秀長の晩年、九州征伐を終え益々兄弟の仲は、冷えきっていきます。

四国、九州征伐と功績を積んでゆく秀長に、嫉妬と猜疑心が生まれてきたのか、ことごとく敵対というか、挑発的な態度をとります。

人誑しと呼ばれて、人の心を掴みますが相手を思っての行動でなく、あくまでも目的あっての行動で利用価値、存在意義が無くなると簡単に切り捨てる。

秀吉にとって、目的を達成する道具でしか無いのか?

あれ程、信頼して背中を任せていると言っても過言でない秀長も簡単に切り捨てるというか、自分が一番でないと気に入らないのか?

考えてみれば、今までの秀長の活躍は秀吉にとつても、直接でも、間接でも秀吉の利益に繋がるものだった、小牧長久手の戦までは秀吉の部将としての活躍だった、秀長個人の評価でなく秀吉軍の評価となった。四国征伐からは、秀長個人の評価に繋がり、秀吉はたいしたことが無く本当は、全部今まで秀長の功績、秀長あっての秀吉と周囲に見られるのをおそれたのでは?

意外と、自分が一番で人のことを認められない、器の小さい人間だったのか、恩賞の与え方も気前がよくみえるが、後先考えず、その場の功績のみの評価で末永く徴用してゆく考えでなく、実力不足をかんじれば、容赦無く減封する、自分一代で家のこと子孫のことを考えた封地ではない、五大老、五奉行も後年、石田三成の豊臣家を守る為の制度で、森忠政、池田輝政、宇喜多秀家、蒲生氏郷に対する処遇は、刃向かわない為の牙を抜くためのもの。

そして、1588年二人の溝を埋められない、決定的な出来事がおこる。

普通では、考えられない他家の家の事に干渉、他家の後継者に干渉すること、余程落ち度がある時以外は、考えられない事である。

ましてや、豊臣家随一の功臣に対してである、勿論拒絶のひと事、理不尽極まりない仕打ちであり、出仕も拒絶し戦も辞さない、一触即発の事態になった、さすがの秀吉も、事の成り行きに拙さを感じつつも、振り上げた拳をおろすこともできず、石田三成に頼るしかなかった。 

秀長は、謀反も辞さぬ覚悟で、兵を迎えて戦うつもりでいた。

秀長サイドも、さすがにこれは拙いとおもい藤堂高虎が、戦を避けるため石田三成と交渉をはじめる。

結局、筆頭家老の藤堂高虎が、養子に迎えることで、戦を回避した、この頃から秀長は、病床に伏せるようになり、内政一方になる。

寺社勢力を駆逐して、商人も城下に集め寺社勢力と切り離す、一揆に対しては刀狩りを行い税の軽減につとめた。

検地や刀狩りと石田三成の政策の手本となった。

朝鮮出兵に反対し病床の為、1590年北条討伐では留守居をつとめ、翌年1591年自領の大和郡山で亡くなる、

光と影が、逆転しそうになつた。

いや、秀吉と秀長、光をあびたのは、やはり秀長だったのか?

その葬儀には、諸大名が駆けつけ、そればかりか領民をはじめ庶民も秀長の死を悼み、参列して、その数二十万を超え山野を埋めつくす程であったと記録された。信長の葬儀でも、三千人と言われ、秀吉の葬儀は、その死をふせられ身内のみの淋しい葬儀と聴く。

もじどうり、秀長はその行いを天に賞されたといっても過言でない!

秀長の死後、内政を浅野長政の実権が石田三成に移り、千利休も切腹を命じられ、秀次切腹により、秀長を中心としてきた、尾張古参衆と一門衆を完全に、廃除した形となった、秀吉の下のこつたのは、政権を支える官僚と平和になったら粛清の対象にしかならない、秀吉子飼の武断派実際、豊臣政権の衰退を招く結果になっている。

朝鮮出兵は、武断派存続と諸大名の不満を別の方に向ける手段なのか、重商主義なら秀長の政治を継承していけば問題ないのに、自分が一番、最高の存在と考える秀吉には、人を利用するだけで人を認める事ができないのか?

所詮、竹中半兵衛も、黒田官兵衛、そして秀長も、更に、石田三成も切り捨てる時が来たら躊躇なく切り捨てるのか?

それと晩年秀吉は、アルツハイマーの進行で判断できなくなってきたのか?

誓詞を信じない秀吉が誓詞に頼るようになるとは、すごく皮肉を感じる。

秀吉の名前で、石田三成が死ぬまで書状を作成していたのか?五奉行か?

