レジス・ドゥブレの『Le Moment fraternite』を読みはじめる。かなり面白い。人間がグループとしてまとまるには、つまり「われわれ」が成り立つには、何らかの「聖なるもの(Le Sacre)」が必要である。決して触れることのできないもの、個人を超越した圧倒的な存在があってこそ、「われわれ」は「われわれ」としての凝縮力を維持することができる。それは例えばキリスト教にとっての神であり、中国人にとっての毛沢東であり、ユダヤ人にとってのホロコーストである。(戦時中の日本が、天皇という「聖なるもの」の下に一体となっていたことを加えてもいいだろう。その「聖性」を疑う者は「非国民」として、「われわれ」の外部に押しやられた。)


宗教的な力が弱まった現在、もはや神は「聖なるもの」として君臨しえない。現代社会における「聖なるもの」、それは人権である。人権を批判することは現代社会ではタブーとされている。それは、疑う余地もなく絶対的に肯定されなければならない。


というところまで読み終えた。ヨーロッパ、特にフランスは人権に対して非常に高い意識を持っている。それは、こないだの差別撤廃会議でのイランの首相の発言(「イスラエル政府は人種差別的な体制」)に対する英仏の反応(代表団が演説の途中にいっせいに退場)にも見られる。また、パリで開催されていた「人体の不思議展」が人権擁護の観点(中国人の死刑囚の身体を見世物にしている)から打ち切りになったことからもうかがえる。ラブレーをはじめとするユマニスムの伝統が脈々と受け継がれているのかもしれない。


個人の人生を個人が好きなようにコントロールする、個人には圧倒的な自由が与えられているが、その代わり何があってもそれはすべて自己責任である、そんな価値観も限界にきているのだろうか。個人が抱える「存在の耐えられない重さ」から解放されるために、個人としての自由を少し犠牲にしてでも何らかの「われわれ」を求める、そのような考え方もあるのかもしれない。もちろんこれも程度の問題で、行き過ぎると危険になるとは思うけれど。(ドゥブレの本は、読み終わったらきちんとまとめます。)