『赤いHANA・・』  ホスピタルクラウンの風 | ビリケンのブログ

ビリケンのブログ

ブログの説明を入力します。

$ビリケンのブログ





『飢えた子供を抱いた事があるかい・・
 彼らを生み出しているのは、富と権力と私たちなのだ・・』


『人から奪い取るよりも与える方がもっと豊かな
 社会になるよ・・』


『医者としての役はすべて失ったが、同時にすべてを得た・・
 病院の患者やスタッフと時を同じくして共に笑い
 共に泣いた・・これから先の人生もそうやって
 生きて行きたい・・』



身の丈193Cm!身体も心も規格外の大男
パッチアダムスの言羽だ






$ビリケンのブログ





本名 ハンター・キャンベル・アダムス

1945年5月28日 軍人の父と教師の母の次男として
ワシントンDCに生を受ける

笑いが心をほぐし患者の免疫力をあげるという精神的な
治療法を提唱し実践した「クラウンドクター」である


クラウンとはもちろん王冠のことではない
(田舎者・おどけ者)と云う道化師の意味である

ピエロは何も喋らずパントマイムだけで心を伝える・・
クラウンの中のひとつの役回りに過ぎない


ハンターがまだ誰も足跡を付けていないこの道を選んだのは
彼自身が病み人だったのだ・・


軍人であった父の仕事の影響で幼い頃は世界各国で暮らし
た・・ドイツで7年・日本(横浜)で三年
後に彼自身が語るように物怖じしない明るい性格は異国での
様々な体験で身に付いたものなのだ


だが目に見えぬ深いところでは病みの塊が次第に
膨れ上がっていた・・

16歳・・ようやく心が通じ合った父が心臓麻痺で
あっけなく自分から離れた・・

大学に進学したと同時に恋人にに別れを告げられた・・

さらには父親代わりの敬愛していた伯父の自殺・・

なんの希望もなくなり大学にも行かなくなった
自殺願望の声だけがどこからともなく
聞こえてくる・・

ある日、大学の近くにある「恋人の断崖」と呼ばれる崖に
よじ登り腰を下ろして恋人だったドナに捧げる詩を
書き始めた・・

何もかもが空虚(うつろ)であった・・

何かが彼を求めていたのだろうか
背中を押す力よりも押し戻す力のほうが少しだけ強かった

崖を降りるとバスに乗り雪の中を10キロも歩いて我が家に
辿りついた・・

母がドアを開けると静かに伝えた

『ずっと自殺しようと考えてるんだ・・母さん・・

 僕を精神病院に入れたほうがいいよ・・』


(その二人・・)


同室のルーディは三回の結婚をして十五の職業を経験
している・・
そして今は孤独と絶望の海でもがいていた
見舞い客は一人も訪れなかった・・

彼は泣きながら成し得なかった夢や孤独をハンターに語った

その姿に触れて(彼は精神を病んでいるのではない・・
ただ孤独でほんの少し弱いだけなのだ・・)と感じていた

ルーディには「凶暴なリス」の幻覚が頻繁に見える・・
それが現れるとパニック状態になりガタガタ震えて
何も出来無くなってしまう

ある日トイレに行こうとした瞬間にそれが訪れた!

強風のなかの木の葉のように震えだした!

その瞬間ハンターは無意識のうちに叫んでいた!

「大丈夫だルーディ!僕が追い払ってやる!」

迫真の演技で幻を消した

「もう大丈夫だルーディ・・早くトイレに行けよ・・」

安心してトイレに向かう後ろ姿を見ていると、今まで
経験したことのない未知の喜びが身体を突き抜けた!

(人を助けるとは自分自身もこんなに嬉しいことなのか・・)

