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takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

昨日土曜日、杉並公会堂にて
演目はコリオラン序曲、死と変容、マーラーの4番。指揮:寺岡清高、アルト独唱:半田美和子

団員は大学オケ出身で働きながら週末に練習している人がメインとのこと。

 

実はこの翌日の日曜に、以前聴いたことのある上手なアマオケが同じマーラーの4番を演奏する定期演奏会があって、そちらに行く予定だった。それでこの日はドボルザークがメインの別の会に行ってみるつもりだったのだが、日曜は応援している女子サッカーチームの試合を観に行きたくなったので、土曜はもうひとつのマーラー4番を聴きに行くことに変更したわけだ。

 

前半の二曲では充実の弦楽の厚い和音の響きと、木管トップの良さを堪能。しかし、この日未明にサッカー日本代表対スイス代表の練習試合をテレビで観戦した影響だろう、眠気が邪魔して、かなりおぼろな印象しか残らなかった。

 

しかしマーラーの4番ではパッと目が覚めた。よーく練習が行き届いていて丁寧な仕上がりの演奏だったと思う。半年に一回の定演ということでじっくり熟成された、こなれた演奏だったのではないだろうか。素晴らしい! 弦楽のパートソロ、ソロともに美しかったし、管楽器のレベルの高さも安定していて素晴らしかった。私には木管に魅せられたけれど、派手に目立つことなくシュアな演奏をした金管群のレベルの高さも半端ではないと思った。アマチュアにありがちな「迫力は大ボリュームで出す」タイプではなく、むしろダイナミックレンジは弱音の方を磨くことで広げていた。指揮者のコントロールも利いていて気持ちの良い演奏だった。

 

この4番は終楽章がアルトのソロの加わる曲。ベートーベンの第9同様、どこがいいのかさっぱり分からない歌詞であって、指揮者は演奏前のプリトークで前の楽章との繋がりに付いて説明していたけれども、私には馬の耳に念仏であり、素晴らしいマーラーの管弦楽の最終楽章にマーラーの歌曲がポンと置かれているという印象で聴いていた。(もちろん歌の伴奏部分のオーケストレーションは大好きなのだが) 

 

それにしても、こんなに良い気分で帰路に着けたのはありがたかった。一息入れるために立ち寄った喫茶店では、その気分を壊したくないと思い、持ち合わせた本を読むことを断念したほどだった。

昨日の土曜日も例によってアマオケを聴きに第一生命ホールへ。

TBSK管弦楽団という140名ほどのアマオケから派生し、その定期演奏会では扱えないジャンルの曲に特化した室内管弦楽団であるTBSK室内管弦楽団の第二回定演だった。入場無料。

 

先ず気になったのはTBSKという名称は何の略語なのかという点だが、"Technical and Broad Sound by Kinds of People"の略だそうだ。レトリック的にどうなのかなと思える表現だし、かなり意味不明な表現にも思える。団員の中では手羽先という愛称で呼んでいると言うから、意外にこちらの愛称からでっち上げた当て字的名称なのかもしれない。

 

首都圏の数多の学生、院生、社会人で構成されているそうだ。

 

曲は魔笛序曲、ハイドンの102番、「田園」の三曲。

 

室内オケと言いつつも、標準的二菅編成でありながらヴァイオリンが第一、第二とも10名強。コントラバスが4~5名で室内オケらしい数であるのに対して、ヴァイオリンは多かった。

 

一番楽しめたのはハイドンだった。特に後半。軽いリズムが楽しく、しかもハイドンのユーモラスな一面を強調する演奏であり、好感を持った。

 

田園(ベートーベン)はちょっとまだ消化されていない感じで、パート間のボリュームの調整、表現の自発性が欠けていたようであり、単調だったかもしれない。まあこれは素人の感想なのであてにはなりません。

