他者とは何か


自分の想像できる範囲、コントロールできる範囲を超越した者。他者は自分の尺度で計れる者ではない。それまで自分が持っていたカテゴリーに分類できるものではない。



他者とどのようにして出会うか


想像することすらできない他者を、みずから発見することはできない。自己にできるのは、他者に向かって呼びかけること、そしてその呼びかけに応えて、他者がみずから現れるのを待つことだけである。



自己と他者はどのような関係にあるのか


自己と他者は、それぞれが独立した、対等の関係にある。自分の価値観で他者を理解した(com-prendre)と思い込むことは、他者を自己のなかに吸収することである。このとき、他者は他者でなくなる。また、自己を他者に同化させること(例えば神への同一化)も、自己と他者の関係を崩壊させる。


自己に回収されない他者と関係を築くには、自己と他者との間に共通の場を設けなければならない。この場を担うのが言語である。言語という公共物を使って対話をすること、そして、自分の手の届かないところにいる他者と向き合うことで、自己は自己の限界を知り、自分の存在の正当性を疑う。ここにモラルがある。



恋愛との関連性


自己と他者の関係の、もっとも分かりやすい例は恋愛だろう。自分の自由にならない相手に対してできるのは、相手に向かって「呼びかける」こと、そして呼びかけに応えて相手がみずから姿を現してくれるのを待つことだけである。相手を完全に自分の支配下に置こうとすること(サディズム)、あるいは自分が相手の支配下に入ろうとすること(マゾヒズム)は、真の恋愛関係とは言えない。相手と向き合い、対話し続けること、そのなかで自分の傲慢さが相手を傷つけうることを知り、自分の存在に対して疑いを持つこと、そこでは「モラル」が求められる。


(レヴィナスの『Totalite et infini』を敷衍。また他者論では、レヴィナスの「顔」とメルロ=ポンティの「肉」の対照性も重要か。)

来週から出かけるので、新しいことをする気にもならない。パリを回って少し買い物をするくらい。しかも今日はメーデーで、店はすべて休み。


パリでは、ココ・シャネルの伝記映画が話題になっている。「Coco avant Chanel(シャネル以前のココ)」というタイトルで、主演は「アメリ」のAudrey Tautou。そのうち日本でも公開されるんじゃないだろうか。


あと、ハリウッド版のドラゴンボールのポスターも良く見かける。日本でも封切られているのだろうか。あまりにも安っぽいつくりなので、日本ではヒットしないと思うが。そういえば、宮崎駿のポニョのポスターもかなり見かけます。


頭の使いすぎで、慢性的に軽い頭痛。何もしないで休むよりも別の活動をしたほうが疲労は早く回復するもの。全く違う刺激を入れて、脳をほぐす。東京にいればジョギングでもするんだけど、とりあえずこんどの日曜はまた美術館へ。

レヴィナスの『Totalite et infini』(邦題は『全体性と無限』)が面白い。これからの時代を考えていくうえで、非常に参考になる。たとえば彼はこう書いている。「自由がみずからを正当化する代わりに、みずからを独断的で暴力的だと感じるようになったときにモラルは生まれる。」


これだけでは分からないので、少し噛み砕く。これまで自由は絶対的に正しいものだと考えられてきた。しかし、自分の自由を拡大することが、自分の手の届かない他者を迫害し、「殺害」してしまうことだってありうる。自分の自由の一方的な増大が、他者にとっては暴力になることだってある。自分の自由を無批判に正当化するのではなく、いちど再考してみること、このときモラルは生まれる。


フェアトレード(発展途上国と適正な価格で取引をすること。コーヒー豆などの商品で行われている)などは、このような「モラル」から生まれたと言うことができるだろう。先進国の消費者の自由(高品質の商品を低価格で享受する)だけを考えるのならば、商品はできるだけ安い価格で仕入れられたほうが良い。しかし、先進国の自由の拡大が、発展途上国という他者への「暴力」になることだってあるかもしれない。このような観点に立ったとき、先進国の消費者の自由を少し制限してでも、「モラル」を維持していこうという発想が生まれる。


そう言えば、「かっこよさ」の定義も少しずつ変わってきているのではないか。これまでは、自分の自由を限りなく拡大し、それを享受している人がかっこいい人だった。しかし最近では、自分の自由の「正当性」を信じきって疑わない人は、あまりかっこいいとはされない。自分の自由を少し制限してでも、他者に対して「暴力」を振るわない人のほうが、かっこいいとされているのではないか。


