今回、史実に忠実にする事を中心に意識して書くと、面白味に欠けるのと、何か情報に踊らされて、ミスリードしているのではと懸念して、思い込みで書くことにした。 

生まれについて、多くの説があるが、自分は、天智天皇の兄という説をとる理由は、天智天皇の親百済に対してに、親新羅政策をとったこと、滅亡していれば当然?と思うが、蘇我系の皇族で政権を運営していて、渡来系百済人の排除、藤原鎌足の死後の藤原氏を断罪している。

斉明天皇と天智天皇が、百済系の皇族といわれている。

これには、日本人のルーツに東北アジアから3,4世紀に韓国を経由してその中に百済系渡来人と新羅系渡来人がいる斉明天皇の母が百済の血筋を色濃く、受け継いていたと言われている。

そして斉明天皇の前夫高向王が新羅の血筋と言われ、その間の子が天武天皇と言われている。

オーソドックスにいけば、乙己の変で中大兄皇子の系列(皇極天皇の係累)が権力を握り、大海人皇子が、かたちばかりの皇太弟となり、恋人を略奪され忍従の日々を送り、斉明天皇の崩御、白村江の戦いを経ても即位するまで、空位の時期が七年間と、それ以前にも即位出来る機会が何度でもありながら、何故即位しないのか(即位出来ないのか?)と疑問がのこる。

影でいろいろ、確執が存在しながら疑問が更に、一つ、何故天武天皇を弟と言いながら、天智天皇の自身の後の持統天皇をはじめとした娘を四人を嫁がせるのか?

そして壬申の乱、極論これは、侵略戦争ではないのか?aiは、皇族の皇位継承の内乱だと?

極論では、天武天皇の正体は、唐と新羅の執政官で、

天智天皇の近江遷都は、唐、新羅の連合軍に古代中国における、城下の盟(降伏宣言)の結果ではないかと?

そして、壬申の乱は、天智天皇の後継者大友皇子より、政権を奪い取った事実上の侵略戦争では無かったのか?そして天武天皇とは、簒奪した後に後世の誰かが遺した諡とか、それで持統天皇(天智天皇娘)が、天武天皇の系統を皇位につけなかったと?

何故、皇位につかなかったのか?娘を四人も嫁がせたか?(人質、略奪)。

辻褄があう、皇位につかなかったのではなく、つけなかった、席順が下で、乙己の変では、孝徳天皇、即位の為、次々と皇子を抹殺するが、皇位認証され無かった、即位できたのは、傀儡として。

娘の件は、敗戦の臣従の証。

その後の遣新羅使は、朝貢の為。

極論は、無しとして唐と新羅との関係については、非常にデリケートで使節を派遣して、否定の意見もあるが、戦を避けるため、朝貢に近い外交関係にあったと想われる、唐は外戚の勢力のつごう、国策が一貫したものでは無かったと想われる。

どちらかと言うと、三韓統一した新羅のほうが、要注意だと思われる。

頻繁に遣新羅使を派遣している。

新羅も中国唐とのあいだに確執が生じ、日本とは敵対しない態度をとるようになってきた事に助けられ、大陸間との争いを避けることができた。

我国の律令制の基本を整えた人、伝統として伝えられた主要な宮廷の儀式を整えた人。

天武天皇、調べれば調べほど二転三転する。

その過程で、謎の九州王朝倭国の存在が浮上してきたのと、古代日本は、四大王朝が存在していたとか、古代王朝における天皇の立ち位置不明。

政策も天智天皇の中央集権国家の継承、外交政策が時流に応じたもので変質した結果で、天智、天武天皇間は、天皇中心の政治、皇族が政治をとっていた。

次の持統天皇によって律令制の名の元に官僚を登用したことが、天皇中心から、官僚中心の政治に移行してゆく、藤原不比等の登場になり、やがて藤原氏の摂関政治に繋がる。

そしてもう一つ、天武天皇の国史編纂で当時の記録が忠実に遺っているかといわれると、その信憑性は、皆無で、その時代に応じて改編、改竄されて特に藤原氏の専制においては改竄されたとされている。

そのことが、政治的にどれほど重要なことか、私達は、忘れている。

現在の失われた30年、歴史は正確に伝えられているのか?心配になる。

かなり昔の1500年前の改竄を問題にしないが、失われた30年の改竄を人はどう思うのか?

正しく記録保存される。重要性をどう感じるのか?

