関ヶ原は、東軍徳川家康が、勝つ為、に仕組んだ戦だが、ところどころ薄氷を踏むような危うい場面も多かった、もしかして西軍が勝利したのではと言われている局面が多々あった、その局面を、前哨戦、本戦、戦後の3つに分けて考えてみる。

今回、前哨戦と言っても秀吉死後1598年から三成挙兵までの段階をあえて前哨戦と考えて何処が不味かったのか考察する。

一言いって、圧倒的に家康の思惑どうり、三成が挙兵しても勝算の無いことを知っていても挙兵せざるを得ない状況にもっていかれたのでは?自分の才能を引き立ててくれた秀吉に恩を感じていたのなら?

近年の新説家康と三成は、険悪ではなく極めて友好的だったと、秀吉死後、朝鮮在中の兵士の撤退時、真っ先に家康に頼ったと言うし、戦後生き残った三成の子息を無条件で助命している。

互いに、遺恨をもって戦ったわけでなく、己の信念の為に戦ったと言える。

互いに戦のない世を望む思想を持っていたことは、互いの旗印で明確で、数少ない平和思想をもった武将である。

ただ、豊臣家を介在させた平和とそんな平和は、絶対に無理だと思った、両者の考えの相違。

前哨戦は、完全に家康の勝ち、調略で絶対に戦を避けられぬ状況を作りだした。

禁止されている縁組を強引にあえて行なって、敵味方の区別をつける。浅野幸長と黒田長政や旧秀次宿老達等、黒田長政は、福島正則、加藤嘉明等武断派の調略をしたりする。

宇喜多家の家中騒動に介入して重臣が家中を去り、宇喜多秀家の戦力を半減させている、それでも関ヶ原では、秀家の人望か西軍の主力を小西行長とともに戦っている。調略がなかったらもっと苦戦。

小早川秀秋、新説元々東軍、秀吉の嫌疑をうけて、あわや改易のところを家康に取り成しで救われた過去があり、上杉征伐に参加出来ずに在京していただけで、

はなから家康に恩義を感じており、家康に歯向かう意志など全く無かったという。

そして、前田利家の死とその後七将の三成襲撃と佐和山隠居。

そして、戦の名分作りの為前田利長に謀反の嫌疑をかけ、芳春院まつの人質を条件に和議。

そして上杉景勝に謀反の嫌疑かける、その前に調略を行い重臣藤田信吉が新年年賀のおり、個人的に金銀や刀剣を贈り(たしか本人は、受け取らなかったのに)国許では受け取って内通したと噂をながし、一族出奔する羽目になる(いつ説には本当に受け取った)。

上杉家の内情をはなし、謀反を告発する。

そして、有名な、直江状がでる、後世の創作が強くなってきてるが、個人的には好きなので実在して欲しい、いわれのない、言いがかりに反論し、堂々と受けて立とうという潔くよさ、胸のすく受け答え。

いわれのない事でも、屈してしまう、理不尽に堂々と反論できることに、羨ましさを感じてしまう。

上杉家も力を削がれてしまう。

西軍も結城秀康を調略したり、徳川秀忠が内通するとデマをながしたり工作すべきでは?

完璧に家康のペース、三成が挙兵する背景になにがあったのか?

武断派との対立、毛利氏、宇喜多氏の大老の造反(何もしないと、徳川方に吸収され豊臣家が孤立してしまう)、上杉家がもし屈したら次は毛利に謀反の嫌疑をかけ、次は宇喜多と踏み絵でも踏ませるように、豊臣筆頭の地位を利用して謀反の嫌疑を名目にして、服従か否を問う。

服従は、すなわち徳川の翼下にはいることになる。

豊臣の孤立を避ける為、旧知の直江兼続と協議する、

五大老五奉行は、直江兼続と石田三成の苦肉の策と言う説、(ドラマの創作)もある。

調略の先手をとって毛利、宇喜多の両氏に、挙兵を打診したのか?

