最近したこと、およびこれからの予定。


美術館がタダだったので、友達と一緒にポンピドゥーとオルセーへ。あとはみんなでお茶したり。


今週で簿記の問題集を解き終わる。このあと、『現代会計入門』と『MBAファイナンス』を読む予定。それで、アカウンティング、ファイナンスの最低限の常識を抑える。


EMAUSとCARITASのまとめもどこかで作る予定。


ヨーロッパの人権、死刑制度、逆差別についての簡単な本を見つけたので、それを読んでいく。


ドゥブレの『Le Moment fraternite』も購入予定。自分を超越した聖性の前で謙虚になること、そして仲間と共に生きていくことの復権を目指した本(だと思う)。この本、これからの社会、そしてビジネスを考えていくうえで非常に重要なものになりそう。そう言えば、内田樹も今日のエントリー (学院標語と結婚の条件)で同じようなことを書いていた。 (ドゥブレのこの本についてはここ も参考になる。)


ブローニュの森とヴェルサイユにもそろそろ行きたい。


ムッシュの資産運用をそばで聞いていると、いろいろと参考になる。やり方が「金持ち父さん」と一緒。大切なのは、資産を最大限に活用してキャッシュフローを生み出すこと。


ファラフェルを食べようと思い、ユダヤ系のレストランに行ったらパック(ユダヤ教の過越の祭)の最中ということで特別メニューしかなかった。なるほど。


元気なのか疲れているのか良く分からない体調。


市場経済の枠のなかでは「価値がない」とされてしまった人に対して、どのようにして生きがいを与えることができるのか?という問題に興味がある。(「人生の目的もなく、ただ存在してるだけなんてつらすぎる」 by ロシアの老人)。もっと根本的に言えば、これはカミュの問題であり、スタヴローギン(ドストエフスキー)の問題。(「本当にシリアスな哲学的問題はひとつしかない。自殺という問題だ。人生が生きるに値するのかしないのか、それが哲学の根本的な問題だ。」 by カミュ)自己へと注がれる他者のまなざしの必要性と、そのような他者を確保するための共同体の必要性。自分が必要とされている、と思えるような場所を作らないと、なかなかキツイ。(cf. ロシアの高齢者の自殺


東京でよく遊んでいたフランス人の友達がパリに帰ってきたらしい。メールを返信しなければ。フランス人の友達、紹介してくれるとかも書いてあったし。ふぅ。

ムッシュのいない土曜日。今日は一日中、家で休養。なにもせずにYouTubeを見たり、ポケーっとしたり。病気で寝込んでいたときを除いて、ここまで何もしない一日というのは留学して以来はじめてかも。最近、ちょっと疲れがたまっていた。ブログに書いていない部分での疲労なんかも蓄積していたので、ちょうどいいお休み。


最近思うこと。自分は体育会系だな~ということ。物心ついたときからつねにスポーツをやっていて、中学、高校ではどっぷり柔道部、それからもどちらかと言えば体育会系のバイトをしていた。マネージャーのオッサンたちと台場のほうに行って野球大会をして、そのあとみんなで銭湯に行って風呂に入って、それからバーベキュー大会をしてぐでんぐでんに酔っ払ったり。二十代の前半くらいまではずーっと怒鳴られっぱなしの環境にいたので、逆に怒鳴ってくれる人がいないと物足りないくらい。


体育会系の基本。まずは挨拶。それから、簡単に落ち込まないこと。ちょっと怒鳴られたり叩かれたりしたくらいで、いちいちブルーにならないこと。そうは言っても、自分の意見を主張すべきところではしっかりと主張する。話すときははっきりと明快に話すこと。もごもごぐちゃぐちゃ、訳の分かんないことをぶちぶち言わないこと。ひとりで正論を吐いてたって、使えなけりゃぁ意味がない。あとは、組織に徹底的に貢献すること。周りの雰囲気を考えて、どうすればみんなが最大限の力を発揮できるのか、どうやれば物事がかっつりと運ぶのかを考え続けること。


体育会系のやつらに共通すること。多少理不尽だと思えることでも、一本筋の通った人から言われた命令ならばその人を信じて、気合を入れてやり遂げる。指令の内容そのものよりも、指令を発した人の人品の方をどちらかと言えば重視する。