何日にも渡って書いたので、どんどん内容がずれてきてる感がいなめない。

知らないことが多すぎた。

いろいろ勉強学習の余地がでてきた。

近年、桶狭間の戦い、長篠の戦い、鎌倉幕府の創立、そして、大化の改新、大和、飛鳥、奈良の古代日本の歴史、いろんな解釈、見解が、沢山でて、素人の私を悩ませる。体制側が洗脳する為、巧妙に創作する。

そして思い込む、どれだけ真実に近づけるか?

今回は、古代史を通して、真実はどれなのか、何なのかと、いろんな説を前に、歴史の不確実な面を実感した。

次回、更に長くなりそうな藤原不比等

謎につつまれた人物、律令制の立役者なのか、稀代の悪人なのか?

今回、乱文乱筆、改訂必須となりました。












兎に角、難しいの一言、大化の改新 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺なのか誅殺なのか、その一言で片付けられない、その後二人が政権を掌握して政治をしたとは言い難いし、公地公民、国郡制度(郡県を廃止して、土地の再編成)等、様々な改革を行なったが、浸透せず、制度が根づくまで、かなりの年数を必要とする故に諸制度が制定されたとは言い難いし、実際後に、日本書記によって脚色されてたとも言われ、諸制度の原案が詔として発布されたのが真実ではないかと言われている。

そして、天智、天武天皇の時代に、徐々に進められていつたと思われる。

実際極論として中大兄皇子が本当の意味で政権を握ったのは、白村江の戦いのあと斉明天皇(皇極天皇)が崩御した後、天皇に即位した時ではないかとおもわれる。

何故かとおもうと、大化の改新前、蘇我氏が政権を握っていたといわれるが、独裁体制ではないと思う。

その証拠が、山背大兄皇子を自害に追い込んだのは、

蘇我入鹿の独断ではなく、皇極天皇、皇族の意向もあった、天皇の指示があったと思う?

この事件に際して、山背大兄皇子を攻めたことを知り、後に蝦夷が入鹿に、我が家を窮地に追い込んだと激怒した、実際にその通りで、蘇我氏と皇族という敵対関係が成立してしまった。

(山背大兄皇子の勢力がある為、皇族を牽制してバランスをとることが出来ていたのに)

その後、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって、政変を行なったと思われているが、政変後、皇極天皇が、退位してまず中大兄皇子に即位を促すが辞退、軽皇子を推薦するも辞退して古人大兄皇子を推薦、古人大兄皇子は出家して辞退、再度軽皇子に即位を促し孝徳天皇として即位する。

はっきりいつて、政変ではなく蘇我氏一族の内紛にすぎないのではと半分思えてくる、実際中大兄皇子が皇太子についたとはいえ、政治の中枢には、蘇我氏の大臣がしかりいるし、政変の後、最高位の左大臣に就任したのは、阿倍内麻呂という孝徳天皇の外戚(皇后の実家)で、天皇が改革の骨子と言われる詔を出し政治を行なったとされているが、5年で政局が動いていく、蘇我氏の筆頭の蘇我倉山田石川麻呂が、謀叛の疑いで失脚、阿倍内麻呂が病死と孝徳天皇の勢力が衰退してゆく、中大兄皇子の陰謀とされている。

事実、皇太子中大兄皇子が都を難波宮から倭京へ遷都を求め、これを拒否すると主だった臣下がことごとく、倭京に移ってしまう。

失意の內に崩御し、皇極天皇が斉明天皇と名乗り再び即位、今までのことは、すべて斉明天皇が黒幕として仕組んだと考えられないか?

そして即位655年から662年崩御まで政権を握る。

強権をもって土木事業を行う。

661年に百済救済の為九州の筑紫へ赴き朝倉宮にて崩御

その際、外交政策において、親百済と遣唐使(政情視察が目的)を選択、一部には、

唐と新羅と交易するという考えもあった。

後に外交の失策の非難をうける。 

日本には、根強い百済との緊密な外交ルートが存在していたと考えられる。

中臣鎌足をはじめとした、渡来系の官僚が存在したという説がある、しかし中臣鎌足は、祭祀を司る氏族で

渡来系の出自ではないという説もある。

従来、乙己の変より中大兄皇子が政権を掌握していたとは考え難い。

古来、女性の権力者が存在していたことから、藤原氏の時代に極力、女性の権力者の存在が歪曲されている可能性も疑える。

史実を拾って考えているので発想が限定されてしまう。

しかし今回、蘇我氏が臣籍降下の元祖だとわかったことが目から鱗だった。

今回、素直に中大兄皇子を追及したほうが良かったと思う。

いろんな学説に惑わされ面白味に欠けたからだ。

ただし、一つ何故親百済を頑迷に指示せねばならなかったのか国益をなかば無視してまで、外交先を新羅と唐に変更出来なかった理由が知りたい。

次回天武天皇(大海人皇子)について。

兎に角難しく疲れた


結論から言えば、かなりのこじつけが必要、それこそ蘇我氏が、藤原氏並の長期政権を樹立すれば、厩戸皇子と蘇我入鹿を同一人物と記録がのこせるのでは?

