人間が尊厳を持って生きていくには、他者からの承認が必要である。他人から必要とされること、そして他人によって自分の価値を認められることが、自分の自信へと繋がっていく。
「ありがとう」という言葉は、人間に対して尊厳を与える。「ありがとう」と言われるということは、自分がその人から感謝されている、自分の存在がその人にとって価値あるものである、ということを確認することである。
ニーチェは「同情」という感情を強く否定する。一方的な同情は、「わたしの助けを必要とするあなた」と、「あなたのことを助けてあげるわたし」の二項によって成立する。同情される側からしてみれば、「あなたはわたしの助けを必要としているが、あなた自身が誰かの助けになることはない」という役回りを勝手に押し付けられることになる。役回りを押し付けられた方はたまったものではない。それは、その人から「ありがとう」と言われるチャンスを奪うこと、つまり人間としての尊厳を剥奪するということである。(ここで言っている「同情」とは、自分勝手でセンチメンタルな押し付けがましい「同情」のこと。実際に人助けをすることとは異なる。)
自分の価値を見出すことができずに、孤独の中で苦しむ人々がいる。(例えば先日紹介したロシアの老人。)彼ら、彼女らには、他人から自分の価値を認められるチャンス、誰かから「ありがとう」と言われる機会がない。そのために彼ら、彼女らは、自分たちのことを「無価値な存在」、さらには「他人に頼ってばかりいるお荷物」、と思い込んでしまう。
自分の存在価値を見失った人々に、自分の存在価値を見出してもらうには、他者の承認を得られるような場、他人から感謝されるような場を提供することが必要である。金銭的な報酬、あるいは「ありがとう」という言葉によって他人からの感謝が示されることで、社会の中での自分の存在意義を確認することができる。
フランスでは教会が、このような場を提供する組織として機能しているように思われる。先日訪れた教会の無料コンサート、運営の裏方はすべて老人たちだった。細かいシステムは分からないが、すでにリタイアした老人たちが地域活動の一環としてコンサートに協力しているのだとしたら、これは優れた活動だと言えるだろう。地域の人たちは無料でコンサートを聞くことができる。老人たちは、みんなから喜ばれる仕事を見つけ、そこにやりがいを感じる。
高齢者の場合に限って、日本について考えてみる。昔の高齢者は、ビジネスをリタイアした後でも、例えば町内会のご意見番、あるいは孫の世話、といった仕事を任されていた。そこには、自分を必要としてくれる「誰か」が常にいた。しかし、世間や家族といった共同体がばらばらになりかけている現在、そのような「誰か」を見つけるのは難しい。リタイアしたとたん、あらゆる他者から切り離される、という事態が生じかけている。
それでは、フランスの教会に相当するような場を日本に作ることができるのか。現実にはなかなか難しいと思う。教会の場合、キリスト教という理念がメンバーを緩やかに結び付けている。キリスト教の精神に基づきながら社会に対して貢献していこう、という認識が各メンバーに共有されている。これにより、経済的利益の追求や競争原理を基盤としない、開かれながらも親密な共同体が実現する。ところが日本の場合、共同体の核となる理念を見つけるのは難しい。
さらに言えば、重度の身障者、あるいは寝たきりになった老人たちの社会的存在意義をどこに見い出せるのか、という問題もある。ここでは、何かを「する」ことに対する感謝から、ただそこに「いる」ことへの感謝へと、パラダイムを変換する必要がでてくるだろう。存在そのものに対する感謝、ここまでくるとキリスト教のアガペー、つまり「愛」に近似する。社会全体がこのような「愛」を共有することはできるのだろうか?
cf. パリでは路上生活者に対して多くの人が気さくに話しかけ、あるいはお金を恵んであげる。社会的弱者を「自己責任」の一言で切り捨て、見向きもしない日本とは対照的である。ここに、キリスト教的愛の影響を見るのはあながち間違いではないと思う。