なお、『Totalite et infini』はメモをとりながら、できればフランス語で読んだほうがいいです。liberationやveriteといった用語にかなり独特の定義が与えられているので、翻訳では理解しにくいかもしれない。そのわりには単語も簡単だし、文章もシンプル、論旨も明確で非常に読みやすい。


追記。図書館でこの本を読んでいたら、前に座っていたフランス人の学生から「レヴィナスを読んでるの?」と話しかけられる。「フッサールとかハイデガーとか、現象学が分からないと難しいんじゃない?フランス人でもなかなか理解できないからね。複雑じゃない?」と聞かれたので、「現象学がベースにはなってるけど、主題はle Memeとl'Autreについてだし、ぜんぜん複雑じゃないよ」と答える。図書館で赤の他人にいきなり話しかけるのは、フランス人の学生の特徴。(ひとりで勉強してると急に寂しくなるのかもしれない。)

ドゥブレの『Le Moment fraternite』、とりあえず最後まで読み終える。最後のほうは現代国際政治論のような感じだったので、かなりとばす。じっくり読めばいろいろと面白いのだろうが、いまはそこまで付き合っている余裕もないので。


久しぶりに哲学書でも読もう、ということでレヴィナスの『Totalite et infini』を読みはじめる。ドゥブレを読んだ後なので、フランス語の読みやすさに感動する。ちびちびと、ゆっくり読み進めていく予定。帰国までにレヴィナスの主著、『Totalite et infini』、『Autrement qu'etre』あたりを読み終えられればいい。


レヴィナスの、自分を超越した他者に出会うのが教育である、というのはなかなかいい。内田樹もよくブログで書いていることだが。(正確には、内田氏がレヴィナスを敷衍している。)予測可能なもののなかに飛び込んでいる限り、教育というものはない。予測不可能なもの(他者)と出会い、その他者と対話をすることによってはじめて、教育というものは成り立つ。


今回のフランス留学は、なかなかいい教育だった。予測していたことなんて何ひとつ起こらなかった。特に去年など、へろへろになりながらも他者と対話し続けてきた、という印象。


来週からちょっとパリを離れます。パリに戻ってきてから残り一ヵ月半くらいで、今回の留学の総まとめをする。

大きな物語が失われて久しい。西洋におけるいちばん大きな物語は、何と言ってもキリスト教であろう。またマルクス主義も、プロレタリアートによる革命がブルジョワを倒す、という物語を提供した。そこでは、その革命に参加することが自分の存在価値を保証した。サルトルの「実存主義とは何か」を読むと良く分かる。あるいは六十年代の日本は、高度経済成長という物語によって特徴付けられる。


デリダは『マルクスの亡霊たち』のなかでメシアニスム(messianisme)とメシア的なもの(le messianique)を区別した(本日の池田信夫氏のブログを参照)。メシアニスムとは、キリスト教のような特定のヴィジョンを持つ積極的な救済。メシア的なものとは、「いまとは違う状況」を求める否定的な救済。


池田氏が指摘するように、現代はメシアニスムの喪失によって特徴付けられる。キリスト教はかつてのような力を失い、マルクス主義にも求心力はない。永遠の経済成長という幻想は今回の金融危機によって決定的なダメージを受けた。我々は、物語の喪失の中にいる。


げんざい注目されている価値観、例えばサステナビリティー(持続可能性)や環境問題とはいったい何だろうか。それは、現状を維持していく、ということである。いまある世界を凌駕する千年王国(メシアニスム)を求めるのではなく、いまある世界を一秒でも長く生きながらえさせそう、という価値観である。


小さくて親密な共同体の必要性、というのも同じような流れの中でとらえることができる。そこで求められているのは、自分を認めてくれる他者によって囲まれた、心地よい環境である(*)。物語の展開は必ずしも必要でない。


しかし、メシアニスムは本当に失われてしまったのだろうか。我々は全身全霊をささげるべき大きな物語を失ってしまったのだろうか。『Le Moment fraternite』のなかでドゥブレが言っているのは、人権問題の解決こそが新たな物語になりうる、ということではないか(まだ読みきっていないので、結論は保留)。少なくともヨーロッパでは、そのような見解も成り立つように思われる。


