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takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

創立演奏会だから、というわけではなく、演目にエルガーの交響曲1番があったことに惹かれて、大田区民ホールアプリコに出掛けた。「というわけではなく」という表現が続くけれど、エルガーの交響曲が好きというわけでもなくて、とても信頼に値する音楽好きの友人が聴いた藤岡幸夫の演奏会でエルガーの交響曲に感激したと聞かされて以降、そのような良い世界があるのなら、それを楽しめるようになれたら良いだろうなと思って、CDなどをポチポチ聴きつつ私なりに「勉強」してるジャンルなのだった。(ちなみに威風堂々は、分かっちゃいるけど聴くたびに感激する。「愛の挨拶」は聴いていると何故か胸苦しくなる。)

 

聴いてみると、上手な演奏で良い音が出ているのに、音楽に浸ることが出来なくて、今回のエルガーの交響曲への挑戦は(CDでの時に続き)壁に撥ね返される結果となった。冒頭の親しみやすい前奏が終わり主部に入ると曲のストーリーが分からなくなってしまうのである。この曲を聴くといつもこうなる。演奏会後ことのとを同伴した家族に話したら、なんと、「いい演奏だったよ。すごく上手で、聞こえてくる音を楽しんでいればそれで十分だった。」と羨ましいくらいの感想だった。私は「分かる」とか「分からない」とか、理屈で聴きすぎるのだそうで、そう言われればそうなのかもしれない。しかし何も考えずに座っていれば理解できたのだろうか、そんなことはなかったろう、とも疑う。

 

帰宅して持ち合わせのCDを聴いてみると、不思議なことに以前より分かり易くて楽しめるようになっていた。(ショルティ・ロンドンフィル)

この演奏では合奏の中からストーリーとして聴いて行くべき音が明瞭に聞こえてくる。(以前はどうしてこれが聞こえてこなかったのだろうか) これをまた聴けば今度こそ「分かる」かもしれない。きっとイレーネの演奏を聴いて「分かる」ための下地ができたのだろう。

 

演奏会最初の曲、シルビアの組曲は耳にする機会の多い素敵な旋律が次々と出て来てワクワクした。しかし会の最初のせいかミスも多かったし、合奏の中に聴くべき旋律が埋もれてしまうことも多かった。

 

次のチャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」はとても素晴らしかった。チャイコフスキーの魅力がフルスロットルでまき散らされているかのような、胸を締め付けられるような甘美さに満ちた演奏だったと思う。劇的でもあり、まるでチャイコフスキーの出来の良くて簡潔なもう一つの交響曲を聴かせていただいたように感じた。プログラムを見て分かっていたことだが、ホルンにトレーナーの下田さんが加わっていて、アマオケでネックとなることが多いこのパートがどしっとしたことも大きいはずだ。実は先般別のアマオケの演奏会で下田さんの演奏するシュトラウスのホルン協奏曲に感激したばかりであったので、プログラムに挟まれた演奏者リストを見て狂喜していたのである。突出することなくしかも美しい!

 

このオーケストラは医科学生オーケストラ(医オケ)への参加者が主体で、2014年入学者を中心に作られた楽団とのこと。医オケとは全国の医学部、看護学部などから学生が集まって練習し演奏会を行うものだそうだが、そう言われてもどんな活動なのかピンと来ない。その中から卒業後も一緒にやって行こうという趣旨のイレーネなのだと思う。たっぷり過ぎるほどの参加者で出発したこの楽団。5年10年経ったらどう変わっていくのか、興味の湧くところである。

かなり前になったが、標記オーケストラの第45回定期演奏会を聴きにサンパール荒川に行ってきた。全く初めて行く演奏会場であり、千代田線町屋駅から都電荒川線沿いに15分ほど歩いて到着。

一曲目のブルックナーの序曲ト短調は習作とは言ってもブルックナーらしからぬ曲であることに違いはなく、楽しめずに終了。

二番目にはローエングリンから数曲が抜粋されて演奏された。第三幕への前奏曲、婚礼の合唱と続くといかにも「いいとこ取り」的に感じられた。ローエングリンって一度全部を観たことがあるけれど、こういう親しみやすい部分はありながらも、全体としては地味な作品だったような記憶がある。そして最後に終幕のクライマックス部分と思われるところが比較的長時間演奏されて終わった。この曲は重めであり、このステージのバランスを悪くしていたようだった。

