八幡太郎義家はどんな人ときかれると、まず武勇に優れた、後世にまで伝えられる源氏の棟梁、前九年の役と後三年の役を戦って勝ち抜いた勝利者。
戦の恩賞を申請しても、私闘と言われてもめげず、自分の財産、自腹で部下に恩賞を与える大度な人物、当時の武者の尊敬を集めた武士の中の武士、ヒーローである。
今でも、その認識で間違っていないと思う。
しかし何故その名声が一代で消えてしまったのか?
同じ境遇の武士をあげれば足利尊氏、次の代の義詮の名声は、いまいち三代義満は、かろうじて有力な一族にたすけられて政治を行うが、その後将軍家は、一族に権力を奪われてしまう。
義家も尊氏も名声はあるが、実力がなかったのでは?
尊氏は、近江佐々木、播磨赤松の後援無くては自力で
直義に対抗できない、一族は日和見でどちらにも付く、それと同じで義家にも不遇の時期があり弟義綱にとってかわられる時期がある。
後三年の役の後、私闘につき恩賞無沙汰のとき、官位陸奥守を剥奪され10年間役職に就けなかった、徴税を怠り、土地の収益を戦費に消費したためだ、未納の税と恩賞を私財で賄うという途方もないことをやってのけた、未納なら懲罰をうけても不思議ないのに、自腹私財で賄う、河内源氏の惣領、頼信、頼義の継承者たる実力なのかもしれない。
諸国の土豪達の支持をうけて土地の寄進をうけ、貴族たちを怖れさせる、荘園寄進禁止も寺社石清水八幡宮への寄進にしてしまう、八幡太郎の由縁か、生まれの段階からの銘々なので関係ないと思ったが、義家の兄弟も寺社を隠れ蓑にしたのか?
賀茂二郎や新羅三郎も?
義家の無官の時に台頭したのが賀茂二郎義綱、摂関家と結びつき義家と対等に渡り合える実力をつけるも、摂関家の代がかわると、師実から師通は、寺社仏閣のたたりか若死すると、権勢が摂関家から白河院に移り、義家が御前に召されるようになり、公卿とはいかないが院昇殿を許される、江戸城に登城して御目見得できる身分直参旗本みたいな身分、武士ではじめて上皇の御所へ参内できる名誉なことである。
ちなみに天皇の御所への参内をはじめて許されたのが平忠盛である。
義家が無位無官の時期があった為、義家と兄弟義綱、義光の実力が拮抗してしまった、これが源氏が平氏にとってかわられる原因の一つと考えられる。
武士の台頭に対する。貴族の牽制、怖れで武士の力を分散させる一つの手段、更に伊勢平氏の登用もそのひとつ。
かって坂東平氏の力を削ぐため六孫王経基を武蔵介に任官させたり。
源氏に対抗させる為、奥州藤原氏の政策をみとめる、
自分は、押領使に一歩引き、軍事支配権を認めてもらい、国司の派遣を認めるその代わり、砂金や馬の貢物を納める藤原清衡の提案を受け入れた、一見源氏は、恩人みたいなかたちをとりつつ支配を巧妙に避ける清衡の深謀遠慮。
義家の功績をみとめると、奥州の砂金や馬が源氏の支配下におかれてしまう、藤原清衡に任せたほうが安心である、税収もある。
貴族は、源氏を警戒して策をこうじるが、地方へ武士の勢力を派生させるというデメリットもあった、足利氏、佐竹氏、武田氏、畠山、千葉氏、三浦氏等の後の有力豪族を輩出してしまう。
義家の力を抑えることに源氏の台頭を阻害することには、成功した義家の死後、源氏はその勢力を徐々に失ってゆく義家に源氏の権力を集中させなかつたため。
あくまでも自分の推測で、義家は、源氏の嫡流正統でないという想いが他の源氏一族にあったのでは?
源氏の正統は、河内源氏でなく多田の荘の摂津源氏だ!
源満仲の嫡子頼光の子孫が正統だから支流の河内源氏が正統を名乗るのなら俺にも正統を名乗る権理がある。
その考えが、頼朝の時代甲斐源氏が正統、常陸源氏が正統と武田氏、佐竹氏が従わなかったのかもしれない。
後の足利、新田の源氏の正統を唱える理由なのかも?
次回義家の死後