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takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

昨日は、前回の演奏会でマーラー5番を聴き、凄いなー、上手いなー、と驚いたOB交響楽団の第195回定期演奏会を聴きに行った。曲はフィガロ序曲とブルックナーの8番。

 

私は「混む」と予想したので早めに出掛けた。開場間もなく入場したら意外に空いていたけど、開演時には7~8割の入りだったろうか。

 

さて、開演前というのは聴衆にとっても演奏会にのめり込んでいくための準備をする時間だろう。しかし今日はこの段階が上手く行かなかった。

今日は丁度その時間にピョンチャンで羽生結弦がフリーを滑る時間帯だったのだ。近くに座った男性二人が、たぶんスマホで実況中継を見ていて、誰が転んだ、誰が上手く滑っている、と喋っており、この競技を自宅のビデオに録画セットしている私は両耳を手で塞ぎ、余計な情報が入らぬよう懸命の努力をした。

 

男性の観戦会話は開園5分前のアナウンスの時まで続き、今回の演奏会に関しては心の準備ができないまま開演してしまった。

 

フィガロ序曲は普通に聴き終わり、休憩なしでブルックナーの8番に入る。この曲は一昨年NHKのクラシック音楽館で再放送されたスクロヴァチェフスキ・読響の演奏で感激し、私がブルックナーの良さに開眼した思い出の曲だ。しかしこの日はなぜか集中できず、曲に浸れなかった。そうすると長大な交響曲がますます長く感じられて、終わるのを待つことになった。

 

なぜ集中できなかったのか。やはり開演直前までフィギュアスケート競技が気になったことが原因か。或いは自身の体調の問題か。演奏はアマチュアとしては素晴らしい音響を作り上げていたのだが、多少単調だったのだろうか。聴き疲れする演奏だったのかもしれない。

 

この日は長い曲を休憩なしで聴くのが分かっていたので、朝食後は水分摂取を控えていた。それでも心配で、やむを得ない場合に逃げ出しやすくするため、通路に接する席に座って聴いた。幸いにも私に問題は起きなかったが、曲の後半になるとポチポチと席を立つ高齢者が出ていた。私の関知する限り3名。数か月前に他の演奏会で私自身も選択せざるを得なくなった行動なので、どんなに「誠に誠に不本意ながら、せざるを得ない」気持ちで席を立ったか、思いやられる。いろいろ問題はあるだろうけど、演奏途中での休憩って、あると助かるんだけどなー

昨日は杉並公会堂で合奏団ZEROでマーラーの9番を聴いてきた。指揮は松岡究。

都内のアマオケの有志で結成されたそうだ。団の名は変わっているが演奏はオーソドックス。あてにならないと思うけど、私の耳にはじっくりと直球勝負、という演奏に聞こえた。

 

一階しか見ていないけれど、客の入りが良く、満員に近かったのではないだろうか。(オケの後方の見物席は開けなかったようだ)

 

出だしだけ不安定に聞こえ、あれっ?と思ったがすぐに調子を出し、安定した高い技術で、どっぷりとマーラーに浸れる幸福な時間と空間を作り出していただいた。これだけのレベルになると、聴いていてアマとかプロとか考えなくなる。マーラーの要求する変な音も見事に鳴り響いていたし、普段はあまり馴染みのない楽器も合奏に埋もれることなくちゃんと聞こえていた。さすが生演奏は良い!(恥ずかしながら9番を生で聴くのは初体験だった) R.シュトラウスを連想させるような音響に時代性を感じることもできた。

 

まあ、ちょっと長いけれど、それは分かって聴いているのだから仕方がない。

 