というのも聖徳太子は、実在した人物ではないという事、初めて聖徳太子が世の中にでたのが、720年の日本書記の記述の中、つまりそれまで、誰の功績か記録が、曖昧だった。

そして、日本書記、最終的な編集者が藤原不比等、時の権力者、何か怪しさを感じる。

都合の良く歴史を改竄したと。

厩戸皇子でなく、聖徳太子と何故名前を変える必要があるのか?

厩戸皇子は、蘇我氏の血筋の濃い皇族で、それ以後、その血統は、粛清され乙己の変以降皆無となる。

(天智天皇、弟とされる天武天皇が密かに曽我氏の血統ではという説がある)。

ただ同一人物の根拠は、二人とも頭脳明晰と厩戸皇子が、活躍した時期、蘇我入鹿の記録事跡が不明(知らないだけ?)、ひたすら学問に精進?

そして、聖徳太子は、蘇我入鹿の從兄弟にあたる、父蝦夷の妹を母とし、妻も蘇我の一族。

反論すれば、実の子山背大兄皇子を殺し一族皆殺し、不可解すぎる、蘇我入鹿だけでなく他の皇族も関与していたにしても、自分の利益にならない、自分の手足を切り離す愚かなことをするはずが無い。

それと海外の記録中国の隋に厩戸皇子(皇族摂政の記録がある)と国交を締結した、あの有名な国書日出処の天子から日没する処の天子へという隋の史記にある。

少なくとも、臣下でなく皇族が政治を行ったという記録。

この時代、確かな記録がないので、誰の為した功績か、確証がもてない。

そこが難しい。

自分の一番記憶の残るところでは、NHKの歴史ドラマ本木雅弘主演聖徳太子の時代背景が鮮明。

当時の蘇我氏の権勢が明確に描かれていて多分、歴史史観の主流ではないかと想われる。

蘇我入鹿が歴史に登場する以前の話と思われる。

聖徳太子のスーパーマン超人的な能力は、それこそ創作で、人物像は、それこそ蘇我入鹿と厩戸皇子を足して2で割った人物なのでは?

厩戸皇子の超人的なキャラクターは、イエスキリストの日本版なのか?馬小屋で生まれたという記述はシルクロードより伝わった記録の引用か?

聖徳太子は、いろんな意味で政治に利用された理想の人物、複数の人と同時に会話出来る、藤原不比等の理想、そして鎌倉時代元冦、外国と対等に外交を行う偉大な政治家、明治時代は、仏教を広めた極悪人、戦後は、平和を唱えた民主主義の元祖と時代によって、視点が違う。身体的特徴から豊聡耳皇子とも、そして源平藤橘の他の家、豊臣家の元と言ったら誰のことかわかるだろう、太閤秀吉の新しく新設された家系、こちらは、観音の化身、大黒天の生まれ変わり等と神を意識した、時代において、本当に色々とイメージの変わる、日本書記の偶像である。

日本書記で、藤原不比等が行なったこと、蘇我氏を皇統から抹消して、藤原氏の出自を有耶無耶にしたことではないか?

中臣鎌足の出自、渡来系の帰化人と古来から祭祀を司る一族とか?

歴史とは、資料(記録、遺跡、)も大事だと思うけど、行動した軌跡、結果も大事だと思う。

資料から事実を辿ることも大事かもしれないが、実際に起こっていて、そんなことありませんという揉み消されるということもありうる。

故に人の死とか、地震、天変地異、戦等消せない記録を追って線で繋げるしか方法が無い。

書物、書置き、書状は、人の意志で捻じ曲げられる。

古代、中世期をみると、いろんな研究者が、さまざまな見解をならべて、どれが事実か解らないことがある、こちらは、架空の仮説フィクションなので、いろんな考えがあって、面白い。

ただ、その時代の命の重さ死生観、人の価値観は、現代の道徳、常識、価値観では、はかれない。

所詮、現代人の価値観でしか判断できない、ただ欲望と愛憎の人間の根っこの部分は不変だと思う。

ギリシャ時代でも、近頃の若い者はという言葉は存在するし、戦争と売春は、なくなっていない。

進化していないもの科学に対する人の心(例不老不死)