ひょっとしたら、日本も人権問題の解決という物語を持つことができるのかもしれない。それは例えば、いかにして高齢者に対して人間としての尊厳を与えるか、ということでもいい。そうなると目指すべきヴィジョンは、おじいさんと子供が語り合うような、日本の幻想的原風景になるのだろうか。現実に存在したことのない、しかしみんなが共有する神話的「古きよき日本」を実現する、というのが大きな物語として共有される時が来るかもしれない。


*:「二十一世紀の社交はこれまでの組織に代わるものであるから、何よりも人びとに帰属感を与えるものでなければならない。人びとに身元証明の安心と、人生の予測可能性の感覚を保障するものでなければならない。(中略)社交的な個人はけっしていわゆる『近代的自我』ではなく、他人を自己の手段とする支配者ではない。もちろん彼らは虚栄心にも支配欲にも満ちた凡俗の人間であり、だからこそ贈与をおこない評判の見返りを期待するのだが、すでに見たようにそのこと自体のなかに絶妙の逆説が秘められている。なぜなら彼らが評判を得て虚栄心を満たすためには、まさに彼ら自身から見て敬意に値する他人がいなければならないからである。自己が認知されるには他人が不可欠であり、その認知が意味あるものであるためには、彼ら自身がその他人を認知していなければならない。だとすれば、まさにこの認知の循環、贈与と見返りの連鎖が社交的な人間を結びつけ、彼らに確実な身元証明の感覚を与えることになるだろう。組織集団の評価と違って、ここでは評価するものとされるものが平等だから、得られる満足もより純粋であることが期待できるのである。」(山崎正和、『社交する人間 ホモ・ソシアビリス』、中公文庫、2006、pp.361-362.)

・ 友達とマレでファラフェルを食べる。なかなかうまかった。これで、フランスで食べておきたいものはすべて制覇。


・ 家庭教師をしていた頃の生徒からメールが来る。彼もがちがちの体育会系、いま高3。十代のヤツはやっぱり勢いが違う。いい刺激を受ける。先生としては負けてられない。


・ ここのムッシュ(現在80歳)を見ていて思うこと。やはり、80になって一人というのはちょっときつい。長年つれ添ってきたパートナーがいないというのは、やはりちょっと。相手が先に亡くなったというのならば気持ちの整理もつくのだろうが。安定感に多少の問題が生じる可能性がある。もちろん、個人差がある問題なので、安易に一般化はできないが。


・ ドゥブレの『Le Moment fraternite』、第三部に突入。なかなか苦戦中。フランス語が非常に読みにくい。焦らずに進んでいこう。


・ あまり調子が良くない。春先というのはこういうものなのだろう。しょうがない。


・ 山崎正和の『社交する人間』をぱらぱらと読み返す。このところ考えてきたことがすべて集約されている。名著。近いうちにもう一度きちんと読もう。


・ 『Le Moment fraternite』と『社交する人間』に共通すること、それは小さな共同体の必要性。自分の存在を認めてくれる他者をストックしておいてくれる親密な共同体。個人の自由を束縛することなく、しかし適度な連帯によって結び付けられた共同体。


・ 共同体という束縛から解放されること、「自分らしく」生きていくことが二十世紀後半の課題だった。その結果、自分という存在の身元を自分自身で引き受けなくてはならなくなり、永遠の「自分探し」がはじまる。「本当の自分」に忠実であることが強迫観念となり、自分という迷宮の中でゆっくりと朽ち果てていく。


・ ブログが普及した理由。自分の存在を認めてくれる他者を、みんなが求めていたから。ブログ空間は、相互認知の場を提供する。そこでは、お互いに相手を認めるコメントを送り合う。(「たしかにそうですね。」、「僕もそう思ってました。」)私はあなたのことを認めますよ、あなたも私のことを認めてくださいね。


・ 二十一世紀は親密で小さな共同体の世紀になるのだろうか。これがビジネスの世界に、どのように反映するのだろうか。CRMなどは、その端緒を見せているように思われる。だが、まだこれといった明確な形は見えていない。団塊の世代が定年を迎え、「孤独な群集」が大量に発生するであろうこれからの日本で、小さな共同体の核となるような何かを提供する組織が現れたら、それは大きなビジネスになるような予感もする。