5月26日の夜はミューザ川崎でお茶の水管弦楽団第102回定期演奏会を聴いた。指揮:田中一嘉。曲はリムスキー・コルサコフの「皇帝の花嫁」序曲、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」序曲とサン・サーンスの「オルガン付」。

 

全体的にとっても素晴らしい演奏会だった。先週末の他のアマオケの演奏会でも素晴らしい演奏を堪能することができ、そして今週もどっぷりと感動に浸かり続けることのできたのだから、何とも有難いことである。そして更に言うと、どちらの演奏会も有料でありながら、事前に申し込めば招待券を取り置いてもらえて、要はどちらもタダで聴かせてもらえたのである。こんなに良い演奏を聴かせていただいたのにカンパボックスも置いていなくて(少なくとも見当たらなくて)恐縮した。

 

「皇帝の花嫁」ではヴァイオリンで繰り返し演奏される甘美なテーマにうっとりし、「ロメオとジュリエット」ではバランスの取れた丁寧な演奏に感心。そして、何と言っても「オルガン付」が素晴らしかった。これを演奏会場で聴くのは二回目だったのだが、前回(芸術劇場にて)に比べると今回のはオルガンのボリュームが大きく、オルガンとオーケストラが良く分離して聞こえたことが演奏の良さをさらに大きく引き立てていたようだった。私が座った二階席からだと、オルガン奏者の位置は正面の約5度上方であり、音はその上のパイプから出ていた。オーケストラは10~20度下方。とても良い位置関係だったと思う。

オルガンとのボリューム調整を含め、指揮者の統率力が見事と感じられる演奏でもあった。バランスのとり方、全体を見通した上での演奏表現の振り付け方にも「凄い!」と唸らされた。良く練習の行き届いているオーケストラも見事。最後はこれまでにやったことのない「ブラボー」のコールをしたくなったけれども、これは気後れしてできなかった。そうであっても演奏終了後あちこちから「ブラボー」の声が飛び交い続け、誠に盛大な拍手も続いたのであるから、大成功の演奏会であったことは間違いない。お茶菅、これで定期演奏会を三回連続で聴いてきたけど、聴くたびに満足。それも満足度が上がってきたように感じる。それも、前回「うわっ、こんなに素晴らしいなんて!?」とびっくりした二キティンの演奏と質は違うものの、同等の感激を味わえるとは予想していなかったのだから、その分のびっくりも加わり、とても幸福であり、満足して会場をあとにしたのだった。

本日ティアラこうとうにて。

 

この長い名前のオーケストラは慈恵医大、慶大薬学部、聖路加国際大、星薬科大の学生とOB、OGからなるそうで、大所帯の楽団だった。聴きに行ったのは初めてだが、初めての挑戦だというマーラーを立派に演奏し大喝采を浴びていた.。曲は交響曲第一番「巨人」。アマチュアなのだから端々に上手く行かなかった個所があったけれど、これはマーラー演奏の困難さを考えたら致し方ないと考えるのが自然。むしろこういう部分があっても全体的にしっかりとしたマーラーを描き出し、しかも聴衆に長さゆえの疲労感を(少なくとも私には)感じさせなかったのは驚くべきことではないだろうか。テンポを動かす指揮者米津俊広氏のバトンによく付いていたのは練習のたまものだろうし、要求される大胆な表現の幅に果敢に挑んで聴く者の精神を揺さぶってくれた。

 

実は最初の大学祝典序曲が始まった時、「おっ、この楽団の音色はアマチュアの音色だ。」と思ったのである。でも曲は存分に楽しむことができた。先週末も別の楽団でこの曲を聴いているのだが、このおかげで一層親しみを持って聴けたのだと思う。指揮者の交通整理が良くて曲の流れが分かり易かったのも良かった。

二曲目のリストの「前奏曲」はまだ好きになれない曲であり、演奏のお手並みを楽しませていただくことに専念した。

 