家康は、毛利には、吉川広家を調略、宇喜多は、家中介入(自分に従うなら事を、丸くおさめるといった申し出を断られたので秀家の両翼をもぐようなことをした。)と対策を講じる。

話は、前後するが七将、三成襲撃は、家康が三成に挙兵を問う、アクションだったのか?三成が徳川を頼ることは、必然だったので五奉行を解任して佐和山で三成にも服従か否かの選択を迫ったというべきか?

三成が、挙兵しなくても、増田長盛、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝(遠国なので挙兵の中心には、なり得ない)、増田長盛は、三成不在時の豊臣の知行地と財産の管理者なので豊臣の兵権を握る人物、影の関ヶ原のキーマンだった伏見城を攻めるかと思えば、その後大阪城に在住して動かず、まるで毛利輝元の目付みたいな行動をとる謎の人物。

毛利輝元の豊臣私物化を阻止する為か家康に内通していたのか謎、毛利輝元と共に戦局を動かす力を持っていたのに?

前哨戦では、三成の勝機は、一つもない

ifは、増田長盛が協力的だったら、家康の調略の失敗、七将との確執をおさめる、前田利家の延命など、もしもは、きりが無い。

そして関ヶ原石田三成を勝たせるは、前哨戦と挙兵から関ヶ原本戦までと戦後の勝機の3編に分けて考察します。

完璧のはずの家康の計画に所々狂いが生じ薄氷を踏む展開になってゆく、楽勝が辛勝に変わる。

次回挙兵から関ヶ原本戦











何故、義家以降、源氏が廃れたか?

何故、伊勢平氏の台頭を許したのか?

義家の死後、源氏は、見る影もなく、衰退してゆく、

不思議だった。

答えは、白河上皇に見捨てられた。(白河院陰謀説による)

あまりにも、田舎者で傍若無人、簡単に言えば、木曽義仲が何人もいたと思えば分かりやすいのでは,つまり、宮廷貴族としての素養を持ちつつも武士であることが出来なかった為、頼義、義家で終わってしまった。

事の始めは、嫡男義親による、対馬守と源氏の縁のない、西国へ赴任して横暴を重ねた上、官吏を殺害して追討をうける、将門、純友と同じかたちである。

今までの、常識の通らない土地で、規則に縛られ、反抗、追捕の官吏を返り討ちにして、朝敵になる、父義家の説得を振り切り、義家本人が追討するところ病死、義家三男義忠の辞退の為、舅にあたる平正盛が追討にあたり、いとも簡単に討ち果たし、首級をもって凱旋する。

