すでに3割以上の籾が芽を出していた4月28日。まだ理想的な鳩胸状態(籾の先が1㎜くらいぷくっと膨らんだ状態)になっていない籾も3割程度あったが、思い切って種まき作業を行った。

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手で触ってくっつかないくらいに陰干しした、約5kgの種籾。品種はコシヒカリだ。

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まずは苗箱に紙を敷く。苗箱には水を通せるよう細かい穴が開いており、紙がないと床土が落ちてしまったり、籾が穴につまってしまう。それらを防ぐため、薄い紙を敷く。

今年は電動の自動播種機を購入した。1年目は手播き。昨年までの2年間は手動の播種機を使用していたが、何せ僕は手先が不器用。どうしても均一に播けず、ばらつきを平均にしようとして播種量が増えてしまっていた。

播種量が増えると根が混み合い、がっしりとした苗が作れない。ヒョロヒョロで腰が据わっていない苗だと、田植え後の生育に影響し、悪循環となる。

三つ子の魂百までもと同じようなもの。赤ん坊の時にしっかりと教育しないと、ろくな大人にならない。稲作では苗半作(苗八作という人もいる)と言われるくらい、がっしりとした健康な苗を作ることはとても重要なのだ。

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作業工程としては次に土をバケットに落とし込み、床土を入れる。

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土入れ後の写真。

さらに機械で播種→潅水→覆土となるのだが、思ったほどスムーズにはいかなかった。種籾や土が苗箱のスミに乗ったままだったり、床土(=下の土)や覆土(種籾の上に被せる土)が多過ぎたり少な過ぎたり。けっこう手作業を要した。


それでもトラブルなく、無事に播種作業を完了できた。

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播種を終えた苗箱を苗床に移す。

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快晴ながら北風が強く、奥の妙高山は雪で真っ白。

アーチにビニールハウス用のシートを被せて作業終了。潅水して水を含んだ苗箱は1枚当たり5Kgほど。1枚1枚重ねては移動を繰り返し、情けないが、翌朝はさすがに腰痛がひどかった。

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これは今日の苗床の様子。天気が良く気温も上がり、午前10時には苗箱の土の温度が30℃に上がっていた。これが40℃にでもなろうものなら焼死しかねない。天気、気温によってシートを全開にしたり、少しだけ開けたり、閉じたり、とにかく付きっきりだ。

赤ん坊たちを育てているのだから、当たり前。

順調に行けば、播種から10日前後(=来週水曜)に芽が1㎝くらいになる。さて、ちゃんと芽が出揃うか、ドキドキワクワクの時が続く。











種を水に浸している間、何もせずただ芽が出るのを待つわけではない。やるべきことはいろいろとある。まずは田んぼの修繕だ。

僕が借りている田は水はけが悪い。春先は雪解け水で、なかなか土が乾かない。田植えは6月初旬。その前にトラクターで田起こしをする必要がある。

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3月下旬に撮影した田んぼの様子。

まるで田に水を流し込んだような状態。このまま放っておくと、5月に長雨が続けば、トラクターがぬかってしまって入れない事態が起こりうる。そこで土木作業をする。


田と写真右にある明渠(めいきょ=堀のようなもの)の間の畔をスコップで掘り、田の水を明渠に落とすようにして、水はけを少しでもよくさせるのだ。さらに明渠に落ちる水が滞留しないよう泥を掬い上げたり、隘路に溜まった石や礫をどかしたり、明渠の水はけも良くする仕事がある。

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今では雨が降った直後はともかく、田に水たまりができることはほとんどなくなった。

さらに、種まき後の苗箱を置く苗床も作らねばならない。この辺りでは田に苗代を作る衆が多いが、僕が借りている田は前記の通り水はけが悪い湿田。ぬかった土での作業は、正直しんどい。