メインステージのベルが鳴り客席に戻って待機していると、舞台の袖から「ファイトー!」という掛け声とそれに応える(たぶんパートメンバーの)「いっぱーつ!」が聞こえてきた。いいじゃない、と思っていたらもう一回(たぶん別のパートの)気合入れが聞こえてきた。こんな体験をしたのは初めてだったけれど、難曲に挑む直前の緊張を破るこの手段に好感を持った。

(そもそも事前に申し込むと招待券をもらえる演奏会だったのだから、音楽を冒涜するような演奏でもしない限り好きなようにやってもらって結構なのである。そしてすでに書いたように素晴らしいマーラーを堪能できたのであるから、この掛け声は良い思い出を強化するものとして私の中に残りそうだ。

表題から感じたのは、こんな人でも子供時代は普通の子供たちと同じようにこどもだったんだよ、という文脈とか、そういう子供時代が、世の中に名を知られるようになったあとのそれぞれの人物に、どういう影響を残したのか、という文章の集まりなのだろうということだった。一点目は当たらなかったが、二点目は著者のまえがきにも触れられているように著者の意図するところだったようだ。しかし私はこの本を読んで、15人の登場人物が一人前になるまでの半生を紹介する伝記集として秀逸であると思った。

 

取り上げられている人物は、手塚治虫、向田邦子、深沢七郎、稲垣足穂、林芙美子、宮本常一、畦地梅太郎、柳田邦男、池波正太郎、藤原義江、幸田文、藤巻義夫、高峰秀子、澁澤龍彦、野坂昭如。

 

いずれも私より一世代、二世代上の人物ばかりであり、その作品に私が触れている人物は半分も居なかった。であるから、名前だけなら知っていた人物の幼年・少年時代をこのように並べて読めたことは有難いことだった。

 

特に印象に残ったのは林芙美子、宮本常一、藤原義江、高峰秀子、野坂昭如だった。自分とは全く異なる環境に生まれ育った人物の子供時代にはとても心を揺さぶられた。本当に強烈だった。それでも貧しい環境ながら何とか育ちあがった人はまだいい。空襲の焼け跡で義理の妹を餓死させてしまった(少なくとも本人はそう思っていたのだろう)野坂昭如の章は壮絶だった。これを文学的感動と言ってしまうと語弊があるだろうけれども、著者の文学的感性が至るところで光っている一冊だと思った。

数か月前家族に誘われ、内容をよく確認せぬままこの演奏会を聴きに行くことにした。ラフォルジュルネの中の演奏会であり、後日その演奏者を確認したら指揮とヴァイオリン・ヴィオラがラクリンとなっていたので、思いがけず好きなヴァイオリニストを聴きに行けることになったのだ、と嬉しくなった演奏会だ。

 

先ず演奏されたのはブリテンのラクリメ。初めて耳にする曲であり、全体的に最弱音を基調とする先進的な変奏曲だった。「4つの海の間奏曲」を聴いてもその良さをすぐに理解出来なかった私であるから、当然のように良さを理解することは出来なかった。しかし全体の構成が分かればのちのち好きになれそうな予感もする曲だった。ロイヤル・ノーザン・シンフォニアという室内楽団は高名なヴァイオリニストと共演するに値するプロフェッショナルな響きを出す楽団だった。ラクリンはここの首席客演指揮者を務めているらしい。この曲でラクリンはヴィオラ独奏と指揮を担当。

全体的に静謐な音場が続く中、どこからともなくいびきのような響きが聞こえてきたのでびっくりしたが、これは息をつめて演奏しているラクリンがブレスを取るときに発する雑音なのだった。ラクリン好きの家族が前の方の席を選んだためにこういう羽目になったのである。楽音だけで楽しみたい私としては、この雑音は邪魔以外の何物でもなく、少なからず音楽を聴く集中力を削がれてしまった。