今回は、よほど無理がないとみとめられない、同一人物と肯定できない。

時間的、物理的不可能。

ただ、この時代の検証は難しいと解った。

人の願望、憎悪、戦、人の死が歴史のターニングポイントになると実感した。

そこだけが曲げられないので。

終わりにします。

次回大化の改新(乙己の変)、ありきたりにならないよう極論を取り上げるよう努力します。








追記、足利尊氏について謀叛の理由、元弘の変で父貞氏の喪中にもかかわらずに拒否したにもかかわらず出兵と矢銭をを催促され、最後にやむなく出兵、この時に北条の世は、短いと北条得宗に見切りをつけたという。

足利尊氏については改訂版(かきたし)の必要性を感じている。

そして高師直も書くのが難しかった。

いかに自分の知識の主流が太平記であることを、師直に偏見をもってしまうこと。

太平記では、好色で傍若無人で粗野と荒々しい武者と偏見をもって描かれている。

今川貞世他、細川頼之、足利義満等が監修のてを入れた可能性があるので、体制よりの記述になっている。

作者も一人ではないといわれている。

出自は、貴族の末裔で、光る君への中宮定子を産んだ

高階貴子(関白藤原道隆の正室)の高階家で、落魄後一族が源義家に仕え、そして足利義康の重臣となる、執事は曽祖父の頃より世襲していたと記録(足利家時自刃の時の置文を所持していた執事が高氏であることから)がある。

一族誅滅の原因は、政敵の上杉家によるもの、鎌倉宮将軍の宗尊親王が下向の際、供奉してきた、その後足利被官となる、勧修寺流藤原氏の末裔で(平安時代初期嫡流より分かれた家)、高家と同じ貴族よりでた家。

足利被官で頭角を現したのは、この二家だけで、足利尊氏の生母の家で、朝廷に伝手があるので、長年パイプ役として功績があるのと家柄故か足利家でも重用されていた、尊氏の生家で庶子である頃より臣従しており、嫡子高義の死後、尊氏に執事として仕えた高師直とは対立関係にあった。

尊氏が執事の高師直を重用するにあたって、上杉氏と疎遠になり舎弟直義に従う(直義も上杉清子の子)。

そして、高師直紛れもなく知勇兼備の名将、それが太平記で捻じ曲げられる、好色の面が強調されたのは、天皇の妃候補といわれた絶世の美女を略奪したことへの嫉妬ではないかと思われる。

それと、成り上がった大名の乱行の一切合財を師直のせいと言っている、罪のなすりつけ。

婆裟羅という風潮の犠牲者。

それでも、知識人で風流で武勇もあって政治に置いても功績があり、天は2物も三物も与えたと言ってもおかしく無かったのかもしれない。

武勇の面では、尊氏と共に元弘の変より亡くなる前の摂津国打出浜の戦いまで付き従い、南朝の北畠顕家と楠木正行を討伐するという誰も成し遂げられない武功をはじめとして、数々の戦で活躍。

政治の面では、政治家として優れていた足利直義の保守に対して革新的な政治路線で対立した。

直義の足利一門を重視した得宗の鎌倉幕府を踏襲したような政治にたいして、新興武士を対象にした褒賞で得た所領の所有権の保証、有力な公家や大名が占有して理不尽に横奪しないように所領安堵したり、戦場の功績の簡略化、従来敵将の首級が戦功に必要だったのが、信頼の出来る証人や証拠を示すことで申請出来る等。革新的な政策を示す。

度々、直義と対立する、戦場を離れて政治の場に置いて、秩序を重んじる直義に対してに、新興武士を保護する師直は、度々対立する、一族の利益を守る直義に対してに比較的、権力的弱者の味方になる師直、実務的、事務的に有力な公家や大名の領地において兵糧の調達、一部寺社の土地の強奪、師直と直義の立場の違いが原因で犬猿の仲になる。

多分ではあるが、直接的には、上杉重能(直義の執事的な存在)の暗殺が原因ではないかと思われる。

直義派の讒言(相当多数の連書の為、足利一門から、嫌われていた為)により執事を罷免(尊氏一人の力の無さ故無視できず)され、師直、生死の危険を感じ直義を襲撃、直義、尊氏邸に逃げ込む(そこで主人の屋敷を兵で囲む等、言語道断であるはずなのに、)師直の実力行使に負け直義を隠居させる(尊氏の無力を露呈)。

それを不満とした直冬(尊氏庶子、直義養子)が反乱を起こし討伐の為、都を離れると、直義が南朝に降伏して、挙兵する尊氏の兵より、多数の兵が集まる(この時の師直の不人気故か?)。

尊氏敗退、ここでも実力不足、直義の申し出、師直出家、一族追放を拒否できず。

尊氏の行列より故意に離され、上杉重能の子能憲(後の関東管領)の復讐により、一族惨殺される。

何時の世も、人よりも目立つと敵意を一身に集めるという事を証明出来る事実。

師直の功績も歪められてしまう。

室町幕府創設の功は、直義に敵わなくとも、北朝にたいして南朝を退ける功績は、師直が随一である。

その事実は、捻じ曲げようが無かったのかもしれない、室町幕府の一番の功臣と言える。

婆裟羅と言われて生き残ったのは、佐々木道誉一人だけかもしれない。

最後に高師直は、師泰の弟という説もある。

執事として、補佐する面で優れていたことを、示したかったからか?

