 

 

 

 

最後に(_ _)

 

 

 

今回、嬉しい発見がありました!

 

 

 

それは7代前のご先祖さまの半四郎さんが眉山(ビザン)という俳人だったこと!

 

 

 

そんな210年前の文化12年(1815)11月5日に68歳で亡くなった眉山さんの句を(_ _)

 

 

 

花相似たり六十年来

60年もの間 少しも変ることなく

 

色にあらず 空にあらず

物事に執着せず 価値観にもとらわれず

 

雪は白し さらば此世をひとねぶり

潔く生きてきた では現世を一休みするとしよう

 

 

 

訳は自分なりの解釈なんだけど、これは辞世の句であり

 

 

 

死を悟った病床で詠んだのだろうか?

 

 

 

この句を読むと半四郎さんは飄々(ヒョウヒョウ)と生きていた人だとわかるし、「さらば此世をひとねぶり(ひと眠り)」でユーモアもあった人なんだなぁって

 

 

 

次回はそんな眉山さんの句を集めてみよう!

 

 

 

てな訳で長ぁぁぁぁぁくなりましたが、そんな『ルーツを見つけに毛呂山へブラタカオ(第2章)』でした(_ _)

これは一昨日(28日)のお話です(_ _)

 

 

 

今にも泣き出しそうな空の下をGoGo馬DASH!

 

 

 

で、着いたは茨城県城里町の鶏足山(ケイソクサン)駐車場!

 

 

 

まずは地元のお母さんたちがやっている直売所で栗、生落花生、葉ショウガ、里芋などを購入する

 

 

 

そんなこんなでレッツ!鶏足!(10:08)

 

 

 


季節外れの暑さが続いているけど、彼岸花はしっかりと彼岸前には咲き始め、見上げれば山から降りてきたアキアカネ(赤とんぼ)があちこちで飛んでいる

 

 

これこそ森羅万象(シンラバンショウ)!




そんな言葉が頭に浮かんできたのです

 

 

 

足あと足あと足あと

 

 

 

去年の4月にミツマタを見に来た時は左のルートを歩んだけど、本日は赤澤富士ルートへ

 

 

 

なかなかな急登です足あとあせる 足あとあせる 足あとあせる

コジローも頑張って登っていく足あと

 

 

 

途中で歩みを止めたので抱っこする

 

 

 

浅間神社の中宮跡通過ぁ

 

 

 

ヌォォオォオォオオォオオォオオオォ

 

 

 

ピークが見えてきたぁぁぁぁああぁ

 

 

 

そして!

 

 

 

赤澤富士(富士ヶ平山)に着いたどぉ(10:32)

案内板によると

 

富士講は江戸時代から全国で行われるようになり赤澤村(現在の城里町上下赤沢地区)でも赤澤富士山頂で五穀豊穣・家内安全・火臥(ヒブセ?・火事にならないよう)等を祈願して念仏を奉納していました。

 

戦後、社会情勢の変化により急速に廃れてしまいましたが、この浅間神社はその時代の出来事をひっそりと現在に伝えています。

 

とある(_ _)

 

 

 

さぁ!先へ進みましょう足あと足あと足あと

と、この先の分岐で案内板がわかりにくく、右のルートへ進んでしまい、あまりに下がるので「こりゃおかしい」と地図を見直して引き返す(往復15分くらいのロス)

 

 

 

もっと早く気づけばよかったんだけどコレはコレ

左右の分岐の間にある斜面を進むのだ!!!

 

 

 

足あと足あと

 

 

ピークが見えてきたっ!

 

 

 

そして!

 

 

 

鶏足山山頂(南ピーク)に着いたどぉ(11:11)

 

 

 

恒例の三角点ターーーーーッチ!!!

 

 

 

では先へ!(11:13)

 

 

 

グググ~っと下って足あと足あと

 

 

 

グググ~っと登れば足あと足あと足あと

 

 

 

見晴台(北ピーク)!!!

