本題に入る前に、あの時代大阪ではなく、間違いなく大坂なので漢字の訂正をします。

まず、徳川家重が、暗愚、無能でない前提での、後世に遺した功績を記述して、それを前提にして話を進めてゆきたいと思います。

世界で初めて予算制度を制定した人物

米の酒造りの解禁と奨励

勘定吟味役の増員と権限の拡大

治水事業の割振り(薩摩藩、他4藩への強権をもって任命)他の将軍の割振りは、拒否もある程度認めたが、将軍自らの指示

年貢米以外の税収、商工業への課税(米経済から貨幣経済への移行)

郡上一揆の鎮静化と不正の摘発

徳川家重の功績で、勿論彼一人では不可能

でも、それを可能としたのが、大岡出雲守忠光のサポートである、家重無能、暗愚とされた、脳性マヒの障害をカバーした存在で、一部では忠光が家重の言を私、自分の物として政治を壟断していた奸賊だときめつけ非難を浴びていたが、オランダ商館商館長によると将軍家重には、忠光こそ真の友であると言わしめている、吉宗に家重の小姓を命ぜられてから、献身的に仕えたとある。

その証拠が、家重の呂律のまわらない言語を、読唇や顔色(手話、独特な合図)等を用いて理解した。

普通の人なら親、兄弟でもない限り、そこまで尽くさないと思う。

あくまでも、暗愚、無能否定説

功績について、世界初めての予算制度とは、歳入に応じた歳出を決めたこと。

海外の予算制度は、歳出を決めてから不足分は、増税で賄うというどんぶり勘定そのものて、歳入に応じて歳出を決めるというのは、家重が世界初らしい、その記録は、日本に残っておらずハーバード大学の日本史の資料に残っているだけだそうだ。

米の酒造りは、吉宗により禁止されたもので、米の過剰生産を解消する為の政策で、米の過剰生産で値崩れしな米価の調整する為のもので。

吉宗の経済オンチを露呈するものである。

経済オンチでも、カライモの生産と学問の奨励は後の世に役立っている。

勘定吟味役の拡充は、後の世の会計検査院に寄与している。

強権をもっての治水事業の割振りは、割振りられた薩摩藩には、うらみをかうことになるが、地元民には、薩摩義士と崇められ、郷土に貢献するかたちとなる。

以後、無理な割振りをしない、工事資材の提供等の改善をはかりる教訓となった。将軍の親征による無茶ぶり。

酒造りとかぶるところもあるが、年貢米以外の収入を模索する。

これを踏襲したのが田沼意次の政治、勿論意次は、家重の手足となって家重の政策のいちじょを担っている。

それが、郡上一揆の鎮静化と不正の摘発、家重の命により遂行している。

それが後のの家重の家治への遺言、田沼に任せよであり、なぜか?すべて任せて隠居同然の暮らしをしてしまう。

家重によれは、田沼は、真面目で出来る人間で、障害のある自分に真摯に仕えてくれる数すくない味方であった。

ただし、この功績すべてが障害がある身故、みとめられず空白の15年となっている。

口さがない者達が小便公方と揶揄したりするのも、そのせいである、田安宗武、松平乗邑をはじめとする、政敵の執拗な妨害、将軍を非難することは、許されないことだが、それ以上に敵が多かった、吉宗より家重が改革を行なっているといったほうが妥当だとおもえてくる、吉宗は、政治を家康の時代に戻そうとしただけで。

寛政の改革の松平定信も時代を逆行しただけで、5年で頓挫している。

最後に賄賂政治の元凶は、大岡忠光にあり賄賂と寄付の区別もつけず、政策の資金にしてしまったことにたんをはっしている、溺れるもの藁をもつかむの状態だったと思う、財政が破綻していた状態なので。

それもふくめて奸賊と言われているのかもしれない。

後の田沼意次も、金に良し悪しもあるものか?と財政に窮していたら、区別せず資金にあてている。

そして現在は、大岡出雲守忠光の将軍の言を私した専横で片付けられている。

次回は、趣きを変えて歴史とはを書く原点に戻ることを意識して、NHK大河と世相 においてと 現代に視点を変えてみたいと思います。

追伸、巻頭にいつも趣味の空の写真を載せています。人によっては同じ風景にしか見えないとおもわれますが一期一会その時その時同じものなど一つとしてないとおもっています。つまらなきものですが、慰みにでもなればとおもっています。



本当に、これ程人を馬鹿にした話はないと思った。

停戦?終戦じゃないんだから、つかのまの平和でしょ。

あからさまに、お金と武器が足りないから戦争休みましょで、戦争は二度とやりませんではない、みえみえでしよう。

まるで大坂冬の陣みたいに、外堀埋めてから戦しましょうといっているのとおなじで。

百歩譲って停戦するなら、ロシアが戦線放棄さらに軍縮してウクライナに賠償金を支払つたうえでの停戦だろうと思う。

これだけ、無抵抗の人間を殺しておいて、ただ休もうなんて、それだけむしのよすぎる話しもないものだ。

賠償金は、必要だローマがカルタゴにかした50年立ち上がれないほどの賠償をさせるべきだろう。

ロシア側としては、停戦してしまえばこっちのもので、破棄してしまえばと思うかもしれないが、更にモスクワに約束をまもらせるための監視の実力行使できる駐留軍をおく。

それくらいの条件は、必要で。

ウクライナ側も停戦を破棄したら、即モスクワをドローンで攻撃できる準備をするべきかも。

それとトランプ大統領は、ノーベル平和賞でなく、それ程迄にして侵略者になりたいのか?