当時義親は、悪対馬と称された程の強者であったので誰もが疑った、悪は、強者の通称で後の悪源太義平と同じ強者に与えられる名。

その後、将門同様、義親をなのる人間が多くあらわれる。

乱と後義忠が、惣領として源氏をまとめてゆくはずだったとが、義綱の子義明と郎党に暗殺されて、義明とその郎党は、追捕の者に殺害されてしまう。

その処分を不当と抗議して、近江の国甲賀山に籠り、甥の源為義に追討される、一族自害するも義綱は投降し佐渡島に流罪となる。

ここに源氏は、衰退してゆく、後を継いだ義親の子為義(諸説ある、義家の子、義忠の子)は、一生受領(国司)に任じられず保元の乱で敗死する。

一族は、地方と豪族と化したり、頼光の子孫のように、下級官吏として生き残ることになる。

諸説ある、新羅三郎義光の陰謀とか平正盛が仕組んだとか。

わずかに、伊勢平氏の牽制役として生き残るにとどまった。

歴史の流れから、白河上皇が平正盛を使って、源氏の勢力を弱体化させたのが一番筋が通るのではと思う。

そして今回で清和源氏の光と影は終わりにします。

為義から実朝までは、別の機会にかきます。

何故、源氏が衰退したかを、不思議に思ったので、

調べて書きました。

坂東平氏と源氏は、その後も婚姻をとうして、いろんなかたちで繋がってゆく別の機会にかきます。次回は、荒唐無稽に関ヶ原で石田三成を勝たせる方法を考えてみます。

一言にいって秀頼出陣で終わらないようにします。







八幡太郎義家はどんな人ときかれると、まず武勇に優れた、後世にまで伝えられる源氏の棟梁、前九年の役と後三年の役を戦って勝ち抜いた勝利者。

戦の恩賞を申請しても、私闘と言われてもめげず、自分の財産、自腹で部下に恩賞を与える大度な人物、当時の武者の尊敬を集めた武士の中の武士、ヒーローである。

今でも、その認識で間違っていないと思う。

しかし何故その名声が一代で消えてしまったのか?

同じ境遇の武士をあげれば足利尊氏、次の代の義詮の名声は、いまいち三代義満は、かろうじて有力な一族にたすけられて政治を行うが、その後将軍家は、一族に権力を奪われてしまう。

義家も尊氏も名声はあるが、実力がなかったのでは?

尊氏は、近江佐々木、播磨赤松の後援無くては自力で

直義に対抗できない、一族は日和見でどちらにも付く、それと同じで義家にも不遇の時期があり弟義綱にとってかわられる時期がある。

後三年の役の後、私闘につき恩賞無沙汰のとき、官位陸奥守を剥奪され10年間役職に就けなかった、徴税を怠り、土地の収益を戦費に消費したためだ、未納の税と恩賞を私財で賄うという途方もないことをやってのけた、未納なら懲罰をうけても不思議ないのに、自腹私財で賄う、河内源氏の惣領、頼信、頼義の継承者たる実力なのかもしれない。

諸国の土豪達の支持をうけて土地の寄進をうけ、貴族たちを怖れさせる、荘園寄進禁止も寺社石清水八幡宮への寄進にしてしまう、八幡太郎の由縁か、生まれの段階からの銘々なので関係ないと思ったが、義家の兄弟も寺社を隠れ蓑にしたのか?

賀茂二郎や新羅三郎も?

義家の無官の時に台頭したのが賀茂二郎義綱、摂関家と結びつき義家と対等に渡り合える実力をつけるも、摂関家の代がかわると、師実から師通は、寺社仏閣のたたりか若死すると、権勢が摂関家から白河院に移り、義家が御前に召されるようになり、公卿とはいかないが院昇殿を許される、江戸城に登城して御目見得できる身分直参旗本みたいな身分、武士ではじめて上皇の御所へ参内できる名誉なことである。

ちなみに天皇の御所への参内をはじめて許されたのが平忠盛である。

義家が無位無官の時期があった為、義家と兄弟義綱、義光の実力が拮抗してしまった、これが源氏が平氏にとってかわられる原因の一つと考えられる。

武士の台頭に対する。貴族の牽制、怖れで武士の力を分散させる一つの手段、更に伊勢平氏の登用もそのひとつ。

かって坂東平氏の力を削ぐため六孫王経基を武蔵介に任官させたり。

源氏に対抗させる為、奥州藤原氏の政策をみとめる、

自分は、押領使に一歩引き、軍事支配権を認めてもらい、国司の派遣を認めるその代わり、砂金や馬の貢物を納める藤原清衡の提案を受け入れた、一見源氏は、恩人みたいなかたちをとりつつ支配を巧妙に避ける清衡の深謀遠慮。

義家の功績をみとめると、奥州の砂金や馬が源氏の支配下におかれてしまう、藤原清衡に任せたほうが安心である、税収もある。

貴族は、源氏を警戒して策をこうじるが、地方へ武士の勢力を派生させるというデメリットもあった、足利氏、佐竹氏、武田氏、畠山、千葉氏、三浦氏等の後の有力豪族を輩出してしまう。

義家の力を抑えることに源氏の台頭を阻害することには、成功した義家の死後、源氏はその勢力を徐々に失ってゆく義家に源氏の権力を集中させなかつたため。

あくまでも自分の推測で、義家は、源氏の嫡流正統でないという想いが他の源氏一族にあったのでは?