 

 

 

なのだっ!(11:21)

 

祠の中には弘法大師さまが(_ _)

 

 

 

そんな弘法大師さま伝説がある頂から太平洋方面を眺める

 

そしてコジローにお疲れちゃんのご褒美を

 

 

 

では昼食会場(南ピーク)へ向け折り返す!

 

 

 

 

 

そんなこんなで南ピークでお湯を沸かし!

 

 

 

ボスはレッドシーフードヌードル

 

俺は緑のタヌキのコープバージョンを!!!

 

 

 

こでらんねぇぇぇえええぇぇぇぇぇぇクラッカーキスマーククラッカー        

 

 

 

普段の何倍も美味しく感じる!

 

 

 

これぞ!マウンテンマジックドキドキ

 

 

 

さぁ!お腹も満たされレッツ下山!(12:08)

 

 

 

登りは消極的なくせに下りは積極的になるコジロー足あと

 

 

魔の分岐通過ぁ(12:18)

 

 

 

足あと足あと足あと

 

赤澤富士通過ぁ(12:22)

 

 

 

そしてぇ!

 

 

 

 

 

戻ったどぉ!(12:39)

 

 

 

今回で2回目の鶏足山だけどやっぱ最高の低山ですな!

ありがとうございました(_ _)

 

 

 

 

 

 

そして帰りのコジロー

お疲れちゃん!

 

 

 

また遊ぼうね!

そんなこんなでボッチで信濃路!

 

 

 

いろんな時代をブラタカオ!

 

 

 

いよいよフィナーレとなりました(/・ω・)/クラッカー

 

 

 

まずは糸静線の断層上を走る電車に鉄チャンではないが萌えドキドキ

 

 

 

途中、方向を変え諏訪湖の赤砂崎公園に寄ってみる馬

肉眼では何とか見えるんだけど、、、、

 

 

 

1番高い建物の右側に見えるはマウント富士富士山 ミエルカナ?

縄文海進(温暖化による海面上昇)により海側にいた縄文人が断層によって出来た谷に沿って内陸の諏訪まで歩いてきた道足あと

 

 

 

何回かブログで書いてるけど、俺が住んでる栃木県にも海が入りこんでいた縄文前期(7,000~5,500年前くらい)

 

 

 

これは寒冷化・温暖化を繰り返す地球の大きなサイクルの1つなので「地球温暖化で大変だぁああぁぁぁぁ」と騒いでる人たちやそれにかこつけて「持続可能で環境に優しいエネルギーだぁ!」とか言いながら自然を壊して金儲けをしてる連中は何なんだろうと思うのです

 

 

 

さて!この話をすると長くなるので大本命へ向かって馬DASH!

 

 

 

そして着いたは魁塚(サキガケヅカ)!!!

 

 

 

おぉ、、、感極まりますな、、、

 

 

 

この魁塚とは何ぞやを簡潔に記した案内版!

史跡 魁塚(相楽塚)

 

薩摩藩の西郷隆盛の指示で武力倒幕のための兵を集め下準備をして、維新政府軍の先駆けとして活躍した人物に相楽総三と同志がいます

 

新政府になれば年貢が半減になるという旗印を掲げ、中山道を東へと兵を進めましたが、その途中に新政府軍から偽官軍の汚名を着せられてこの地で処刑されました

 

一八六八年(慶応四)三月三日のことでした

 

魁塚には相楽総三と七人の赤報隊幹部、道中で命を落とした隊員四人、相楽と親交があった諏訪高島藩士の石城東山(一作)をまつっています

 

新政府軍に裏切られ汚名を着せられ、処刑された相楽と同志の最後はいたましいものがあります

 

その後、名誉回復がされましたが、その半世紀も前にかつての相楽の同士と地元の人たちは魁塚を建立し、それ以来、毎年命日に慰霊祭を開催してきております

 

相楽会とある

 

 

 

まずは、この地で斬首された赤報隊の隊長である相楽総三さんとその幹部7人の墓に(_ _)

そして墓前にどうしてもお供えしたかった1冊の本がある

 

 

 

それが昭和15年3月から同16年7月まで雑誌『大衆文芸』で連載された長谷川伸さんの『相楽総三とその同志』

 

この本の自序にこう記されてある

 

 

 

相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑に処された関東勤皇浪士と、その同志であり又は同志であったことのある人々のために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を、「紙の記念碑」といい、「筆の香華(コウゲ)」と私はいっている

 

 

 

約600ページのこの本は長谷川伸さんが心血を注いだことがわかる相楽さんとその同志たちの記録であり、この本を手にしたきっかけは、俺のご先祖様の隣近所に国学者で志士の権田直助さんがいて、その権田さんが相楽さんと深く関わっていたからなのだ!

