松山千春コンサート・ツアー2021「敢然・漠然・茫然」が12月25日の札幌、カナモトホールで無事終了した。
コロナ下、2020年は1回もコンサートが出来なかった。今年の春は感染拡大防止対策を取ったうえで、全国ツアーを敢行したが、それぞれの理由で東京、大阪、福岡公演(2日目)が中止となった。私は東京、東京国際フォーラム公演に参加する予定で、直前での中止発表は残念でならなかった。
コロナの影響や松山千春の体調面など心配要素はあったが、今回は中止会場は一切出ず、全22公演、完璧に開催できてほんとうによかった。
松山千春は今年1月にお母様を、9月には弟さんを亡くされ、その悲しさと寂しさが溢れ出ていたトークだった。一方で、全会場ではないが、一人娘の月菜さんの結婚を報告するなど、お目出たい出来事もあった。
様々な意味で松山明さん一家、松山千春一家にとっては激動の一年、忘れ難い一年だったことだろう。
ツアー中の11月17日には故・服部克久先生の追悼メモリアルコンサートに出演し「電話」を歌った。この時楽屋でさだまさしと”奇跡のツーショット”を”奇跡の作り笑い”(本人談)で撮影した。
私が参加した11月19日東京国際フォーラム公演(2日目)の感動と感想は以下に記載した。同公演では歌われずに、そのほかの会場で歌われた曲で、ぜひ聴きたかったと思ったのは…
「提唱」(9会場/22公演)
「水溜まり」(8会場/同)
「俺の人生」(14会場/同)
「はまなす」(3会場/同)
あとはオープニングでの「旅立ち」。東京国際フォーラム含めて多くの会場ではアレンジを変えて公演ラストで歌われてきた(16会場/同)が、名古屋公演2日目ではオープニングで歌っていた。
逆に言えば、東京国際フォーラム2公演のみで歌われた「ふるさと」。本当に感動した。ある意味、ツアータイトル曲である「敢然・漠然・茫然」を凌ぐと言ってもいいぐらい、今回のステージの流れとトーク内容に200%マッチしていた画竜点睛的な選曲だった。
”復活”という言葉は適切ではないかもしれないが、オーディエンスに身動きを取らせなくするような圧倒的な厚みとパワーのある声、全オーディエンスをまるごと包み込むようなスケールの大きな歌唱は、往年の松山千春が戻ったようだった。それが何より嬉しかった。
12月26日、今年最後のラジオ番組でも
「来年もできるだけいい曲を作り、また、コンサートで全国、コンサートももちろん、こうやってラジオを聴いてくれるみなさんに感謝、感謝の言葉をね、歌でもっともっとアピールしていきたい」
と語っていた。
僭越ながら、どうか健康第一で、これからもずっと歌を届け続けてくれることを願い、いつも待っている。
まぁ、まったく余計なお世話だと思うが、来年のツアーで、孫が生まれおじいちゃんになった松山千春の”なぁ、お前、やっぱりよぉ、孫は可愛いよなぁ。俺はびっくらこいたぞ”喜びあふれるじいじトークが聞きたいなと思う2021年の年の瀬。
【東京国際フォーラム公演/11月19日】
11月19日に参加した松山千春コンサート・ツアー2021「敢然・漠然・茫然」、東京国際フォーラム公演2日目。
まる2年ぶりということもあり、本当に楽しみに、どこか緊張しながら参加した。
年齢ゆえやむを得ない。高音部分が上がり切らず、その分、歌詞の母音を強調しそこに強いビブラートをかけながら伸ばす歌い方はここ数年とくに目立つところではあるが、それらが全く気にならないぐらい声にパワーと厚みがあり、オーディエンスの中に強烈に入ったと思う。
個人的には「写真」「愛した日々」「平凡」「敢然・漠然・茫然」「ふるさと」「旅立ち」、この6曲が何よりよかった。
「かざぐるま」の間奏、エレキギターの鳴きがよかった。
「ふるさと」は夏目さんのピアノのみで歌ったが、トークからの流れで本当に感動した。またこの時だけステージに椅子を出し、そこに座って途中から足を組んで歌った。デビューして数年間のライブで、ギターは抱えずにアコースティック編成のバック演奏で歌う時よくこういうスタイルだったが、それを思い出した。