アメリカの利益は、血より重いものなのか?

感情がたかぶって暴言に近くなってきた気がしたので終わりにします。

ハッキリ言ってウクライナ停戦は、今大坂冬の陣でしょう。




織田信長女人説、前回追記、本能寺の変において、死体、遺骨が見つからないのは、女人だからでは、男と思って探して、巻き添えをくらった侍女の遺体と一緒に埋葬したら見つかるわけがない、本能寺に侍女が、いなかったというなら話は、別だが。

それと、比叡山焼き討ちの理由、肉親の怨みは、越前一向一揆の虐殺で、浅井、朝倉の残党を匿い、必要以上に反抗したことと、僧でありながら、色欲、物溺れ本分をおろそかにしている。が理由、長島一向一揆の虐殺は、復讐です。

長くなってすいません。

徳川家重、在任期間15年、36才に就任、吉宗の後見付き、理由は、長幼の序を重んじる為、孫の家治が聡明なので、家督を継がせる為(家康の遺訓を守る為)。

女人説の理由、一番は増上寺の発掘調査で家重と推定される、遺骨が女性のような形をしていたというのが要因、埋葬の仕方も女性の正座だということで。

反論すれば、田安家や反対勢力の悪意?

それでも、歴代の将軍の中で顔の形が整っていた(美形だった)。

女性としたら吉宗の正室のどうしても、将軍職を継がせたい継承しても短期だから?

なら孫とされる家治は、家重の正室と吉宗の不倫の子

、自分の子に将軍職を継がせたかった(不倫を隠す為)。

総じて家重女人説は悪意があるような気がしてならない。

遺骨も悪意をもって別のものと取り替えた?

と考えるのも、兄弟の確執の凄さを感じるからか?

これは、きめつけ邪推の域をでないが、田安宗武をはじめとする反対派の怨念、特に田安宗武は、登城出仕三年差し止めを二回申し渡されている。

自分が将軍に相応しいと訴え続けていたらしい。

その諫奏の中に欠点が多くあったので、家重の不興をかい生涯目通りを許さ無かったほどである。

ここで、幕府重臣の英明は、少し疑問がのこる。

彼らのいう英明は、裏を返せば自分たちが望む政治をするうえで扱いやすい、都合の良い人物という考えも入っいる。

その考えでいけば、後年の大岡忠光が政治を独断で牛耳っていた(影の黒幕)という説もある。

近年、独断独裁は、ないということになっている、というのも、ここから大岡越前守忠相と区別する為(忠光の伯父にあたる)大岡出雲守忠光なので大岡出雲と書いていきます。

家重と忠光には、意志の疎通方法があって、推測するに、読唇か手話のたぐいで意思疎通をはかっていたと想われる。(筆談は?)

宗武と家重

宗武は、家重の世話をしていた吉宗の側室が産んた子供で宗尹も同腹、二人共聡明と云われている。

あくまでも、学問の出来なのか?

対する家重は、障害をもって生まれたのか、脳性マヒで、言語障害で呂律がまわらない、成人するまでは、何不自由のない暮らしができたが、障害故か学問や武芸を好まず、酒に溺れ猿楽に興じていたという。

ただ脳性マヒと言っても、自分も思ったのですが知能がないのでは?

調べてみると、脳性マヒ、イコール知的障害ではない、合併して発症する場合もあるが、知的障害ではない思考能力はあるということだから、前術した、読唇、手話、筆談も可能、言葉の変化を微妙につかむでなく、やはり二人共通の意思疎通手段があったと思う。

やはり、将軍職も本人がのぞんだものでなく、吉宗の意志だと想われる、だからこそ宗武の批判が許せず、生涯許さ無かったのではと想われる。

反面宗武は、生涯悶々とした想いを持ち続け子の定信にも、その想いが受け継がれたと思われる。

結論、家重女人説は、障害を持つて将軍であり続けなければいけなかった家重への侮蔑のようなきがする。

家重女人説を取り上げたので。

次回、田沼時代(むかしは、分かりやすく、そう称していた。)の元となる家重の治世

田沼意次が優れた政治家と評されるならば、失われた15年は、非凡なものであったと言えるからだ。

続編として、徳川家重と大岡出雲守について








ネット検索してみると、あり得ないの反論が続出している。

上杉謙信女人説は、八切止夫先生の宣教師の報告書を始めとした、海外の記録。

自分としては、残虐性が一番の決めて何故そこまで残虐になれるのか史実では人の死をよろこぶサイコでもないとすると愛憎の特に深い人間女性だということ、男にしては、あまりにも繊細な愛情を注ぐところと非常に慈悲深いところ。

後でネットでいち早く信長、女人説を唱えた人がいた佐藤賢一氏の女信長という小説と同名映画、実際観たことはないが。

女と仮定して、何故家督が継げたのか?