レジス・ドゥブレの『Le Moment fraternite』を読みはじめる。かなり面白い。人間がグループとしてまとまるには、つまり「われわれ」が成り立つには、何らかの「聖なるもの(Le Sacre)」が必要である。決して触れることのできないもの、個人を超越した圧倒的な存在があってこそ、「われわれ」は「われわれ」としての凝縮力を維持することができる。それは例えばキリスト教にとっての神であり、中国人にとっての毛沢東であり、ユダヤ人にとってのホロコーストである。(戦時中の日本が、天皇という「聖なるもの」の下に一体となっていたことを加えてもいいだろう。その「聖性」を疑う者は「非国民」として、「われわれ」の外部に押しやられた。)


宗教的な力が弱まった現在、もはや神は「聖なるもの」として君臨しえない。現代社会における「聖なるもの」、それは人権である。人権を批判することは現代社会ではタブーとされている。それは、疑う余地もなく絶対的に肯定されなければならない。


というところまで読み終えた。ヨーロッパ、特にフランスは人権に対して非常に高い意識を持っている。それは、こないだの差別撤廃会議でのイランの首相の発言(「イスラエル政府は人種差別的な体制」)に対する英仏の反応(代表団が演説の途中にいっせいに退場)にも見られる。また、パリで開催されていた「人体の不思議展」が人権擁護の観点(中国人の死刑囚の身体を見世物にしている)から打ち切りになったことからもうかがえる。ラブレーをはじめとするユマニスムの伝統が脈々と受け継がれているのかもしれない。


個人の人生を個人が好きなようにコントロールする、個人には圧倒的な自由が与えられているが、その代わり何があってもそれはすべて自己責任である、そんな価値観も限界にきているのだろうか。個人が抱える「存在の耐えられない重さ」から解放されるために、個人としての自由を少し犠牲にしてでも何らかの「われわれ」を求める、そのような考え方もあるのかもしれない。もちろんこれも程度の問題で、行き過ぎると危険になるとは思うけれど。(ドゥブレの本は、読み終わったらきちんとまとめます。)

1. 実務


<基本>

論文執筆 : 自分で問題を設定し、スケジュールを立て、情報を収集し、必要に応じて教授にコンタクトを取り、その指示を仰ぎながら議論を深め、受け手が分かるようにアウトプットすることを学ぶ。


<応用>

プレゼン : 上記能力に加え、聞き手に伝わるような話し方への留意、質疑応答への対応が求められる。


勉強会 : 大学院では自分でいくつかの勉強会を主催する。論文で求められる能力に加え、問題設定の共有と各メンバーのスケジュール調整がポイント。


留学手続き : 大学や留学エージェントといった仲介機関を通さない留学。全く面識のないフランスの教授にいきなり手紙と研究計画書を送り、入学許可をもらう。(ただし研究計画書は日本の教授にチェックしてもらう。)その他、諸手続きもすべて自分で行う。論文執筆と同じプロセス。



2. 研究


大学入学前 : 人間の尊厳とは何か、苦しみからの救いとは何か、といった問題意識を持つ。


大学時代 : 言語表象の臨界への関心。ニーチェ、フロイト、ソシュールなどを読みながら、言葉では表現することのできないもの(ディオニソス的な力や無意識)について考え続ける。


卒論はアントナン・アルトー(二十世紀前半の詩人、演劇人)の演劇論。言語によって抑圧されている生の力を、演劇を介して開放しようとしたアルトーの試みを追った。


大学院時代 : 主体(sujet, subject)の喪失への関心。記号論や現象学、現代思想を中心に勉強しながら、主体の成り立ちについて考え続ける。その結果、主体とは世界や社会との関係の中でしか生じないのではないか、という見解に興味を持つようになる。


修論は初期アルトーの散文詩の分析。主体は言語による思考を基盤とする、というデカルト的なモデルに対し、アルトーは言語に頼ることのない思考(身体の思考)を提唱する。「わたし」という存在の根拠を「わたしの思考」に求めないとき、「わたし」はどのような表れ方をするのか、ということを探った。


パリ留学時代 : 共同体への関心。現代思想は個人の独自性を徹底的に解体したように思われる。しかし現実には、さまざまな感情を抱えた個人が世界中で生きている。また、その個人に対していかにして尊厳や救いを与えるか、ということも問題になっている。


個人の問題は個人を単体で考えていても解決しない。個人が社会の産物なのだとしたら、個人の尊厳や救いの問題もまた、共同体のあり方とセットで考えられねばならないだろう。