 

そうは言ってもしっかりとした演奏であり、最後のブルックナー4番はどうなるのかとワクワクした。

 

それなのに4番が始まってしばらくの間演奏に乗れなくて、もしかすると終わるまで我慢の演奏会になるのか、と心配になった。これは第二楽章が始まるとすぐに演奏に引き込まれて最後まで堪能できたのだから杞憂だったのだが、どうしてそれまで演奏に引き込まれなかったのか、がいつになっても自分で理解できず、感想も書けなかったのである。

 

これは今になっても分かっていない。恐らく会場の音響が比較的デッドであったことが原因だろう。しかし私自身に問題があって演奏に集中できなかったのかもしれない。

 

しかし、普通であればブルックナー4番をやるのであれば一曲だけ、或いは軽い序曲を組み合わせる程度であるのに、かなり重い二曲を組んだ自信は普通ではない。プログラムにはこのことに付いて「安心してください。フロイデですよ。」と書いてあった。結果はそれを裏切らぬものであったのだからお見事だ。

 

最後にプログラムのブルックナー4番の解説の最後に書かれていた「ホルン子」さんの呼びかけを紹介したい。

「みんな、さぞかし目立つ金管は楽しいのだろうと思っているようですが、きついです。美しく壮大な音楽はきついです。頑張ってます。どうか、、、応援してください。。」

 

プロの楽団員であれば決して口にしないであろうこういう言葉が出てくるのって、アマチュアならではなのだろうし、聴衆として音楽に参加させてもらっている私としては、とてもありがたい招き入れに感じられた。もちろん私はアマオケを聴くとき、いつでも応援しながら聴いている。

先日、大好きな交響曲第3番「英雄」を聴きたくて行ったアマチュアオーケストラの演奏会でのこと。

 

ホルンの活躍する第3楽章のトリオが、結構楽しめる演奏で経過したあと、快活なスケルツォがぐぐっと盛り上がって終わろうかという場面でそれは起きた。嵐を連想させるような終楽章の出だしに直結するための、とても大事な部分である。その場所で何と! ホルン群が数小節早くエンディングの咆哮をし始めてしまったのである。

 

私はあっと息を呑んで「まずい」と思い、成り行きを見守った。案の定、ホルンはエンディングを吹き終えたが、オーケストラはさらに数秒演奏を続けて終わった。

 

指揮者は(たぶん予定していた通り)間髪を入れずに終楽章を振り始め、オーケストラはめげることなくそれに応え、終楽章を演奏しきった。何か事件が起こっても演奏を中断することなく弾き切るのが鉄則なのだから、この経過は普通の成り行きだったのだろう。終楽章ではさしたる破綻が発生することは無かった。結構上手なアマオケだなと思ったし、それにしても「英雄」ってのはアマチュアが弾き切るには大変な曲なのだ、とも実感した。

 

さてアンコールは?

 

舞台袖から何人かの奏者が入場してきたのを見ると、何か「英雄」とは編成の違う曲をアンコールとして演奏するように思えた。

しかし指揮者が団員に話し掛けていて、始まるまでにかなり時間が掛かった。そして演奏が始まると、なんと!曲は「英雄」の第3楽章なのだった。そうか、指揮者は失敗した個所をもう一度やってリベンジしようとしてるんだ。こうすれば失敗した奏者たちだって多少は気が晴れて演奏会を終えることができるだろう。これがこの時私が考えたことだった。

さて、この演奏は開始間もなく一旦中断されてしまう。指揮者から「あまりにも揃っていないのでやり直します。」と説明があった。要するに、舞台上での突然の予定変更だったので、演奏する方の準備が不十分だったのだろう。現場はかなり混乱しただろうが、その後は滞りなく演奏は進んで、問題の個所を正しく演奏して第3楽章を終えることができた。

 

本来予定されていたアンコールはハンガリアンダンスの第1番で、こちらはとてもこなれた演奏を聴かせていただいた。深い哀愁を湛えた良い響きの演奏だったと思う。

 

それにしても、である。指揮者の示したあの咄嗟の判断は正しかったのだろうか。もしかしたら、入場料を取る演奏会だったゆえに、してしまったミスを許容せざるものと感じてもう一度演奏することに決めたのだろうか。あれは済んでしまったことだと考えて流した方が良かったかもしれない。団員はどう考えただろうか。等々。その夜トイレに起きたあと横になって考え始めたら、眠れなくなってしまった。