というのも一族として武に優れていたところがあるので、武に優れているのは当たり前という考えがあつたのか、長子相続が当たり前の時代で、それを差し置いてさえも執事として優れていたことを遺したかったのか?

高師泰も数々の武勲を上げている。

北条時行を討ったり、北畠顕家を美濃で疲弊させ、湊川では直義の副将、金ヶ崎で新田義貞を討ち、九州に落ちたとき筑前の多々良浜の戦いでの勝利に貢献、寡兵で大軍を打ち破る。

楠木正行を討った後、吉野まで攻めのぼる。

功績をたなに上げて傍若無人は、師泰なのかもしれない、風流、文化人の師直にたいし、乱暴者故に執事を任されなかったと言えば筋が通るかもしれない。

大坂城で滅亡した豊臣家と同じで、ある意味敗者の師直には反論の余地もないのかも、歴史的勝者の上杉氏の前では、死人に口なしなのかも。

最後に高家でも生き残った者もいて、高師詮(師直庶子)が足利家執事を務めるが、往年の権力はなく本当の意味で足利家、家内の執事で幕府の執事は、管領になる、細川頼之や応仁の乱の細川勝元が有名である。

今回は、歴史的の光と影の題材そのものを表す内容になったと思う。

次回未定です。蘇我入鹿、聖徳太子説か阿野廉子と阿野全成か迷っています。どちらも資料不足なので時間がかかります。

いっそ海外ネタでルイ14世とフィリップにするか?

乾隆帝と陳家洛にするか未定です。

資料がすくないそれに尽きます。










今まで思ってきた足利と新田の関係は、太平記による、歴史史観であり、最近の歴史の考察はと言っても、ネットで調べた結果であるが。

足利と新田の確執の本質は、足利尊氏の台頭(幕府を開く)を恐れた後醍醐天皇の尊氏と義貞の従属関係を巧みに利用した調略に他ならない。

前編で書いた新田政義よりその後、足利一族と姻戚になり、足利一門の一つになってしまった。

その証拠に政義以降、足利当主の一字、氏や義の文字の偏諱を受けていた、義貞の義は、早世した尊氏の兄、高義から受けたものである。

一説として、尊氏の命をうけて関東で挙兵したという説もあるがあまりの横暴に耐えかねて北条得宗の徴税官を斬ったという説が有力である。

鎌倉攻めの総大将は、新田義貞であるが、兵力の増大は、足利千寿王が加わった時からで、勲功第一は、北条高時を自刃に追い込んだ新田義貞ではあるが、いつの間にか鎌倉攻めの功績を足利千寿王に持っていかれる。従属関係の証拠なのかもしれない。

ここで、怯まず鎌倉に、でなくても関東に居続けて地盤を築けば、新田幕府の可能性もあったのかもしれない。

戦術眼はあっても戦略眼は、持っていなかった。 

それは、足利尊氏と戦う時に露呈してしまう。

結局、上洛したのが、良くなかったと思う。

上洛して、武者所の頭人に就任する。 

しかし、相変わらず世間は、足利尊氏を棟梁と仰ぎ、新田義貞の人気は、芳しくない、多分公家一統による昔の政治を理想とする後醍醐天皇の政治の中での武士の心情を理解出来ない所にある。

義貞にとっては、無理もない事なのだが、今まで新田の宗家であるにもかかわらず、足利の下風にたち、一門に組み込まれ、山名、里見、岩松等の新田庶流にも、崇められず冷遇される。

そんな中で、功績を認められたのが後醍醐天皇だけだった(武者所に推挙したのは足利尊氏だが)。

そして、武家の中心として政権を立ち上げそうな足利尊氏の対抗馬として後醍醐天皇に調略(北畠親房?)される。

おのれの立場ゆえ、武家の心情を理解できず没落してゆく。

悲劇の武将になってしまう。

片や足利尊氏、以外にも次男坊で長子の早世で、跡を継ぐ(北条支族の金沢氏の正妻の子の早世で)、貞氏としては、北条の血筋より、足利一門の血筋が望ましかった?(父家時、自害の経緯より)。