この瞬間、自分が歩むべき道が鮮やかに目の前に開けた・・



個室のアーサーは資産家の数学者で、表向きは人生の
成功者である

ハンターと同じく自らの意思でここを訪れた
いつ遊びに行っても高度な数式を解く作業に没頭していた
哲学者の雰囲気をまとうアーサーは「天才型の患者」であった・・

彼は言う・・

『既成概念や、くだらん見栄を捨てて世界を見直せば
 毎日が発見だ・・』

ある時、コーヒーが満たされたアーサーの紙コップに
穴が開いてしまった・・
ハンターは絆創膏で塞いでやった

『絆創膏で継ぎ(パッチ)か・・お前は今日からパッチだ!』


彼こそがパッチアダムスの名付け親であった



$ビリケンのブログ


この頃、アンソニークィーン主演の名作「その男ゾルバ」に
触れる機会があった
まるで自分に語りかけているような印象深い
セリフが心に響いた・・

本の虫のその男に投げかけられた言羽は・・

『あなたは考えすぎる・・そこがあなたの厄介なところだ・・

 賢い人間と食料品屋ってのは何でも秤にかけたがるから

 困ったもんだ・・』

ハンターは悟った・・

(頭で動くよりも先ず感情で行動しょう!)

母に告げた

『母さん!僕はもう大丈夫だ!』

母は微笑みながら

『そうよ・・あなたは精神を病んでいるわけでは無いのよ

 心が風邪を引いただけ・・』

まだ入院が必要という医師の忠告を振り切って
訪れた時と同じように自分の意思で復活の扉を開けた・・



(夢の病院)


1967年パッチはバージニア医科大学に入学した

期待を裏切る保守的な大学で、クラスには黒人学生がひとり
もいなかった・・

教授たちはベトナム戦争を支持していた
そしてほとんどが利己的で高慢だった

学生たちには、たった5分の診察で患者の病気を見極めろと
支持を出した

家族・友人・信仰・趣味・仕事・性格などの情報は
不必要と考えられていた

二時間待たされてたった5分の治療
利益優先の医療現場のの実態

パッチが理想としたのは聖医シュバイツアーと
「ジャングルの医師」と呼ばれ国際救援組織の生みの親
トム・ドゥリーである

彼らの目指した崇高な思いとは、あまりにかけ離れた現状に
怒りのマグマが燃え滾った!

パッチは機械のように無機質な医師や学生が不在の時を
見計らって病室に潜り込んだ

大男でキリストのような風貌のパッチは患者の人気者に
なって愛された

話を聞いてやり、一緒に泣いて笑ってふざけ合い
背中や足をさすってやった・・

教授たちはその行動をまるで犯罪のように諌めた
行儀の良い髪型と三つ揃いのスーツ・・
顔に髭飾りは要らない・・

「患者に深くかかわるな・・近づき過ぎるとトラブルが
 起きたときに裁判で訴えられる・・」と
 何度も力説した

パッチはそれに屈せず最後まで自分のスタイルを
貫いた


バージニア大学の特色のひとつに医学部最後の一年間は
自分の関心をもつテーマについて研究するというプログラム
がある

パッチは小児科を選び1970年の9月から3月まで
ワシントンDCのスラム街にある病院に勤めることになった

そこはチルドレン・ホスピタルと提携しており、医院長は
女性のペグ・グテリアスであった
彼女は思いやりとユーモアを兼ね備えた人物であった
制限なしに子供たちとの接触も自由で、すべての壁に
絵や落書きを書く事を許された

何よりもこの病院はスタッフが心をひとつにして患者を
救おうとする情熱が溢れていた・・

同じ頃、ボランティアの若い医者たちによって運営されていた
「フリークリニック」で週15時間の活動をしていた
夜間だけの無料診療を行い、純粋に弱者だけのことを
考えた病院だった・・

ここでパッチはひとつの実験をする
(笑いが本当に人々を救えるのか・・)

消防士用のヘルメットを被り大きな赤い鼻
を付けて、はやる心で診療所のドアを開けた!


その空間にはヒッピー・ホームレス・水商売・失業者たちが
混沌と群れていた・・

沈黙が出迎えた・・

その次にやって来たのは大歓声と指笛と拍手!そして虹色の笑い声!
それらがひとつになってパッチを羽のように柔らかく包み込んだ・・

(僕の考えは正しかった・・!愛のある笑いでこの人たちを
 救うことが本当に出来るんだ・・!)


大学を卒業すると夢と理想の医療を実現すべくバージニア州アーリントンの街で同じ志を持つ仲間と無料診療所

ゲズンハイト・インスティテュード」を設立する

邦訳で「お達者で!お大事に!」の意味がある

プライバシーも寄付もほとんど無い過酷な条件のなか
スタッフは他の病院で働きながら12年間で15万人を超える
患者を無料で看た・・

その後この活動が徐々に知られるようになり賛同者・協力者
の援助で寄付や資金が集まり、そして今、法律を含めた様々
な問題を乗り越えて第二の「夢の病院」を建設中である!