そこで、一昨年からは庭の畑で「プール育苗」にしている。

土を平らになるようトンボで均してから、ブルーシートを敷き、四方に垂木を置いて、それをシートで巻き込む。透明のビニールハウス用のシートの方が柔らかくて巻き込みやすいのだが、太陽光を遮れないため下から伸びる強靭なツクシに突き破られる危険性がある。そのため僕は、ブルーシートを使用している。

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アーチをかけ、ビニールハウス用のシートをかけて完成した。途中で風にシートが煽られて苦戦。種まきの4日前に行ったのだが、半日の予定が、一日仕事になってしまった。

気温の寒暖差が異常なほど激しかった4月半ば。4度目の稲作が始まった。

稲というと田植えや青々と育つところ、黄金色の穂を想像される読者が多いだろう。しかし、それは生育過程の一部に過ぎない。そこで、稲作の工程を伝えさせて頂く。

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まずは塩水選といって、質が良い籾と悪い籾を食塩水を使って選り分ける。上の写真のように生卵が横向きとなり、500円玉くらい水面から顔を出したら比重1.15。標準では1.13なのだが、今年は全体的に籾質が悪かったので、ややきつめに行った。

そうしたら、種籾がまあ大量に浮いた。浮いた籾(=軽く質が良くない籾)を下の写真のように網で掬ってはバケツ移す。結果、8kgあった種籾は約5kgに減った。


ちなみに稲作歴70年の大ベテラン、近所の計雄じいさんは塩水選はしないという。あらかじめ前年秋にはぜ掛け(=天日干し)した稲束から最良のものを選べばそれでいい、という持論がある。僕はそれを不注意にも忘れたため、一手間増やしてしまったということだ。


塩水選を終え“勝ち残った”種籾は、45℃程度の湯に浸しておく。

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次に温湯消毒となる。病原菌を除去するために60℃の湯に10分間、籾を浸す。今回は初めて、写真の催芽器を使って15℃加温に設定。室温10℃の中、60℃を維持することができた。

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これも今年初めての試み。昨年も催芽器は使ったが、水を循環させるだけ。芽が動くまで積算温度100℃、水温10℃なら10日必要とされる。昨年は我が家の井戸から引く水(水温7~10℃)に2週間以上浸した。その後、27℃で催芽(籾の先端がプクっと膨らむ鳩胸状態にもっていくための作業)したのだが、通常24時間のところが49時間かかった。
そこで今年はやり方を変更した。電力で15℃に維持された水に10日間浸種。そうしたらすでに芽が出ている籾がチラホラ見られた。


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途中、こんな日もあったのに、加温効果恐るべし。というのも芽が出てしまうと、種まきの時に使う播種機に芽がひっかかり、理想とする均一な播種とならないのだ。そこで、まだ鳩胸状態になっていない籾もたくさんあったが、今年は催芽なし、と判断した。

種籾は播種に備え、日の入らないところで陰干し2日。籾が手にくっつかないくらいに乾いたところで、28日、播種作業へと入った。


=続く=



必然だったのでは…と思えてなりません。WBC準決勝で、日本がプエルト・リコ相手に敗れ、大会3連覇ならず。悔しい結果に終わりました。

結果もそうですが、一番残念だったのがJAPANのエース・田中マー君がサンフランのマウンドに立てなかったこと。当たり前ですが、決勝より前に準決勝に勝たなければいけないのに、そこにエースを立たせなかった…。内川選手の走塁ミスもそうですが(サインかどうかは分かりませんが)、ベンチワークに???が付きました。

そもそも今大会に臨む姿勢からして、このような結末になるかもなあ、と思っていました。昨年夏、日本プロ野球選手会は最初、大会不参加の意向を示しました。韓国も同様で、大会の開催自体が危ぶまれたという記憶があります。

結局、両国とも参加しましたが、韓国が1次ラウンドの初戦で格下のオランダに完敗。その時点で嫌な予感がありました。日本も同じ轍を踏むのでは、と。

結果的に韓国とは異なりましたが、明らかに格下のブラジル、中国を相手に苦戦。下手をすれば1次ラウンドで敗退…がちらつきました。2次ラウンド初戦の台湾戦も大苦戦もいいところ。なんとかミリ単位で勝ったという感じで、底力には違いないでしょうが、冷や汗ものでした。