 

 

 

まぁ権田さんのことはあらためて書くと収集つかなくなるので以前かいたブログをよろしければ⇩(_ _)⇩

 

ブラタカオ 大山詣り番外編 権田さんとご先祖様と私
https://ameblo.jp/takao-fish/entry-12820632538.html

 

 

 

赤報隊戦死者4人の碑(_ _)

 

 

 

そして諏訪高島藩士の石城東山さんの碑(_ _)

 

 

 

魁塚の碑(_ _)

 

昭和三年の秋、大典が行われ正五位を相楽総三に賜り、従五位を渋谷総司に賜り、共に国家による栄誉を賜る

 

内容は、維新のはじめ、倒幕の魁となったものである

 

とある

 

 

 

この栄誉には相楽さんの孫である木村亀太郎さんの存在が!

 

 

 

ある日、亀太郎少年(13歳頃)が仏壇の掃除をしていると妙な包みが出てきたので中身を確認すると固まった一握りの髪の毛があった

 

 

 

ひと目でそれが血で固まった男の髻(モトドリ・髪を頭上で束ねたもの)だとわかり、どうしてこういうものが仏壇に安置されているのかを母親に聞いてみたところ「お前の祖父は小島四郎将満といった人で変名を相楽総三といい、信州下諏訪という所で賊をはたらいた偽勅使という汚名を着せられて殺された。この髻はその祖父のもので、血は祖父の怨みの血だ!」と聞かされる

 

 

 

それから7、8年経った大正元年(1912)宮内省で働いていた亀太郎さんは下諏訪を訪れ、祖父が処刑された場所に魁塚が建立され偲ばれていることに感激し、これを機に祖父の雪辱を果たすことを誓い、関係文章を集め、当時を知る人たちに話を聞くなどの活動をはじめる

 

 

 

それらの資料をもとに大正7年(1918)と大正13年(1924)に御贈位(ゴゾウイ・名誉回復)の請願書を提出したが採択されなかった

 

 

 

 

 

 

亀太郎さんの粘り強い努力が周りの人たちを動かし、昭和3年(1928)新たな請願書を下諏訪町長ととも長野県庁へ提出し、同年11月1日に166名の御贈位が発表され、その中に赤報隊の相楽総三さんと渋谷総司さんの2人の名前が!

 

 

 

これにより、強盗無頼の党と誤伝されてきた江戸薩邸浪士隊を含む相良さんの党から落合源一郎さん、権田直助さん、長谷川鉄之進さん、竹内啓(ヒラク)さん、小川香魚さん、西山謙之助さん、松田正雄さんのトータル9人の贈位者を出したことになる!!!

 

 

 

これで祖父の雪辱は果たせた亀太郎さんだが、亀太郎さんが思う真の雪辱は果たせないまま亀太郎さん亡き今も、、、

 

 

 

それは!

 

 

 

薩邸焼討戦闘で戦死した人たち

 

 

 

野州栃木戦争、出流岩船(イズルイワフネ)戦争で戦死、自死、刑死した人たち

 

 

 

小田原で戦死した人たち

 

 

 

八王子荻野山中で戦死した人たち

 

 

 

信州追分、上州坂本で戦死、自死、刑死した人たち

 

 

 

国を思い、国を憂い、死んでいった多くの関東勤皇浪士たちがその名前もその存在さえも忘れさられてしまうってこと

 

 

 

切ないですな、、、

 

 

 

 

 

 

そんなこんなで今回もまた思いの半分も言葉に出来ず、中途半端感がぬぐえないけど、これにて『ボッチで信濃路!いろんな時代をブラタカオ! 』は終わりとなります(_ _)

 

 

 

最後の最後に

我々1人1人は小さな点であるかもしれないけど、たくさんのご先祖さまによって今の我々があることを考えるとそれは太い線であり、我々1人1人は小さな点であるかもしれないが、長い歴史の中で考えるといろんな線と複雑に繋がっているってこと

 

 

 

ん~

 

 

 

ちょっと我ながら何言ってるかわかんないや叫び

 

 

 

そんなわけで!