父織田信秀にあるのか、信秀を追ってみると、信長の他、家督を継げそうなのが庶兄の信広と実弟信勝(信行)

どちらも織田家のゆくすえを想うと不可だったのか?

信広は、信秀の正念場ともいえる小豆坂において、一方の大将として働いていて結果をのこせなかった、安祥城の守備を任されて捕虜となり、西三河の覇権を喪うという結果になった本人の責任ではないけど器量は無いと。

一方で、信勝、土田御前(信勝、信長実母)と側近みて、織田家は短命だと聡った?後の彼等が実証している。(

桶狭間の戦いで籠城を唱える)。

でも何故信長を後継としたか?

織田家の生命線ともいえる、津島湊と熱田湊を発展させた実績なのか?

戦の才を信長に見出したからか?

気性、男女問わず誇り高くて気性の荒いところ、戦に対してに信秀の教えに忠実なところ、その証拠が戦において籠城はするな、偶然なのか信長、秀吉、家康(大高城と浜松城三方原において最後は籠城)は、籠城が少ない、信長は、籠城皆無、秀吉は、浅井長政の時、横山城守備をしているこの時だけ。信長は、本能寺の変以外(籠城と言えない?)野戦のみ信秀の遺言どうり、城をでて、できる限り遠く離れて戦っている。

できの良いと称される信勝より、信長を選ぶ従順な信勝より教えに忠実で非情にもなれる。

そして、信秀は信勝の性根も見抜いていたのかもしれない、家臣の反対を制して家督を譲る。

それが女人だとしても、才を優先した。

家臣が女人に家督を譲ることに抵抗した裏返しがうつけ?信長は、必要以上に着飾った女ゆえといえないか。

島津の盆踊り女装して女踊りをして祭りを盛り上げたというし、後日祭りの顔役が返礼の挨拶に伺ったほどで、熱く歓待したという。

傾いたのも、女故で着飾った、反論として信長の性癖衆道ということもあるが、信長の味方における過度の信頼、乳兄弟の池田恒興や荒子の前田利家等、米五郎左こと丹羽長秀、自分の名を与えたほど信頼していた、恒興、長秀は、信長の汚れ役(秀吉が来る前)、暗殺等、調略、交渉、物資調達、等。

身分の上下を問わずといってはいるが、家督を継いだ当時、ネットでは、信勝陣営は、柴田勝家、林秀貞、等家中の家老たちで1700にたいして信長は近臣、平手政秀、を中心にして700と圧倒的に人数では、圧倒的不利、ただし津島、熱田を領土としている信長の資金力では比べものにならない、女故等、金銭に固執することを卑しいという武士の感覚がない、経済感覚に優れている。つまり兵の過小を補うため、身分の低いものを味方にするため、村むらを巡り相撲をしたりして、人材を探す、その時、金銭も必要だが、栗とか干し米(

ひなあられもどき)等の食べ物、酒と水(ひょうたん)文句なしに、相撲の褒賞に使っていた?

狩りの獲物は、近臣、やはり村人へ、そして平野の多い尾張の地形を調べるそれが狩りの主目的、それと軍事教練も兼ねる、女人だと体力的に?馬術と武芸でカバー、兵の過小をカバーするため、鉄砲と長槍、弓、戦術、隊列、始皇帝の伍を組むのようなもの、弓、槍、鉄砲、三段列は、以外と早かったのかも、過小を補うこと、つまり頭脳で男を上回った。稲生の戦いの勝利も。

過小を補うため連携を考えた?女故

そして女人の理由、手打ち斬り捨てが多いは、女と侮った者への見せしめと生理的嫌悪感を感じて耐えられなく斬り捨てる(無礼者には違い無かい)。

故に、普段は温厚で気さく、短気ではなく考えが深い、深謀遠慮である、桶狭間の戦いもその賜物。でも、叡山の焼き討ち更年期なのか?

そして信勝の助命もその一つ、しかし信勝の謀殺は、背後の土田御前との確執によるものとおもえる、女と女の相容れぬ愛憎、嫉妬によるものか?

そして、女なら多くいる子供は?理由信長は、子沢山は何故?

信長が女性として仮定したら、実子は信忠と信雄のみ、思うに、丹羽長秀、池田恒興、もしくは、種馬的な男性がいたのでは?実際正室濃姫には、子が無い信長女人だから?

