芸術と戯れる
アダムと神
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東大寺戒壇院の四天王の剣

四天王の剣


 四天王の両刃の剣がロ-マの剣と似ているのには驚く。ロ-マ剣は建国当時は片刃でしたが、ポエニ戦争時代(紀元前264年)にスペイン辺りで敵が使用していた両刃の剣を取り入れたそうです。地中海の覇者であるフェニキア人が使用していたと思うのです。

 この剣がアフガニスタンと中国を結ぶシルクロ-ドで共有され、日本での四天王の剣と何らかの影響があると想像しますと昔から、原因は商人か戦かの違いはあれ、文化は国境を越えたのには違いない。

小椅子の聖母

 イタリアのフィレンツェのビッティ宮殿の中にあるパラティナ美術館にラファエロの「「小椅子の聖母(聖母子と子供の洗礼者ヨハネ)」作品が展示されている。

               
                  


 ラファエロの美術番組の中で、イタリアの御婆さんがパラティナ美術館のラファエロが描いた絵の前で、この様に言われた。


「幼少の頃、この絵を見てこの様に在りたいと思いました。そして結婚をして子供を産み、孫が出来た現在。幸せな人生でした。この絵は本当に素晴らしい。」 


 この話を番組で見た私は絵を模倣する事で御婆さんの言葉を理解しようと思いました。描き終わり、分った事は後光もかすかに描かれ、ヨハネの横には十字架もあり宗教画です。しかし、子供を持ち、育てる女性の幸せを感じます。その事を御婆さんは言われている。、それは現在も同じく共通するものであります。それ事態が当時はルネッサンスでもありました。


更に私が感じたのは男性が見ますと絵の向こうには父親がいて、絵から言葉が出てきます。「いってらっしゃい!」斯くして、どの時代も男は仕事に出かけるのであった。

ミケランジェロの大壁画「アダムの創造」

 ミケランジェロは彫刻家としての才能は素晴らしいが、彼が何故、ノミの代わり絵筆を執ったのか。ここの所に私が関心を抱く原因があります。当時の人はレオナルド・ダビィンチを筆頭に沢山の天才的才能の画家はいます。

 そもそも、ロ-マ法王シストⅣ世が法王専用礼拝堂として、システィ-ナ礼拝堂を建設するのですが、その内部のア-チ型天井、半円形窓、小ア-チの内部側壁の壁画は旧約聖書の物語から新約聖書の物語を経て、現在のロ-マ法王に至る物語を言葉でなく、絵で説くようなものです。

 シストⅣ世の死後、1503年に、甥であったジュリオ・ロ-ヴェレが法王となり、ユリウスⅡ世を名乗ることになります。彼はミケランジェロの才能に惚れ込み、シストⅣ世の仕事の引き継ぎである天井装飾を依頼するのです。

 彼は彫刻家としての自負がありますので、嫌々引き受けるのですが、しかし「アダムの創造」の構図を見れば完璧なほど旧約聖書の世界が描かれています。

 この当時の画家は注文に宗教画が多いから、当然、聖書にも精通してないと描けない。だから、注文にはあるていどの打ち合わせはあるでしょうけど具体的構図は画家に任せていたのでしょう。

 それとフレスコ画は漆喰が乾燥しない内に絵の具を染み込ませる事から、描き始めたら一週間ぐらいで仕上げなければならない。天井のド-ムに足場から見上げながら仕上げる作業になります。

 そして下から上の天井を見ると上の挿し絵が見えるのですが、神とアダムの手が触れるか離れるかの瞬間を描き、目線の交じり合いには愛を感じます。これがアガベというもんだ。創造主と創造物の一体感。

 私はミケランジェロが画家としての才能で描いたのではなく、彼の聖書に対する理解の深さが作品の完成度を深め、又、ユリウスⅡ世は彼の洞察の深さを見抜き、彫刻家のミケランジェロにフレスコ画を描かせたと思っています。

 

芸術家とは..その3

「芸術家もつらいよ...その3」になりますと医学博士キュブラ-・ロス、連続殺人ユ・ヨンチョル、に続いてナチスのヒトラ-となるのです。この人も若い頃に画家を目指した時期があります。独裁者になった後も建築家やら映画監督に優れた側近を選ぶのはヒトラ-に才能があり、良き理解者であるからです。