「声が聞こえる 父さん母さん」から後の部分は感極まり泣きながら歌っていた。もしこの日のライブでの画竜点睛の1曲を挙げるとしたらむしろ「ふるさと」と言ってもいいぐらいだった。
「水虫クン」は松山千春自身が「”箸休め”の曲だ」と言っていたが、二部である必要はなかったような気がする。もちろん、二部のあのトークの流れ中にワンクッション入れた意味は理解しているが、一部でよかったのではないか。とは言えあの一部でも入れ所があるようでない。そうなるとアンコールかな?ともあれ、二部の選曲とトークの流れからするとかなり浮いていて、そのいい流れを途絶えさせた感がある。
「提唱」を「君に」に、「俺の人生」を「人生の空から」にそれぞれ入れ替えていたが、100:0で「提唱」と「俺の人生」を聴きたかった。
ご家族の話しから「生命」に繋いだのは少々違和感があった。その次に歌ったメインの「敢然・漠然・茫然」と被ってしまうぐらい大きな曲だが、「あなが僕を捜す時」か「勇気ありがとう」を歌った方がよかったと思った。せめて「手紙」とか「慕う」であればよりよかったのかな、と。
ラストの「旅立ち」、最後の部分の演奏は通常のアレンジを変えて、かなり伸ばしていた。伸ばしながら、松山千春がオーディエンスにお礼を言い、「ど~も!!」(マイク投げ)ではけた後、通常どおりのあのパターンで演奏を終え、同時に緞帳が降りた。公演ラスト仕様にアレンジしていたと言ってもいいが、これがよかった。
トークは、長時間話したブロックはなくコンパクトにまとめ、政治的なトークもあったが、あの程度のレベル内容なら聞いている人に不快感を与えずにすんだと思う。なにより今回のメインテーマと言っていいご家族についてのトークは終始泣きながら話していたし、それを聞いていて、こちらも涙があふれた。
今年1月24日と9月26日にラジオで松山千春が語っていたお母様と明人さんへの思いに尽きているとも思った(一番下にその内容記事4本をリンク)。
(東京国際フォーラム/2021年11月1日筆者撮影)
お父様、お母様、お姉様(絵里子さん)、弟さん(明人さん)、全員について語っていたが、一番時間を取っていたのはお姉様のことだった。内容的にはこれまで何度もライブで聞いてきたものだが、あらためて聞いて泣けてきた。以下1998年12月、横浜アリーナで語ったお姉様についてのトークをリンクした。
周囲はがんであることをお姉様に告知しなかったが「絵里子は自分ががんであることを知っていたのかもしれない」。札幌の病院での闘病生活の中で、抗がん剤やモルヒネを投与していたためその大きな副作用がお姉様の体に出ていたのだろう。「もし私が死んだら、札幌で火葬し、それから足寄に帰して。こんな姿を足寄のみんなに見せたくない」と言われたという。松山千春はその言葉を守った。
今から33年前、私の母のがんの闘病の時もそうだった。がんであるこを母には告げずにいたが、おそらく母は知っていただろう。抗がん剤の副作用で髪の毛がほとんど抜けた。「こんな髪になっちゃった」と母は悲しんでいた。
モルヒネの影響で意識が混濁し、一瞬普通の気持ちに戻ると「お前の運転する車で家まで連れていって。私を家に帰して」と看病していた私に何度も言った。「母さん、それは出来ないんだよ。医者がダメだって言うんだ」と答えたが、あの時無理しても強引にでも、それで母の命が終わったとしても、母を自宅に帰してあげればよかったと今でも思う。
松山千春のトークでそんなシーンも蘇ってきて、涙があふれて仕方なかった。母のことを思い出すきっかけを作ってくれた松山千春に感謝した。
「みんなにもふるさとがあるだろう。ふるさとを大事にするということは、自分を大事にすることなんだ」と語っていた。本当にそう思う。ふるさとや家族、恩師や友だち…自分を育んでくれたものに感謝する気持ちを失くしたら、根無し草の貧しい人生になってしまうといつも思う。
「幕が開いたらそこにベッドが置いてあり、俺が横たわっていても隣りにいる医者に許可をもらいながらでも歌い続ける」と語り、「お前らも生きろ!生きて生きて生き抜け!」とメッセージを送った。
歌とトーク、トータルで人間・松山千春に生で触れ、約3時間、同じ時間を共有でき嬉しく有り難かった。重ねて、本当にいいライブだった。