晩年の奇行の説明が出来ない。

秀吉こそ、晩年天に見捨てられた愚かな男なのか?

追記、秀吉の晩年をしらべて、北政所は、従来徳川よりとみられてきたが、西軍よりだったという解釈がある、実家の木下家は、西軍で改易、京でも家康の保護は無く、封地も削されたとか、家康の保護でなく秀忠の保護だと。

というのも、1590年より豊臣家に人質として数年過ごしている、その時、北政所の下でくらし、身分にかかわらず別け隔てなく接してくれた事に恩義を感じたのではとおもわれる。

寺院も保護して、化粧領として幾分か与えている。

北政所と淀殿の間の確執もないと。

長く続いた秀長と秀吉も今回で終わりにします。

自分でも反省するところが多々あるので、改訂版を必ずだします。乱文乱筆、推敲の余地があるので、必ず改訂します。

次回は、清和源氏の光と影









 今回は、秀吉と秀長の確執について
少なくとも、小牧長久手の戦いまでは、おもてだつて対立した事実は無かったと想う、対立しても竹中半兵衛の存在がそうさせなかったのか?
秀長の諫言か、半兵衛の知略が、秀吉の暴走を止めていた。
長浜以前は、上手く全体のバランスが取れていて、秀吉が調略、遠征、秀長が後援、後詰め。
長浜から、鳥取城攻めまでに、安土城普請、長浜城代、生野銀山開発、三木城兵糧攻め、鳥取城攻め軍事に、内政に無くてはならない存在、内政前野長康、浅野長政、軍事は竹中半兵衛、蜂須賀小六。
もじどうり、秀吉不在において軍事、内政の要ナンバー2、若しくは影の支配者。
史実から自分なりの推定で、秀吉が愛情を注いた人間は、正室おね、淀殿、母の仲、弟秀長、小谷の方(報われない、一方的な愛)、この5人ではとおもわれる。
母仲は、戦の怪我で働けなくなった実父(幼年時死別)
再婚した養父に馴染めない秀吉に愛情を注いだ、その為親元を早く離れ、寺の小坊主や、商家の丁稚奉公と何度も飛び出し、家を離れるときに実父の遺した金を与えて送り出している。(太閤記?)
養父竹阿弥の子として産まれた弟秀長は、兄と父の諍いに心を痛め、自分だけ両親の愛をうけて育ったことに、負い目を感じていた、その為秀吉の誘いを断れなかった。
秀吉は、秀吉で信頼出来る譜代に匹敵する家臣が欲しかった。
そして、命懸けの戦場を、危険な環境をともに経験したことで、絆というか、連帯意識が生まれた。
鵜沼城から、小牧長久手の戦いまで、二人三脚で、お互いの長所を活かした、絶妙なコンビネーションを、発揮した。
この事実は、多くの歴史ライターが語っているので、当たり前のことだ、いうまでもないと言われるので、自分なりの解釈をフィクションも混じえて考える。
秀吉、秀長の不和を促進させたのは?
石田三成だと思う、石田三成の存在は、源頼朝の梶原景時そのもの、事実秀吉の懐刀。
頼朝の死後、北条氏にとっての梶原景時は政権を握る上での障害そのものだった。
もし頼家が、その存在を理解して重用したなら、北条氏の執権政治は無かった、それ程の存在。
石田三成も、関ヶ原の戦いを起こし豊臣を傾けている。
勝てば、豊臣の筆頭家老か老中に相当する地位に就く、それ程の存在。
石田三成は、弟秀長に変わる存在、その存在は秀吉には絶対服従に近いし、秀長のように反抗、批判しない
朝鮮の役に反対せず、戦争の遂行に加担している。
秀吉の意志を尊重し、実現しょうとする。
石田三成は、秀吉に見出されなければ、近江の寺の住持として一生終える運命だった、武士の庶子として生まれた為だ。
自分の能力を発揮出来る機会を与えてくれた秀吉は、三成にとって、大恩人と言って過言でないと想う。
三成は、秀吉の期待に応えて、その才能を存分に発揮する、調略に経略に、秀吉と同様槍働き以外で。
秀吉と違うところは、内政にも才能を発揮したところで、秀長の代わりの務まるところ、ただし完全な存在でなく、過ちを正す事がない秀吉の意に沿って物事を運んでいくということ。
三成が才能を発揮しはじめたのは、中国の毛利氏を攻略しはじめたころ、秀長と山陽、山陰と分かれた頃?
それ以前も秀吉の意を伝える使者として活躍していたと思うが。
そして、秀長と秀吉の訣別は、1585年丹羽長秀の死による、丹羽家解体。
二人の丹羽家に対する認識の違い、恩人の家と役割を終えて無用になった家、前田利家に与えたほうが有益だと判断したため、子の丹羽長重を減封する。
秀長の反対は予想出来る、そこで石田三成、秀長に四国征伐をさせ、留守に調略を仕掛ける。
その原因は、小牧長久手の戦、秀次をかばって反対したこと、と思われるし、中入りじたい反対だったのかもしれない。
この先の政権の障害になると判断、実際朝鮮の出兵に反対している。
更に、四国征伐の援軍を拒否したことも、意のままにならぬ存在と。
家康上洛の為、妹旭を人質として嫁がせたことと、更に母の仲を見舞いと称して人質に出したこと、自分の欲の為に家族まで犠牲にする姿勢にこれも、激怒する。
そして決定的な出来事が九州征伐、主力を率いていたはずなのに、秀長のほうが戦を終わらせて和議をして戦後を確定してしまつた。
ここでも、石田三成を使って別の約定を定めてしまう。
秀長と島津家当主義久の面目丸潰れである。
丹羽家解体と家康上洛の為の人質、九州征伐、
二人の仲は、険悪化してゆく。
次回は、天に賞された漢と天に見放された男

















