今日、12月16日、松山千春が65歳の誕生日を迎えた。

 

12月13日のラジオでは、松山千春が小さい頃、家族で迎えたクリスマスのことを語っていた。

お母様の”指令”で、ややこしいから、らしいけど、実際には日が近いということもあり、貧乏で何度もお祝いできない事情もあったかもしれない、松山千春の誕生日とクリスマスを一緒にやっていたらしい。その話しから、貧乏だったけど幸せな、温かな家族のシーンが浮かんで来た。

 

65歳。現状のWHOの定義で言う「高齢者」の仲間入りということになる。おめでとうございます、と言っていいのか分からない年齢になって来た感じがするけど、ともあれ誕生日、おめでとうございます。

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長年のファンの皆さんはご存知のことだが、1980年12月30日にNHK‐FMで、その年の9月にNHKホールで開催された松山千春コンサートツアー'80『風をうけて』の模様が放送された。

 

あの時私は中学1年、12歳。当時寒い部屋の中で、自宅にあったVictorのラジカセにかじりついて聴いた。そのライブの中で松山千春がそろそろ誕生日で、25歳になるという話しを笑いをとりながらしていた。

 

あれからちょうど40年。あっという間の40年。時の流れの速さだけを実感する40年。

よくまぁ、ひとりのフォークシンガーを40数年応援し続けて来たと自分でも思う。

 

 

1998年12月18日、19日両日のコンサートの模様を収録した映像作品「松山千春1998横浜アリーナ」。私もその場にいて、その時聞いたトークも収められている。

 

亡きお姉様のことを歌った「この世で君が一番好き」を歌い終わった後、「愛しているから」に入る前のトークで、お姉様の闘病の様子や誕生日のことを語っていた。


「1998年4月28日、48歳でしたが、がんで逝った姉貴、松山絵里子、死んでいく姉貴のために弟として何かしてやりたいと思って、「この世で君が一番好き」という曲を作りました。思い出に残る一曲になった。8月、姉貴の骨を足寄のお墓に収めました。親父の隣に姉貴の骨も収めて。


その時に姉貴の旦那さん、俺の義兄、たけちゃんが言った。

「千春、絵里子な、入院してからずっと手帳つけてたんだ。ちょっと見てやってくれるか」

姉貴は札幌の病院に入院していた。
(その手帳には)今日はこんな検査をした。何の病気だろうとか、いろんなことが書いてあって。今年になってからは「苦しい」とか「痛い」とか。「今日は痛みが激しい」とか。「本当に治るんだろうか」 

2月の20日が姉貴の誕生日。

「姉貴、おめでとう。48歳だな。ベッドの上だけど、おめでとう」

「千春、いつになったら帰れる?」

「あと一回手術したら治るらしいよ。そしたら足寄に帰れるぞ。だから頑張れ」

…ひょっとしたら姉貴は俺の嘘を見抜いていたかもしれない。がんだったからがりがりに痩せてて。

手帳の最後に、姉貴も最後の力をふり絞って書いたんだろう。

「千春、ありがとう。明人、ありがとう」。友達の名前がいっぱい書いてあった。

「たけちゃん、ありがとう」

「父さん、母さん、生んでくれてありがとう」

姉貴には一人息子の光里がいる。その手帳の一番最後には、

「光里、生まれてきてくれてありがとう」

「光里、生まれてきてくれてありがとう」…これが姉貴の最後の言葉だった。

自分は死んでいくけど、自分の血がつながった子どもに対して、”お前がいるからこそ、お前が生まれてきてくれたからこそ、母さんはこんなに頑張れたんだよ。母さんが死んでも、お前は楽しく自分の人生を歩いていくんだよ”―そういう思いがこもっていたと思う。

みんなにもお父さん、お母さんがいると思うけど、”生まれて来てくれてありがとう”―そう思っていると思う」
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松山千春自身、いくつもの大病を抱えながら、これまでと同じことが出来る体調と年齢ではなくなっているだろうし、一般的に考えてもさらに年々厳しくなるだろう。

 

あの日、横浜アリーナでお姉様の話しの最後に語っていた。

 

「死ぬまでに一曲でも多くの愛の歌を書きたい。親子の愛だったり、きょうだいの愛だったり、家族の愛だったり、友情でもいい。海や山、風、自然に対して愛情を感じることがあるかもしれない。何でもいい。この世に生まれてきて感じた愛情、一曲でも多く書きたい」

 

僭越ながら、どうか健康にはくれぐれも留意され、これからも一曲でも多く深みのある人間愛が伝わる歌を残して欲しいし、歌い続けて欲しい。

 

私自身も気づけば52歳、もうすぐ53歳になるが、松山千春が歌い続ける限り、応援し続けたい。