その聖地はウェストバージニア州ポカホンタスの広大な
自然のなかに築かれている

高度な医療機器・体育館・図書館・工場・舞台ホール・菜園

宿泊施設・協会などあらゆる施設が完備している

そのなかで音楽療法をはじめとするダンス・人形・心理劇を
用いた斬新な心の治療を受けることが出来るのだ!

既成の病院では高額な金額を要求される高度治療も
すべて無料なのだ・・

まさに「命の楽園」なのだ・・

そして世界中の医師から今の病院を辞めてそこで働きたい
という申し出が1000人を超えている・・

パッチアダムスは休む暇もなく大きな身体で世界中を
飛び回り「夢の病院」の援助を呼びかけている・・

今日もどこかの国で赤い鼻を咲かせている・・



$ビリケンのブログ




(クラウン・・)


大棟 耕介 (おおむねこうすけ)

1969年5月17日 愛知県知多郡阿久比に生を受ける

パフォーマンス集団『プレジャーB』代表

NOP『日本ホスピタル・クラウン協会』理事長

愛知教育大学非常勤講師


$ビリケンのブログ



彼こそが日本が世界に誇るクラウンの第一人者なのだ!

世界中の道化師がが集うクラウンコンテストで

2003年個人部門 銀メダル

そして2009年グループ部門で金メダルを獲得する!







$ビリケンのブログ




は子供の頃から頭脳明晰でスポーツも万能であった!

進級すれば常に学級委員を任された

表面的には大らかに振舞っていたが内面的には

(良い子でいなければ・・)と常に他人の目を気にしていた・・

生徒会の選挙がはじまり、友達に担ぎ上げられて立候補を
することになった

ある時、階段の踊り場で女の先輩が自分の悪口を言いながら
選挙ポスターを蹴飛ばしているのを目撃してしまった・・

それ以来目立たぬように人前に出るのを避け部活動の
棒高跳びに熱中した

スポーツ心理学・トレーニング法・栄養学の本を
読み漁った

その結果1985年の国民体育大会少年の部で優勝し
日本一となった!

その後、筑波大学に進みスポーツに明け暮れた

卒業も間近になったが、やりたい仕事が見つからなかった

友人が名古屋鉄道の面接を受けるというので、冷やかしの
つもりで着いて行った

面接官が思いもよらず即決で

『ぜひ我社に来てください!』

(まあ良いか・・鉄道会社ならデパート・テーマパーク・ホテル・
 旅行と関連しているからやりたい仕事が見つかったら
 そっちの方で働いたら良い・・)

1992年は鉄道マンになった・・


彼は人並み以上にどのような事でもそつなくこなしていたが

(俺は人を楽しくさせる事が出来ない・・)と小さな
コンプレックスを常々感じていた

何かを変えよう・・何かが変わる・・

カルチャーセンターの「クラウン養成講座」を受講する

入社から二年が過ぎていた

身長180Cm96キロの大木は持ち前の運動神経で
どのような技も難なくこなした
講師が驚く程の才能を見せつけた!

1995年・スクールの仲間と
クラウン一座「プレジャーB」を結成する

ようやくその道を見つけたは翌年6年間務めた
会社を去った・・


(命の風景・・)

『皆んなどんな顔をするだろうな・・』

ため息とともにはつぶやいた

仲間が大きな声で答えた

『そりゃ道化師が突然廊下を歩いていたら
 誰でも驚くでしょう!』

小さな笑いが咲いて緊張がほどけた・・

2004年1月13日の冬風の中・・その日5人の
クラウンは名古屋日赤病院と小さな患者たちの
心のドアをノックした・・


<声・・>

脳腫瘍にかかり障害が残るのを覚悟で手術をしたが後遺症
で失語症になった男のがいた・・

身体の自由もきかず上半身を起こすだけでも母の手助けが
必要であった

遊んだ後の帰り際に母が

『今日はありがとうねって言ってごらん・・』

と話しかけた・・

少しの静けさのなか途切れ途切れだが

『ありが・・とう』

しっかりとに言羽を渡した・・

半年間ひと事も話すことが出来なかった子が・・

驚きと喜びと・・二人は静かに泣いた・・

彼はその後順調に回復して3ヵ月後には退院していった
今では車椅子も必要とせず毎日元気に学校に通っている!