ついでに、体育会系の考え方。例えば筋トレの場合。自分の限界までがんばる、そんなのは当たり前。それは筋力維持のための最低条件。筋力をアップするには、自分の限界を超えなければならない。「もう無理、限界」と思ってからの10回がとても大事。


要するに、「てめぇら、気合入れてくぞ!!」って言って、みんなで戦い続けることに喜びを見出すこと。常に攻めの姿勢でグリグリ進んでいって、しかもそんな自分が大好き、というのが体育会系(特に柔道家)の特徴。(基本的に柔道家はナルシストが多い。) だから、こんな文章を読むと「ぅオラぁっ!!」と気合が入ってしまうのである。


自分から動く。目の前の壁を突破する-。そうした基本姿勢がない限りは、絶対に未来は拓けていかない。チャンスというものは見つけようとするものではなく、つくろうとするものだということをまず認識しておかなければならないのである。」


「大きなことから小さなことまで、人生のなかではさまざまな勝負事が待ち構えているものである。しかし、そんな勝負事で何が問われるのかといえば、その勝ち負けだけではないと思う。

勝ち負けこそが勝負ごとのすべてだろう、と思われる人もいるかもしれないが、そうではない。『勝つか負けるか』よりも『やるかやらないか』。立つか立たないか、戦うか戦わないかが本当は大切なのである。

どんな勝負をしているときにしても、最後の最後にはそうした姿勢が問われてくるものであり、勝敗よりも、その選択における意志と決断が人生を左右していく。」


堀紘一, 『一流の人は空気を読まない』

昨日の夜は友達とレストランでクスクスを食べる。家では良く作るけど、外で食べるのは初めて。おいしかった。日本で食べられるものと無理やり比較すれば、タイ米でインド系のさらさらカレーを食べてる感じ?ちょっと違うかな。念願かなってちゃんとしたクスクスも食べたし、あとはマカロンとファラファラ?ファラエル?ラファエル?ユダヤ系のヒヨコマメのやつを食べれば、パリの食事で思い残すことはない。


それにしても、やっぱりlこうやって友達とおしゃべりしながら食事してるときがいちばん楽しい。パリもなかなか悪くないじゃん、と思えてくる。というわけで、これからどんどん暖かくなってくるし、みんなでパリを楽しみつくしましょう!!

ひとつの事柄がある。その事柄に、A、B、C、Dという見方があるとする。全体をなんとなく眺めていても良く分からない。そこで、あえてAという見方を選択し、意見をまとめてみる。当然、その意見は物事の全体をとらえていない、非常に一面的なものである。しかしその後、Aの見解としてまとめた意見を叩き台としてB、C、Dの見方へと移行していくことで、最初よりももう少しその事柄がつかめることもあるだろう。ひとりでディベートをしているようなものである。だが、Aの見方としてまとめた(無理のある)意見を、何の前置きもなくいきなり公開してしまうと、「その意見はおかしいですよ」ということになる。当然である。


ブログは告白ではない。『性の歴史』のなかでフーコーは次のように言う。キリスト教の告白では、告白する者は自分の「すべて」を語ることで、告白を聞く者から「真実」がもたらされるのを待つ。だがここでは、ブログを書く者は意図的に自分を隠し、あるいは歪曲する。


自己のエクリチュールを通して読者が想像する作者像と、作者と実際に交流のある人が持つ彼・彼女のイメージと、作者自身が持つ自己イメージとの間には乖離がある。このブログを読む「あなた」が抱く「僕」のイメージと、僕の友達が持つ僕のイメージと、僕自身が持つ自己イメージとの間には差がある。ブログとは演劇である。演じられている役を見る観客は、俳優の私生活を知らない。このブログは、ドキュメンタリーではなくてフィクションである。

Abee Pierre(ピエール神父)の活動に興味があったので、ムッシュにいろいろと質問してみる。Abee Pierreは、Emausという組織をつくり、フランスの路上生活者への援助運動をはじめた人。福祉活動が盛んなフランスでは、伝説的な存在。