アマチュアがマーラーを演奏しきると、私などはそのことだけで「よくぞ弾ききったなあ」と感激してしまうのだが、今回は何か当たり前のように演奏していたのでそういうのは無かった。大感激と呼べる音楽的ショックを受けたわけではないけれど、あの超複雑なトゥッティを各自がしっかりと役目を果たしつつ懸命に演奏しているのを見ると、とても強い感情を抱いた。「マーラーって凄いなあ。」、「こんなめくるめくサウンドとリズムの渦の中で演奏できるなんて羨ましいなあ。」、「演奏してる人たちはパートごとに違う音響に囲まれているのだが、どんな音場に居るのだろう。」、などなど。

 

消え入るようなエンディングでは、自分のエンディングもこうであったらと願いたくなった。

次回は8月18日、ブラームスのV協と2番とのこと。これはパスさせて頂くことになりそう。

いつもであれば、前に聴きに行った演奏会でもらったチラシを見て次の演奏会に行くのだけれど、今回は違った。2月4日のチラシは手元に無かったけれども、何かこの日に聴けるのは無いかなとウェブで検索したら、「i-Amabile」というサイトを見つけた。カレンダーが表示され、そこの任意の日付をクリックするとその日の演奏会が(全部ではないのだろうが)表示されるサイトである。そして2月4日をクリックするとグローバル・フィルハーモニック・オーケストラ第59回定期演奏会というのが表示された。この日は週末であるのに他の演奏会は少なかったように記憶している。演目はシベリウスの1番と7番で、その2曲の間にグリーグの抒情組曲が挟まれていた。指揮は新田ユリ、会場はすみだトリフォニーホールで入場料2000円だった。

 

どこが良いのか未だに良く分からないでいるシベリウスを新田ユリの指揮で二曲も聴ける。これは魅力だ。どんな楽団なのか、楽団のウェブで調べると、J.J.カントロフや佐藤しのぶと共演した実績があり、渡欧公演を数回実行している。なぜ海外に行くのかは分からないけれど、上手いから実現できたのだろう。団の結成は1981年。静岡県オペラ協会主催の公演参加のために結成されたとのこと。

で、実際の演奏は本当に上手だった。穴となるようなパートは無く、必要なところで音が外れたり抜けてしまうようなことも無いようだった。ひょっとするとアマチュアではないのじゃないか、と思ったくらいだ。でもプログラムにはアマチュアだと書いてある。出演者のリストを見ても確かに賛助出演者が結構居る。それにしても安定した綺麗な音が出ていて、良く響いていた。

 

そうであっても私はシベリウスを十分楽しめなかった。第1番の方は何回か聴いたことのあるフレーズがあり、楽章が分かれているので自分が曲のどの辺りに居るのか理解して聴けたのだが、楽しめてはいなかった。第7番の方は楽章の切れ目もなく、自分がどの辺に居るのか全然分からない。やたらもごもごしていて見通しが悪い。いつになったらすっきりとして動き始めるんだ、と思っていたら、突然クライマックスらしき盛り上がりになって終わってしまった。今後はCDやメディアを通じてもっと慣れ、良さが分かってから演奏会に出掛けるほうが得策のように思える。

 

この二曲に挟まれて演奏されたグリーグの抒情組曲は分かり易くて、しっとりした佳品に思われたが、演奏会全体の印象を変えるほどのインパクトは無く、同じ北欧の作曲家の作品であってもシベリウスの間に置かれてしっくりなじむ作品でもなかったと思う。

 

 

単純に言うと、「東京オリンピック後のクラシック音楽団体を取り巻く環境は厳しくなるだろう。」という内容の評論記事だった。大正・昭和から綿々と続く「西欧クラシック音楽大事!」の社会観の系譜を誠にそつなく一覧しながら、オリンピック後は外部からの経済的援助が減らされるだろうし、演奏会の聴衆の大部分を占めるのは高齢層だし、で、クラシック音楽の先行きは厳しいと思うよ、という内容。理路整然と自分の見解を短い文章で言い表していて、読みやすく面白かった。筆者はクラシック界の未来、と言い表しているが、ここで取り上げられているのはクラシック音楽業界のことだろう。そう言われてみるとそうなのかなと思ってしまう。クラシック音楽はすでに社会に定着した趣味であるから、縮小しながらも生き残っていくと信じたい、として文章を終えている。