小牧長久手の戦い、家康をはじめ、織田家宿老の権謀術数と秀次の悲劇のはじまり

清州会議が、織田家の後継者争いのはじまりで、はっきりいって、なりふり構わぬ権力争い当初、織田家次男織田信雄と三男織田信孝の争いと思われていた、そして信孝が、山崎の合戦に参戦したため、当然家督を継げるとおもっていたが、本軍を率いて戦を勝利に導いた羽柴秀吉が、織田家嫡孫の三法師の君を担いで、後継者におさまってしまった、三男信孝は、柴田勝家を味方に引き入れて三法師の君を岐阜城に、抱え込んで抵抗する、秀吉は次男信雄を引き込み京都で盛大な信長の葬儀をあげて、信雄後継者を喧伝するとともに、信孝、勝家を謀叛を起こしたとして、賤ヶ岳の戦いにて討ち果たす。

戦後、信雄が織田家後継者を名乗り、徳川家康を頼って、起こした戦が小牧長久手の戦いである。

戦は、信雄の領土尾張でおこなわれる。

秀長は、長宗我部や、紀伊の一揆勢を牽制する為、

後方支援に徹して、戦は秀吉が采配することになる、ここで想う当初秀吉は、家康を舐めていたのか、それとも勝つ気が無かったのか?

黒田官兵衛、蜂須賀小六、羽柴秀長等、羽柴軍主戦クラスが参陣していない。

以前、秀吉の槍働きについて話した事があるが、城攻め以外は、つまり調略以外、自ら自軍を率いて勝った経験が少ない、羽柴軍の野戦は、秀長が主体で、初陣美濃鵜沼城より賤ヶ岳の戦いまでの戦歴をみると、家康となんら遜色がないし、秀吉の勝ち戦のほとんどに関与しているく言っても過言でない、特に山陰道においては、目覚ましい功績がある。

そして中入について、率直にいって奇襲の情報を家康に、流したのは秀吉?

言いたいのは、今後秀吉の政権にとって障害になりつつあるものを除去したのでは?

邪推になるが、森長可、清洲会議で甲斐、信濃、上野の織田家の領有を放棄して家康に東の防備を任せるという決断をした、滝川一益と森長可は、どれほど憤慨したかしれない、森長可にしてみれば、命からがら信濃を放棄して自力で東美濃を奪取して、一時は春日山城を攻撃できる場所まで侵攻していたのに、織田家の処遇に、そしてその取り決めをした張本人である秀吉を恨んだだろう信濃における権益を餌に調略もっと要求されたかもしれないこの戦においても戦に意見されやりにくかつたのでは?、戦死したあとの子忠政は、信濃4郡で調略されている。

池田恒興、丹羽長秀と並ぶ宿老の一人、ここで功名をたてようものなら、宿老として政権の運営に介入される、三法師の君の後見にでも就任されたらと、まさに眼の上の瘤、ここで死んでくれたら、そう思っても不思議でない、そして子の輝政をも上手く調略して麾下にくわえている。

そして秀次、三好信吉改め羽柴秀次、はっきりいって捨て駒だったのか、秀吉の姉 ともの子その血筋の為、調略の道具として散々であるが、人質同然に宮部継潤の養子、そして四国の調略のため三好康長の養子に、