そして生駒の方、吉乃は、ダミー?そして、他養子か子供に愛着を感じていないふしがあるため、影武者に産ませた、若しくは、ここまできたら双子だったのか男と女の女が当主で男は、影武者で、双子及び影武者言い出したらきりがない。

それこそ武田信玄、徳川家康の影武者説が成立してしまう。完全否定は、しないが本当にワンポイントは、信玄にしろ家康にしろあったと思う。

長期的なものは、皆無、信玄は、三年ふせたはない個人的な意見ですが。

史実にそって女人が難しいというのは、衆道説の可能性がある、桶狭間の戦い以前、と若年好んで両肩を露わにして相撲をしたという記録、サラシをまいて誤魔化した?相手を限定して相撲をとりわざと男をアピールした?

衆道の疑いは、前田利家、森可成、森可成が戦死した時は、怒り狂ったというし、後年森蘭丸と関係があったとか?

信長は、とくに森可成が戦死したとき深く悲しんだとされる、その後伊勢長島一向一揆で親族が多数戦死したことを悲しんだとされる。

その結果叡山の焼き討ちに繋がったとされているが、

坊主といって、僧をことごとく嫌ったのは、豊臣秀長と一緒で、無知で無力な人間を騙して搾取している坊主も嫌ったが、秀長と違った処は、洗脳、騙されて手足となって、刃向かう者も同罪として皆殺しにしたことだ信者も手先とみた。そこが秀長と身分が違う処、

秀長は、騙されて憐れだと思った後の寺院、商人切離しの政策に繋がる。信長の政策、考えは秀長の手本となる。

話は、前後するが金ヶ崎退き口は、女性の発想?駄目だと思ったらすぐ切り換える。

上洛して、新しい外国文化に触れて、すぐ採り入れる、古き習慣に囚われない、革新的な性格、服装等、積極的に採り入れたり、南蛮具足を着用したり、習慣風習に囚われない、迷信、祟りを信じない。

不合理、不条理を憎む。

京での生活が、公家や天皇を敬うということに欠ける、権威に対する畏敬の念に薄い。

旧体制にたいして、尊敬がない、天目山にて勝頼にたいしても、過去の遺物にしか見えない。

そして、徳川家康に対して当初弟のように慈しんでいたのに、浅井長政の裏切りからか、姉川の戦以降からか、冷くなっていく、同じ弟同然と思っていた浅井長政の裏切りで、考えたのか、始めから武田氏と北条氏の抑えの意味での同盟だったのか、長篠の戦以降、武田の脅威が、薄らいだので、同盟の意味が無くなった

、それでも五徳姫の婿だったので、家臣団の1列に加える予定だったのが謀叛の疑いで切腹、一説によれば、信長は、殺す気などなく、酒井忠次の讒言により

激怒したと言う。酒井忠次が三河衆の石川数正を牽制するための策で、石川数正の立ち位置が悪くなったという、反対に長篠の戦いで武田軍を奇襲したことで、

株をあげている。家康は後に安土で信康の助命をせず、見殺しにしたことで、後年酒井忠次の息子に加増しないときに、加増を申し出たとき、お前でも息子が可愛いのかと聞き返した実話がある。

一時から、家康に対する親愛が薄れる、女人のきまぐれか、癇癪か。

武田家滅亡から、天下の平定のあらかたのめどがついたので、かなり油断したのか、畿内に兵が手薄となった、ここで信長ごとき女に従えるかという勢力が、明智光秀を焚き付けて謀叛を起こさせる、天皇、公家陰謀説を唱えてみる。

四国長宗我部征伐失敗や豊臣秀吉黒幕説のほうが信ぴょう性があるが、皇室黒幕説をとる。

長文になり恐縮なのですが、信長が愛したのは、信忠と信雄だけ、腹を痛めた子だから。

歴史的に女人だからあり得るという場面をみて女人説を検証してみました。

いささか、こじつけもありましたが幾分か納得できるかと思います。

次回女人説、最後徳川家重、吉宗よりも名君かもしれなかった、病気の為、女性の為事実を捻じ曲げられた悲劇の将軍。女人説は、最後にします。





















上杉謙信女人説、白分なりに決論は、でたのだが、そのうえで、なにか書き足りない感じがしてならない、酒好きなとこ、川中島、関東遠征、上洛等、あえて続編をだそうと決意しました。

織田信長で女人説を辞めようとしたのですが、もう一人、女人の疑いのある人物に気づいた織田信長の次は、徳川家重を取り上げてみることにした、理由は、田沼意次の出世とかかわりがあるかもしれないからだ、

前置きが長くなってきたが

織田信長も構成を前編と後編に分けることにした。

前編を女性と思われる根拠そして後編は、史実にそって検証である。

一つ目は、残虐性、単なるこじつけに過ぎないといわれるが、比叡山焼き討ち三十代後半更年期の始まる時期と女性特有のおぞましいものを嫌う傾向をみる、仏教僧として物欲、性欲に溺れる姿を嫌っていた。

汚らわしいもの坊主共は、畜生にも劣る根絶やしにする。

親しき者への情愛が、濃い親しき者を戦で亡くした後に、虐殺している、報復の意味あいが強い。

長島の一向一揆のあと、親族と近臣を亡くした後、

翌年の越前の一向一揆でも。

二つ目、着飾る、お洒落に関して(おんなゆえ)、婆裟羅ものとか、傾奇者とかいわれるが、うつけも女性を隠す手段では?