北条得宗を苦々しくも、一方では、北条支族の赤橋、金沢の改革派を支持していた?(妻赤橋登子千寿王母)。

しかし、結局得宗高時、長崎円喜に失望して、京で挙兵(謀叛する)。

あまり本人の積極的なものではないのでは?、執事の高師直や吉良氏、後醍醐天皇の調略、本人も祖父家時の遺言の重責(謀叛の嫌疑をかけられ、自分より三代の内に天下を取らせ給えと自刎した)で意識はあるのだが、かなり迷いのある人(天龍寺を建立して後醍醐天皇の菩提を弔う)。

倒幕の旗頭として、これ以上の人間は居ない、実際そうである。

しかし、自分としては足利尊氏が深謀遠慮の人とは、どうしても思えない、策は足利直義と高師直の二人の気がする。

後の二人の対立が答えではないか(観応の擾乱、尊氏と直義の対立)。

だが深謀遠慮の人ではないが、面倒見がよくて、誰よりも責任感の強い人。

故に倒幕の旗頭と目されたのではないか、直義でも師直でなく、二人が先頭に立っても誰もついてこなかった。答えは、また観応の擾乱。

そして、面倒見と責任感が建武の新政の武家の不満が尊氏一箇所に集まってしまう結果になる。

後醍醐天皇がもっと公平で理想主義者でなく、人の痛みの分かる人間なら建武の新政も失敗しなかったのでは。

ifになるが、足利尊氏と後醍醐天皇の人格が逆なら成功していたのかも?

尊氏の人柄は、中先代の乱での行動とその後、尊氏追討の宣旨を受けた時、素直に従おうとしたこと、そして、都を追われて九州へ落ちたとき上陸した一戦に敗退して自刃しようとしたこと(根気強くない)。

さっぱりとした人情味にあふれた人間。

高師直、足利直義、佐々木道誉、赤松円心等、隠居したい、降伏したいを許してくれなかった。

運に恵まれたと言うしかない、晩年の兄弟の確執は、長年のつけの精算なのかもしれない。

足利が新田を庇護し続けたのは?

足利義純、に嫁いた新田家の娘を離縁したことに端をはっする、畠山重忠を滅ぼした北条義時が再興するとき、足利家から養子をとって畠山の娘と婚姻して再興させた、その時の養子が新田家の娘を妻に迎えており、その妻と離縁して畠山の娘と家を再興した、離縁した娘と二人の子があつたにもかかわらずだ。その二人の連れ子が岩松を名乗り、新田家で跡継ぎよりも大事に育てられた相続も嫡孫政義より多かった。

新田家の禍根となつた。

足利が負い目を感じ庇護したのが真相。

でも、長い歴史でみると、新田義兼の子で、世良田を名乗つた子孫が徳川家康の祖松平家に繋がると言われている。

本当なのか信ぴょう性に欠ける。

今年の大河の田沼家に系図を売りにきた佐野政言みたいに、新田源氏の系図から、世良田松平をでっち上げたのか?

そうでなくても、江戸時代、高家吉良上野介は、今川氏真の子孫、足利義昭の源氏と新田松平の徳川。

最終的に清和源氏の足利、新田は血脈をのこしたのだろうか?

次回は、高師直について太平記史観?









当初は、足利氏と新田氏は、仲が悪いと思っていた。

そう思わせる背景は、清和源氏の血で血を洗う謀略の数々、源義家の死後の一族の闘争に尽きる。

各有、足利氏と新田氏の祖である源義国、その気性の荒さから常陸で伯父義光と争う(常陸合戦)、朝廷より勅勘(謹慎処分)をうける。

ちょうど、そのころ義家が倒れ、西国で義親が役人と諍いを起こし殺してしまう。

朝廷から追討をうける、義親が乱を起こす、義家が亡くなり、朝廷は、謹慎の義国で無く、弟の義忠に追討を命ずる、自然と義忠が惣領である。

義国は、常陸でも、敗れて上野の足利の荘を相続、その地を拠点とせざるを得なくなる。

そして、郎党の起こした争いに勅勘をうけ、子の、義重に、新田の荘、孫の義兼と義清に足利の荘と梁田の御厨を与える、次男義康は、保元の乱で天皇側につき翌年亡くなる。

ここまでの推測だが、義国は、白河法皇と鳥羽上皇の間を上手く立ち回って、足利の荘と新田の荘や梁田の御厨を経営してくうえで、義重と義康に土地を任せていたのか?そして完全に義康の子、孫に溺愛したのか、(相続に関係)。

後世にみる、真田家の豊臣と徳川の両天秤でこの場合、信之の徳川が生きるが、この場合は、後白河天皇側の義康後の足利家に軍配が上がるのか?崇徳上皇側として(ふりをしていた)立ち回り、後で寝返る。義重が、損な役回りをしていたのか

その為、新田義重は、義国の遺言もあるのか、義康の子達を軍事的に庇護していた?