しかし養子先での扱いが不遇では無かったたのか、宮部家には、幼少で 入った家の家風が武一辺倒だったのか、薫陶をうけて猛将の片鱗をみせ、三好家では、連歌、茶の湯等を習い文化人としての素養もみせます。

秀長に次ぐ才人だつた。

謙虚で、年長者を尊敬する、物覚えがよいので、養子先で可愛がられたのかもしれない。

中入の大将を命じられ、長久手の戦で大敗し、秀吉の叱責をうける、秀吉としては宿老をはじめ有力武将を喪った責任を秀次に負わせて、自身の非難を回避する、邪魔者を排除できる、とても巧妙な策だ。

実際、この後政権運営において横槍が無くなったことは、間違いない。

秀次を救ったのが、秀長でなにかにつけて面倒をみて、名将に育てていく。

秀長は、中入の影で伊勢の信雄の諸城を攻略して和睦にまで、こぎつける元々戦の相手は、家康でなく信雄だったのだ、秀吉の主力は、伊勢だったのでは?家康の勝利等、はなから関係なかった、

官兵衛や秀長を最初からぶつけていたはず、池田恒興や、森長可に信濃へ侵攻させ、上杉景勝に後援させる、秀次、もしくは秀次に官兵衛をつけて、長宗我部、紀州一揆に備えさせる。

もつと必勝の策があったはず、しかし実際は、官兵衛は、毛利輝元と毛利氏の領土の確定の交渉の任にあたっていた。人を割けない都合があつた。

しかし戦後の和睦、石川数正の調略と、

圧倒的な物量の差、四国、紀州、九州と敵対勢力の排除、徐々に動員兵力の差が広がっていく余裕のあった秀吉も、天正地震で焦りを感じはじめる。

地震が家康の地位を押し上げたと言っても過言でない。

次回、秀吉、秀長の確執、秀長への猜疑心か嫉妬か?

尾張衆と近江衆














if本能寺

またまた、この検証だけで諸説いろいろ、分厚い本が一冊書けるくらいで、動機から周囲の状況等、そして黒幕説だけで何回も連載できる、そして、既存の定説を単に書いていては、誰も観ない。

黒幕説では、秀吉黒幕説が最近有力らしいが、竹中半兵衛なしでは、ありえないらしい。 

というのも、1579年、播州三木城の陣中(余命を悟った本人の希望)にて亡くなる。

策は、三年前いや例の六男秀勝の養子1577年いや1573年長浜移転あたり、かなり前から考えていたのか、諸葛亮孔明の天下三分の計に匹敵する深謀遠慮なのかもしれない。

策の成否を知ることもなく死ぬことが無念だったのかもしれない。

でも自分としては、家康、光秀共謀説ではないかとおもっている。

段々、薄くなってきているが天海僧正と春日局がひっかかる、勘繰り過ぎ。

本能寺の変当時の無防備、畿内における直臣のすくなさ、敵勢力を軽んじているのか?答えは、否、丹羽長秀と明智光秀が畿内の防御を担当していた、他筒井順慶や細川藤孝と警備は、完璧であったはず?

いかに明智光秀を信用していたかである。

遡ると、実弟信行、浅井長政、荒木村重等、裏切りの処罰をみれば明らか、

信長の信頼は、信じたら海の底までなのかもしれない。

信長にとって本能寺の変は、あり得ないことだった?

そして、わずか100から200の人数を討ち果たす為に、

1万3000の兵を動員するなんて、度が過ぎると普通なら思うかもしれないが、信長の武芸と言うか戦術というか戦い方は、本当に巧みだったらしい、後年秀吉が諸将の前で戦にもっとも強い大将は右府様であるといってはばからなかった、蒲生氏郷に千人、右府様に百人で戦をしたら、それでも右府様が勝つと、九十人討たれても、その中に右府様はいない、逆に百人討たれたなら必ず氏郷の首があると名将言行録にあった。

実際、信長は稲葉山城の戦い以前は、劣勢で戦うことが多く、稲生の戦い、桶狭間の戦いなど多勢に無勢の戦いを生き残って逆転したことが多々ある、父信秀が後継にえらんだのも戦巧者ゆえ。でも1万3千の大軍をもってしても首級をあげることは、できなかった。

死体がなかったことから生存説まである。

そして、信長にとって天下統一は目前にあった、東は、北条氏政は臣従目前で、滝川一益は関東管領であったし、柴田勝家は、越中魚津城を落城寸前まで、越後へ侵攻目前、四国は、長宗我部氏を臣従させる一歩手前、毛利氏は備中高松城で、信長親征が叶えば毛利輝元を臣従させることも可能、