 

しかしながら、ここ一年ほどアマチュアオーケストラの演奏会を追いかけてきた私としては、著者の見解に少々違和感を覚える。少なくとも東京とその周辺においては、「演奏を楽しむ」という意味での音楽家の層はひと昔前に比べ分厚くなっていると思うからだ。そういう奏者の方々は若い人が多く、演奏家であると同時に、素晴らしい演奏を求めて音楽会に通う聴衆でもあるだろう。これを支えるトレーナーや指揮者の需要もますます増えていくだろう。地方ではどうなっているのか知らないけれど、この傾向は地方都市にも広がるだろう。

 

音楽の専門教育を受けた人は毎年社会に出てくる。プロの音楽家、例えばプロのオーケストラは乱立気味であり、産業としての音楽界は著者の言うように厳しくなるのだろうけれど、文化としての西欧クラシック音楽は結構深く根を下ろしており、揺るがないような気がするのだが。

日本語副題: 奇跡的な航海が生んだ進化史

原題: The Monkey's Voyage

原副題: How Inprobable Journeys Shaped the History of Life

 

現代の地球における生物の分布の由来に関し、大陸が分離してその間が大洋に隔てられてしまったら、種を飛ばしたり海に漂わせたり、はたまた種が鳥の羽や足などに引っ付いて海を越えられる可能性のある植物はさて置き、サルをはじめとする泳いで(或いは漂って)大海を越えられないと考えられる動物は、分離したそれぞれの大陸で独自の進化をするしかなかった。こう考えるのが分離分布の考え方である。しかしそれに対し、現在の生物に鑑みると、大陸の分離後も生物は海を渡って生活域を広げてきたと考えざるを得ない、と考える遠隔分散説があって、現在に至る半世紀以上を論争に費やしてきたと言う。

 

著者はその論争の歴史を、エポックメーキングな発見を段階を踏んで教えてくれる。その中で、北半球に暮らす私には縁遠かったゴンドワナ大陸のこと、それが分裂して南アメリカ、アフリカ、インド、オーストラリア、ジーランディア、南極大陸となったこと、などが語られており、面白かった。そして現代における研究ではDNAの塩基配列分析が非常に重要になっており、これを通して見えてきた太古の生物分散の姿は驚きであった。いわゆる泳げない動物でも大洋を渡ったと考えざるを得ないのだそうである。具体的にどのように、という証拠はないけれど、そういうことが起きる可能性を示唆する事象が幾つか紹介されていた。ほぼ不可能と考えられるような大洋を越える分散も、数百万年というスパンで考えれば数度くらい起こる可能性がある、というのが著者の言うところ。洪水で川に流された大量の樹木が筏代わりとなって海を漂い、そこにたまたま乗っていた生物のうちごく僅かが漂着先まで生き残って、、、と考えるのだそうだ。

 

一般向けの書籍ではあるが、論争している生物学者仲間をかなり意識して書き進めているのは明らかであり、そういう仲間内な、専門的な内容の本であるように思えた。400ページを越える長さと、普通の日本語では考えられないような構文を「翻訳」せずに残した訳文に嫌気がさし、何度も通読を放棄しようと思ったのだが、大陸移動の話とDNA分析の話に救われて通読に至った。こういう分野に特に興味がある人が読んだらとてもためになりそうな本だ。

日本語副題: 5つの教育大国に学ぶ成功の秘密

原題: CLEVERLANDS  The Secrets Behind The Success of the world's Education Superpowers

 

書名は日本語版の販売を伸ばすための販促書名であり、副題がこの本の内容に近い。

 

ロンドンの貧困地区の総合中学校で教師をつとめた著者は、自分の生徒が望む進路には教育制度のせいでもはや進めないという現実に苦しむ。その生徒がすでに教育制度上の「振り分け」(進むコースの決定)を通り過ぎているからだった。貧困地区の学校の教師として、教育の平等性、公平性に疑問を抱き、矛盾を感じる日々を送った。