3月4日(日)、他の演奏会のプラグラムに挟み込まれていたチラシを見てトッパンホールに聴きに行った。演目はハイドンの第39番、R.シュトラウスのホルン協奏曲第1番、モーツアルトの第39番。

 

ハイドンの39番(ト短調)はプログラムによるとモーツアルトの25番との関連が見られると書いてあって、聴いていると確かにモーツアルトの25番とよく似た響きが聞こえてくる部分があった。それで気になって、帰宅後年代的な位置関係を調べてみたら、この曲は1732年生まれのハイドンが1768年に作曲した曲であり、モーツアルトはこの当時12歳くらい、モーツアルトが25番を作曲したのは1773年だから、モーツアルトのほうが影響を受けたらしい。ハイドンは晩年、早逝したモーツアルトが遺した交響曲の影響を受けた、とどこかで読んだことがあるので、この二人の関係史を探って行ったら面白そうだ。一度新作として演奏された曲が再演されることは少なかったと聞く当時に、二人が相手の曲をどのようにして知りえたのかも知りたくなった。

 

ハイドンの交響曲には目のない私なので楽しんで聴かせていただいたが、なぜか、全体的にどういうあらすじの曲なのか、聞こえるべき声部が特定しにくいまま終わってしまった。

 

シュトラウスは独奏者の妙技を堪能。以前FMから流れてくるシュトラウスのホルン協奏曲を聴いた時には、後期ロマン派の屈折した曲、との印象を受けたけれど、この日の曲は、若い頃の曲であるためか、彼にしては保守的と思われる古典派風の曲であり、分かり易くてとても楽しめた。いやー、ホルンっていいですね。たった5mほどしか離れていない場所で吹いているのに、目を閉じるとその10mくらい後ろから聞こえてくるような、そういう感じが良く分かった。ホルン奏者にとってこういう曲があるということは恵まれていると思う。良い独奏曲、協奏曲が残されていない楽器の奏者は損をしていると思う。

 

一番楽しみにしていたモーツアルトは意外にも楽しめなかった。やはり楽器間のバランス? 外声部と内声部のバランス? 達者ぞろいの管楽器の奮闘にもかかわらず、わいわいやっているうちに終わってしまった感じだった。

昨日は珍しく平日の夜の珍しい場所(台東区生涯学習センター・ミレニアムホール)での演奏会へ。

演目にモーツアルトのフルートとハープのための協奏曲と「ジュピター」があったから。

ウェブで調べたところ、この楽団は東大フィルハーモニーの団員有志が2013年に設立したとのこと。普段の活動では取り上げられるチャンスの少ない曲をやりたい、との趣旨で「B面」という楽団名にしたそうだ。

会場は客席が300。客の入りはその6割くらいだったように見えた。

 

一曲目のフォーレ「エレジー」のチェロ独奏は母体大学大学院生。オケのせいなのか指揮者なのか分からないけど、表(客)に届くべき音がどれなのか、聴いていて良く分からなかった。かなり聴き慣れたメロディーが出てくる曲であるのに、気難しく感じられた。

 

二曲目はジョリヴェのフルートと弦楽のための協奏曲。藝大生ソリストの安定した吹きぶりもあり、楽しめた。

三曲目のドビュッシーの小組曲はあまりドビュッシーらしくない響きの曲に思えた。

 

フルートとハープ協奏曲ではやはり藝大生ハープ奏者が加わる。たまたま座った席がハープの音の良く届く方向だったのか、この曲で慣れ親しんでいた響きよりも遥かにハープが良く聴こえてきて、「あれっ?、音が抜けたのでは?」というような個所も含め、ピチピチパチパチと響くハープの音色を堪能できたし、ハープパートの方がフルートパートより演奏が大変かもしれないな、と思ったりしながら十分楽しんだ。中間楽章終盤のカデンツァでの表現力、良かったなー。

 

ジュピターではどこと言って劣るパートが無い演奏で凄いなーと感じつつも、何となく曲が経過していってしまう感じも持った。それでも終楽章のラストには白熱し、すごい迫力の大団円。

 