 

 

 

終劇(_ _)オツキアイアリガトゴザイマシタ

つづきです(_ _)

 

 

 

宿から諏訪湖サンセットを眺める目

 

 

 

そして今回、満蒙開拓平和祈念館で購入した本を並べてみる

 

 

 

そしてプラプラ歩き某食堂で好物を食べる

そんな初の諏訪ナイトは静かに更けていったのですやや欠け月

 

 

 

ぐぅぐぅ

 

 

 

グ~ッモ~ニン諏訪湖ぉ!!!

 

と、しばし散歩し足あと

 

 

 

ホテルのバイキングで活力をチャージし!

 

 

 

GoGo馬DASH!

 

 

 

で、着いたは諏訪大社 上社 前宮

ここ前宮は大国主命(オオクニヌシノミコト)の息子である建御名方神(タケミナカタノカミ)が諏訪に入った際に居を構えたとされている場所

 

 

 

ここで古事記の『国譲り』を!

 

 

 

古事記では天照大御神(アマテラスオオミカミ)が遣わした建御雷神(タケミカヅチノカミ)が大国主命(オオクニヌシノミコト)に国譲りを迫ったが、大国主命は「私の一存では決められない、息子たちに聞いてくれ」と言ったため、まずは息子の1人である事代主命(コトシロヌシノカミ)を呼び出したところ「この国は天つ神の御子に差し上げます」と言い隠れてしまう

そこへ巨大な岩を軽々と持ち上げた建御名方神(タケミナカタノカミ)が現れ、建御雷神(タケミカヅチノカミ)に力比べで決着しようと挑むが投げ飛ばされてしまい、建御名方神(タケミナカタノカミ)は「これはかなわん」と逃げたが、信濃国の諏訪湖で追い詰められてしまい「私はこの地に留まり、他の地へは行きません」と命乞いをし国譲りをしたとある

 

 

 

そして留まったところが、ここ諏訪大社 上社 前宮なのだろう

 

 

 

が!

 

 

 

俺はどうも国譲りの神話って腑に落ちないんだよなぁ、、、

 

 

 

足あと

 

 

 

コスモスドキドキ

 

 

 

で、ここでのお目当ては!

 

 

 

御柱!

まずは前宮一之御柱を見てから

 

 

 

本殿へお参りして(_ _)

 

 

 

足あと

前宮二之御柱

 

 

 

足あと

前宮三之御柱

 

 

 

足あと

前宮四之御柱

 

 

 

7年に1度行われる御柱祭は山から樹齢150年を超えるモミの巨木を切り曳出し、社殿の四隅に建てる1200年以上の歴史がある神事であり、おもしろいのは氏子が自主的にやってるってこと!

そんな御柱の後ろを見ると曳いた時の跡が目

 

 

 

う~んラブラブ

ナペンダ・ハパラブラブ(スワヒリ語で「ここ好きラブラブ」)

 

 

 

 

 

 

長くなりますがお付き合いを(_ _)汗

 

 

 

そして次に向かうは馬DASH!