主催者の米国もパッとせず、2次ラウンドで敗退。日本―米国の決勝戦を見たかったのですが…。期待通りの勝負強さを発揮していたライトが故障で戦列を離れたのに、すぐに代替え選手を呼ばなかった時点で、彼らの優勝への貪欲さを感じませんでした。

WBCを真剣勝負とは、とてもとらえられません。本気の本気ならイチロー、黒田、青木らが日本代表にいて、米国に昨季ナショナル・リーグMVPのポージーや剛腕のハラデーら、トップの中のトップ選手がいて然るべきだったと思います。個人的には3月開催でなく、11月か(できたらシーズンを中断してでも5~7月)の方が、球数制限や3連投禁止などの大会独自のルールにとらわれることなくできてベターだろうなあと思っています。

日本も米国も不在で行われる明日以降の準決勝と決勝ですが、僕はテレビで観ます。プエルト・リコは勢い旺盛で、ドミニカ共和国はスター揃い。オランダもほとんどの選手がカリブ海のキュラソー島の出身ながら、将来メジャーで有望な若い選手が多くいて、楽しみです。

22日にセンバツが始まり、29日からはプロ野球が開幕。本格的な農作業は雪が融けて無くなるであろう4月10日以降、徐々に進めていけたら、と思っています。それまでは趣味に没頭するつもりです。





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おらほから見える高社山(こうしゃさん)。高井富士とも呼ばれ、たかやしろとも呼ばれる。でも…。
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おらほの反対側、宇木の千歳桜の近くから眺めると、とても富士山のようには見えない。岩岩でゴツゴツした感じ。ところが、これが遠ざかって南西の須坂市あたりから見ると、ちょっと富士っぽく見える。

高社山に限ったことではない。北信五岳と称される飯綱、戸隠、黒姫、斑尾、妙高。それぞれ独特の形があるのだが、見る場所によってどれがどれだか分からなくなることがある。山を見る場所、角度、距離によって、同じ山なのだけれど、姿が全く異なる。

幻惑させられることはしょっちゅうある。あれは黒姫、それとも飯綱???みたいに。その都度、山って不思議だなあと思う。

ところで福岡では桜が開花したとか。まだ1メートルあるおらほからすれば信じ難いニュースだ。


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昨年4月30日、満開となった北小学校の桜。山々に雪はない。今年はいつ頃、こうなるだやら~。



ご無沙汰もご無沙汰です。


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高社山(写真)に傾く薄日を浴びる寒暖計を覘くと、なんと14℃⁉

季節外れの暖かさで、1メートル以上の嵩があった雪が見る見るうちに減少。あらかじめ除雪機で雪を飛ばしていた部分は地面が露出し、まだ3月も7日だというのに、春本番近しだな、と思ってしまいます。

北海道や東北地方では記録的豪雪の年となっているようですが、ここ須賀川の積雪量は昨年と比べると、半分ほどです。日本海側のみ視界が開け、東西南は山。標高700メートルの扇状地で、もともと雪が溜まりやすく、近所のTさんが「昔は一晩で二階まで積もって、寝ずに雪を(屋根から)下ろしたけどなあ」というようなこともあったとか。今年はここまでは、そういった日はありません。


よくこの辺りの年寄り衆は嘆きます。「雪さえなければいいとこなんだけんな」と。当地での生活をはじめて4年目。確かにそうだなあ、と実感するようになりました。

除雪や雪かき作業(今でも一部の民家は雪下ろしが必要)という積雪地域にしかない手間がかかることは当然、農作業にも響くからです。

ここ3年、雪が田畑から完全に消えるのは早くても4月10日過ぎ。昨年にメモをした日記だと、4月21日でした。そこからよーいどんです。雪さえなければもっとゆっくりと、田の畔を補修したり畑の畝を作ったりと準備ができるのですが。