計数にあかるい、経済にあかるい、利に聡い、当時の武士の常識を逸だつした経済感覚、古い概念に囚われない、宗教にしばられない。

三つ目、無防備、こわいものしらず、上杉謙信と似ている、なにものにも怖れない、天性のもの恐怖心がない、二人とも幼児体験によるものなのか?

やはり、天皇、公家、足利義昭、本願寺等旧勢力等が、極度に毛嫌いした理由。

本能寺の変の理由、女性に天下を取らせたくない、支配をうけない。

人材の登用、身分のあるものは、女だと侮る、男尊女卑の社会故に、身分を問わず登用した従順だから。

しもじもの人間に気さくに接する。

怒りっぽい、沸点が低い為よく手打ちにした。

裏切りに寛容だが、限度を超えると残虐、有岡城の虐殺、長島一向一揆の虐殺等、

次回は、史実にそって検証してみます。





なんでフジテレビ問題は、こうもイライラするのか、被害者の気持ちを逆なで、するようで可哀想、女性でなくて、男性から見ても、放っといてあげれば、静かにしてあげてくれ、そう思う。

これって結局なにがしたいの?

それと、これだけ世間を騒がせているのは、フジテレビだけでないでしょう?

何故週間文春は、記者会見をしないの?

松本人志に続いて、中居正広、どうでもいいけど、一方的に好き放題、報道しているけど説明がない、ハッキリいって、独りよがり、自分さえ喋れば、後は勝手、説明責任があるのでは?

そう何故腹がたつのか解った、一方的に喋って(報道して)後は自由、無責任だから、これだけ世間を騒がせて、報道し放題、勝手すぎるから腹が立つ

でも、この憤りこそ危険なのか?

誹謗中傷に繋がるのか?

そして、フジテレビは、こんなものを報道しないで、欲しい、突き詰めれば、何処の放送局でも、でてきそうだから。

フジテレビが、スケープゴード、まるで他局の生贄みたいだから、こんなことは、特別臨時株主総会でも開いて、10時間と言わず、きのすむまでやって。

役員総入れ替えでもすればいい。

このまま、問題が、続けば被害者の実名の公表を好奇心でする者があらわれるかもしれない、やめて欲しい、静かにしてあげて、

フランストレーションの発散で、余計な一言と思いつつも、イライラして書けないのでブログしてしまった。

本題に集中したいと思います。

まずキッカケは、宣教師の記録、スペイン国王に、送った報告書や、宣教師の日記、阿虎(別人かも?)とか、欧州の古文書、海外なら日本のタブー(禁忌)は、関係なく遺っている、可能性として。

金山の開発は、直江兼続が佐渡征伐を行なって、それ以後の話ではあるが。

謙信は、青そという繊維の原料の権益、商工業、産業の領国経営に邁進していたので、2万7千両の遺産をのこしている、豊臣秀長の56万両の遺産と比べて、どうこう言えないが、越後一国を思うと少ないとは言えない。

一つ海外の記録

二つ目は、死因と遺品

晩年、腹痛に苦しんだと云われている、婦人病の疑いがあるとか、女性でないので詳しく根本をつきとめて確証を得ることはしない、大虫の疑いありと、

その他、怒りっぽいと自他ともに、みとめている。

更年期なのか?

他後で、言及するが性格的な問題から、偏見も多分に入るが可能性として。

そして、遺品に多くの女性の着物、衣類等が遺されていた。

可能性だけなら、直江兼続の重用の可能性として、謙信の実子?人材不足といえばそれまでだが。

三つ目は、その戦術と政治

あえて仮定として、女ゆえ先頭にたって先陣をきって武をしめさなくては、兵がついてこない、兵の士気をあげるため、一例としてフランス百年戦争のジャンヌダルクのように、先陣をきって武をしめさなくては、兵が従わなかったみたいに。

裏切りにたいして寛容なところ、毘沙門天の化身と形容されるくらいに、そして癇癪もちなところも。

ただし、信用して任せるというところが少ないような。

故に戦線を維持することが出来ず各地を転戦して、領土拡大に繋がらない戦いをしている、裏を返せば義理がたいとなるが、任せられる部下を教育せず、ワンマンで戦をしていたように思う。

だから、死後弱体化し、領土を縮小している。

謙信一代限りの強さ、後に越後流軍学の元になる、

弱点を即攻撃して、寡兵で敵の指揮系統を潰す、故に、拙速遅いということが、この兵法にとって致命的弱点になる。孫子の疾きこと風の如く、攻めること火の如く、武田信玄の風林火山そのもので、そして兵の多いことが勘定に入っていない。

だから、謙信の戦の記録に20騎で大軍に討ち入り城に入城するとか、手取川で織田軍、4万を寡兵をもって、打ち破る等枚挙にいとまがない。

少数精鋭、あまり人と交わらないのではと思う。

男でも、その難しい兵法、すべての事象から弱点を見抜く洞察力、分析力は、理解し難く、理解されがたく、近づき難かったのでは?

