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takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

語学学習には物語性のある教材を、多少分からない単語があっても構わず読み進むことが、楽しくて長続きする、という意見の本。適当な本が見つからなければドラマ・映画などの媒体で楽しみながら勉強するのが良い。日本語訳があれば日本語訳と原書を見比べながら読み進むのもおススメ。生きた会話を手早く勉強するには、会話で成り立っている本、戯曲を読むのが効果的ですよ、と自らの楽しみ方を伝授しながら書かれている本だった。

 

もちろん著者は外国語の専門家であり、誰でも彼の外国語学習法を真似できるとは思えない。それでも彼を見習って何か原書を探しに出掛けようかな。そんな気持ちにしてくれる本でもあった。

一昨日の日曜は遠くまでアマオケの演奏会を聴きに行ったけど、長大な後期ロマン派交響曲が始まってから終わるまでの一時間数十分、不快な響きを聴き続けるという、我慢大会のような時間を過ごしてしまった。

 

その曲の超重要パートが、出だしのソロから始まり、最後までずうっと不調だったからだ。

 

不調と言うより、本番の演奏で要求されるレベルの演奏を出来ない人だったのかもしれない。まさか、練習ではうまく演奏出来ていて、本番だけあがってしまった? 同じ楽器の別の奏者が演奏する個所では普通の音が出ていた。なぜこの人がトップを演奏しなかったのか。

 

その他にも弱いパートはあったけれども、まあ頑張っていたと思う。終始黙々と、きっちりと演奏しているパートも多かった。どんな気持ちで演奏していたのだろうか。どんなにきっちりと演奏していてもあの楽器が鳴ると不協和音になってしまうのだから気の毒だった。

 

数年前にアマオケを聴き始めて以来、週末はほとんど演奏会に通ってきたのだけれど、こんな思いをしたのは初めてだった。この程度のことで私のアマオケ通いが減るとは考えられないのだが、アマオケではこういうことも起こり得る、との心構えを肝に念じておいた方が良さそうだ。

 

この楽団は設立後初めての演奏会だったから、予め評判を調べることは不可能だったけど、ネット通販やオークションサイトで行われている「ショップ評価」のような仕組みがあったら良いような気がする。

昨日夜、杉並公会堂にて。

事前に申し込んで獲得した招待券を利用。

 

先月中旬から夏風邪のため感覚が鈍くなったのだろう、せっかく演奏会に出掛けてもピンと来ないまま家路につくことが多くなっていた。そのうえこの猛暑である。体調はほぼ回復したとは言えども、きちんと演奏を聴けるかどうか、あまり自信を持てないまま出掛けた演奏会だった。

 

しかし一曲目の「こうもり」序曲が始まるとおっっと驚いた。弦楽合奏のバランスが良く、各パートの表情付けも心地よかった。気に入った演奏を聴くとこのようにパッと目の覚める思いがするものだ。全体のバランスも良く、また、必要以上の音量が鳴り響くことも無く、曲の持つ楽しさをたっぷり味わえた。

 

二曲目はヒンデミットの画家マチス。あまり聴いた覚えのない曲だ。最初から最後まで高い緊張感に包まれており、遊びを感じない曲の構成。「ん、これはまるで交響曲みたいな造りだな。」との思いが浮かんだのだが、そう言えば曲のタイトルからして交響曲画家マチスなのだった。曲そのものにも各楽章にも副題が付けられているけど、それを全く意識しなくても純音楽として味わえる曲に思えた。こんな複雑な曲なのに、よくこんなにしっかりと、しかも緊張感を崩すことなく演奏できるのは凄いなあと感心するばかりだった。この分だとメインステージの「田園」はどんだけ素晴らしくなるのだろう。

 

しかし「田園」が始まると何かおかしかった。指揮者のテンポに楽団員が乗れないで苦闘している感じ。そのうち心地良くなるだろうと思って聴いていたが、前半のステージで感じた楽器群間のバランスの良さも影を潜め、外声部と内声部の区別も分かりにくくなった。考えるに、マチスに注力したためこちらに手が回り切れなかった? もちろんこちらはただの素人なので、こちらがマチスの演奏で聴くための集中力を使い切ってしまい、それで田園の妙なる調べを楽しめなくなっていただけなのかもしれない。

7月29日、すみだトリフォニーホールにて

 

曲目

バーンスタイン キャンディード序曲

マスネ 組曲第7番「アルザスの風景」

R.シュトラウス アルプス交響曲

 

前半のステージのキャンディード序曲はメディアを通して何回か聴いたことのある曲だった。景気の良い溌溂をした曲で、楽しく聴いていたのだけどあっという間に終わってしまった。

 