毛利攻めと並行して、大友宗麟と龍造寺隆信を臣従させ、島津義久を討伐していたかもしれない。

信長生存なら、畿内で兵を招集して光秀を返り討ちにしたかもしれない。これもifにすぎないが

秀吉黒幕説なら、竹中半兵衛の諸葛亮孔明を凌ぐ深謀遠慮は必須である。

秀吉とは違って十年、二十年前から信長を討つことを考えていたのかも、秀吉、秀長も、信長を討つ手段であったのかも。

家康、光秀共謀 説、にしても、徳川家康の命運は同盟を解消して臣従するしか道は無かった、そして最悪秀忠を廃嫡して信長より養子をとる、安土城での饗応の席でその提案があったとしたら、叛逆の動機にならないか?秀忠は、幼年3歳くらいだつたと思う。

かなり話が、本能寺の変になってしまったが、秀長、秀吉にとって一番最良の時期だつたと、以前山陰、山陽と分かれて離間の策と言ったけど、逆に二人が上手く機能して絶妙な組合せになった、竹中半兵衛の死も

本来なら戦力の衰退のはずなのに、生前黒田如水の嫡男松寿丸を匿うことで戦力の衰退を補っているし、逆に半兵衛の死が二人の連帯感を強めている。二人は協力しあって山崎の戦い、清洲会議、丹羽長秀の協力により、柴田勝家と滝川一益をのぞく宿老を味方につけることに成功、三法師の君擁立に成功、秀長と丹羽長秀の日頃の交遊が役に立つ秀長の功績、賤ヶ岳の戦い、柴田勝家と織田信孝、滝川一益の脱落。

秀吉の天下統一の戦いのはじまり。

次回、小牧長久手の戦い家康をはじめ、織田家宿老との権謀術数と羽柴秀次の悲劇のはじまり

追記、信長の戦巧者について、金ヶ崎の一騎駆も有名、駄目な時の切り捨て、機をみるに敏なところ。
京に戻るところ狙撃されても無事たった。














どうなる日本、歴史は繰り返されるのか!

10月27日、日本の未来を決める衆議院総選挙が,はじまる、自民党の貴族政治の存続、生き残りを賭けた、

死にもの狂いの戦いとなる、

国民の政治的無関心は、時代錯誤の言葉になるが、ハッキリ言って、非国民か、売国奴といっても過言でない、日本を棄てると宣言している様なものだと思う。 

今回、極論として憲法改正して国民総徴兵制に議論が発展する。その時になって都合良く反対なんて、できない体制になっているかもしれない。あなたの一票がそうきめたのかもしれない。

今回、自民党に対抗するため野党連立は、ありえるのかもと、漠然と考えていたのだが、自民党裏金議員のなりふり構わず生き残る為、野党と連携もありえるのでは、どんな形でも議員として生き残れば不逮捕特権もありえる。

そして、盲点として、石破、野田の超党派連立内閣、

政界再編もありうること、新党結成して政権政党を創立する。

自民党分裂もありうる、石破総裁の政治基盤が弱い、

自分の意見を通すため、自民党のからを破らなければならない。

政党再編、政界再編も今回の総選挙で可能であること。

歴史は、繰り返される。

将来、国民の一挙手一投足、監視される国を創らないようにしたい。

間違っても国家総動員法が制定されないように、

民主主義国家として発展していけるように。

戦前の日本に戻らないように、戦前の日本は、貴族政治であった。











1573年長浜城築城、兄弟の分岐点になる近江衆(あざいしゅうと言っても過言ぜない。)を召し抱える。

後年、官僚派と武断派に言い換えれば、尾張衆、美濃を攻略するまで古くから付き従ってきた川並衆をはじめとする古参の家臣と北政所の実家木下家やとも、小一郎、秀次等の一門衆。

長浜を賜わってから召し抱えた旧浅井家家臣を中心とした、地元の出身者から近江衆。

1574年、近江衆の中心的な人物石田三成が仕官する。

同年秀長が、越前一向一揆のため留守にしていた秀吉の代理として一軍を率いて参戦する、かなり激しい戦と聴く、信長が降伏した門徒を虐殺したので怒り狂った門徒の反撃で一軍の大将信長の弟が戦死したらしい。

この経験が、後の大和郡山の善政の基礎となる、

無知な領民が、教主や一部の僧や傭兵の頭目の利益の為、来世救済と信じ騙されて死んでいく姿をみて、宗教のありようを、考えなおしたのでは、ないだろうか?