 

そこで彼女は、他の国ではこういう問題にどう対処しているのかを調べたくなり、PISAと呼ばれる国際テストで好成績を上げている5か国(フィンランド、日本、シンガポール、中国、カナダ)に赴き、飛び込み的に調査をする。そしてその良いところ、悪いところを出来るだけ客観的に評価して、どういう教育が自分たちにとり理想的なのかを考えている。

 

西欧ではPISAで好成績をあげている東アジアの子供たちを「無理やり勉強させられて可哀そうな子供たち」と捉えているらしいが、実際にはそうとも言えないのだ、と言っているところが面白かった。能力別クラス編成の是非、暗記学習の功罪についての考察も興味深かった。

 

読み始めは読みやすい訳文だと思っていたのだが、中盤以降は直訳のような読みにくい日本語に苦しめられた。

 

さあて感想文はどうしようかな、書けないかな、などと考えつつ読み進むと、最後に苅谷剛彦(オックスフォード大学教授)の解説があって、これが良く内容を要約している素晴らしいまとめなのだった。要点はこれを読めば手早く分かる。しかしこれを読んでも著者がどういう調査をし、具体的にどういうことを考えたか、までは分からない。私は教育に携わるものではないので、読みにくいと感じた時点で通読を放棄しても構わなかったかもしれないのだけれど、教育に携わる方々には是非通読をお勧めする一冊だ。

労災病院で働く人の楽団かと思ったらそうでもなさそうだった。大震災後の2011年9月から活動開始。東京労災病院を練習拠点としている、とプログラムに書いてあるけど、それ以上の情報は不明。演奏はアマチュアの響きの団体だった。プログラムの楽団紹介欄には、弦楽器のメンバーは初心者から経験者まで幅広いと書いてあったから純然たるアマオケだろう(セミプロが居ないか、居ても極く少数、という意味で)。ヴァイオリンパートの半分近くは賛助出演者、弦の中低音部はそれ以上に賛助出演に頼っており、演奏会直前以外という意味での平素の練習でどんな音が出ているのかなあと思った。私は全くのやじ馬というか、好きな曲を気軽に聴きに行ける機会と捉え、聴衆に加わらせて頂いているだけなので分かりようがないのだけれど、賛助出演者ってどんな人たちなのか、とても興味がある。付き合いのあるアマチュアオーケストラから来てもらっているのか、或いは(在るのか無いのかは知らないけれど)引き受け業にお願いしているのか。これほどの数の人に参加してもらえば、楽団全体の響きは賛助の力量で随分と変わるだろう。

 

演目はシューベルトの3番とベートーベンの7番。私は後者がどんな風に演奏されるのかを聴きたかったので、会場(江東区文化センター)が近いことにも背を押されてお邪魔した。

 

江東文化センターのホールはうん十年前にタチアナ・ニコラーエワのリサイタルを聴いた懐かしの会場だ。今回は早めに行き良さそうな席に陣取れたので、会場の響き方を改めて体験できたのだが、最近あちこち聴き回ったのと比べると、かなりデッドな会場に思えた。

 

シューベルト3は聴いてみると数度メディアを通して聴いた覚えのある曲だったが、特に感銘を受けなかった。

しかしベートーベンの7番は大いに楽しんだ。この曲は大好きなベートーベンの交響曲の中では普段敬遠気味の曲。それをアマチュアオーケストラで聴くと、「次のソロは大丈夫かな?」と考えながら聴くのでスリルがあり、この日のように概ね全体的に達成されると、「やったね、良かったー!」と嬉しくなるのである。前週、三鷹でジュピターを聴いた時の感想でも書いたように、楽団の熱意と曲の演奏難度が競い合っているようであり、舞台上の熱気と言うか、白熱感が曲の魅力を引き出しているようだった。