マスネの曲はたぶん初めて聴いた。この曲も随所に賑やかな合奏が展開されるものだったが、いつの間にか夢心地となり、途中の10分くらいをうつらうつらして聴いていた。たぶん冷房対策として着ていたパーカーが温かすぎたのだろう。いずれにせよ胸に迫ってくるタイプの曲ではなく、好きになれそうもない。

 

このように前半のステージが終わってしまったので、「アルプス交響曲」は大丈夫なのだろうかと心配になった。しかしこれは杞憂だった。

この曲は何回かFM放送で聞きかじったことがあるけれども、その都度途中で聴くのを止めたか、退屈しながらもBGMとして流しておいた程度だった。これを生で聴いたらどんな印象を受けられるのだろうか、というのがこの日演奏会に行った眼目であり、なるほど、これは生でなければ真価が分からないわ、と強く印象付けられて会場をあとにしたのだった。

 

この曲をより親しく楽しむために、演奏を聴きながらプログラムの楽曲解説を読めたら良かったかもしれない。(現実的には雑音が立つので無理だろう。かと言って事前に曲内部の表題を予習してくるのは億劫だ。) 或いは、アルプスの風景動画を背景に映しながら演奏を聴けたらどうだったろう、などとも感じた。

 

オーケストラの大規模化の行く着くところはこうなるしかないのだろう、と思いながら聴いていたのも確か。大編成のオーケストラとその左右上方に配置された二群の金管のバンダが全力で鳴り出すと賑やかなこと、このうえなかった。これに中央上方のパイプオルガンまで加わるとは尋常ではない。但しこういう音量で音楽を聴くのは好きでないということも再確認。去年だったか、マーラーの「一千人の交響曲」を渋谷で聴いた時もそう思ったことを思い出した。

 

と、こう書いてくると、この演奏会では一貫して大規模なブラスバンドの響きに包まれたような感じになることが多かったと気付いた。楽団としてこういうサウンドがお好みなのだろう。ちなみに次回一月の演奏会では、大序曲「1812年」とショスタコーヴィチの7番に挑戦するとのことです。

本日、練馬文化センターにて。

 

一曲目はブラームスの悲劇的序曲で、これは生で聴くのは初めてだったように思う。交響曲のような印象の、とても重い曲だった。プログラムによるとソナタ形式で書かれた曲と書いてあったが、恥ずかしながら聴いていてもその構成が良く分からず、良さも理解できぬまま聴き終えた。と言ってもブラームスの交響曲に雰囲気が似ている、という印象は持ったので、ブラームスの交響曲に挑戦したいと思っているオーケストラは先ずこれで力を付けたらよいのではないか、などと考えながら聴いていた。

 

二曲目のボロディン交響曲第3番(未完成)はロシアの交響曲っぽく民族的なテーマで始まったが、さてこれからどうなるのかなと思いつつも眠ってしまったようで、音は聞こえつつ「あれっ、今自分は何処に居るのだっけ?」と目を覚ましたら程なく終了した。この調子で休憩後の「英雄」はきちんと聴けるのだろうかと心配になった。

 

しかしベートーベンの英雄では目がぱっちり開いて最後まで楽しむことができた。指揮者は積極的に「表現を促す」わけでもなく、また、テンポを動かすでもなく、地味で確固とした指揮を徹頭徹尾貫徹。団員の集中と努力には畏れ入るところが多々あった。木管の音量がもう少しあったら、とか、弦の中低音部の自発性がもっとあったら、とか、自分では演奏できないくせに「耳年増」の私は感じたものの、こんな凄い曲の音響の中で演奏に参加できる団員の皆さんがとても羨ましくなった。

それと、第二楽章を聴いている時には、こんな曲を残してくれたベートーベンに心から感謝したくなった。

 

実はこれの前に「英雄」を別の楽団で聴いた時には、第三楽章の終結部でホルンが暴走し、終わりが揃わなくなるという珍事に遭遇している。そこの部分を今回は注目していたのだが、今日は難なく演奏されていたし、同じ楽章のトリオのホルンもきちんとした演奏だった。そのうえ、各パートのお手並みが拝見できる終楽章の変奏曲も無難に聴けたので嬉しかった。自分は全然演奏に参加していないのに、奏者に感情移入してしまい、変奏曲でのパートソロが終わるたびに「やったね!」と嬉しくなれるのは、アマチュアオーケストラの演奏会ならではの楽しみに違いない。

6月17日の演奏会の感想です。

 

ぜ紹介が遅れたかと言うと、どういう方々が参加している楽団なのか、自らは敢えて紹介しない方針の楽団に思えたから。ノットは結び目のことであり、団員同士の絆を大切にしアンサンブル力のあるオーケストラを編成したくて旗揚げした、とだけ説明されている。しかたがないので私はこれを「出てくる音・演奏を聴いてもらえば良いのであり、誰が、どんな人が演奏しているのかは詮索しないでちょうだい」という考えの表明であるように解釈した。

 

逆になぜ今さら書くのかと言うと、このブログが私自身のための感想ノートになっているからであり、次の演奏会の情報があればまた聴きに行きたいと思った楽団であり、その際に少なくとも私はこの文章を参考にするだろうからです。

 

たぶん専門教育を受けた方々の自発的演奏機会の場なのでは?