しかし次のモーツアルト、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲になると音量に隠されて雑音が聞こえなくなり、素晴らしい演奏に浸ることができた。昔からこの曲が好きで、機会のあるごとにいろいろな演奏者のを聴いてきたのだけれど(レコード、CD、FM放送での海外音楽祭録音など)、どれもなぜかあまり気に入らず、今回ようやく大好きな演奏に巡り会えたと思った。この曲でヴィオラを担当したサラ・マクエルレイヴィは癖のないスケール感のある演奏をする人で、少々癖のあるフレージングをするラクリンとは対照的ではあったが、かえって楽しみを増幅してくれた。重ね重ね、いい曲だと思っていながら気に入った演奏で聴けなかったこの曲を、自分が気に入る演奏で初めて聴けたのであるから大収穫だった。

演奏はこれだけで終わり。演奏量を従来の半分にすることで入場料を相応に下げている、だから私でも聴きに行くことができるのだ、と分かっちゃいても、終わった時の物足りない感じは否定できなかった。
もう一点物足りないのは会場の雰囲気だ。東京フォーラムで聴いているという意識がそう感じさせるのかもしれないけれど、やはり会議場の演壇に演奏者が登場して演奏している、という感じは免れなかった。

 

前回ラフォルジュルネを聴きに行ってから5年以上も遠ざかっていたのは、この二点が私の中でわだかまっていたからかもしれない。

5月12日(土)、すみだトリフォニーにて

指揮: 山田慶一

演目:大学祝典序曲、ラフマニノフP協2、「新世界から」

 

自分の記録を読み直してみたら、今回で三回連続してこの楽団の定期演奏会を聴いてきたことが分かった。

前回は前ステージであれっ?と戸惑う出来だったのに、メインステージのマーラーは素晴らしかった、と記録してあった。今回はどの曲も良く仕上がっており、メインの曲に精力を取られ過ぎなかったから全体的に行き届いたのかな、という感想を持ったのだが、もう一つ想像したのは指揮者との共同作業がようやく全体的に実を結んできたのではないか、という点だった。今回の指揮者は前年の定演の指揮者でもあった。

 

私のイメージするアマチュアオーケストラの常套手段は「熱演」。細かいところは手が回り切れず、結局のところ熱演を重ね最後は大音響で終わる。いういうイメージを持っているので、アマチュアの演奏会の場合、座席は演奏会場の後ろの方、乃至は二階席に座ることに決めている。大音響で演奏の質が分からなくなったら嫌だからである。

 

しかしこの夜の楽団はバランス重視で無理な音を出さなかった。プロ仕様を目指す演奏だったと言えるかもしれない。N響でヴァイオリンを弾いているという指揮者のノウハウがこの楽団の演奏に注ぎ込まれているのだろう。アマチュアオーケストラがこういう方向で発展して行くのだとすれば、現時点でも相当なレベルに来ている演奏水準が一層上がるかもしれない。

 

それにしても、である。プログラムによるとこの楽団を鍛えているトレーナーは12人も居るとのこと。団員の経済的負担は相当なものだろう。学生生活に悪影響は出ないのだろうか、などと余計な心配もしてしまった。

4月21日にアンサンブル・ジュピターのSPRING CONCERT 2018を聴きに行った。

早大フィルハーモニー管弦楽団出身のメンバー中心のオーケストラとのこと。
分厚い響きを出すヴァイオリンを中心とする弦楽器群と、どのパートも安定していて豊かな音を奏でる管楽器群を聴くと、すごいなあと感嘆せざるを得なかった。アマチュアでこのレベルの演奏を聴けるのは5回に1回から10回に1回くらいなのではないかなと思いながら聴いた。しかし、どのパートも豊かな音量を持っているとは言っても、旋律楽器を引き立てるために他パートが配慮しなければ聞こえにくくなって音楽の筋立てを分かりにくくするのであって、その調節が不足気味に思える個所もあったと思う。

最初のエグモント序曲はこれでもかというほどの遅いテンポで緊張感がより高まり、フィナーレの高揚が見事に決まった。エグモント序曲はこういう良さがある曲、と従来持っていた私の既成概念を「それよりもっと良い曲」という方向に更新してくれた演奏だったと思う。感謝感謝。