モーツアルトの二曲の演奏ではチェロ以外の団員は椅子を置かず立っての演奏で、そういうスタイルで演奏する室内オケがあったなあ、と思ったものの、ジュピターで参加団員が増えると舞台が狭くなり、これはスペース的に椅子を置けないからこうなったのではないかと思うようになった。平日の夜、こじんまりした会場、というこの日の演奏会を見ると、こうも数多あるアマオケって、演奏会会場の確保にも苦労しているのだろうな、と思いやられた。

そんな小さな会場の狭い舞台ではあったけど、天井が高く、反響が比較的デッドだったので、うるさく感じるようなことは無かった。

今日は都内で「復活」を聴くオプションもあったけど、モーツアルトの「パリ」とベートーベンの2番を聴けるレベックアンサンブル東京の第2回定期演奏会を選択した。会場は新浦安駅からすぐの浦安音楽ホールのコンサートホール。室内楽用のこじんまりしたホールで残響が長く残る。去年オープンしたばかりの新しい施設だそうだ。

 

最初のイドメネオ序曲はあまりじっくり聴いたことのない曲であるが、賑やかさがあって良かった。

 

その次のモーツアルトの31番「パリ」は期待を上回る演奏でワクワクしながら聴いた。聴きに来て良かった、と強く思いながら聴いた。

 

ベートーベンの2番も快調に始まって、こちらも大いに楽しめそうだぞ、と思ったものの、楽団の出す音量がホールの器より大きかったようで、強音のトゥッティになると弦の音が金管に掻き消されてしまっていて、これは残念だった。室内管弦楽団くらいの規模の楽団であるから、当初、丁度よいサイズのホールだなと思ったのだけれど、少人数の楽団の割りには出すボリュームが大きかった。

 

楽団の成り立ちは分からないけど、各パートがしっかり弾けていて、表現力も安定性も兼ね備えているようで、凄いと思った。それでも純然たるアマチュアオーケストラのようだ。この辺りの情報や活動状況は楽団のウェブサイトで読めるのが嬉しい。

 

小さなホールでありながら客の入りは半分にも達していなかった。良い演奏会だったのにもったいないことである。

ブルックナーの1番を聴けると知り、昨日は、練馬文化センターの霞ヶ関フィルハーモニー管弦楽団第18回定期演奏会へ。

あまり演奏される機会が無い曲だそうだが、実際に聴いてみると確かに良さが良く分からない曲であり、これであればそうそう頻繁に演奏されないだろうと思えた。実は家にあるスクロヴァチェフスキーの全集で一度は聴いたことがあるのだけれど、その時にも「また聴こうとは思わないな」と思った曲だ。今回生演奏で聴いても、特に第一、第二楽章では、自分がこの曲のどういう部分に居るのかが分からなくなって途方に暮れた。(第三、第4楽章はリズムが明確になり少し分かり易くなった。)

プログラムの解説で少し触れられていたが、ブルックナーの交響曲と言われて音楽ファンが想像するブルックナーとはちょっと違っていて、まだ作曲家本来の特徴がはっきり現れていない感じだった。特に第4楽章で第一ヴァイオリンが鳴らし続ける細かなパッセージは、音型は全く違うけれどもシューベルトのザ・グレートの第4楽章の3連符の連続を思い起こさせるヴァイオリンの使い方だった。

 

他の演目はフィガロの結婚序曲とブラームスのハイドンの主題による変奏曲で、こちらのほうは十分楽しませていただいた。

 

さて気になる楽団の生い立ちであるが、HPとプログラムから分かるのは2004年に発足したということと、特に母体となる団体や学生オケは無いということ、20代から60代の団員で構成されているということまでで、「霞ヶ関」が官庁街の霞ヶ関なのか、東武東上線の霞ヶ関なのかは分からない。実際の舞台上の方々はみな若い年代の人たちばかりに見えた。

 

もうひとつ私がいつも気になるのは賛助出演者の数。こちらのほうは他のアマオケの場合より少ない人数だった。これなら普段から充実した練習ができるかもしれない。でもコントラバスは全員(4名)賛助だった。

本のタイトルは「フランツ・リストを聴いてなぜ女たちは失神したのか」に変えた方が本の内容に即しているだろう。しかしいずれにせよこの本は、リストのピアノ演奏を聴いて失神までしてしまう女性がいた、という事柄をエピソードの一つとして書いているが、全体的にはリストの生涯を概観したものだった。著者は世の中にショパンに関する本は数多あるのにリストに関する本はほとんどないことに違和感を覚えてこの本を書いたそうである。