ここで信長の残虐性について、一説によると身内や信頼する家臣に対するあついおもいがそうさせる、一向一揆は、弟信広、信包にたいするもの、家臣森可成、蘭丸の兄に対する仇がそうさせた、裏切りに対しては、弟信行や荒木村重、浅井長政等親族ことごとく惨殺、身内に厚く敵にきびしい、中国の始皇帝の死後の漢の高祖劉邦と西楚王項羽の項羽と同じ身内にあつく、敵にたいする寛容さがない、。

その点ので言えば劉邦と秀吉、項羽と信長似通ったところがあるのでは?

1575年越前一向一揆を平定、翌年長篠の戦において、

半兵衛の働きで武田軍の陽動を見抜くなど着々と功績を、翌年の手取川の戦に繋がる合戦の前、秀吉の軍令違反の撤退、そして切腹の沙汰躊躇なく命令を下している。

極論として秀吉の必要性を感じなくなってきたのではないだろうか、武田信玄亡き後、対抗できる勢力が無い、上杉謙信は確かにつよいが武田を兵力で圧倒できたので倍の兵力、それ以上で圧倒も可能と、そして織田家随一の猛将柴田勝家ときたなら負ける要素がない。

直ぐにでしやばり、鼻につく秀吉よりも、弟の秀長の方が、武将としての器量もあり、謀略の面を半兵衛に補佐させれば問題ない養子をとらせて軍監をつければ秀吉は、不要。

しかし、状況が変わり、柴田勝家が手取川での敗退、 上杉謙信の再認識、。

嫡男信忠の秀吉の必要性の力説により、切腹を思いとどまる。

中国毛利氏の攻略を命じるとともに、起請文のような六男秀勝の養子受け入れ、事実上北伊勢北畠氏、南伊勢の神戸氏と同じ扱い、自領を我物顔で支配される、

屈辱を味わうことになる、そのことを思うと信長に対する奉公が忠義から、生存そして猜疑心へと。

1578年三木城攻め、そして有岡城にて荒木村重が謀反を、信長は落城の一族磔の処置からいかに村重を信頼していたのかがわかる、裏切りに対する厳しさ、後の秀吉の艪櫂のおよぶまでに匹敵すると思う。

信長を疑う事件が、徳川家康嫡男の信康切腹、上月城においての信長の仕儀、これまで積みあげてきた中国攻略の成果を台無しにする、秀吉の播州における信頼が失墜した事件だった。

秀吉にとって、どれだけの損害だったかというと、武田勝頼の高天神城を見捨てた、その後を思えば分かりやすい、その後味方に、ことごとく裏切りにあい、天目山において自刃する羽目になった。

実際、それを助けたのも、その当時、山陰道の大将として、但馬の攻略をしていた秀長、もしかして信長は、秀吉と秀長をゆっくりと離間させるつもりだったのか?山陽道と山陰道に分離させて、山陽道では、調略で、山陰道では、着実に武功を積んでいる。兄弟の歯車が、噛み合って羽柴家が上手く機能しているとでもいうのだろうか?

後の九州征伐の伏線、これが信長のイメージしたものにみえる。かなり後になって現実化するが、勘ぐりすぎ?

1581年、鳥取城の攻略、攻略した後も、吉川元春の武名に畏怖する始末

そして1582年、安土城下にハレー彗星が見えたと宣教師が記録している、不吉の予兆、波乱の幕開け

長くなり疲れてきたのと、正直書くことに窮してきたので、一旦休止します。

自分でも、我ながら勘ぐりすぎだろうと思います。

if本能寺からはじめます





























秀長の能力と秀吉の人間性について

最初に秀吉の人間性について記録が残っている、

猿に似ている、体が小さい、ハゲネズミ、体がちいさくて、動作が機敏、利発、機転が利くだからか小賢しいと良く言われる。 人誑し、人を魅了する、人から愛される、営業向き社交的な面から交渉、調略が得意分野、その反面腕力が無い、武芸が苦手、槍働きをしない、女好き等、残虐、利己的、薄情、切り捨てが早い酷薄、短気、歴史的な言伝え記録により。

少年期、青年期の努力して実績を上げても、身分の低さや、出自の悪さで報われない、その経験から、結果をあげることを第一として是非を問わない成果主義になった。

最後に、身分にとらわれず結果をのここす人間を重視する能力主義の信長に命を賭けて奉公する。(林通勝、佐久間信盛を切り捨てた。)