なんとウチのムッシュ、若い頃にAbee Pierreに会ったことがあるらしい。友達の家の近所に住んでいたとのこと。「とてもいいやつだったよ」と言っていた。


福祉団体としては、Emaus以外にCaritasも有名らしい。Caritasはカトリック系の福祉団体。日本にも、カリタスジャパンという支部がある。


ムッシュによれば、フランスの慈善運動の背景には、やはりキリスト教(特にカトリシズム)の影響があるらしい。キリスト教から離れたところでいかにして慈善運動を根付かせるか、というのが、今後の日本の慈善運動展開のかぎになるのかもしれない。


ところで、ウチのムッシュも、失業者対策の福祉団体に所属して、福祉活動に従事しているらしい。これは誰か(大前研一だったかな?)が言っていたが、西欧社会では、慈善活動をしてこそ本当のエリート。自分自身の金儲けだけに邁進するような人間が尊敬されることはない。(僕が福祉に興味を持っているのを知ったからか、ムッシュに「きみはすばらしい」と褒められる。)


「将来NGOで働くのに興味があるのか?」と聞かれる。今まで考えもしなかったが、可能性としてなくもない。福祉事業には非常に興味があるので、福祉先進国のフランスにいるうちにいろいろと調べてみるつもり。


cf. カリタスジャパンのサイト

「自死と孤立」という勉強会 に非常に興味を引かれる。)

フランスでは現在、政府の大学改革案に反対する大学関係者(主に教員と学生)が大規模なストライキを起こしている。論点は三つ。1) 大学の雇用を削減する、2) 大学に自治権を与える、3)修士課程を終了しないと教職免許を取れないことにする。


今日のリベラシオンに教育庁長官のValerie Pecresseと組合(Snesup-FSU)代表のJean Fabbriの討論が載っていた。この記事を元に感想。なお、フランスの大学はほとんどが国立。授業料は登録費(三万円くらい)のみ。入学試験はない。



結論:自分たちの既得権益に固執する組合はあまりにもわがまま。



1) 大学の雇用を削減する


政府は、大学の職員数を減らすことで大学をスリム化し、経営状態を改善させようとしている。しかもそこには、今年度の研究者のリストラはゼロ、空席となった臨時職を優先的に削減する、といった一定の配慮が見られる。これに対して組合は、「これは大学への競争原理の導入である」、「雇用が減ることで一人当たりの負担が増える」と反対している。


組合は、大学運営の経済的側面に対する配慮を欠いている。雇用を維持したいのならば、職員の給与の財源をはっきりと示すべきである。大学を「聖域」と位置づけ、無尽蔵に金を出してもらおうとしているのならば、それはあまりにも傲慢。大学だって経済システムの一部なのだから、経営改善のために効率化を目指すのは当然のこと。



2) 大学に自治権を与える


政府は、大学に自治権を与えようとしている。これまで教員の待遇は、授業数によって一律に決められていた。しかし、この改革により、各教員の能力が報酬の評価基準になる。これに対して組合は、「大学間、教員間に競争が生まれる」、「学長によって教員のキャリアが決められるのはよくない」と反対している。


大学間の競争はアメリカや日本ではもはや当たり前。また、組織のトップによってキャリアが左右されるのも一般社会では当然のこと。大学教員だからといって一生のうのうと暮らしていける、という認識が甘い。



3) 修士課程を終了しないと教職免許を取れないことにする


政府は教員の質を上げるため、修士課程を終了しないと教職免許を取れないことにする、という提案をした。これには、多くの教員希望者が大学で5年間(学部3年+2年)勉強しているにもかかわらず、それが修士号として認められない、そのために正当な待遇を受けていない、という現状を改善する意味合いもある。これに対して組合は、「改革が性急で乱暴である」、「システムが複雑すぎる」、と反対している。


この問題に関する個人的な意見は特にない。修士号を義務化したからといって、教員の質が上がるとも思えないが。


以上三点に加え、今回の大学改革によって文学や数学といった分野が追いやられる、という意見も組合から出ている。それについて。


文学という非・実学的な分野がフランスの大学での居場所をなくしている。これは、文学部自体にも大きな責任がある。彼ら・彼女らは、自分たちの存在意義を社会に説明する努力をあまりにも怠ってきた。価値の不明瞭な組織に投資する投資家はいない。