入場無料であり、しかしその割りに客席は空いていた。やりたいことをやるので、興味をお持ちで聴きたい人は来たらどうですか?ということだったのだろうか。

 

一曲目は1905年生まれのフランス人、ウジェーヌ・ボザによるクラリネット協奏曲の日本初演で、独奏はフランクフルト放送交響楽団首席のヨッヘン・チャブルン。現代音楽っぽい曲だが独奏のとろけるような音色と卓越したテクニックで難解さを感じさせない演奏だった。この独奏者は三曲目のR.シュトラウスの二重協奏曲でも独奏を務め、最後の「古典交響曲」でもオケのクラリネットパートに加わって吹いていた。何か(観た人は少ないだろうけど)「オケ老人」という映画に登場するヨーロッパの巨匠指揮者の入れ込み様にそっくりの楽しみ方をしているように見えた。

 

二曲目のメンデルスゾーンのピアノ協奏曲には独奏者に都内某超有名受験校の3年生が登場。驚くほど達者に弾いていたと思うが、その音量はフルオーケストラ相手なら釣り合っただろうに、この日のオケの小さめの編成相手だと大き過ぎてバランスが悪かった。

 

最後のプロコフィエフ「古典」は、これを楽しみに聴きに行った曲。これまでの演奏で醒めた音が特徴的に聞こえていたオーケストラは、この曲で真価を発揮したように聞こえた。とても楽しめる演奏だった。

 

9月には第二回として、今度はオールベートーベンの演奏会をやるそうなので楽しみだ。その時には今回よりもじっくり聴かせていただけるのではないかと思う。

本日なかのZERO大ホールにて。

 

実は同じ日の同じ時間帯にティアラでブラームスチクルス、府中でバルトーク管弦楽のための協奏曲、と好カードが重なっていて迷ったのだが、あまり聴くチャンスのないニルセンが決め手になって中野へ向かった。

 

最初の「カレリア」組曲の出だしは聞き取りにくかったものの、曲が進んで行くにつれパート間の的確な音量バランスが心地よくなり、もともとおとなしいと思っていたこの曲のイメージ通り良い気分で聴き終えた。

本日の演目で知っているのはこの曲だけだった。

 

二曲目はノルウェーの作曲家ハルヴォルセンのベルゲンシアーナという変奏曲。知らない作曲家なので現代曲かと少々身構えていたところ、プログラムに載っていた生年はシベリウスとほぼ同時代と分かった。曲はとても親しみやすいテーマをもとに、とっても愉快な変奏が続々と繰り出され、木琴、鉄琴、そしてマンドリンまで加わって全く飽きさせないものだった。これはまたどこかの演奏会で聴くことが出来たら嬉しいだろう。オケの演奏も素晴らしかった。

 

最後はニルセンの交響曲第三番「広がりの交響曲」。これもたぶんまだ聴いたことの無かった曲ながら、最初から最後まで飽きることなくたっぷり楽しめた。FM放送で「不滅」は何回か聴いたことがあって、意外に聴きやすい作曲家なのかなとは思っていたものの、相当集中力を高めておかないと良さを理解できない恐れあり、と肝に銘じて聴き始めたのだが、最初の和音が堂々と鳴り響き「おっ!?」と思ったと同時に演奏に引き込まれた。

これは素人考えとお断りしつつも指揮者の力量のお陰が大きいと言いたい。的確な譜読み、それを実現する指導力、指揮の分かり易さ、こういうものが素晴らしかったように感じられた。今後も指揮者佐々木新平の動向に注目していくんだ、と私は決めました。今日の演奏会は本当に素晴らしかった。大成功でしょう。

 

管楽器群の高い力量に目を見張らされもしたので、来年2月の演奏会で予定されているブリテンの管弦楽入門は是非聴きに行きたいものだ。

会場はなかのZERO大ホールで、曲はサンサーンスの英雄行進曲、リストの「レ・プレリュード」、ブラームスの1番。

 

私は一週間前に別のアマチュア団体の演奏でブラームス一番を聴いているのだが、それは狭い会場の舞台にぎゅうぎゅう詰めにオーケストラが載っての演奏で、オーケストラが大きな音を出すと会場が音で飽和してしまう印象を受けたのだった。昨晩はどうだったかと言うと舞台が大きくて、かなりの大人数のオーケストラでありながら、大きな音を出しても余裕でゆったり聴くことができた。もちろん演奏団体の違いも大きいのだろうが、会場の大切さを再認識せざるを得なかった。