猿と信長の家臣に揶揄されるが如く、猿まわしの猿の如く主人の望むとうり踊る。文字どうり、信長の想いどうりのことをかなえようとする。

しかし、当時の家格としては、6,7番くらい、出世スピードでいえば、明智光秀、滝川一益に次ぐ三番目で、長浜十二万石。

長浜十二万石、血のでるような努力の結果、

金ヶ崎退き口、姉川の戦い、横山城の攻防戦、浅井を弱体化させる為の調略、(一説によれば、小谷の方への妄執、偏執的な愛情であったと、小谷城の落城後の残虐な処刑(信長の命令に服従))の功績。

ただ、秀長も秀吉の下、作戦に参加して手柄をたてたことは間違いない、残虐さは秀吉一人のものとは、言い切れない、何故なら秀吉一人で戦争は不可能だから。

残虐性は、戦時下における一種の空気とでも言うのか、それとも狂気なのか。

戦争を遂行して行く為には、一時でも狂気が必要なのかもしれない、一時だけでも都合良く宗教にすがるのか?武田信玄や上杉謙信のように、そして宗教にすがるのを拒否して自己を貫いたのが信長?

秀長は、秀吉の戦に全て従軍して長浜城代に就任している。

秀長の能力としては、秀吉の代理として兵を率いる。

戦の軍資や兵糧の確保等、用兵、内政にいたっては、竹中半兵衛、蜂須賀小六、浅野長政、前野長康がいる、長浜城代の時に内政を学んだと思われる。

歴史上、秀長は向学心の強かった人物といわれている。屋敷の差配、構造物の建築、そしてここで思ったのは、兵を率いる前に鉄砲の扱いが上手かったのではと思ったのだ、当初は滝川一益だけがそうなのだと思ったが、秀長のまえに秀吉も鉄砲の扱いが上手くて、

それが仕官のきっかけになったのでは、信長は、津島や熱田において、堺から取り寄せ研鑽したと聞く、秀吉も津島や熱田において、鉄砲を学んだのでは、そして前線で、槍働きするより、鉄砲隊を指揮したほうが、生存率がたかい、鉄砲だけでなく剣術は、竹中半兵衛から、軍略と一緒に習ったのかもしれない、推測の域をでないが。金ヶ崎退き口でも鉄砲隊を指揮していたから、生き残れたのでは?

姉川では、槍や剣を修練、横山城、小谷城攻めで成果を発揮できたのは?その功績が長浜城代。

やはり、凡庸でなく非凡なのか?

後年、大和郡山時代、付家老の多さに、どんどん役職を、振り分けて無能を隠していたのではと思った?

だが、長浜から三木城攻め、中国攻略と秀長が一武将として、独自で行動することが増えてくるので、無能で、片付けられない場面も多々ある。

後の付家老がフォローしていたのか?

次回は、羽柴兄弟と信長そして本能寺










鉄砲

























上洛から長浜まで

歴史上、優れた武将なので逆説として。

手柄を譲ってもらっていた小六、半兵衛等、半兵衛弟久作重矩が影武者、姉川で久作個人の功績が記録があるので、それ以前において、それ以後信長に従って転戦して甲斐で戦死。

前回秀長の、武芸について当時の百性は土地の土豪や領主から税の代わりに度々兵士として徴用されることを考えたら戦の経験も、戦で田畑の荒廃も、それで士官もやむ無し、秀吉も体格の良し悪しで連れてきた後はなんとかなる的な、棒を振り回すだけなら人並みだから、病弱で色白なら連れてこない。

稲葉山城攻め、前後して墨俣で川並衆、蜂須賀小六他、足軽衆と生死を共にできたのは元来の性格か、朴訥で生真面目といわれている?

上洛たが、やはり計数から、軍略まで竹中半兵衛に習ったのだろうか?

半兵衛にとって秀長は、教え甲斐のある弟子だったのだろうか?上洛でも途中六角氏討伐もあり、京都でも三好氏の掃討もあったが、領国で留守居をしていたのだろうか?そのときまなんでいたのか?

信長が、朝倉征伐のとき京へ招集されたのか?

金ヶ崎退き口で、殿を務めて功績をあげたとある、

従軍していたのか?後のことを考えるとこの時、徳川家康が鉄砲隊を残してくれたことを秀長は、しっかり覚えていたということなのか?小牧長久手ののち上洛

した時、滞在時の屋敷を提供したことを考えると。

叡山焼き討ちも、出口を解放して女、子供をにがしたとか?

