冬・『白湯(さゆ)のお酒・・』
もと警察官の彦田信義さんが、知人の或る夫婦を語られた
小さな小さなお話です・・
昭和20年8月・・永く辛い悪夢の戦争が終わった・・
日ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連軍が国境を超えて
満州に雪崩込んできた
当時兵隊としてその地に留まっていた堀川さんは、そのまま
シベリアに連行された
言羽では表すことが出来ない過酷で壮絶な捕虜収容所での
抑留生活が始まった・・
多くの戦友が厳寒の異国の地で望郷の思いを胸に宿したまま
次々と死んで逝った・・
冬はマイナス60度・・
故郷の家族との再会を夢見ながら6万人の命が雪のように
儚く溶けた・・
(もう生きて戻れる日は来ないだろう・・)
極寒はわずかな希望までも凍てつかせた・・
日本政府がアメリカを通じて捕虜の帰国事業を訴え
ようやく一筋の道が開けた・・
堀川さんにも幸いにして帰国を許される日が巡ってきた!
最長11年間の抑留を強いられた人々がいた事を思うと
まさに奇跡であった・・
(本当に帰れるのか?夢ではないのか・・)
その日まで眠れぬ夜が続いた
上陸先は舞鶴港であった・・
引揚船から夢にまで見た青い山々が見えてきた!
デッキから身を乗り出し人々は誰一人として
涙を流さぬ者はいなかった・・
「ただいま~!」
大声で何かに呼びかける者・・
「・・・・・・」
万感の思いで胸が塞がれ声が出ず、ただ泣く者・・
(ああ・・帰って来れたんだ・・俺の国に・・)
乏しい通信手段から、何とか留守宅の妻に連絡を取り翌日に
帰宅をすることを知らせる事が出来た・・
帰らぬ人と覚悟を決めていた妻の喜びは計り知れぬものが
あった・・
目には見えぬものに心から感謝の言羽を送った
(ありがとうございます・・ありがとうございます・・)
早速、夫を迎える準備に取り掛かった
切れ切れに聞こえる情報では抑留されていた人たちは
日本に戻った時には皆一様に痩せ細り、肉体的にも
精神的にも衰弱しているということだった・・
取り敢えずは美味しいものを食べさせてあげたい
妻としては自然な思いだった・・
しかし当時の日本は、あらゆる物資が不足していた
国民は皆ひとしく疲弊のさなかであった・・
万が一のこの日のためにと、僅かながら調味料と米は
蓄えてあった
野菜と魚は、ほうぼう駆けずり回り何とか手にいれた
だが酒が無い・・
夫は酒をこよなく愛する人なのだ
その地では、食事も満足に与えられなかったろう
ましてや酒を口にすることなど・・
その夫に何とか日本の酒を飲ませてあげたい・・
しかし、二日間酒を求めて走り回ったが、どうしても
手に入れる事が出来なかった・・
彦星のように待ちわびた夫が、ふたたび我が家へ
帰ってきた・・
言羽は無くただ泣くばかりであった
もう二度と触れることはないと思っていた
夫婦差し向かいの食事・・
ささやかだが妻が心を込めた手料理が
食卓に並べられた・・
だが・・酒の工面が出来なかった妻の胸中は小さく
うずくまっていた・・
苦しい思案の末「ままごと」のようにお銚子に沸かした
白湯をいれ、夫の盃に注いでやった・・
申し訳なさ・・恥ずかしさ・・情けなさ・・あらゆる感情が
芽生えて顔を伏せた
夫が喉を鳴らして幻を飲み込んだ・・
次の瞬間、おじぎ草のようにうな垂れて哀を滲ませた
妻の白いうなじに春が降ってきた
『美味しいよ・・』
はっとして顔を上げると・・
微笑みながら、大粒の涙を流す夫の姿があった
まるでシベリアで包み込まれた氷が溶けるように・・
妻は、あまりにも思いがけない言羽に何度も
頷きながら二人で泣いた・・
夫は日本に上陸して直ぐに、想像を遥かに超える
悲惨な状況を感じていた・・
妻がこの環境の中で自分の食を削り、どのような
気持ちで今日の食卓を飾ってくれたのか・・
健気な思いやりをいち早く察していた・・
どのような高価な銘酒よりも確かに今日のこの酒は
『美味しかった・・』
『美味しいよ・・』
これ以上の妻への感謝を表す言羽は他には
無かった・・
我々は本当に心から、この言羽をその人に
伝えているのだろうか・・
この夫婦が、その後の人生をどのように歩んだのか
語るべくもありません・・
僕の好きな作家、オー・ヘンリーの小説に『賢者の贈り物』と
いう短編がある
クリスマスを明日に控えているが若い貧しい夫婦には
プレゼントを買うお金がな無かった・・
夫の大事にしているものは祖父から父へ、そして自分へと
受け継がれてきた「金の懐中時計」である・・
妻の自慢できるものは美しく輝く「栗色の長い髪」
だけであった・・
夫が家の扉を開けた・・
出迎えた妻を見て驚いた
あの美しい栗色の髪が消えていたのである!