源氏の正統は、河内源氏でなく多田の荘の摂津源氏だ!

源満仲の嫡子頼光の子孫が正統だから支流の河内源氏が正統を名乗るのなら俺にも正統を名乗る権理がある。

その考えが、頼朝の時代甲斐源氏が正統、常陸源氏が正統と武田氏、佐竹氏が従わなかったのかもしれない。

後の足利、新田の源氏の正統を唱える理由なのかも?

次回義家の死後












源氏の坂東での基礎が固まりつつある時に起こった、陸奥で安倍氏が反旗を翻したと、しかしこれは、中央の見解で、はっきりいって理不尽な侵略のなにものでもない、蝦夷と称して余所者扱いして勝手に居座って、更に俘囚と称して虐待して搾取して、それで反抗しないほうが、おかしいくらいだ、最初は、地の利等で押していた、国司を追い出すことが出来たしかし、

源頼義が陸奥の国司として赴任し、一時は、手打ちとなるも、やはり完全に服従させるため、砂金を入手したいがためか、抑圧してぼうはつさせる。

一族の命運を賭けた戦なので、ついに源頼義を撤退寸前にまで追い詰めるも、頼義も遂に

出羽の俘囚清原氏に貢ぎ物をして助力を頼むと、圧倒的な武力をしめし安倍一族を根絶やしにした。

戦功として伊予守に就任大国の国司で

公卿の一歩手前まで昇進した従三位の位で公卿なので正四位の上ではと思われる、人生でもっとも最高位であっらしい、さすがに朝廷も武士に公卿の位を与え無かった。

頼義の力の背景には、父頼信と討伐した、平忠常の乱があり、それまで坂東の支配者であった桓武平氏の重鎮、平直方、忠常の乱を討伐に失敗した前任者の娘を正妻に迎えそして直方より鎌倉を譲り受ける。桓武平氏と婚姻を結ぶことによって坂東の権益を譲り受ける。これと同じに源義忠が平正盛の娘と婚姻することで、伊勢平氏と融和をはかろうとして、結局義親の乱に失敗したあと平氏に朝廷での立ち位置を譲ることになる。源平の権力の移譲に少なからず、政略婚が関係してくる。

前九年の役は、頼義の人生を形作る、そのものとなった。

次回後三年の役八幡太郎義家









斉藤さんと玉木さん

すこし、投稿するタイミングを逸してしまった感がある。

この歴史とは?のブログを書こうと思った趣旨の意味が少し薄らいだ気がしたからだ。

歴史とは、見る者の立場、視点で感じ方が大きく違ってくる。

そのことを言いたいがため、ブログを投稿してきたのに、斉藤元知事の全く違った、相反する見方、二つの事実に翻弄されて、躊躇してしまった。

どちらの言い分を聞いても納得してしまう。

パワハラが正しくても、受けた側にも問題があるとか無いとか、パワハラをした人間にも行き過ぎがあったかどうか、道義上忍耐を越えたものがあって、感情を

抑えることが十人中九人が無理なものであったとか、

自殺の要因が別のパワハラだったとか(実は、百条委員の一人が自分のパワハラを隠す為にでっち上げたか?)

自殺した人のパソコンの中が不明な為。

そして反対側の意見として、知事としての実績が、評価されるもので、前前の知事と比べて評価出来る、無駄があって金権体質だったとか?

秀長のたとえをかりると知事の時代の実績が天から賞されたのか?県民の誰もが認めた実績だったのか?

パワハラが仮に事実無根なら、これ程理不尽なことはない、TVをはじめ新聞は、事実無根の人間をこれ程追い詰めるなんて恐ろしいことだ、あなたがそして私が斉藤さんの立場ならどうする自殺だってありえるのではないか?

マスコミは、誤報の責任をどうとるのだろうか?

そして、もう一つ恐ろしいことは、パワハラが、事実そのもので、実績も形だけのもので、マスコミの事実そのもので人に対しては強権的な暴君なのか?