二曲目のハフナー交響曲は同じくらいの規模の編成で演奏が始まり「おやっ?」と思ったが、如何にも祝典的な響きである出だしに於いてもボリュームはエグモントのクライマックスの2/3くらいの印象で、弾き分けているのが分かった。でも私が好きな古楽風の編成と比べると「厚すぎる」演奏であり、緩徐楽章になると半ばうとうと。
この楽団なら休憩後の「英雄」は期待できるな、と思いつつ前半のステージは終了。

「英雄」の第一楽章、私の期待が強すぎたせいか、良い音が聞こえてくるのに、どちらかというとぼおーっとして聴いていた。しかし葬送行進曲になると俄然引き込まれたので「さあ来た!」と喜んだ。しかし「やややっ!」である。隣りのお年寄りから寝息が聞こえてきた。なぜこんな良い箇所で居眠りが出るんだ? 不思議に思ったが、いずれ第3、第4と活発な楽章になれば目を覚ますだろう、と考え、諦めたけれど、やはり今になって考えるとこの楽章がどんな演奏だったか思い出せなくなっている。
第3楽章になると寝息はいびきになってしまった。無呼吸症候群のガーガーいびきではないにしても普通にウガガガと鼻の鳴るいびき。これは明らかに邪魔だ。周りの聴衆にも邪魔だろうし、肘でつついて起こすか? いや、演奏中にそんなことでトラブルにでもなったら更に悪いことになる。このように頭の中で葛藤(?)し、結局我慢することにした。

第3と第4楽章の切れ目でもウガガガは続いていたから、ことによるとステージまで届いていたかもしれない。
結局それは最後まで続いた。特に傑作(?)だったのは終楽章の怒涛のフィナーレに入る直前。管楽器がピピウン、ピピウン(ウンは休符)とテンポを落とした小音量で劇的な盛り上がりを工作している時だった。いびきのウガッの音と管楽器のピピのテンポが微妙にシンクロしていて、不謹慎ながら(声は出さなかったけれども)クスっと笑ってしまったのである。あーあ、いい演奏も台無しだわ。

とは言っても第3楽章のトリオのホルン合奏は見事だった。終楽章でもホルンの好演は光っていたと思う。でも私が好きな終楽章のフルートによる変奏部分は耳にした覚えさえない。この部分ではいびきに気を取られていたのだろう。

演奏終了で盛大な拍手。隣りでは目を覚ましたじいさんが手を高く上げて拍手していた。まさかサクラで来ていたわけじゃあるまいな。
ハフナーでうとうとしたのだから、100%自分は怪音を発していないと主張することはできないけれども、入場料が低料金のアマオケ演奏会では義理で来ている人も多いだろうからこういうことも起きるのだろう。でも、良い演奏を前にしながら楽しめなかったのは誠に残念だった。次回は9月30日の定演。モーツアルトのヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲をやるそうなので、行けたら行ってみたい。

4月8日、タワーホール船堀にて。

 

この日は例によって手持ちのチラシを眺めて、二つの候補が残った。一つは杉並公会堂でのシベリウス、もう一つが「三頭の象」によるニルセン主体の演奏会だった。この中から我が家から近くて行き易く、しかも入場無料のこちらを選んで聴きに行った。
 

曲はR.シュトラウスのクラリネットとファゴットを独奏楽器とした二重小協奏曲を挟み、ニルセンの序曲「ヘリオス」と交響曲第1番。

 

一番インパクトを受けたのはヘリオスだった。低弦のゆっくりした静かな響きから始まって徐々に盛り上がり、(たぶん)シンメトリックに静まって行き再び低弦の響きで終わる。どんな旋律が含まれていたのかは記憶に残らなかったが、緊張感が保たれる魅力的な演奏だった。

 