 

とても読みやすい文章だし、リストに付いての知識をまとめて得られるという意味でも、クラシック音楽に興味のある方々にお勧めの本だと思った。

 

ツェルニーの弟子、ということはベートーベンの孫弟子であるリストは、当時演奏不可能と思われていたベートーベンの「ハンマークラフィア」を演奏してその魅力を広めるなど、晩年はダメになってわけの分からない音楽しか作れなくなったと思われていたベートーベンの真価をのちの世に伝える功績があったそうだ。そう言えばベートーベンの交響曲をピアノ独奏用に編曲し、ヨーロッパ各地で演奏して紹介したリストであった。

 

ショパンとの交流譚は読んでいてワクワクした。

娘も介在したワーグナーとの交流を読めるのも魅力だ。

但し彼とシューマンのやり取りはあまり出てこなかった。

 

天才ピアニスト、超絶技巧、と聞くと高慢な男を想像していたが、演奏活動を止めたあと積極的に若いピアニストをサポートするなど、立派なお方であったことも知ることができた。

 

惜しむらくはリストの音楽を楽しむ勘所と言うか、超有名な数曲以外で数多く残されている彼の作品を楽しむためのヒント、これを読み取ることができなかった。恥ずかしながらリストの音楽を聴いてもあまりピンと来ない私なので、これは残念な点だった。

深海探査の最前線を垣間見られる本と思って読んだが、中身は著者が大学院で研究を始めてから現在の独立行政法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)で研究するに至るまでの、研究者としての生い立ちを振り返る、という、高井研青春篇とでも呼べそうな本だった。400ページ近い分厚い本だが、試しに本をめくってみるとポップ調の軽い文章だった。であれば簡単に読めるだろうと思ったのだけれど、そのポップ調がくせもので、これを年齢的に解せない私が読み終えるのは大変なことだった。

 

著者が深海について研究している内容はたぶん興味のある分野なのに、そういう内容についての記述は少なかった。それに関しては前著「生命はなぜ生まれたのか - 地球生物の起源の謎に迫る」(幻冬舎新書)を読まないと分からないようになっているようだ。

今日は三鷹で開かれるモーツアルト(35&41)の演奏会を聴きに行くことを考えていたのだけれど、墨東地区の住民として昨日の荻窪に続いて今日三鷹では遠いし、駅からかなりの距離だし、夜の演奏会が終わって帰宅すると23時近くなるのは寒い中堪えるなあ、と思いが巡って結局止めにした。

 

それで、他にないかなと溜まっているチラシを見て、東京芸術劇場で行われるこの演奏会に決めた。バルトークの管弦楽のための協奏曲が聴けるからだ。これをメインに、リストのハンガリー狂詩曲第2番とコダーイの「孔雀は飛んだ」による変奏曲もやるハンガリー音楽に焦点を当てた演奏会だ。しかも60歳以上は招待とする、との大盤振る舞い付きである。しかしオーケストラ ハモン? どういう団体なのだろう。全く分からない。これに関してはプログラムやウェブサイトを見ても依然として不明のままである。

 

しかしどんな演奏をするのかは演奏会が始まって1分もしないうちにすぐ分かった。素晴らしいのだ。音色も音楽性も。

 

最初のハンガリアン・ラプソディーは我が実家にSPレコードがあって、初めて好きになったクラシック音楽。何度かメディアから流れてくるのを聞いて、昔はどうしてあんなに夢中になったのだろうと首をかしげたものだが、今日の演奏は素晴らしく、コレハ名演ダ!と喜び、演奏後一生懸命拍手した。

 

コダーイも良い演奏で嬉しかったが、私の頭の受け入れ能力が足りない感じでもあった。

 

バルトークには感激した。こういう演奏で生で聴けるなんて何とラッキーだったのだろう。何と素晴らしい曲なのだろう。今日は家でゆっくりする、という選択もあり得たことを考えると、池袋まで出掛けて来て本当に良かったと思った。

 

オーケストラハモンのホームページの情報を見ると自分たちはアマチュアオーケストラだと言ってるけど、どういう人たちなのだろう。年に2回の演奏会を基本としているのだから、確かにこれで食っている団体ではないだろうけど、音楽の専門教育を受けた方々の楽団なのだろうか。今日の演奏会はプロのコンサートのハズレの会よりずうっと上を行っていたと思う。