つまり事実が正反対でも、本当真実でも恐ろしいこと、考え方がオーバーなのか?

そして答えは歴史が教えてくれるということ。

無責任にも、私には対岸の火事、県民で無かったことを幸いに思うだけ?

真実の目は、どうしたら開かれるのか。

明日自分が、マスコミの被害者にならない確証はひとつもない。

そして玉木さん

今回の不祥事にたいして、不謹慎なことに明石家さんまの歌を思い出してしまった。

どんなに男が偉くても女のxxにかなわない、真っ赤な嘘、古い歌、知らないひともいるのであえてばつばつにしました。

見事に裏切ってくれました。

自分としては、マニフェストと実行で責任をはたしてくれればと思っています。

ひとによって党首としての責任をとって辞任という考え方もあるが、あまりにも無責任、投票者の想いをくんで欲しいと思う。

しかし私は、玉木さん(あえて玉木さんです)には、複雑です、元財務省出身というだけでジンマシンがでそうです。

税金を搾るとることを商売にでもしているかのような、税金をとにかく多く搾取するそんな役所、

権力が集中した(郵政省と大蔵省のいいとこ取りをしたような役所)役所。

何故、国民の為の政治を掲げておきながら、こんな利権の巣窟を解体しないのか?

答えは、簡単自分も既得権益者だから、絶対に触れられない聖域だから。

手取りをあげる、一番近い改善案、改革の一歩。なのかもしれないが、消費税減税と所得税2千万以上を対象にした増税のほうがよっぼど税収をあげられると思う。

日本の社会主義化と言われてしまう。

兵庫県も日本も大き過ぎる政府なのかも経済オンチの私の持論

危険思想の持ち主と思われたら困るので、

これは、余程の限り実現しないので、砂上の楼閣、机上の空論そのものです。

最後に130の壁の突破応援しています。

玉木さん、103は当然、目標は高くです。

少し熱くなって言い過ぎの感があります。

話半分で聴いて下さい

次回清和源氏の話にもどります。








頼光と頼信、満仲の子

しかし、清和源氏といったら誰もが頼信の子孫、頼朝をあげる、実際満仲の摂津の国多田の荘本領を相続したのは、つまり清和源氏の正統は頼光で正真正銘正妻の嫡流で子孫は、源三位頼政であるが、源氏の正統、

三代で途絶えるといったら頼朝より三代後になる。

何故?それは、頼光と頼信の二人の生き方による。

後の武門、武士の源氏に繋がるのが頼信の河内国を拠点としたことから、頼光の摂津国の多田を拠点とした、摂津源氏、多田源氏に対して河内源氏しかし、この武門を名乗る支族が全国に派生する、甲斐源氏、常陸源氏と枚挙にいとまがない。

頼光と頼信それは、頼光が道兼、道長に臣従、完全に家臣として仕え中級貴族になってしまったのに対し

同じ道兼、道長に仕えたが、頼光と違って遙任(任地に赴任せず在京する。後年赴任するが在京して近侍していた。)せず受領国司として赴任して武士団を形成してゆく、その過程で後に乱を起こす平忠常を屈服させているる。上野、常陸、下総、甲斐などの国司を歴任し、土地の有力な土豪と婚姻関係を結ぶ、庶子を養子にだしたりと各地に源氏の武士団を形成する。

もじどうり、荘園を開発して摂関家に寄進したり、馬を献上したりして、肥沃な土地の国司に就任したりする。

頼光、頼信共に、武芸では後世に伝えられる強者で、

頼光は、酒呑童子等妖怪を退治した武勇があり、頼信は、道長の藤原四天王と称される強者の一人に数えられた。

そして二人の家の将来をきめたのが、平忠常の乱で、

頼信が甲斐守に任じられ、鎮圧する。

平高望が数代にわたって築いた坂東平氏の勢力に取って代わって、清和源氏が坂東に地盤を持つに至る、これが、清和源氏の正統と呼ばれる鎌倉幕府を築いた源頼朝の基礎となる。