 

 

 

その御柱を落とす『木落し坂』

 

 

 

想像してたより短いけど、やはり急坂ですな(角度は27度)

 

 

 

そんな木落し坂は日本を形作る糸魚川静岡構造線(通称:糸静・イトシズ)の断層崖(ダンソウガイ)

 

 

 

もうそれだけで萌え萌えしちゃいますドキドキ

 

 

 

 

 

 

そして萌えながら次の場所へ馬

 

 

 

寄る予定はなかったんだけどせっかくならばと諏訪大社 本宮へ

 

 

 

実は今年の7月にボスと2泊3日でお伊勢参りしてきたんだけど足あと

 

 

 

なんか俺的に出雲族が御祭神の神社の方が合ってる気がするんだよね足あと

 

 

 

たぶん先祖代々の地(埼玉県毛呂山町)に出雲伊波比神社(イズモイワイジンジャ)があることから、俺には出雲族の血が濃く流れてるのかもなんて、このブログを書きながら思っちゃった足あと

 

 

そして本殿にてお参りをし(_ _)

 

 

 

本宮の御柱を見て

いよいよ!

 

 

 

大本命のかの地へ向かうのだ!!!

つづく(_ _)

つづきです(_ _)

 

 

 

国道152号線をGoGo馬DASH!

 

 

 

諏訪インターから中央道に乗り名古屋方面へ馬DASH!DASH!DASH!

 

 

飯田山本インターで降り

 

 

 

馬

 

黒曜石体験ミュージアムから昼飯入れて約2時間半

 

 

 

伊那郡阿智村にある『満蒙開拓平和記念館』に着!

7月末にドキュメンタリー映画『黒川の女たち』を観て、いろいろと満蒙開拓について調べていたら2013年に開館したここを知り、それ以来訪れたい場所の1つになっていたのだ

 

 

 

施設の手前には平成28年11月17日に天皇皇后両陛下(現・上皇・上皇后両陛下)がここ満蒙開拓平和記念館を視察した際に元開拓団員らと懇談した時のことを詠んだ御製(ギョセイ)の碑がある

戦の終わりし後(ノチ)の難(カタ)き日々を

 

面(オモ)おだやかに開拓者語る

 

戦中育ちの第125代の天皇陛下(上皇明仁さま)は太平洋戦争による犠牲者たちへ寄せる思いが強く、この御製にも明仁さまの人柄と気持ちが出てるよなとしみじみしたのです(_ _)

 

 

 

 

館内へ入ると①序章(時代を知るタイムトンネル)として満蒙開拓が国策として推進され人々が満州へ渡っていく背景をまとめた資料が展示してあり

例えば一戸あたりの農家の収入減少のグラフや

 

 

 

養蚕が盛んだった長野県下での繭糸(ケンシ・まゆの糸)価格の昭和恐慌(世界恐慌)による暴落の推移などなど

大正14年時と比較すると昭和6年時では約3分の1以上下がってるもんね、、、

 

 

 

この時代背景と満州国の治安維持とソ連・満州の国境地域の防衛(人の盾)として関東軍が画策した『満州農業移民百万戸移住計画』が満州開拓という国策(昭和11年8月)に繋がってしまったんだな、、、と

 

 

 

そんな①と②大陸へ(映像で見る満州)を見たあと回る順番をよく見ないで⑪の映像ルームへ

 

 

 

映像ルームでは体験者の証言映像が!(約2時間)

開拓義勇団(満蒙開拓青少年義勇軍)として満州へ渡った人

 

 

 

学校の先生として生徒たちに開拓義勇団になることを推奨し、それを誇りに思っていたが、いつしかそれは間違いだったと気づき後悔を引きずってる人

当時、各学校には「あなたの学校は開拓義勇団を何人出しなさい」って割り当てがあり、多くの先生はそれを疑問にも思わず、生徒を送り込むのが使命であり名誉だったなんて、、、

 

 

 

そして『黒川の女たち』に出ていた!