ゆえに、酒を飲む、ノミニケーションを利用したのでは?

男も女も酒のまえでは、男女の壁も関係ないのでは、特に酒に強い、酒豪。

そして、裏切られるのは、男尊女卑で女になんか絶対服従したくないというエゴではと思えば辻褄があわないだろうか?

反論の余地あり過ぎではあるが。

そして家督を継がせたくなかった理由

いくら強くても........。 

幼少からてがつけられなくて嫁ぎ先がない出家しかない、武芸、兵法、男の好むことをこのむ、この時代、ジェンダーフリーではないので性同一性障害は、理解されない、極論すぎる。証拠がない。

そして、一番の可能性、戦死者の家族によく手紙を書いたとされる、女性に似た筆跡で、未亡人にも、普通、男が戦死者の妻に手紙を書くと戦死者の兄弟、親族が疑念をもつ、そう自分の側におくと、でも謙信が女性と仮定するとなんの抵抗もない。

勇気ずける為だと。

織田信長も秀吉の妻寧々に手紙を書いたのも、別の意味があったが、秀勝を養子にとらせるためで、やはり意図があり、疑念をもたれる。

そして、生涯不犯の誓い、宗教の戒律と言えば、それまでだが、女をそばにおかぬより、ダミーでも結婚すればと思うのだが。

上杉景勝が、関ヶ原の後幕府に隙をあたえぬ為、隠したと言う説もある。

結論、どっちにも転がる。

確定する為には、謙信公のミイラ、御神体を調べれば解る、遺族の反対で実現していない。

血判からのDNA鑑定か?

結論、偶像のままでいいのでは

次回これも、可能性がある特に残虐性の理由など

織田信長女人説





関ヶ原の合戦が、東軍の勝利で終わっても安心の出来ないことが多々あった、関ヶ原に参加しなかった大名たちの去就と豊臣家と大阪城の二つである。

黒田官兵衛と加藤清正の二人、家康にとって不確定要素、敵対して西上されたら、もう一度関ヶ原クラスの合戦をしなくてはならず、天下をそのまま二分しかねない状況になる。

そして豊臣家、まだ天下に号令できる立場なので、近臣のものが兵権を握って、秀頼の名前で、論功行賞するといいだせば、家康の苦労が水の泡になる、それが出来るのが、現状では毛利輝元である。

本当に、残念な総大将である。

あえて毛利元就が天下を狙わずといったのも、うなずける。

実際は、狙えないである。

余談になるが、毛利家で天下を狙える器量があるとしたら、それは、毛利隆元ではといわれる、というのも、元就は、当初陶晴賢と共存していく方針だったのを、隆元がそれでは、国人領主達が従わない毛利と同盟を結ぶ領主が離れる、晴賢を討つべしと説得、毛利が、大大名になる基礎を築いた。

隆元亡き世では、勢力を維持するので、精一杯と見切りをつけた。

本当は、3本の矢どころでは無く、小早川、吉川の連携など無く、山陰、山陽とバラバラで毛利輝元は、今時の三世議員と同じで、やらされ感まんさいの主体性のない坊っちゃんで秀吉の時代、調略で家中がボロボロの状態だったのでは?

なので、一番始めが宇喜多秀家で2番めが前田利長で一番危ない上杉景勝を3番に、そして調略で傾いている毛利を最後に持って行った。

家康には、吉川広家も毛利輝元もどうにでもできると判断してふしがある。

もし隆元ならば、大阪城にこもり、姫路城あたりに後詰めして、京へ兵を繰り出し、宇治、瀬田と橋を落とし、西国に兵の召集をかけていたに違いない。

前回の石田三成、黒田長政は、このことをふまえて、話をしてきたのではと思われる。

戦後黒田親子の会話にも出てくる、右手に書状、お前の左手は何をしておったのだである。

九州で兵を集め、虎視眈々と天下を狙える位置にあったのに邪魔をしょってと、やはり天下を二分、三分できる状況を確信していたのだ。

そして、石田三成もその状況を確信していたので、大阪城を目指して落ちていったのだ、石田麾下の兵達は、主人の意志を叶えるべく殿して死んでいつた。

しかし三成は、頼朝と違って本当に運のない不運の将と言える、腹下し体を冷やしすぎて、胃腸の弱い文官なのか?長浜時代鍛錬をしたと言う話をきいたが、同じ近江の藤堂高虎と比べると付け焼刃なのか?