60年代あたり、文学が社会にインパクトを与えていた時代ならば、文学部の存在意義も説明しやすかったのだろう。ただ、新しい価値観を生み出すこともなく、40年前へのノスタルジーでもっているようないまのフランスの(そして日本の?)文学部は、単なる同好会でしかない。そんなものに国家が金を出すわけがない。社会の外部から時代を批判するのが文学部の役割だと思うのならば、大資産家にでも頼んで私立の研究所でも作ってもらえばいい。

1968年の五月革命に関する入門書、『Mai 68 : la revolution fiction』(Jacques Tarnero)を読む。以下、ごく簡単なメモ。


'68年と現在は似ている。


1. '68


68年の五月革命は、それまでの体制への反抗、および新しい価値観の創造を本質とする。「禁止することが禁止されている」をスローガンとして掲げた彼ら・彼女らは、徹底的に個人の快楽を追及した。その結果、国家や国民といった「われわれ」に代わり、個人としての「わたし」が最上の価値となった。なお、テレビを介した世界との新しい関係の誕生も重要である。


2. 現在


金融危機は、(その正当性は別にして)それまでの「市場原理主義」への批判を引き起こした。その結果、CSRや環境対策といった、「持続可能性」をキーワードとする新しい価値観が注目されはじめている。個人のエゴの無制限な拡大は時代遅れになった。「いかにしてみんなで共生していくか」、へと時代は変わろうとしている。なお、インターネットを介した世界との新しい関係の誕生も重要である。


大前研一が言うように、これからの時代に必要なのはファイナンス(ファイナンスを知らずに新たな価値観を創造することは不可能)、IT、英語(世界の流れへの参加許可書)なのだろう。


cf. 個人のエゴの制約という点で、先月出版されたドゥブレの『Le Moment fraternite』は面白そう。

友達二人と一緒に、St. Marcel教会の無料コンサートに行く。プログラムは以下の通り。


Orchestre Symphonique "Impromptu", Dir : Maxime Pascal. Yannich Rafalimanana, piano. "Symphonie n. 8" de Dvorak, "Concerto n.3 pour piano" de Beethoven.


全体的にとても若い編成。おそらく学生たち。ヨーロッパの、地元に根ざした気楽なコンサートを体験できたという点で、なかなか面白い経験だった。ただ、全体として演奏が粗い。(「即興」だからしかたないのだろうか?)音楽を評論できるほどの耳を持っているわけではないが、特にピアノが乱暴な印象。結局、第一部のベートーベンが終わったところで中座。


音楽にしても、あるいはビジネスでも人生でもそうなのだろうが、一つ一つの音に明確な意思を込めないと感動は生まれないのだろう。それぞれのパートを丁寧に仕上げつつ、全体として大きなストーリーを作っていく、それができる音楽家はすごい。これで教会コンサートの雰囲気は大体分かった。パリにいる間に、いろいろなコンサートに通い詰めたいと思う。


コンサートの後、リュクサンブール公園でビールを飲みながら友達とおしゃべり。ちょっと肌寒かったけれど、リラックスした時間を過ごす。こういうのんびりとした時間を提供してくれるところが、パリのえらいところ。

ようやく金曜日。先週までは「春ももうすぐか」、と思うほどの暖かさだったのに、今週に入ってから急に寒気が戻る。久しぶりに暖房をつける。気温の変化に身体がついていかないのか、生活リズムが少し乱れる。朝の四時半くらいに目が覚めて、どうしても眠ることができないのでそのまま勉強、ということも何回かあった。ただ、今度の日曜から夏時間に戻るので、少しくらい早起きのほうがいいのかもしれない。


今年に入ってから問題解決、マーケティング、会計の勉強をはじめた。特にバーバラ・ミントの『考える技術・書く技術』には非常に大きな影響を受けた。ミント女史はマッキンゼーやブーズ・アレンといったコンサルティング会社でビジネスライティングの指導をしていた人。そのとき使われていた教科書がこの本。