頼信と頼光次世代の頼義と頼国

頼義が坂東の覇権を確かなものとしてゆくなか、頼国は、摂関家の家臣として中級貴族として存在する。

次回、頼義、義家親子と奥州藤原氏について





清和源氏の台頭、経基が築いた礎を確固なものとしたのが、子の満仲で経基が皇族から臣籍降下した地方官僚なら、当初武家の棟梁には、程遠く将門の子を名乗る者不逞の輩を取り締る検非違使の役人として記録にのこっている、そして同じ臣籍降下の関係コネなのか、醍醐源氏の堂上源氏の源高明に近侍しつつも、藤原兼家にも接触したりと間者みたいな行動をとる、そして安和の変で皇太子廃立の陰謀があると源高明を密告して失脚させている。

藤原兼家に調略され裏切ったのか、大河ドラマ光る君でもお馴染みの摂関政治の権力者そして、この後兼家に臣従して、花山天皇の出家を兼家次男道兼の手足となって子の頼信とともに、加勢する。

次回頼信に触れるので、満仲について。

当初は、検非違使として将門の子をはじめ不逞の輩を取り締るとともに、武装集団を形成し摂関家と繋がるとともに、国司を歴任し等級も中国から上国へ摂津国に土着して荘園経営に着手して実績をのこす。

推測の域をでないが、若年時経基と同行した経験が生きたのでは?

兼家に臣従するのも、少なくとも30代、そして花山天皇の出家も60代ほとんど頼信が中心では?

そして、晩年を摂津国の多田の荘で迎える。

経基、満仲親子に共通点あるとしたら、こじつけがましいが、人生の岐路に二つのイベント承平、天慶の乱であったり、安和の変と花山天皇出家であったりと、これなしで清和源氏の台頭はあり得ない。

次回満仲の子、頼光と頼信

乱文乱筆、走り書き、ご容赦下さい









大乱を二回も逃し功を得られ無かった、トホホな人物のイメージのあった人だが、本当はかなりの野心家、臣籍降下に負けずに摂関政治に立ち向かう清和源氏の祖、それが源経基である。

事実以外というか、ほとんどが推定なので、一番確かなのが血筋、清和天皇六男、貞純親王の子そして臣籍降下の後、武蔵介任官、そして同僚の武蔵権守興世王と武蔵の国へ赴任、そこで二人の取った行動で今後の運命が別れる、多分二人とも臣籍降下をうけて赴任する、任地で徴税以外の貢物の請求、強請、劫奪をする(赴任先で財を築く手っ取り早い方法、やり過ぎは、中央に税を納める事が出来なくなり、降格に繋がる)。

在地の土豪は、慣習が無いと、っぱね平将門に仲裁を頼む、興世王は、将門と意気投合して、後の反乱に付き合い命を共にする。

経基は、納得せず、手打ちの宴を襲撃と勘違いして、

都に逃げ帰る、帰還する?

坂東においては、既に桓武平氏の高望王(将門の祖父の時代に臣籍降下して地盤を築いていた。)が上総介を拝命して三代において根付いていた。

ここで、経基が、慣習に従って搾取するより、桓武平氏の坂東での成功例を教科書に武家としての源氏の基礎を築いていくが、都での評価は、散々なもので尻尾をまいてにげかえり、官府の兵に反旗を翻したと報告するも、上総、武蔵より、誤解で調停済み、叛逆の事実はないと報告され、虚偽の報告のため投獄され、将門の乱が発覚するまで不運を味わうが、発覚後は、討伐の副将として任命されたり復職したりと、(平氏は、藤原氏の政敵の一部なのか?)、登用された?

屋敷を提供なりしたのか?