話は前後するが、板東の戦乱を上手く処理するため、鎌倉の義朝、義平と同盟し義賢と為義、秩父氏との戦いを勝利に導けた。(足利、新田の力で)。

平治の乱も、摂関家の手前(本来の荘園の所有者)あからさまに敵対の姿勢を見せる理由にはいか無かったのか?

そして、荘園の所有者が平家に変わり、平清盛に臣従するしか無かったのか、実質この時、足利の荘も梁田御厨も新田義重の庇護のもとにあったのでは?

そして、頼朝の挙兵でも、平家と源氏を両天秤にして、足利義兼と山名、里見の両氏(新田の庶子)を頼朝側にそして、矢田義清を木曽義仲にと、日和見主義的に立ち回った後に新田冷遇の原因をつくってしまう。

鎌倉の政権が盤石になるとこうした背景で冷遇をうける。

更に孫の政義、父の早世の為祖父義兼の死に伴い義兼妻新田尼が後見したが、惣領家の財産を庶子に与え分割相続させる。

半減した相続しか出来なかった、それを不服としたか、自暴自棄になったか、朝廷に幕府の許可も得ず、官位を請求する、拒否されると勝手に大番役を辞して、隠居してしまう。

領地没収されても、文句も言えない処、所領減封で済んだ、妻の実家足利家の取り成しによるもの、これ以後、新田家は、足利家と姻戚になることで、命脈を保つことになる。

この時より新田が足利の下風に立つこととなる。

足利は、新田の恩に報いた形になるのか?

初代義重が義康死後の足利を支えた様に?

足利と新田の確執が思わぬ展開になって来たと思った。

次回後編、足利尊氏と新田義貞  光と影 兄弟の確執と絆









前回の財務省の追記、消費税廃止の署名運動、一千万人の署名は、無理だと思っていた。

だから、負け犬の遠吠えと自覚してしまったが、一千万どころか、一千五百万人は、署名出来そうなきがしてきた、選挙権にこだわり過ぎていた。

高校生と大学生、そして新卒の社会人を中心とした若年層と主婦で署名は達成出来る、理由は、消費税の一番の被害者だからだ。集めやすい。

それと、すぐ将来にそく選挙権を行使出来る。

早ければ、1年2年後にそして即財務省の敵となりうる。

今回、再来年の大河ドラマが逆賊の幕臣と銘うって、小栗上野介忠順を取り上げる、昨今の世相と照らし合わせてみると、つ込みどころ満載、横須賀とみると、米軍基地、安保?か反米機運を煽るのか、幕臣なら、勿論薩長の末裔の自民党を吊るし上げるのか、それとも逆賊、野党を理不尽に斬り捨てるのか?

小栗上野介忠順の終わりが良くない為だ。

そして小栗上野介忠順は、自分にとっては、栄光なき天才の象徴と天から賞された漢の一人と表現出来る。

焦点を当てるなら栗本鋤雲かと思ったが。

そもそも逆賊とは、本当に明治時代を薩長の私物とかした歴史史観で偏見にみちあふれた言葉だと思う。

薩長が明治時代にしたことは、正義でも何でもない、

政権を簒奪して私物化したに過ぎない。

挙げ句のはて、自分達だけでは、手に負えなくなって幕臣に泣きついて力を借りている。

小栗上野介忠順の死で日本の発展が数十年後退したと言われている。

薩長のエゴで日本を後退させている。

自民党のエゴで日本を三十年後退させているという。

逆賊の幕臣は、風刺しているのか?

突然の発表に戸惑ってしまつたが。

27年大河ドラマから世相を漠然とみるとこうなる。

本当に、つ込みどころ満載である。

次回は、歴史とは、光と影、兄弟の確執、足利と新田、何故仲が悪いを前編と後編の2本立てで送ります。



財務省前のデモ、職員が鼻で笑っていた、ならば省庁前で、消費税廃止の署名活動を行う。

笑っていられなくなる。

対抗策として、消費税賛成署名を行ったり、暴力団体を使って妨害したり、警察、公安を買収したり、集まった反対署名を高額で買収したりするかもしれない。

それに、署名を何千万人分集めないといけないのか、知事や市長のリコール請求とは、桁外れに違う、発起人の格も問われるのか?