黒川開拓団が生き残るためにソ連軍に性接待として差し出された犠牲者の1人であり、当時1番年上だったことで他の女性たちをかばい最も多くの犠牲をはらってきた安江善子さん(_ _)

 

ここではそれには触れず、弟や妹を連れて逃げた苦労を穏やかな口調で語ってくれていた

 

 

 

逃げまどう開拓民から幼い女の子を引取り我が子のように育てた中国人のヨウさんは、日本人を育てることをどう思ったか?の質問に対し「特に深く考えなかった」とし、周囲にもいっさい内緒にしていたが、昭和47年(1972)の日中国交正常化後に中国残留孤児たちの調査がはじまり、その時、はじめて娘に「あなたは日本人の子だよ」とすべてを明かしたヨウさん

けっきょく娘は日本へ帰国、娘を失ったヨウさんの思い、切ないなぁ、、、

 

 

 

最後に登場したこの人が1番内容が濃かったんだけど

日本に自分の農地を持っていなかった小作人が、満州へ移住するとたちまち20町歩の土地持ちとなることで、小作人だった自分がされてきたように満州人や中国人・朝鮮人を安い賃金でこき使い、ふんぞり返ってる日本人が多かったってことや

 

日本人が現地の言葉を覚えるんじゃなくて、みんなが日本語を覚えればいいって子供ですらそう思っていたってことや

 

たくさんの死を見続けたことで感覚が麻痺してしまい、収容所で母親が死んだ時も涙が出なかったことや

 

満州から日本に戻り、軽井沢の国有林に入植し開墾、その後の土地バブルで多くの入植者が苦労して開墾した土地をいとも簡単に手放し、それに抵抗して土地を売らなかったために村八分にあったことなどなど

 

 

 

証言映像に出てきた人は10人くらいで約2時間と長かったけど!

 

 

 

他にも残留孤児だった人や、家族を守るために現地の人と結婚した残留婦人だった人や、いろんな立場の人たちの話が聞けてとてもよかったです(_ _)

 

 

 

最後に⑧平和な未来へ(今、私たちができること)

あの時代に問いかけてみます

 

なぜ、「満州」へ行ったのですか

 

今を生きるあなたに問いかけてみます

 

あの時代に生きていたら、どうしますか

 

 

日本と中国双方の人々に多くの犠牲を出した「満蒙開拓」とは何だったのでしょうか

 

長く人々の心の奥に閉ざされていた記憶に寄り添い、向き合いにくい真実に目を向ける時がきました

 

 

この歴史から何を学ぶのか、私たちは問われています

 

「負の遺産」を「正の遺産」へ置き換えていくこと、その英知が私たちに問われています

 

 

 

ほんとその通りだと思います(_ _)

 

 

 

約13年存在した満州国

 

 

 

そして

国策という愚策に翻弄された人々


このことを多くの人が知る必要があると思うし、今だって国が主導するさまざまな『国策』に対して穿(ウガ)った見方が必要だと感じるのです

 

 

 

そんな満蒙開拓平和記念館

また来よう

 

 

 

そして再び中央道に乗り本日のお宿へ馬DASH!

つづく(_ _)

まずは一昨日(9月7日)!

 

 

 

上信越道をGoGo馬DASH!

 

 

 

ずっ~と行きたかった場所があり、最終的にそこに行くのだが

 

 

 

せっかくだから他の場所も行っちゃおうではないか!

 

 

 

と、4代目チョッチョリーナで信濃路へ馬DASH!

 

 

 

東武湯の丸インターを降り

 

 

 

走ること約1時間!

 

 

 

着いたは長和町にある『黒曜石体験ミュージアム』

ここで受付をして!

 

 

 

向かうは星糞峠にある『星くそ館』足あと

 

 

 

 

 

 

 

歩むこと13分で『星糞峠黒曜石原産地遺跡』の入口に足あと

 

 

 

足元を見るとキラキラと輝く黒曜石たちが!

この欠片たちは縄文人が採掘した残りかすであり、光を浴びてキラキラと輝く様は星の欠片だとしていつしか『星糞』と呼ばれるようになったとか(諸説あり)

 

 

 

長い年月で採掘跡(新しいもので3500年前)は埋まってしまっているが、クレーター状のくぼみとなって残っていて

 

そのくぼみは195か所も発見されてるって!

 

 

 

栃木県でも高原山の黒曜石採掘跡はあるけれど

 

ここの黒曜石は透明度が高いのでとても人気だったんですね

 

 

 

そしてここが、くぼみの謎が解明された第1号採掘跡

 

 

 

その第1号採掘跡にあるのが星くそ館!