彼は哀色を宿した表情でリボンの付けられた
小箱を渡した・・
なかを開けると素敵なべっ甲櫛の二本の髪飾りであった・・
それは彼女が街へ行くたびに、子供のように覗いていた
ショーウィンドウに飾られた品物であった
夫は「懐中時計」を質屋に入れて得たお金で
それを求めたのである・・
そして妻が差し出した箱のなかは・・
光り輝くプラチナの懐中時計用の鎖であった
革の吊り紐はぼろぼろだったので、あの時計にふさわしい
ものを・・
カツラ屋に髪を売ってそれを求めた・・
二人とっては「すれ違いの贈り物」となってしまったが
失ったものは何もなく、それ以上の大切なものを
確かめあった・・
僕は幸か不幸か独身である・・(笑)
日常の夫婦の暮らしや佇まいは知る由も無い・・
ある時期、その人と一年ほど共にしたことがあるが
その感覚は覚悟や責任の重さからも別の次元の
世界なのだろう・・
夫婦の姿は一様ではない
その数だけ様々な景色が存在する・・
思いをを残しながら別れて行くもの・・
心は離れていても、ひとつ屋根の下で暮らすもの・・
理想の夫婦像があるとすれば、それは空気や水のような
存在なのだろう
普段はあまり感じることはないが、ふとした時に、限りなく
大切な存在だと気がつく・・
尽きるところ、平凡だが日々の何気ない思いやりや心遣いが
大事なのだろう・・
あの美しく汚れを知らぬような摩周湖も一年に二度、蒼緑の
透明な水が濁ることがある
春に気温が上昇して水面の温度が4度になると重くなり
湖底の水と入れ替わる時に泥も従えるのだ・・
晩秋は、その逆である・・
夫婦とは繰り返される四季の巡りなのだろう
春の温もりを感じる時もあれば、冬の寒さで心が凍てつく
こともある・・
「三寒四温」のシーソー遊びなのだ
菩提樹の花言葉は「夫婦愛」・・
ある村に仲睦まじい老夫婦が暮らしていた
二人は何時も『この世を離れるときには一緒に逝きたい
ものだ・・』と話していた
ある朝目が覚めると頭に緑の葉が芽生えていた
(その時が来たのか・・)
二人は家を出ると、仲良く手をつなぎ、どこまでも歩いた
いつしか夫は「樫の木」に
妻は「菩提樹」に姿を変えて大地に寄り添った・・
(ギリシャ神話)
冬の長さを少しだけ感じている二人・・
たまには立ち止まって、菩提樹の膝に腰を下ろし
あの時の、優しさやときめきが眠っている
「思い出のアルバム」を開いてみませんか・・
寒さで隠れていた何かが顔を覗かせるかも
知れませんよ・・
『想い・・』とは長さや量や数ではなく深さなのでしょう・・