 

サンサーンスとリストは好きになれそうもない曲だった。

 

ブラームスの第一番はいいですねー! 曲自体が自分から語り出す雄弁さ、求心力といったものに引き込まれました。

オケは上手ながらも、メロディーラインを浮かび上がらせるようなパート間のバランス調整が不十分だったように聞こえた。これの延長で、聴かせどころの一つであるバイオリンソロが金管の音量で消されがちだったのは残念だった。

 

プログラムのメンバー表を拝見するとかなりの大人数であり、ステージに上がるためのオーディションなどをやってるのかなあ、又は曲によって演奏者が交替しているのかなあ、と思うくらい団員が多かった。それなのに弦楽器には意外なくらい多くの賛助出演者も入っており、これは何故なのかと興味が湧いたが分かる由もない。

 

アンコールの「狩りのポルカ」での楽し気な演奏姿、並びに表情、それにプログラムに掲載されていたパートごとの紹介写真を見ていると、彼らのやっていることはまさに大学のクラブ活動なのだよなあ、と思わずには居られなかった。思いがけぬ形で学園の空気に触れたような、或いは考え方によっては自分が場違いなところに迷い込んだような、そんな気持ちを抱きながら会場をあとにした。

実は先週の日曜に、とても面白いアマチュア?オーケストラの演奏会を聴きに行ったのだけれども、HPでもプログラム紙面でも当の楽団に関する紹介が無くて、感想を書けないまま経過してしまった。

 

本日聴いたのは曽谷フィルハーモニックオーケストラ第9回定期演奏会。プログラムには地域の人に愛される楽団を目指し、音楽好き、演奏好きが集まっている、とだけ書かれていたが、HPを見ると、始まりは曽谷小学校管弦楽部の卒業生が集まってできたとあった。現在団員は40名を越え、20代から70代までが年齢に関係なくアットホームに活動しているそうだ。いい感じ!

 

曲はナブッコ序曲、グノーの歌劇ファウストからのバレー音楽、ブラームスの1番。前半よりメインステージのブラームスが充実していたように聞こえた。

 

アマオケを頻繁に聴くようになって以降、私はオーディオで音楽鑑賞することが少なくなった。さほどかっちりした演奏でなくても、熱心な方々が懸命に奏でる生の音のほうが遥かに良いし、コンサート会場で聴けば本当に集中して音楽に向き合えるからだ。今日の曽谷フィルのブラームスもそう。途中私の集中は少し途切れたけれど、曲の聴かせどころに来るとまんまと乗せられてぞくぞくした。

 

会場の行徳文化ホーI&Iは小さなホールで、私は出来るだけ舞台から離れたかったので二階席にしたのだけれども、舞台の指揮者から10mくらいしか離れていなかった。(今調べたら全639席) 舞台にぎゅうぎゅう詰めのオケが強い音を出すとすぐ会場が飽和してしまう感じだった。アマチュアがそうそう小さな音量で演奏できないだろうから、もっと大きな施設でできればいいのにな、と思った。

両者の生まれから語り起こし、これまでの(山本直純は2002年に亡くなっているが)活動の軌跡と二人の信頼関係に付いて書いた本だった。

 

恵まれた音楽一家に生まれ幼少期から音楽の才能を獲得できた山本と、さほど音楽とは縁が無い家庭で音楽の道に進むことにし、わずかな細いつてをつたって恩師斎藤秀雄に巡り会い大成した小澤。この今まで知らなかったコントラストに驚かされた。斎藤門下で当初小澤は先輩山本の指導を受けた、ということも知らなかった。

 

小澤の最初の結婚・離婚と再婚をめぐる出来事も意外な展開が多く、カラヤン、バーンスタインに気に入られて大きくなれたエピソード共々、彼が如何に得な性格の持ち主であったかが良く分かった。

 

この本を通じて著者は、山本が実は指揮者としても大変優秀な可能性を秘めた人物であったのかを紹介したかったように思えるのだが、私にはこの本を読んだ限り、どのように指揮者として優れていたのか、を理解することができなかった。小澤も岩城宏之もさだまさしも、「彼は本当にすごいんだ。」と言っていた、と紹介しているが、私は彼の指揮の凄さというものに接していないし、この本もどのように凄かったのかを説明できているとは思えなかった。むしろ、酒好きでとことん飲み、語り明かすことに執着して墓穴を掘ったように見える彼の晩年を知ると、却って山本が嫌いになってしまった。この本を読む前は、よく言われていた彼の指揮者としての能力に憧れのようなものを感じていたのだから、これは少々残念な結果だった。

 

とは言っても面白い本だった。小澤の名著だと思う「ボクの音楽武者修行」の内容をかなり強力に補完している本であるので、興味のある人にはおススメの一冊だ。