 もし時代が違い、ロ-マ時代の皇帝であるとしたら、この方は偉大な成功者だったのでしょうか?その論議も意味はないでしょうが、おそらく結果は同じで暗殺され、テビレ川に投げ捨てられていると思うのです。

 ここでは善悪の論議などする気はありまんから、ある才能をお持ちの方が博士になり、殺人者になり、独裁者になることを考えますとほとんど同じ人間が環境とかの違いで花の咲かせ方に目を向けたい。

 私は脳の中の構造はほぼ同じである気がするのです。同じ機能で各も違いますのは、脳が判断していく材料となる「外部からの情報」、所謂、環境となります。

 人にあるのは脳とか身体の特性が成長と共に外部からの刺激で特長を作り出す。この特長で善人、悪人の区別をしても、2000年前も現代も人の性は変らないのでは?

 これから本当に変るのは一般大衆でなければならない。博士、独裁者、殺人者などではないのです。普通の人が目覚めて、世界が変るのです。


誰もが生きるのに飯が楽に食える生活を望み、それを得たのが今の日本であります。しかし、現実に得てみると農村の共同体でしか生きられない昔の生活は企業に吸収されました。それが順調な時は良かったがそこの共同体も怪しくなった。

 そこで、昔に戻ればいいじゃないかと思うのは勝手だが現実はそうはいかない。これからは、どういう生活スタイルに理念、要するにカッコが良いと思うかである。それを思考の中に入れれば、人の中には素晴らしい能力はあるのです。

 今から起こりえる諸問題は経済的、力の概念で取組むべきではない。善とか美とか調和とかの概念から、考える事が正しい姿勢である。我々の求めている世界は金とか物ではなく、真、善、美である。それを教育の場、家庭、職場に取り入れることが人類の地球においての繁栄であります。

 究極的に存在は美しくなければならない。美について求める作業が宇宙からみて青い地球であり、地上においての緑です。言葉が美しくなると詩になるのではないのでょうか。そして音が美しくなれば.......。 

芸術家とは..その2

2004年の年末に 韓国の連続殺人ユ・ヨンチョルの番組が放映されました。番組を見終わり不思議と共感するものが残りました。この人は最近の日本人の犯罪とは違うような気がします。それは貧乏、色弱、家庭崩壊とか殺人者に至る動機とか背景があります。

 それに若い頃から、絵の才能もありますね。そして下の赤字が彼の文章ですが、切れ味がありますね。少年の頃の夢を白い画用紙に例えていますが、私の場合は雪の降り積もる原野であり、そこを走り抜ける少年が老いと共に真理は得るが、夢は失うのであります。

 一人の男がいました。白い画用紙を広げれば何でも出来ると思っている夢ばかりが膨らむ男でした。

 画用紙に素敵な家と家族だんらんと世界中を思いっきり旅する夢を書き込めると思っている男でした。

 自分には画材道具を帰る豊かさもなく色すら識別できないということを知った時から絵から自分を遠ざけ孤独というやつと親しくなったのです。

  テレビ番組でも語っていましたけど「犯罪者と自分との違いはあるのか?」いう疑問であります。番組を見て、共感を得るのは殺人者と自分には境界はなく、同等の思考とか、価値観をなくしてありえない。彼が芸術家で成功を修め、こちらが連続殺人者になることもあるのです。

 今回は自分が連続殺人ユ・ヨンチョルになったかもしれない「ゾォ~」とする話ですが、最近の日本人の猟奇殺人者には成れない。何故なら、こちらはさっぱりわからない進化した人の行動でして、因果関係が薄い。いや~、この希薄な人間関係を背景にして行われている。すこしづつ、理解できるのが、不愉快であります。

 ユ・ヨンチョルも絵描きで生計が立てば、殺人者にならないですんだかもしれない。彼も「芸術家はつらいよ」の仲間にいれたい。

 本当に芸術家と殺人者の境はないと思うのである。狂気は生命の本質でありますから。地球を温暖化して、生命を危機におとしいれる先進国の情熱も、殺人者の狂気もどう違うのだろう?次回は登場人物にヒトラ-に参加してもらおう。我々の心の中に光も闇もあるのだ。