今後 : 個人の尊厳や救いと、共同体のあり方との関係を考えつつ、介護やリタイア後の人生といった福祉問題に関わる仕事をしたい。



3. 語学


TOEIC 865点(英語)、DALF C1(フランス語)を取得。また、英語やフランス語でのディスカッション、レポート執筆、プレゼンも数多く経験。

日曜の夜。先週はなんだかいろいろとイベントがあった一週間だった。友達の家でホームパーティーをしてみたり、ブローニュの森に行ってみたり、初めてマカロンを食べてみたり。(そんなにうまいもんでもない。駄菓子みたいで。)


勉強関連ではとりあえずファイナンスをざくっとさらい、CAPMやらWACCやらNPVやらと格闘。それ以外だと、三遊亭圓生の落語をいくつかまとめて見たり、そんな感じ。


日本の古典芸能ってのも、なかなかいいもん。ついでだからYOUTUBEで談四やら誰やらの落語をまとめて見てみたけれど、なんかこれはまいったな、という感じで、しみじみといいもん。


子供の頃から書道やら剣道やら柔道やらをやってきたせいか、日本の精神、みたいなものになんとも落ち着きを感じる。やっぱりどうせなら粋でいたいよな、なんてこともちらっと思ってしまったする。着物、ってのもこれはこれでやっぱり魅力的で、そのうちまた着物デートなんかもしてみたい。こうなってくると無性に彼女に会いたくなってきてしまうから、どうも困りもの。


九鬼周造が『「いき」の構造』のなかで挙げていた「いきの三要素」は、異性への媚態、江戸っ子の意気地、あとは諦めだっただろうか?たしかに、色気のある人、ってのも最近は減ってきたような気がする。「武士は食わねど高楊枝」、なんてのもこの頃は聞かないし、「諦観」って言葉を知ってる人も、もうあまりいないのかもしれない。でも、「いき」(関西では「すい」っていうのかな?)であり続ける、っていうのも、ひとつの生き方としてはずいぶん立派なものだと思う。からっ、としていながらも妙に艶かしい、なんてのも、なかなかできるもんじゃない。

社会の中に居場所を見出すことができず、苦しみの中で生きていたとしても、その個人に対して肯定的な価値を与えてくれる物語があれば、そこには救いがある。例えばキリスト教の場合。人間として受肉したキリストは、ローマ帝国によって迫害され、十字架にはり付けにされる。しかしキリストは、はり付けの三日後に復活する。ここで復活とは、現世では否定されたキリストの生涯が、最終的に神によって肯定されたということを意味する。われわれと同じように人間として生き、そして社会から否定されたキリストが、最後には神によって肯定される。それならば、われわれだってキリストと同じ道を進めるはずだ。たとえ苦しい人生であるとしても、最終的には神によって肯定され、この人生に積極的な意義を見出せるはずだ。そこには希望があるのではないか。キリストの復活は、いまでもイースター(フランス語ではpaque)として毎年祝われている。(キリストの受肉と復活にはさまざまな解釈があるのだろうが、このような解釈もあったと思う。)


宇宙的な視点から個人の存在価値を肯定する、というのはキリスト教だけでなく、多くの神話や民族伝承にも見られるものだろう。そこでは老人たちも、例えば「老賢者」として深遠な知恵を授ける役割を担う。神話や民族伝承は、社会の経済性や功利性を超越した、より大きなスケールから世界と個人の関係をとらえることを教えてくれる。社会の「やっかい者」とされている者たちも、宇宙的な広がりの中で積極的な役を演じることができる。


現代の日本に、このような大きな物語はあるのだろうか。戦時中ならば天皇制が、かなりゆがんだ形であるにせよこのような物語を担っていたように思われる。戦後ならば経済成長が神話的な力を持っていたのだろうか。個人の存在を肯定するような大きな物語を見失ったとき、ひとは近視的な社会通念(経済性など)に基づいた安定を必死になって求める。あるいは苦しみの中にいるひとは、自分の苦しみを肯定してくれるものならば、例えばオウムのような非常に安易で危険な世界観にすら魅力を感じてしまうのかもしれない。


cf. そう言えば、マルクス主義というのもやはり大きな物語なのだと思う。革命に身を投じている限り自分の存在価値は肯定される?