その後も藤原純友の乱にも副将を命じられているが、任地に派遣される前に鎮圧されている。

意図的に任命されているのか、現地で残党狩りみたいに、純友の部下を捕らえたに過ぎなかった。

そして、国司を歴任して、最終的に鎮守府将軍とたしか従四位下、公卿にはなれなかった。ただ本人、未だ武に錬れず(練達していない、残党狩りや、小競り合い

に終始、大戦に参戦せず、武門の棟梁として?)。

しかし武士としては、最高位しかし皇族としては不本意なのか?

しかし、財を築いて子孫に遺した、家は、落魄せず、その証拠に妻妾が多い?

子孫が多い、桓武平氏にも共通している。

ある種、家が繁栄している。証拠なのかも?

次回源氏の派生、清和源氏、嫡流満仲














源氏と言って、思い出すのが源頼朝と義経の兄弟が一般的で学校の教科書にも載っているので周知のことと思う。

しかし実際源氏と呼ばれる者、名乗る者は、多岐にわたる。

源氏二十一流といって、源姓を名乗る家が二十一家と沢山ある。

というのも、源姓のはじまりは、ぶっちやけ、フランクに、子沢山で増え過ぎた時の皇族の口減らし、その為、官位、土地、そして皇族は、姓がないので、姓を与え、自立、左遷(皇位継承権が無くなる)の意味がある、臣籍降下と言う。

女子、内親王は降嫁という。

平、たいら姓も臣籍降下の一つで平氏四流といって、桓武平氏の家以外は、途絶えてしまったらしい。

そして元に戻って、清和源氏、嫡流は、源氏三代と云われるように途絶えてしまったが、庶流は、全国に広がりをみせて、本物、偽者判別がつかないくらい存在する。

今回は、その鎌倉時代前半で、途絶えた清和源氏の嫡流について。

清和天皇六男、貞純親王の子が源姓を賜わって

源を名乗ったのが清和源氏の由来なのだけど、清和源氏を名乗るのは、天皇になれなかった皇子が、ほとんど、陽成天皇以外の男子は、臣籍降下したのでは?

というのも、たしか藤原氏の摂関政治のはじまりが、清和天皇ではないかと思うのだ。

臣籍降下して、貞純親王の系統以外は、落魄して名をのこさなかったので、貞純親王の系統を自然と清和源氏と称するようになった。

姓を賜わって、官位を得るが高位を得るか、財を築けなかったら、無位無官なので自然と落魄する。

貞純親王の子源経基は、武蔵介の官位、(国司の副官)を得て赴任する。

武蔵の国に下野したことにより、武門の清和源氏の祖となる。

次回、武家のはじまり






秀長の晩年、九州征伐を終え益々兄弟の仲は、冷えきっていきます。

四国、九州征伐と功績を積んでゆく秀長に、嫉妬と猜疑心が生まれてきたのか、ことごとく敵対というか、挑発的な態度をとります。

人誑しと呼ばれて、人の心を掴みますが相手を思っての行動でなく、あくまでも目的あっての行動で利用価値、存在意義が無くなると簡単に切り捨てる。

秀吉にとって、目的を達成する道具でしか無いのか?

あれ程、信頼して背中を任せていると言っても過言でない秀長も簡単に切り捨てるというか、自分が一番でないと気に入らないのか?

考えてみれば、今までの秀長の活躍は秀吉にとつても、直接でも、間接でも秀吉の利益に繋がるものだった、小牧長久手の戦までは秀吉の部将としての活躍だった、秀長個人の評価でなく秀吉軍の評価となった。四国征伐からは、秀長個人の評価に繋がり、秀吉はたいしたことが無く本当は、全部今まで秀長の功績、秀長あっての秀吉と周囲に見られるのをおそれたのでは?

