タイムラグがありますが、、、
奄美大島番外編ですヽ(^。^)丿
思い入れが強く、熱くなってしまいますがお許しを(_ _)
一村(イッソン)さんを知ったのは今から8年前
帰りの奄美空港の売店で1冊の本を手にした時からだ
その本がこれ!
表紙のソデ(内側に折り曲げてるところ)には一村さんの写真とともにこう書いてあった
田中一村(タナカ・イッソン)日本画家 1907年 栃木県生まれ
7歳で米邨(ベイソン)の号をもらい、神童と騒がれる
1926年、東京美術学校(現東京芸大)入学
同期に東山魁夷(ヒガシヤマ・カイイ)らがいた
だが結核を患い、父の病気も重なり、わずか3ヶ月で中退
1947年青龍展に入選するが、翌年川端龍子(カワバタ・リュウシ)と意見を異にし、以後中央画壇との接触を断つ
1958年奄美大島へ第一歩を記す
5年間大島紬の工場で働き、3年間は絵に専念するという生活を繰り返す
1977年没
栃木県下都賀郡(現栃木市)生まれで奄美大島で没した一村さんと、現栃木市民で奄美大島が好きな自分を重ねてしまい「これは何かしらの運命かも」って感じになってしまったのです
あの日以来、ことある毎に一村さんのお墓参りに行ったり
一村さんの企画展があれば見に行ったり
本物かどうかあやしい一村さんの絵をヤフオクでポチったり、、、
ずっと悔やんでいたのは、8年前のあの時に国道58号線で何度も『田中一村終焉の家』の看板を見ていたくせに、一村さんって誰だろうって調べもせず素通りしていたってこと
それから月日は流れ流れて8年振りの奄美ぃ
そんなこんなで名瀬にある一村さん終焉の家へ
着いた
ここは御殿のようです
ここならまたいい絵がかけそうです
そう喜んでいたという一村さん
だけど
この家に移り住んでわずか11日後の昭和52年(1977)9月11日、夕ご飯の支度をしている時に心不全で69年の生涯を閉じた
実際の終焉の地はここから少し離れた国道58号線沿いの現・陸運局敷地内であり、その後、この家は現在の名瀬市有屋38-3へ移されたのです
一村さんが亡くなってからもうすぐ47年、朽ちた終焉の家、なんかポツンと取り残されてるような寂しさを感じたのでした
翌日は田中一村記念美術館へ
ここでは一村さんの生涯で唯一中央画壇で認められた作品『白い花』を、また中央画壇と決別する切っ掛けとなった作品『秋晴れ』を見ることができて鳥肌全開
感動マックスのまま園内を歩く
俺の中でアダンの実=一村さんなのでこれだけで涙が、、、
そしてそして翌日の最終日
朝食後に土盛海岸へ
一村さんが愛した奄美
その力強い生命の輝き
ありがとうございました(_ _)
そして栃木に戻った翌日
一村さんが眠る栃木市の満福密寺へ
これは8年前、初めての墓参り時の写真
朽ちた代々墓に誰かが供えた奄美のと思われる貝や珊瑚
なんか一村さんのすべてを物語ってるようで、これを見た瞬間ボロボロと泣いちゃったんだよね、、、
そして今のお墓がこれ!
たしか初めての墓参りの翌年に行ったら新しくなっててガッカリしたんだけど、千葉に住む一村さんの親族から今後のことで住職に相談があり、新しく一村さんの墓石を中心に広い場所に移されたそうな
今でもお墓には貝や珊瑚がお供えされていて
今回は俺も土盛海岸で拾った貝と珊瑚をお供えしたのです
熱砂の浜
アダンの写生
吾一人
生きているうちに世に認められることはなくとも後世に残る作品を描きたいと昭和33年(1958)に50歳で奄美大島に渡った一村さん
えかきは我儘勝手に描くところにえかきの値打ちがあるので
もし御客様の鼻息を窺って描くようになったときは
それは生活の為の奴隷に転落したものと信じます
※昭和40年頃 知人への手紙より※
亡くなる4ヶ月前の一村さん(田辺周一さん撮)
千葉に住む親族が一村さんの遺骨を満福密寺に納骨した際
一村さんはまったくの無名であり
住職は遠い奄美で暮らしていた『田中孝さん(本名)』という貧しい絵描きさんとしか聞かされなかったという
その2年後の昭和54年初冬
奄美で遺作展が開かれ
その作品たちは見る人に深い感動を与え
遺作展の驚きと感動は次第に広がっていった
昭和59年暮れ
NHK教育テレビの日曜美術館で『黒潮の画譜』と題して放送
野にあって、これほどの作品を描いた一村とは何者か?
にわかに世間の注目を集め
その生き方にも関心が寄せられはじめた
誰よりも自分の才能を信じ
誰よりもその生涯を絵に捧げ
そして
誰よりも孤高に生きた画家 田中一村
その作品は日本の宝であるといって過言ではないし
その作品はこれからも見る人を魅了していくことだろう
ビロウとアカショウビン(昭和37年)
アダンの木(昭和48年頃)
そんな田中一村展が『奄美の光・魂の絵画』と題して東京都美術館にて9月19日~12月1日まで開催します!!
もし興味がありましたらお越し下さいませ(_ _)