$ビリケンのブログ




$ビリケンのブログ




$ビリケンのブログ




<姉妹のディズニーランド・・>


はアメリカへ向かう飛行機に乗っていた

すると小さな女の子が突然に

さんだよね?』と声をかけてきた

息を弾ませて少しだけ興奮した様子だ

『ウン!そうだよ・・』

『やっぱり!その髪型でわかったよ!』

『どこかで会ったことがあるのかな?』

『ウン!わたしの妹がなんども会ってる!』

そう言うとどこかへ駆け出した

しばらくすると毛糸の帽子を被った女の子の手を引いて
戻って来た

『ほら!これわたしの妹・・』

姉の後ろでもじもじしている女の子の顔を見て
すぐにわかった

『やあ今日は!久し振り、君たちは何処へ行くの?』

恥ずかしそうに小さな声で答えた

『フロリダのディズニーランド・・』

ミッキーマウスが大好きで、退院したらアメリカの
デイズニーランドに行きたいと話していた

は嬉しくなって姉の耳元で囁いた

『お姉ちゃんも一緒に行けてラッキーだったね・・』

姉は少し不満そうに言った

『わたしも頑張ったもん!』

妹に骨髄を提供したのは彼女だった・・

少し離れたところで母親がおじぎをしながら
ほほえんでいた

は心の中でつぶやいた・・

(俺って幸せな仕事をしてるのかも・・)







<手紙・・>


子供が笑顔になるのには色々な要素がある・・

は思う・・先ずは親が笑わないと・・


『先日は子どもがお世話になりました。さんに会えて

 とてもうれしそうでした。いままでずっと入退院を繰り返して
 
 いて病院に行くときはとても暗かったんですが、いまでは

「病院に楽しい人がくるからと!」と言ってとてもうれしそうに

しています。その子のお兄ちゃんもこんなことを言ってました。

 「ママも弟も道化師さんがくるから安心だね・・」

 さんは本当に優しくて楽しかった。わたしも心が震えました。

 うちの子はまだ入退院をつづけなければいけませんが

 またお会いできることを楽しみにしています。

 声をかけてくださってありがとう。』



$ビリケンのブログ




<想い・・>


『道化師に変身しても心までは変えられない・・

 むしろメイクをすることによって自分がさらけ出される・・

 結構辛いんですよね・・』


『僕たちはその場所に行き続けるだけです・・

 長くても10分というふれあいのなかで、ほんの少しでも

 痛みや辛いことを忘れてくれたら・・

 それが僕たちの最高の喜びです!』


『僕は毎年パッチと世界中を飛び回っていますが

 彼の口癖は「夢は道化師のいない世の中に

 することだ・・」

 その存在がなくても笑顔が絶えない世界・・

 きっと素敵でしょうね・・』


『いつも病院で遊んでいた子供が突然に亡くなる

 ことがある・・「悲しむ」と言う感情が自分の中に

 あってもいいと思う・・でも僕はプロだから、なるべく

 ひとりひとりに思い入れを持たないようにしている・・

 その日の辛いことはその日に忘れるようにしたい・・』


だが心とはうらはらにの視線が届くところには・・

まだふれ合いの温もりが残る子供たちが心ならずも

小さな星になってしまったその後に・・

生きた証の笑顔の写真が飾られている・・





$ビリケンのブログ




$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ



<赤いHANA>


クラウンの赤い鼻は子供たちの瞳にはどのように

溶けているのだろうか・・

遊園地の風船

ほっぺたのリンゴ

嬉しかった雨傘

名前も知らぬ花

冬の日の太陽




$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ




生きて行くことは深さの違いはあるが、多分かなりの面積が

「哀しみや辛さと云う名の糸」で紡がれているのだろう・・

それを少しでも慰めてくれるのが笑いなのだ・・

子供たちにはかけがえのない「未来」がある

未来の果ての老人にはかけがえのない「過去」がある


はささやく・・


いつ笑ってもいい・・


どんな風にわらってもいい・・




$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ



$ビリケンのブログ




僕がこの物語を綴るきっかけになった映画

1998年公開 『パッチアダムス』

ぜひ触れてください!


$ビリケンのブログ