 

演奏会がはねてホールを出ると、どこからともなく綺麗な音色のブルックナーが聞こえてきたので驚いた。ホールから通りに出る通路の脇に音楽練習室があり、他の団体がブルックナーの4番を練習をしているのだった。なんと豊かな空間なのだろうか。できればその練習も立ち聞きしていたいくらいだったけれど、夜も更けるし腹も減ったし、で、通り過ぎたのでありました。

1月28日(日)は三鷹市芸術文化センターでAbendstern Chamber Orchestraの第12回定期演奏会を聴いた。プログラムによると明星学園アンサンブル部の卒業生を中心にして結成され、その後メンバーに広がりが出て来ている楽団とのこと。Abendsternはドイツ語で明星という意味だとプログラムは説明してるけど、「宵の明星」乃至は「夕星」のことでしょう!

 

演目はルロイ・アンダーソンのアイルランド組曲とヴィヴァルディの弦楽のための協奏曲、休憩を挟んでサンサーンスのフランス軍隊行進曲とモーツアルトの「ジュピター」。

 

ジュピターの印象がとても強かったので、もはやアイルランド組曲とフランス軍隊行進曲がどうだったかよく思い出せない。なかなか楽し気な演奏だっただろうか。ここのところアマチュアと言っても玄人はだしの演奏を立て続けに聴いてきたので、久しぶりに私が思うようなアマチュアらしい音を出す楽団を聴いた、と思った。

 

ヴィヴァルディの演奏の前に前口上?があって、それはエレキギター伴奏、フルート独奏による春の海の演奏付きだった。エレキギターを使うあたりに若い人の感覚が窺われたし、結構面白い演奏になっていた。そちらに気を取られて口上がどういう話だったか頭に入らなかったけれど、、、

そして驚いたことに、エレキギターは弦楽のための協奏曲のチェンバロの代わりにも使われた。でもこちらではあまり効果を上げていなかったように聞こえた。さすがに無理なものは無理。弦楽も1stヴァイオリン以外のパートは表立つべき箇所でも「伴奏者」であり続け、全体的に精彩を欠いていたようだ。

 

さて楽しみにしていたジュピターである。一つだけ厳しいパートがあって全体の合奏が苦しげだった。メヌエット楽章の終盤では縦の線が揃わなくなり、空中分解しそうになってハッとしたけれど、何とかなった。しかし、終楽章ではそういう危機は生じなかった。ひたむきにジュピターに取り組む団員の熱意と対位法的終楽章の困難さががっぷり四つに組んで競い合い、最後に楽団がやり遂げて大団円となる。まるでクラシック音楽を舞台にした青春映画、青春ドラマが目の前で繰り広げられているようであり、実に胸に迫ってくる演奏だった。プログラムによると、ジュピターを「死ぬまでに1度は演奏したい」という団員も居ての演奏でもあったのだから、なおさら迫力を感じたのだろう。

 

正直なところジュピターってこんなに演奏するのが大変な曲だとは思っていなかったのだけれども、こういうひたむきな演奏を聴いたら、上手な人が軽々と演奏するよりもずうっとふさわしい曲に思えてきた。こういう「高み」にチャレンジができるのはアマチュアの特権と言えるかもしれないし、入場無料で練習の成果を問うのも良い形だと思った。

1月27日(土)、タワーホール船堀で「オルケストル フランセ デュ ジャポン」の第4回定期演奏会を聴いた。聴いてみたいと思ったのはメインに据えているグノーの交響曲第2番で、たぶん実際に耳にしたことのない曲。しかし聴いてみるとこれは好きになれそうもなかった。長いのは気にならないけど変化に乏しくて、うつらうつらしながら聴き終わる。前半のステージがとっても良かったのに、これは演奏会として残念な終わり方だった。

 