憲法改正と同じくらいの問題になるのか?

挙げ句の果て、トランプの言いなりで消費税廃止となってしまったら、日本国でなくアラスカ、ハワイにつぐ日本州になるという、笑えない結末になるのか?

文句が負け犬の遠吠えになり、めちゃくちゃになってしまう、せめて衆院を解散して消費税廃止で国民に信を問うかたちになれば理想なのだが、それこそ夢のまた夢、勝てない喧嘩を自民党がする理由が無い。

財務省解体デモも百三万の壁も財務省には、余裕なのかも、消費税廃止署名を国民の過半数集めないと、勝負にならないのか、文句が負け犬の遠吠えになってしまった。

どうして、街中で平気で、本ライトで走れるのか、

車の運転で、我慢出来ないことがある。

対向車があるのにもかかわらず、平気で

本ライトで走る。眩しくてたまらない、酷い時には、目が痛い、特に新しい車ほど光がきつい。

これは、一種の暴力ではないかと思うほど

運転免許センターでは、ライトを切り換えるとあるのに、対向車があるにもかかわらず、本ライトのまま、車を運転しているときもそうだけど、歩道を歩いているときも、対向車が眩しいとかんじる。

 運転している本人は、どう思っているのかと思う。

対向車のライトには、遮光グラス(メガネ)があるというが、もともと眼鏡使用の人間は、どうなのかと思う。

それに、遮光グラスの多用は、視力低下に繋がる。

アメリカなら自動車会社に裁判に持ち込んで有罪に持ち込める可能性がある。なにせタバコの喫煙がガンに繋がるとタバコ会社を訴えて有罪を勝ち取ったくらいだから。

車のライトの改善で自動車会社を訴えることがぜきるのに、残念ながら日本なので、よほどの因果関係を立証しないかぎり訴えられない。

車のライトが眩しい、これは、私だけ?

今回は、現代史(世相)とNHK大河について、一部の人が、みたらこじつけで何の根拠もないと片付けられてしまいそうだけど

大河ドラマの題材は政治的に意図された物と邪推してしまう。

今年の大河べらぼうを採ってみると、金権政治、ワイロについて、世間はもっと鷹揚に見てワイロなんて、大したものではないと言っているようだ、ワイロの横行していた時代を背景にして世論の風向きを変えようとしているようだ、それと同様にこの時代は、勝者と敗者が明確に分かれ貧富の差が著しくなる。

田沼意次の時代、悪政と評価されたは、ワイロ政治もそうだけど、天明の大飢饉を起こした張本人と思われているのでは?

富が一部の人間に集中して貧富の差が開き、食料不足を招く、今の自民党政治に似ている、物価高騰を招き食料不足もそうだ、そして寛政の改革は、失敗。

野党の政治が、失敗するとでも言っているようだ。

ただし、松平定信の失敗は、身から出た錆で、自分が政権を握る為に重ねた悪事と享保の改革を妄信した為。そして周囲からは、将軍家斉が政治に慣れるまでの間に合わせと捨て駒の要素が高く、家斉と不和になり5年の政治生命におわる。

家斉の政治のほうが、かなり長い、5年を改革と呼び、在任50年は、なんと呼ぶのか? 

現代と田沼時代は、酷似しているのか?

べらぼうを取り上げたのは、海外に流出した江戸時代の資産の発掘も関係しているのか?

明治時代(江戸末期)に、江戸時代の絵画、文献が二束三文で流出して、浮世絵が海外の博物館に眠っている。

べらぼうは、海外に発信しているドラマなのかとも思う(考えすぎ)。

大河ドラマを政治的意図で流しているのだとしたら?

来年の大河ドラマは、野党共闘、共倒れ?さながら家康が自民党の象徴?

晩年、豊臣兄弟は、不和のうちに秀長の死によって終わるので。

去年の光る君は、貴族政治の終焉、道長の一生を通して、最後に武士の台頭をほのめかして。

どうする家康は、先行きの見えない政局をみてこうありたいという希望を厭離穢土欣求浄土に求めるみたいな。

鎌倉殿の13人は、勿論派閥政治そのもの、

麒麟が来るは、コロナ禍の就職難民を斎藤家、朝倉家、足利家、そして織田家へ転身してゆく明智光秀を

もって描写。

こじつけだろう、一言で片付けられるが。

意図をもって放送していると思うのは自分だけか?

昨今マスメディアに疑問を持つ自分としては、そう思えて仕方ない。

その日、思ったことを考えてしまう私でした。

いつもなら構想は、出来ているのだけど今回は、未定です。