 

 

 

中に入ってみると地層の断面が

 

 

 

地下5mの所には土砂崩れ防止の木柵が出土し、周囲には木製の堀具や採掘の無事を祈った漆塗りのお守りも発見されたんだって

※左手前が3500年前の木柵※

 

 

 

さて!せっかくなので鉱山の頂上へ足あと

 

 

 

 

軽登山です足あとあせる

 

 

 

 

 

約7分で鉱山の頂上にしっぽフリフリ

フムフム目

 

 

はじめ、旧石器l時代の人たちは星糞峠の麓を流れる川の中で黒曜石を採取していて(カメラミュージアムにて)

その後、縄文人は山の斜面が崩れた土砂の中から黒曜石の塊を見つけ出し

 

 

さらに、山の斜面を削り黒曜石を掘り出したって経緯が分かるんですね(カメラミュージアムにて)

 

 

 

そんな鉱山の頂上(虫倉山)から目

 

 

 

んじゃ戻りましょう足あと

 

 

 

いにしえの時の中、人々の営みがここにはあった

 

争いの痕跡が見つからない縄文時代

 

きっと

 

縄文人と縄文文化に学べば争いのない世の中になるのにな、、、

 

なぁ~んて考えながら歩む足あと

 

 

 

てな訳で戻ったどぉしっぽフリフリ

 

 

 

そんな黒曜石体験ミュージアム&星くそ館は最高に面白かったです(/・ω・)/ラブラブ

 

 

 

また来よう!

 

 

 

てな訳で次の目的地へと向かうのだ馬DASH!

つづく(_ _)

 

夏と言ったら高校野球!

 

 

 

一昨日の沖縄尚学と日大三高の決勝戦も最高でした!

きっと俺みたいにプロ野球にはあまり興味ないんだけど、高校野球は好きって人は多いと思います

 

 

 

そして

そんな高校野球を見ると考えてしまうことがある

 

 

 

それは


特攻で散った高校球児たちと同世代の若い人たちのこと

 

 

 

この本の表紙の若者たちは前列左から早川勉伍長、荒木幸雄伍長、千田孝正伍長

 

 

 

後列左から高橋要伍長、高橋峰好伍長

 

 


早川さんと千田さんは18歳であとの3人は17歳

 

 

 

子犬を囲みながらの笑顔

 

 

 

いったい彼らはどんな思いでいたのかって想像するだけで涙が出てくるのです、、、

 

 

 

そして

無謀で無策な特攻作戦全体を主導した海軍の大西瀧次郎中将やそれを実行し続けた無能すぎる海軍、陸軍の両指揮官どもにあらためて怒りを覚えるのだ!!!

 

 

 

さて!

 

 

 

俺が思うに、そんな奴らと同等な人がいる

 

 

 

それが『櫻井よしこ』である

 

 

 

そんな櫻井くんの『南京大虐殺はわが国の研究者らによってなかったことが証明済み』って産経新聞に載せたコラムに耳(目)を疑った、、、

 

 

 

南京大虐殺(南京事件)とは日中戦争時の1937年12月に日本軍が中国の南京において中国兵捕虜や一般市民らを殺害し、略奪行為を行った事件である!

 

 

 

その犠牲者数は正確には不明だが東京裁判では20万人以上、中国側では30万人以上、日本側の研究では数万~20万人とされている

 

 

 

そんな南京大虐殺について外務省のホームぺージの歴史問題Q&Aにこうある

 

 

 

南京事件に対して、日本政府はどのように考えていますか

 

 

 

日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい人数かを認定することは困難であるとかんがえています

 

 

 

国も正式に南京大虐殺を認めているのにそれを否定した櫻井くんと、それを載せた産経新聞

 

 

 

いったい何を考えているのか理解できないし、するつもりもないが!!!!!!!