雪解けが遅い分、当地の農家にとって春は大忙しです。これで梅雨時も後にずれてくれればいいのですが、それは他所と変わらず、時季相応にやって来ます。春は短命。あっという間に終わり、鶯色の草木の葉は、ものすごい早さで緑化します。


一方で雪の恩恵もあります。それは、水です。水は稲作には欠かせないもの。山に蓄えられた雪解け水は潤沢豊富かつ、盛夏でも足を浸していると5分も持たないくらいの冷たさで、(僕が借りている田に注ぐ湧き水は)そのまま飲めるほど美味しいのです。


気象条件に加えて高地という地理条件も、当地ならではの味の良さをもたらしてくれます。ここ数年猛暑が続きで、30を超える日がよくありますが、クーラーがある家などほぼ皆無と言っていい所。夜は肌寒く感じる日も間々あり、その気温の寒暖差が、米を豆を野菜を、小さくも旨みがギュッとしまったものに仕立ててくれます。


四季の中で最も長く、住む者の多くが萎えだくなる冬。それにともなう雪。でも、時の経過とともに、やがて雪が融け、土が大手を振るように辺り一面に顔を出し、フキノトウが芽を出し、土筆が勢いよく伸びる。

冬眠はぼちぼち終わりにせんとな、と感じています。農作業は段取りが肝心ですから。ようやく頭が少しは回転し始め、今年の稲作、畑作に向けて過去3年の記録を鑑みて作戦を練っています。

まだまだ眠たい目をこすりながら、少しずつ、一歩進んで二歩下がるかもしれませんが、春に向けて走らずに、歩いく所存です。



とてもとても、僕ひとりの力でなし得たことでない。多くの方々からの支援、励ましを頂いて、今年も無事に収穫できた。人々に、お天道さまに、田んぼの神様に、感謝感謝。


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まず、米独特の甘い香り漂う。いい香り!
食すと、はじめはちょっと淡白。

でも、噛めば噛むほどジワーッと口の中に甘味が広がる。美味い!
同時に土や風や生き物の味がする(こればかりは作者の僕にしか分からないだろうが)。

自分で言うのも何だが、これ以上美味い米はそうそうないと、自負する。




 早朝から米国で行われているメジャーリーグの試合、デトロイト・タイガースとニューヨーク・ヤンキース戦をテレビで観戦しています。
 
 3回表のヤンキース。2死二塁から1番ライトでスタメン出場のイチローさんが、フルカウント
から内角ぎりぎりの投球を見極め四球で出塁しました。ここに来て、チームが崖っぷちに立たされるほど調子を上げているイチローさんの勝負強さに脱帽します。
 

 同時に冷静さを保っているところがすごい。

 次打者のニック・スウィッシャーは絶不調。しかし、実績十分の選手です。今季もチームの勝利に何度も貢献してきた選手です。ただ、スウィッシャーの調子を考えれば、イチローさんはあの四球を選んだボールを瞬時にファウルしてても不思議ではない。でも、あえて、スウィッシャーを尊重し、信頼しているから選んだのではないかと思いました。

 結果、スウィッシャーは見逃し三振に倒れましたが、それでいい、と思いました。

 同時に、2003年に初めてイチローさんとお会いして以来感じていたことなのですが、彼はかなり「相手の気持ちに応えよう」という考えをお持ちの方なのではないかなぁ、あらためて感じさせられた次第です。

今、議論が白熱している。僕が住む山ノ内町の小学校統合問題。賛否両論あるが、どうやら賛成派が優位のようだ。


町には東西南北、4つの小学校がある。北小学校はその中でも著しく生徒数が少なく、全校生徒が60人を割った。4人だけの学級もある。競争社会に付いていけなくなるのでは?という不安が親の口から出るのは仕方あるまい。

しかしながらこれからの時代、競争社会にはならないだろうと、僕は勝手に予測している。むしろ単一化された教育を受けるより、個性的でのんびり自由な環境で育った生徒だって、いてもおかしくはないのではなかろうか?