最初のベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」では小気味の良いテンポ感とオーケストラの音色に耳が行った。木管の響きがこれまで聴いてきたアマオケとは違う。やはりフランス音楽に長けているのだろう。コントラバスが2本と少なくて低音が軽いせいだけではなさそうだ。こういう感想は二曲目のマスネ、歌劇「ル・シッド」からのバレエ音楽でも続いた。どことなくビゼーの曲の木管の響きを連想させる音が溢れていた。

 

第一ステージの後半はソプラノ独唱が加わりオペラ・アリアが2曲。ドリーブの「鐘の歌」とオッフェンバックの「生垣に小鳥たちが」という曲だった。オペラはあまり興味ないので曲の中身も歌手も知らずに聴き始めたらびっくりした。コロラトゥーラの曲だったからだ。それもたまにメディアから流れてくる有名な曲だった。ソプラノは福田美樹子。たっぷり楽しませていただいた。そして得をしたような気分になった。

 

それにしてもしっかりした響きを出すオーケストラで、セミプロなのかなあと感じた。フランス大使館の後援も付いている。しかし奏者の約半分は賛助だし(チェロは全員賛助!?)、運営は大変そう。ウェブで見ると、フランス音楽をやりたい人たちが集まって出来た楽団とのこと。普通はプログラムに差し込まれているアンケートは無くて、それとは関係ないのだろうが、客席は1/3ほどしか埋まっていなかった。私のような飛び込みの観客にとって、どういう人たちが集まってやっているのか、を含め分からないことが多く、どことなく突き放されているかのように感じる演奏会だった。

さすがに年末ほどのラッシュではないにしろ、この時期になっても週末のアマオケのコンサートは途切れることが無くて、今日は4~5枚我が家に溜まっていたチラシの中からラスベート交響楽団第35回定期演奏会を選んで行く。曲目にベートーベンの田園が入っていたからだ。ラスベートというのはロシア語で夜明けのことだそうだ。数あるアマオケの中で特徴を出そう、とのことでロシア音楽を中心に据えているのと関連している。こういうことを含め、トロンボーン奏者でもある顧問が書いたプログラムの挨拶がとってもとっても興味深かった。幾つかの大学から現役・OBが集まって創設した楽団が一度潰れ、その後今日に至るまでの話、グラズノフチクルスを続けてきた意味、等々、非常に読み応えがあった。アマオケの演奏会のプログラムにこういう内容の一文があったらとても親しみが湧くと思うのだが、現実は「どういう経緯で集まっているのか、ということより演奏を聴いてくれ」という風にしているところがほとんどだ。

 

コンサートの直前に重めのランチを取ってしまったせいもあり、最初のマイスタージンガーの前奏曲とベートーベンの田園ではうつらうつらしてしまった。まずい、あとはグラズノフの交響曲第7番「田園」だけだ。何十年か前にチャイコフスキーの交響曲を好んだ時期はあったけれど、ここ10年ほどはロシアの交響曲を聴いて良いと思ったことは無いのだから退屈するのではないか。我慢の時間になるのではないか、と心配になった。

 

演奏が始まると即「あれっ?」と思った。聴こえてくる演奏の集中度が前の二曲とは段違いに高かったのだ。ただのクラシック音楽愛好家に過ぎないのに、自分にそんな判別能力があるとも思えないのであるけれど、たぶん全く初めて耳にする割りと複雑な作りの交響曲を、その心持ちで最後まで楽しむことができてしまった。曲は何回か聴き込まないと構造を理解できそうもない。マーラーのように黙って聴いていても存分にあちこち連れまわしてくれる曲ではなさそうであり、テーマが発展していく曲というよりは接続曲風ではあった。今後そう何回も聞かないだろうとも思うけど、グラズノフが演奏される機会が増えればそれなりに楽しめそうだ。

 

(ついでですが)この演奏会が開かれたタワーホール船堀は上に展望台があり、100m超からの眺望も楽しめました。
 眼下に船堀駅とそれを横切る船堀街道。遠くで夕日を浴びているのは荒川放水路です。