三成が無事大阪城にたどり着く、家康より早くそしたら、もう一戦避けられなかった、立花宗茂の兵もいたので、一緒に入城したなら天下は二分されていただろう。

そして真田昌幸も、何故勝てなかった、これだけの勝つ要件が、そろっていて、もし自分が大阪城にいたならと、絶対に負けない、負けるほうがおかしい、そう思いつつ、悶死したのではないか、後年の真田幸村の献策の元となったのが真田昌幸の口癖だったのだろう。

そして大津城の家康、一刻も早く大阪城に入城したかったのでは、毛利輝元が城を明け渡すまでと、秀忠が、兵を連れて来るまで、なにしろ自分の主力なしなので、西国、北陸など予想外の敵に対応する兵力がない、心細かったのでは、着陣した秀忠を叱りっけた様子から気が気でなかつたのではと。

最後に黒田官兵衛と加藤清正が九州から上洛して、本当にほっとしたのでは、毛利や長曾我部、宇喜多など

の兵を糾合されると大変なことになる。

そのことは、戦後の恩賞でも明らかである。

筑前50万石と肥後50万石二人に与えられた。

関ヶ原戦後の勝ち筋は、大阪城に尽きるのでは

そして最後にやはり、西軍は拙速、上杉謙信、西楚王項羽、吉川元春など寡兵でも、物ともしない勝機をつかむとはいかなくても、伏見城、大津城、安濃津城等に時間をかけずに落城できればとおもう。

兵は、拙速を嫌うである。

次回は、趣きを換えて

上杉謙信女人説を追ってみる。

謙信が女なら、筋が通ることが沢山ある

生涯不犯など、養子をとるなど、直江兼続実子説等






前回の補足、福島正則を西軍に翻意させた後、石田三成の切腹を条件に和議を結ぶ、(その条件として家康を江戸に釘ずけ、西軍が三河を制圧したうえで)、家康を豊臣家執権に、徳川家を秀忠に、相模、武蔵の二国を所領とする。和議に応じない時は、東海道を攻めのぼる。

福島正則が東軍でない時、東軍諸将が家康に味方することは、無いと思う。それこそ家康譜代の家臣のみ。立場が逆転する。

そして関ヶ原本戦

霧があけると、西軍に囲まれていたという展開になる。

ここで一説、開戦と同時に小早川秀秋が、西軍に攻めかかり、勝敗がいっきに決してしまったというのだ。

馬首も、始めから西軍に向けられており開戦当時から、敵だったというのだ。

通説は、西軍と東軍の軍監が同じ陣営にいて、早く攻撃しろと陣幕をはさんで、たいきしていた状態で西軍の軍監をだまらせるのにかかった時間だけだったというのが真相。

これでは、西軍の勝利にならないので、福島正則に次ぐ、もう一人のキィマンが吉川広家である。

一つここで考えられることがある。

上杉征伐と同時進行で毛利征伐も考えられていたのでは?

毛利征伐の対策をしていたのが吉川広家、それに徹底抗戦をとなえていたのが毛利秀元と思われる。

吉川家は、先代元春より豊臣嫌い理由は、鳥取城主吉川経家の助命に関係している、元春は、領土の割譲を条件に助命、秀吉は、領土と切腹、平行線だったのが城主が城兵の解放を優先して切腹、怒った元春が秀吉を攻めるため出兵したというくらいだ、小早川隆景の説得で事なきを得、元春死去、高松城攻めに至る。

吉川広家は、毛利家本領安堵まで確約があったのではとおもわれる。

しかし、これには落し穴がある、徳川方の意思決定を、甘く見ていた家康がイエスでokではない、家康の決定は、簡単に覆される、過去石川数正、酒井忠次、

今で言えば本多正信、難しいと思ったら足利尊氏、尊氏が決定しても執事の高師直が簡単に覆した、尊氏が言ったが通じない空手形なのだ、

逆もしかり、本多正信に言った、家康知らないと、

毛利家は、完全にこれにやられている。

毛利家は、毛利家で意思決定が統一していない、吉川広家と毛利秀元、1枚岩でないここで完全に家康の空手形を見抜き、一途に東軍を攻めたなら、小早川秀秋の1万4千等物の数ではない5万前後の軍勢が東軍になだれかかる、勝敗は、決してしまう。

もう一つ、大津城、京極高次の攻略をした、立花宗茂が、関ヶ原に間に合った場合、東軍と同じ兵力になる、戦がながびくと毛利家の参陣、西軍の勝利。

基本的に戦が、ながびくと圧倒的に東軍不利に動く。

田辺城、大津城と戦力を分散、信州上田城もあるにはかるが。

そして家康のラッキーなのか本多忠勝が本陣にいたことか?

家康が諦めて切腹するのを止めたという説もある。

一時期は、西軍が東軍を押していたという説も?