 

 

 

こんな人が日本の保守派の代表格と呼ばれていて

 

 

 

こんな人が「日本の復活は憲法改正からはじまる!」と憲法改正を声高に提唱していて

 

 

 

こんな人が「あなたは祖国のために戦えますか」 と訳の分からない愛国心を植え付けようとしていることに大きな疑問を感じてしまうのです

 

 

 

前々回のブログ『黒川の女たちの巻』でも書いたんだけど

 

 

 

平和とは

 

 

 

同じあやまちを繰り返さないために過去を知り、学んだ先にあると思うんだよね

 

 

 

 

 

 

 

てな訳で最後に

 

 

 

鹿児島の知覧飛行場から昭和20年6月6日出撃し戦死した 枝 幹二 大尉(22歳・富山県)の詩を(_ _)

 

 


あんまり緑が美しい

 

今日これから

 

死にに行く事すら

 

忘れてしまいそうだ

 

真青な空

 

ぽかんと浮ぶ白い雲

 

6月の知覧は

 

もうセミの声がして

 

夏を思わせる

 

 

 

22歳の枝 幹二 大尉が!

 

どんな思いでこの詩を書いたのかを考えるだけで!

 

俺は!

 

憲法改正に断固反対なのである!

これは3日(日曜日)のお話です(_ _)

 

 

 

いきなりですが!

am6時30分のアブラゼミ(上信越道・横川SA)

羽化してさほど時間が経ってないだろう淡い色に「綺麗だなぁ」としばし釘付け目

 

 

 

そして長野の砂ちゃん宅へ向け下道GoGo馬DASH!

 

 

 

ガツンと端折って砂ちゃん軽トラで馬

 

 

 

そんなこんなでチタケ採りスターティン!(8:10)

 

 

 

2人で火薬銃をパンパン鳴らしながら登っていく足あと足あと

この辺は熊の被害はないものの注意情報は出てるって!

 

 

 

そして!チタケあったどぉしっぽフリフリ(8:28)

 

 

 

 

その後もフィーバーはないもののポツポツと採れ

 

 

 

 

 

 

タマゴタケもポッツポツ

 

 

 

 

 

足あと足あと

 

 

 

 

 

 

そして10:16分終了です!

水を浴びたように全身ビッチョビチョ

 

 

 

てな訳で砂ちゃん宅へ戻りましょう馬

 

 

 

そんな本日の収穫は!

 

 

 

32チタケと5タマゴタケキノコキノコキノコキノコキノコしっぽフリフリキノコキノコキノコキノコキノコ

ここ数年、栃木のポイントではヒルが大量に群がってきたり、福島のポイントでは山全体の木が伐採されたりして思うような数が採れてなかったので超満足

 

 

 

 

 

 

そしてシャワーを浴び

砂嫁ちゃんお手製の梅ジュースを飲ませてもらい

 

 

 

台所をお借りしてチタケ汁作り!

 

たっぷりのチタケを炒めて炒めてメラメラ

 

 

 

麺はソーメンでド~ン! 

砂嫁ちゃんが作ってくれた副菜た~っぷりで超豪華!

 

 

 

いただきます(_ _)

 

こでらんねぇぇぇぇぇぇえええぇぇぇぇぇぇぇえええ合格キスマーククラッカー

 

 

 

食後は砂嫁ちゃんお手製のゴマ&バナナと桃のアイスも!

こでらんねぇぇぇぇぇええぇぇぇぇぇぇぇえええキスマーク

 

 

 

移住し3年目の砂ちゃん夫妻に感謝感謝(_ _)ラブラブ

 

 

 

今度は秋のキノコで再見!と信濃路をあとにしたのです馬

 

 

 

 

 

 

そして翌朝は再びチタケ汁を作り!

 

 

 

モーニングチタケソーメンを食べ!

 

 

 

昨日の夜は!

 

中沢製麺さんの生パスタを使っての!

 

タマゴタケのクリームパスタ

 

こでらんねぇぇぇぇぇぇぇぇえええぇぇぇえキノコキノコキスマークキノコキノコクラッカー

 

 

 

 

 

 

暑いのが苦手なので夏は大嫌いなんだけど

 

今年も美味しいチタケやタマゴタケを食べて少しだけ夏が好きになった僕でした(_ _)ドキドキ