今までは、信憑性にかけても姉川の戦いでは、木下勢の一部将として参戦したとある、実際に戦の大将として戦った記録はある。

浅井との合戦にも、横山城の留守居?この間浅井領を、調略で離反者をだし、小谷城を丸裸にしてしまう。1973年8月救援の為出陣した朝倉義景を返り討ちにして、一乗谷に追いつめ自刃させ、9月に小谷城を総攻撃して浅井長政を滅亡に追い込む、

その功績で小谷城を与えられる。

小谷城を廃城にして長浜に新城を築城、秀吉より秀長は、城代を任される。

流石になんの働きもないとは、言えない。

翌年、信長より名指しで、名代として伊勢長島へ出陣していること考えれば、次回は秀長の能力と秀吉の人間性

















秀吉と秀長を、かいていると大変な事に気付いた、

細かく書いたら一年あっても足りないということに、

考えだ末、5年、10年間隔で区切りを、つけたほうが書き易いと言うことに、重複する事になるけど、秀吉の

功績について、周知のことだが槍働きの功績は聴いたことがない、誰かの首級をあげたという事実はなかったと思う。槍働きは、ほとんど麾下の功績による。桶狭間の戦い、以前の功績は内政、石垣の修繕を割普請で行なう、物資の倹約等信憑性がない、間者や戦の輜重の輸送の方が説得力がある。荷駄を放り出して逃げたとか醜聞があるとか、後世秀頼が実子ではないと、噂をした者をことごとく処刑した事実がある。

何らかの汚れ仕事をした報酬?

墨俣一夜城、稲葉山城攻め以前の功績は、やはり美濃の国衆の調略が中心。

秀長にたいしては優秀な弟としてのイメージが強い、没後の秀吉の苛政に対する、秀長の生前における秀吉の政治に対する違いか。それにしても秀長の良く出来すぎた感じがする。それと同じケースが、平清盛と重盛の関係、清盛の苛政を抑えていたとされているので。

それでも、庶民の立場にたった政治は庶民であった者しか出来ない。意地悪く逆に秀長は平凡であったことにして考え、辻褄があわなかったらやはり非凡だったことにする。

次回は、信長の上洛からの秀吉と秀長

乱文乱筆失礼します。




秀吉と秀長

太閤記、私が初めて歴史を知って興味を持つに

到ったきっかけで、確か小学生の頃だったと想う。

子供心にも、努力すれば最底辺から頂点に登って行けると興奮したものだ。

その当時は、無知な物でこれこそ理想の出世だと思って疑わなかった。宮本武蔵と同様にして戦時下、戦意高揚の目的で吉川英治先生が新聞に寄稿された小説。美化されている、ヶ所があるとおもった。

本題に戻って秀長の話、秀吉の異母弟とも実弟とも

幼名小竹とも小一郎とも、

桶狭間の戦いの後、秀吉が実家より引き抜いてきた。

譜代の家臣のいない秀吉の苦肉の策、この後身内頼りが、家を滅ぼすのかもしない。

この秀長に、とつての一番の師が竹中半兵衛で、彼無くしてその後は、語れないのかもしれない。

当初、野伏や野盗まがいの家来しかいない中、だれが百姓の小倅の言う事等聴くものかと思う。

桶狭間の戦いの一年後から稲葉山城の戦いまで相当な苦労があったと思う、以後も苦労は、あるだろうが、確か足軽大将程度だと思う、後の部下も同輩で蔑視もされただろう。竹中半兵衛の存在は、かなり大きな存在と言える。

内政から軍事そのまえに読み書きも、教わったのかもしれない。1561年から1573年桶狭間の戦いから、浅井氏が滅ぶまで。雌伏の時期だったと想う。

上洛、金ヶ崎退き口、京都守護、姉川、小谷城攻め

苦難の連続、かなりのスパルタ教育、鍛えに鍛えられた、感じがする。幸い草創期に、軍事を担ってくれた5

人の人間が居なければ立ち行かなくなつた。

仙石秀久、尾藤知宣、神子田正治、宮田光治、戸田勝隆、討死したり、追放されたり。悲惨な末路をたどる。晩年尾張派、近江派に比べると人材が不足、していたといえる。秀吉の資料としては、太閤記と武功夜話が、あげられる。創作の疑いがあると信憑性が、薄くなってきている。

秀長の武将として突出しているのも、少し疑問がのこる。農耕で鍛えた体と竹中半兵衛の薫陶で納得出来るだろうか?10数年の学習で開花した天才なのか?

秀長にも、影で代わりに功績を積んだ人間がいたのか?

長く成りすぎた感があるので次回へ

秀吉の実像、秀長の虚像その後の歴史、創作