そして、秀頼の親征、小早川秀秋の東軍攻め

関ヶ原本戦においてのifは、これまで

次回最終話、関ヶ原合戦後も、西軍の勝機は、あった。

石田三成が、頼朝の話をしたり、黒田長政が勝敗は兵家の常と語って陣羽織を掛けたのも、それがあったからだ。次回へ


前回、挙兵前を前哨戦と銘うつて書いてみたものの、分析してみると、挙兵から関ヶ原の本戦までも、書くことが多くなってきた、前哨戦、関ヶ原本戦、戦後の三段階で書くつもりだつた、しかし挙兵から関ヶ原までに至るところでも、戦局をゆるがす要因が多々ある。

そこで挙兵から、前夜の杭瀬川の戦いと関ヶ原の本戦に区切ることにした。

実際、ここまでなら両者、拮抗していて五分と五分の状態で、一つの局面において、違う一手をもし打っていたら、勝敗をひっくり返しかねない場面がある。

しかし、関ヶ原の一番の敗因は、西軍の兵の拙速さの一言に尽きる、故に杭瀬川の戦いは、局面を打開出来る妙手だった、家康を関ヶ原へと向わせた、その後の小早川秀秋が裏切るまではであるが?

三成を勝たせると銘うつてはいるが、

三成自身に勝算は、あったのか?

この関ヶ原の戦い、三成が挙兵したのか疑問に思った?

通説は、上杉征伐に大谷吉継が出向く際、三成嫡子隼人正を引率する時に、三成から挙兵をもちかけられた、上杉景勝と謀議の上となつているが、近年三成は、全く知らかつたとなつている、挙兵は、浅野長政を、除いた三奉行から三成にもちかけられた、もしくは三奉行に謀った、そして「ないふ、ちがひの条条」なる弾劾状を家康につきつける。

太閤秀吉の遺言に背いたことをあげているが、秀頼の許可を表だって得ているので、上杉征伐に対しては、正統性がない、いささか情に訴えたというか、道義的で、背いたからといってどうなる訳でもない、なんの強制力も持たない文面、弾劾状をもっても、西軍、東軍と二分してしまう。

自説になってしまうが、三成は、元々勝算など、無かった、そして初めから、太閤秀吉に殉じる目的で挙兵したのではと思えてくる。

あえて三成挙兵でかんがえると、従う兵は、4万前後、関ヶ原で三成の為に戦った兵、対する東軍は、8万、ほとんど倍の敵と互角の戦いをしている。

毛利、小早川、吉川、そして東軍は、秀次の宿老、秀吉子飼の大名と分析すると、三成に味方をする大名は、三奉行と宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊と数えるほどしかいない。

これで勝てというのが、無理で

当初、本多正信は、三成挙兵と聞き倍の兵力で、勝てると安心していたら、小山評定の時点で、西軍8万、9万と聞いて真っ青になったという話がある。

三奉行は、味方せず機内の大名と宇喜多秀家で三万と見込んでいた。

実際のところ三奉行と安国寺恵瓊と毛利輝元の腹心の首謀と思う。毛利首謀説は、家康の毛利家中への介入に対する反発、小早川、吉川に調略、吉川広家と毛利秀元の対立、家中を二分してまんまと踊らされ、豊臣滅亡の片棒を担がされた、三奉行にいたっては、完全に毛利輝元より大阪城を守りきったというべきか?

どちらにしろ、上杉征伐がなかったら、今度は、順当に行けば、毛利征伐に違い無かった。

それを、思ったら三奉行も、手をうたざるを得なくなる。

ここまでで、西軍の勝ち筋は、福島正則と家康が江戸に居る中に三河を制圧すること。

強いて言えば、結城秀康の調略、安心して江戸を離れられない要因をつくればいい。

東軍の細川幽斎、京極高次のように。

真田昌幸の上田城と杭瀬川の戦いが成功例

東軍は、福島正則を味方につけた為、勝利出来たといっても過言でない。

秀次宿老、藤堂高虎、豊臣政権の被害者、藤堂高虎を除いて積極的な東軍ではない、そこを東軍にかえたのが、間違いなく福島正則である、そもそも太閤秀吉が、存在しなければ大名になれなかった。

太閤の親戚すら、東軍なのだからと、後ろめたくない、本人は、三成憎しで周りが見えていない。

戦後、はじめて、自分の役割に気づいたのだから。

福島正則が西軍で、三成の首を出したなら、豊臣家は、滅び無かった。

最後に、三成は、当時の世相から、織田から豊臣への、政権移譲が成されたように、豊臣から徳川への政権移譲が成されるように模索していたのでは、自分が悪者のそしりをうけても、家康を豊臣政権の執権にして、秀忠に政権移譲させる手段を。

今回の西軍勝利の手段は、福島正則の翻意これ一つ

次回は、関ヶ原本戦においての西軍の勝つ手段