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当方、須賀川ならではの農業体験をする子どもたちがいなくなってしまう。僕が田畑で働いていて「こんにちは!」と声をかけてくれる子どもがいなくなってしまう…。

ここ山里の北小学校と下界の3つの小学校では、文化や伝統が大きく異なる。もし、北小学校がなくなったら、僕の勝手なわがままかもしれないが、淋しくなるに違いない。

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毎年、北小の体育館で行われる、114年前にドイツで製造され、88年前に当地に運ばれたブリュートナーのピアノ演奏会だって、なくして欲しくない。何せおらほの宝なのだから。

一度廃校にすれば、取り返しはつかない。須賀川区の衰退につながる可能性も大である。

なによりも稲作りをした5年生8人のうちの全員が、みんな笑顔。「学校に行くのが楽しい」というある生徒からの言葉が、何よりも北小の存在を物語っているのではないだろうか。

 自然と、目から涙が溢れた。一昨日、24日は92歳で他界した母方の祖母の命日。14日にあった三回忌の法要に出席できなかったので、お線香をあげに行った。

 

 お婆ちゃんの最期は悲しかった。「家に帰りたい」と望んで止まなかったが夢はかなわず、老人ホームで息を引き取った。お婆ちゃんの気持ちを思うと、葬式の時もそうだったが、墓前で「お婆ちゃん、期待にそえずにごめんね」と心で言うと、涙が止まらなかった。

 お婆ちゃんからはよく「泰は優しい子だから、きっといいお嫁さんと結ばれるはずよ。その時を楽しみにしてるわよ」と期待されていた。その期待にも応えられず、今に至っている。それも、もうひとつ大事な「ごめんね」で、自分が情けなく、哀しく、時に泣いてしまう。
 

 僕は大のお爺ちゃんお婆ちゃんっ子だ。初孫であり、また母は小学校の教師で、当時は今ほどの産休を与えてもらえず、かつ保育園も満杯だったらしく、そのため3歳まで、東京の世田谷区上祖師谷の祖父母宅に預けられた。だからか、お爺ちゃんとお婆ちゃんには大変お世話になったという思いが強い。お爺ちゃんもお婆ちゃんも、初孫誕生がとても嬉しかったのだろう。本当に良く可愛がってもらった。

 

 お爺ちゃんは僕を背負って、近くの京王線の千歳烏山と仙川の間の空き地に、毎日のように連れて行ってくれた。だから今でも僕は京王ファンなのだろう。お婆ちゃんは三鷹市大沢の前実家まで、僕が小学校を卒業するまで、平日は“子守”をしてくれた。

 
 でも、お爺ちゃんは1993年、88歳でお婆ちゃんより先に逝ってしまった。その後、お婆ちゃんは急速に元気を失った。認知症になってしまい、ただただ「早くお爺ちゃんの所に行きたい」と繰り返すようになってしまった。

 最期の方は寝たきりで言葉も喋れなくなってしまったが、ただ、僕が両手でお婆ちゃんの手を握ると、お婆ちゃんには何か伝わるものがあったのか分からないが、涙し、僕も気の毒で涙した。

 他界した時は悲しさもあったが「お婆ちゃん、お爺ちゃんのところに行かれて良かったね」というのが真なる僕の気持ちだった。

 
 お爺ちゃんお婆ちゃんが眠る浅草のお寺さん狭い。通路は人がすれ違えられないほど狭く、お墓もぎゅうぎゅうだ。でも、お爺ちゃんと一緒。
 「あの世でもお爺ちゃんと行き会えて、安らかに過ごしているといいね」
 そう語りかけ、今までもこれからもお墓の世話をしてくださる住職さんに感謝し、東本願寺が目の前の寺町を後にした。