芸術家とは..その1




 2004年の暮れにNHKのETV特集、最後のレッスン~キュブラ-・ロス 死のまぎわの真実~でご本人が「私は神に、あなたはヒトラーだ、と呼びかけた。でも神は、ただ笑っていた。」と語られていた。

この方はアメリカでホスピスを立ち上げた有名な博士です。10年前に立花隆が臨死体験の本でも紹介されていたが途中から会話に、宇宙人などが出てきて戸惑うと書いてあった。それからアリゾナの自宅が放火にあったのも聞いていたが、今回も正直に驚いたな。
最初に読みました「死ぬ瞬間」などの感動から、聖人みたいな高潔な人を期待しちゃうのよね。我々とは違う理想が現実の人がいたら夢がある。自分でそうなれば手っ取早いのだが、現実はままならない。それで人に頼っちゃうというか、自立出来ないのが庶民感覚かな。

 しかし、この方は芸術家とか詩人だとしたら私はわかる。意図も容易く理解出来る。しかし、博士なのであるから、これが通りにくい。ご主人との離婚もこれに間違いない。

 ご本人は「自分に正直に生きてきた。」と言われている。これは芸術家とか詩人の本分である。周りに迷惑がかかると思うより、自分に忠実にあろうとされたのです。

 だから、痛快であり、ある意味でこちらもホッとするのです。

著者: エリザベス キューブラー・ロス, デーヴィッド ケスラー, Elisabeth K¨ubler‐Ross, David Kessler, 上野 圭一
タイトル: ライフ・レッスン
著者: エリザベス キューブラー・ロス, デーヴィッド ケスラー, Elisabeth K¨ubler‐Ross, David Kessler, 上野 圭一
タイトル: ライフ・レッスン

本来の美術観賞

 芸術などの職業は生産とは関係ないからと、低くとらえる思考自体に問題があります。「私は何ものか?」という哲学的問題を極めようとする試みには、この分野は大変貢献してきたのです。過去では少数の人の問題であったかも知れないが、現在の日本では少なからず多くの人の課題であり、若い人は特に避けられないでしょう。

 レオナルド.ダビィンチとかミケランジェロは中世では有名な人達ですが、この天才達の仕事の偉業は貴族とか教会などの資金を背景にしてますから、表現する内容も限られます。

 日本の仏像彫刻が鎌倉時代が頂点であるのも同じです。

 壮大で技術的の完成度は高いのですが、近代は個人の心の宇宙を描いた作品が評価が高いのです。

 その時代背景を考えて、美術品を見ないと理解しづらい作品があります。宗教画などはその宗教に対する理解が先であります。



 そもそも、美術に感心を持ちましたのが、10代半ばで学校の図書館で美術全集を見たのが始まりです。図書館は現在でも学生さんの進学の為の場所として有効に利用されていますが、この方法は以外に退屈なものでして、学ぶという観点からは目的が進学ぐらいでは面白くない。それで美術でも見ようかという考えが浮かぶ訳です。

 その美術全集の後期印象派時代を開きますと現実の色彩とか形が歪められて、難解な数学の方程式に出会った気になります。それ以前の中世画は上手いで解決しますがね。「何故、これがいいのか知らん。」と思い解説の文を読んで「なるほど」と一応感心するもんですよ。

 しかし、それは絵自体からの感動とか理解ではない。何故、顔の色が現実と違い、形が変形されるのか。現実と違うではないか。それに下手に描いてあると思うのです。それでも知りたいと思うと我慢して付き合うのが人の嗜好であります。

 それで絵をキャンパスに複写してみると、セザンヌなんかは結構似たものが出きるのです。これが世界の名画かと思うのです。

 これが美術鑑賞の難しさであります。有名な作品を理解出来ない苛立ちと偏差値教育で起こりがちな劣等感が生じる。

 これは簡単に言い切れるのです。分からない作品は分からなくて良い。嫌いなものは嫌いで良い。好きなものを充分堪能すれば楽しいのです。近代芸術が万人に向けられて作られてはいないのですし、人間的熟成をしないと理解出来ない世界もあるのです。