意外と、自分が一番で人のことを認められない、器の小さい人間だったのか、恩賞の与え方も気前がよくみえるが、後先考えず、その場の功績のみの評価で末永く徴用してゆく考えでなく、実力不足をかんじれば、容赦無く減封する、自分一代で家のこと子孫のことを考えた封地ではない、五大老、五奉行も後年、石田三成の豊臣家を守る為の制度で、森忠政、池田輝政、宇喜多秀家、蒲生氏郷に対する処遇は、刃向かわない為の牙を抜くためのもの。

そして、1588年二人の溝を埋められない、決定的な出来事がおこる。

普通では、考えられない他家の家の事に干渉、他家の後継者に干渉すること、余程落ち度がある時以外は、考えられない事である。

ましてや、豊臣家随一の功臣に対してである、勿論拒絶のひと事、理不尽極まりない仕打ちであり、出仕も拒絶し戦も辞さない、一触即発の事態になった、さすがの秀吉も、事の成り行きに拙さを感じつつも、振り上げた拳をおろすこともできず、石田三成に頼るしかなかった。 

秀長は、謀反も辞さぬ覚悟で、兵を迎えて戦うつもりでいた。

秀長サイドも、さすがにこれは拙いとおもい藤堂高虎が、戦を避けるため石田三成と交渉をはじめる。

結局、筆頭家老の藤堂高虎が、養子に迎えることで、戦を回避した、この頃から秀長は、病床に伏せるようになり、内政一方になる。

寺社勢力を駆逐して、商人も城下に集め寺社勢力と切り離す、一揆に対しては刀狩りを行い税の軽減につとめた。

検地や刀狩りと石田三成の政策の手本となった。

朝鮮出兵に反対し病床の為、1590年北条討伐では留守居をつとめ、翌年1591年自領の大和郡山で亡くなる、

光と影が、逆転しそうになつた。

いや、秀吉と秀長、光をあびたのは、やはり秀長だったのか?

その葬儀には、諸大名が駆けつけ、そればかりか領民をはじめ庶民も秀長の死を悼み、参列して、その数二十万を超え山野を埋めつくす程であったと記録された。信長の葬儀でも、三千人と言われ、秀吉の葬儀は、その死をふせられ身内のみの淋しい葬儀と聴く。

もじどうり、秀長はその行いを天に賞されたといっても過言でない!

秀長の死後、内政を浅野長政の実権が石田三成に移り、千利休も切腹を命じられ、秀次切腹により、秀長を中心としてきた、尾張古参衆と一門衆を完全に、廃除した形となった、秀吉の下のこつたのは、政権を支える官僚と平和になったら粛清の対象にしかならない、秀吉子飼の武断派実際、豊臣政権の衰退を招く結果になっている。

朝鮮出兵は、武断派存続と諸大名の不満を別の方に向ける手段なのか、重商主義なら秀長の政治を継承していけば問題ないのに、自分が一番、最高の存在と考える秀吉には、人を利用するだけで人を認める事ができないのか?

所詮、竹中半兵衛も、黒田官兵衛、そして秀長も、更に、石田三成も切り捨てる時が来たら躊躇なく切り捨てるのか?

それと晩年秀吉は、アルツハイマーの進行で判断できなくなってきたのか?

誓詞を信じない秀吉が誓詞に頼るようになるとは、すごく皮肉を感じる。

秀吉の名前で、石田三成が死ぬまで書状を作成していたのか?五奉行か?

晩年の奇行の説明が出来ない。

秀吉こそ、晩年天に見捨てられた愚かな男なのか?

追記、秀吉の晩年をしらべて、北政所は、従来徳川よりとみられてきたが、西軍よりだったという解釈がある、実家の木下家は、西軍で改易、京でも家康の保護は無く、封地も削されたとか、家康の保護でなく秀忠の保護だと。

というのも、1590年より豊臣家に人質として数年過ごしている、その時、北政所の下でくらし、身分にかかわらず別け隔てなく接してくれた事に恩義を感じたのではとおもわれる。

寺院も保護して、化粧領として幾分か与えている。

北政所と淀殿の間の確執もないと。

長く続いた秀長と秀吉も今回で終わりにします。

自分でも反省するところが多々あるので、改訂版を必ずだします。乱文乱筆、推敲の余地があるので、必ず改訂します。

次回は、清和源氏の光と影