次の小協奏曲はR.シュトラウスの曲の中でも革新的な方に属するように聞こえた。新鮮な印象を受けて期待したが、独奏者が普段からプロのオーケストラで吹いているせいなのかオケに協調的であり、期待したよりメリハリがなくて、あまり楽しめなかった。

 

ニルセンの交響曲第1番では、前半のステージより集中して聴きたかったので前方に席を移し聴く。

ニルセンの曲は普段聴く機会が少なくて、それでもFM放送で掛かるのを聴いて好きになれそうだと感じていた。何曲かの協奏曲と例の「不滅」が特に。なので今回の機会は実際の響きを体験できるのでありがたかった。そして聴いた交響曲1はどうだったか。いろいろと民族的な要素もあるのだろうが、私には割りとユニバーサルな展開をする曲、親しみやすい響きのする曲に聞こえた。残念ながら楽しむというところまでは行かなかったが、これは恐らく初めて聴く曲だったのだから仕方がないだろう。

 

プログラムを読むと、今回の公演はデンマーク大使館の後援とのこと。先般同じホールで聴いた別の団体の時にはフランス関係の機関が後援していたから同じパターンかな。どんな援助を受けられるのだろうか。

 

音楽集団「三頭の象」という名称が何なのか気になったが、HPを見ても言及されていなかった。しかし演奏会開催や演奏する曲の形態に関して既成概念に囚われることなく活動して行こう、と、自主性を重視していることが書かれていた。順不同で言うと、演奏会を開くために活動するのではなく日々の音楽活動を充実させたい、演奏会を開くとしても定期性にとらわれたくない、演奏する曲は編成や形態にとらわれたくない、月二回の練習はリハーサルと呼ぶ、等々。こういうことなので交響楽団でもなく管弦楽団でもなく、音楽集団という名称を付けたのだそうだ。素晴らしい姿勢だと思う。大勢の団員の方向性が概ね一致するという状況は想像しにくいけれど、好きでやっている活動なのであるから、やりたくないことを惰性で続けるようなことは止めた方が良い。

日曜に第一生命ホールで聴いた演奏会。

今回も曲目に惹かれてこのコンサートを選んだ。

プログラムを読むと、この楽団は2015年に「アマチュアオーケストラに乾杯」という本を上梓したアマチュアコントラバス奏者・指揮者が主宰するアマオケであり、さまざまなアマオケからメンバーが集まって2013年から年一回のペースで演奏会を開いてきている。これまで演奏してきたBはベートーベンばかりであり、序曲、交響曲、ピアノ協奏曲を取り上げてきた。前回でピアノ協奏曲を一通り演奏し終えたので、今回は初めてブラームス(ピアノ協1番)が取り上げられたとのこと。

 

達者なアマチュア奏者が集まっていて、しかも弦が厚く、充実した響きを聴かせていただいた。

 

曲は最初がプロメテウスの創造物序曲。これがこの日一番充実していたように聞こえた。短いながらも緊張感に溢れ、強く引き込まれた。

 

二曲目はベートーベン交響曲第2番。こちらは弱い音で演奏すべきところが十分弱く演奏されなかったためと思うが、表現が一本調子に聞こえた。

 

最後のブラームス、ピアノ協奏曲第1番は実演を聴くのが初めての曲だったが、如何にも大変な曲だ、ということが良く分かった。強く演奏するオーケストラに負けずに強音を発するには、どこかで聴いたことがあるような言い方だが、コンクリートを叩きつけるような音を出すピアニストが必要なのかなと思った。この日はそうでなかったから、ピアノはオケに隠れがちになった。殆どのピアニストはコンクリートでないだろうから、オケの方が何とか工夫しなければいけないのではないだろうか。しかし難しそうだ。

 

他でもアマオケの演奏会で良く演奏されるブラームスだが、今回を含めてまだいいなと思ったことがない。もっと演奏の難しそうに思えるマーラーやブルックナーの方がアマオケには向いているのだろうか。