現在、江戸城天守はなく、その巨大な石垣だけが遺されています。

1657年の明暦の大火は3日間に渡り、江戸の街の大半を焼失させました。

犠牲者は3万人以上と云われ、市街地、大名屋敷だけでなく、江戸城も焼けました。

将軍は4代目の德川家綱であり、先代の德川家光の異母弟の保科正之や知恵伊豆と言われた松平信綱らが補佐していました。

大火後に町民の救済や広小路や道路の拡張、参勤交代の一時停止などが行われます。

江戸城天守も焼失し、再建するという話もありました。

それ以前に江戸城天守は德川家康、德川秀忠、德川家光の時に3度再建され、徐々に巨大化していました。

天守を巨大化したのは将軍の権力の大きさを誇示するためでした。

しかし、保科正之は、「天守は織田信長の岐阜城に造られたのに始まり、遠くを見るためで実用性がない。」と述べて江戸城天守を再建せずにその資金を江戸の街の再建や江戸城の米蔵を開いて町民救済に当てます。

江戸城天守がないのは保科正之の為政者としての矜持であり、そのことに歴史的な意義があります。

江戸城天守がないという物語が歴史を語っています。