フランスに留学し、フランスのエリートたちと話す中で、明確な目的を持って論理的に考えることの大切さをひしひしと感じた。そのような下地ができたところでこの本を読んだので、この本が教示する問題解決の方法、ビジネス文章の書き方の有効性を、非常に明確に理解することができた。『アナイス・ニンの日記』、ニーチェの『ツァラトゥストラ』と並んで、この本は僕のバイブル。


細谷功の『地頭力を鍛える』を読む。期待していたほど面白くはなかった。『考える技術・書く技術』にマーケティングの基礎を足して、かなり薄めに割った感じ。この本は「仮説思考力」「フレームワーク思考力」「抽象化思考力」を「地頭」の基本要素としている。しかし、これはマーケティングの世界ではあまりにも当たり前のこと。いまどき、仮説も立てないで情報収集をする人などいるのだろうか。「地頭」というネーミングをつけて世間の注目を引いた、という点において、本書の啓蒙書としての価値を評価することはたしかにできるだろうが。


あまりにも疲れた夜はYOUTUBEを見て過ごす。今週は、今から二十年以上前の番組、タモリの「今夜は最高」をまとめて見る。ウィスキーを飲みながらタモリとゲストがトークをするという内容。昔は、ウィスキーを飲み、煙草を吸いながらまったりと会話をする、なんて番組があったわけだ。そういえばカッコいい大人が消えてから久しい気がする。(「今夜は最高」へのリンク


いままでに出会ったいちばんカッコいい大人は、キューバ人の音楽バンド、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ。渋谷のコンサートホールでバイトをしていたとき、本番前の彼らの楽屋のケータリングをひとりで担当したことがある。すでに一年以上そのバイトをしていたので、芸能人や世界的VIPの対応にはかなり慣れていた。それでも、ヴェンダースの映画に出てきた伝説のミュージシャンたちに囲まれたときには、さすがに少し緊張した。本番直前の彼らが放つオーラは、それまでに感じたことがないほど強烈なものだった。


今週の日曜は教会に音楽を聞きに行く(chat-vertさん、ありがとう)。来週からはまた暖かくなってほしい。公園でのんびりと過ごしたいし、ブローニュの森やヴェルサイユにもそろそろ行きたい。ただでさえ寂しい街なんだから、せめて天気くらい良くなくては困る。

(3月18日付のリベラシオンの記事を要約)


ロシアの高齢者の自殺者数が記録を更新した。現在、ロシアの自殺者は100.000人あたり36人(日本は26人)、65歳以上の人に限ると、これが75人になる。ロシア国民はこの問題に対してそれほど関心を抱いていない。


ロシアの高齢者の現状


ロシアの退職者の年金は現在、現役時代の最終給与の28%に設定されている。これは、同比率が50%に設定されていたソ連時代の約半分にしか相当しない。その結果、ロシアの退職者の平均年金支給額は毎月4.895ルーブル(110ユーロ=約14.000円)。小さなアパートを借りるだけでも60ユーロはかかるので、残りの50ユーロで食費等をまかなわなければならない。また、薬は原則として無料だが、実際に無料で入手できる薬の種類はかなり限られている。


自殺の要因


1. 精神的落ち込み


自分は社会から必要とされていない、自分の存在意義が見つからない、と感じることが自殺を誘発する。この際、孤独は落ち込みを助長する大きな要因である。


心理学者の意見として次のようなものもある。「ここまで自殺が増えたのは、われわれの社会が自分たちの価値観を失ってしまったからだ。消費が人生の目的であり、究極の意義になった。そのため、消費することができない老人たちは、自分たちが死ななければならないと感じてしまう。老人たちは、自分たちが消費社会に迷惑をかけていると思っている。」


2. 金欠

3. アルコール中毒



高齢者たちの証言


「時々、わたしは長く生きすぎてしまったと感じるわ。わたしの両親はわたしよりも若くして死んだの。人生の目的もなく、ただ存在してるだけなんてつらすぎるわ。」


「(友人の高齢者の死について)彼はとてもいい人だった。でも、彼は病気を患っていた。それも悪くなる一方だった。安楽死が認められていないんだから、窓から飛び降りる以外の解決なんてなかったんだよ。」