 その時点の解釈で付き合うのが全てです。それと従属的見方は作者に対しての評価に値しません。創る者も見る者も主体性こそ、芸術の本質であります。

福なるかな、貧しき人よ。その名はゴッホ

ビンセントヴァン・ゴッホ、炎の人ゴッホであります。あまりにも有名な人ですが、私が始めて彼の絵を知りましたのが15才でした。その初期の感想はとても絵が上手とは言えないし、現実の色とかフォルムが歪められいるのが単純に不思議ですね。絵筆は迫力はありますが15才の頃の私でも描けそうな気がした記憶があります。  人生経験が少ないと表層的見方でしか対応しませんので当然ですが、しかし有名というブランドが付いているので、学生にとっては良いとか思えない自分に劣等感を感じます。ブランドは自分の付けた価値ではありませんので、能動的主体性がない。この主体性こそ描かれた作品の不思議を理解する鍵となるのですこの主体性を理解するのは、それから、五年程過ぎて20才頃に空虚な気持ちで本屋の画集の表紙を見ていたら、農夫、パシァンス・エスカリエの肖像があった。それを見ていると吸付けられるのです。引力が働く様に。心を見透かされている様に。老人は澄んだ目で見つめていのです。それは絵と対話しているのです。  それで画集を見ながら、農夫、パシァンス・エスカリエの肖像を描いた。そうすると結構似たものが出来ましたよ。レンブランドの絵はこうはいかないでしょうがね。複写しますとね、色々な事が見えてくる。 何故、顔が黄色と赤なのかしら、荒い筆の跡がゴッホの場合は渦巻くのかとかね。  ゴッホは狂信的な人格破綻といっていいでしょう。しかし、人としての苦悩と真摯に取り組み、殉教に等しい死に方をした。その心が絵筆に乗り移り、彼独自の表現になったのでしょう。  それは私達が、同じ心理的状況化で理解され、同時共鳴化される。その状態は感動とかいう受動的なものではなく、彼と同じ場にいる安心感である。これは境地であります。  ここに紹介した絵はゴ-ギャンの共同生活に敗れ、自分の耳を切り落とした自画像とその後、精神病院に入れられた頃に描いた「烏の飛ぶ麦畑」になります。 烏の飛ぶ麦畑などは健康で恙無く人生を送っている人が見ても、理解の範疇にありません。暗く陰湿な絵など要らないと思って当然。ゴッホの絵の色調は彼の人生模様のまま明暗をつくりますから、人生の末期の絵には絶望と孤独を越えて、見る者に痛さまで与えてしまいます。  私はゴッホが今でも世界中の人から、愛される理由は「いつも、その時の自分に対して正直な表現者であった。」包み隠さず自己を作品の中にさらけ出したからだと思います。  それは世の中の包隠されたブランドの価値観と合間見えず、どちからといえば貧者の思想かも知れない。事実、絵は売れてませんからね。死して認められたのです。  イエスは山上の説教で「福なるかな、貧しき人よ」で始まりますが、心が貧しいと認識する作業が「私は何ものか?」という道中を歩んでいるのです

水平にみる

ゴヤの話は堀田 善衛氏の紹介からさせて頂きます。約30年前にNHK教育番組の「日曜美術館」での話です。ゴヤの研究では堀田さんは有名な方ですが、ご本人の言葉を借りますとゴヤに対する評価は「水平な視線で見た。」という解説が、今でも記憶に残っています。
 18世紀後半、ヨ-ロッパは王侯貴族が不安定な時代ですが、スペイン王室は未だ、解体されないでいた。ゴヤはスペインの宮廷画家を目指し、認められ成功したのです。45歳過ぎて多忙な創作活動中に病気から聾になるのですが、この頃から時代と共に絵が変化するのです。
 この当時の画家は神話や宗教画、貴族の肖像画でしか、生計を立てる道がない。しかし、時代は自由、平等を求める民衆の動きは差し迫っていた。

 私は野心家で精力的ゴヤが聴覚を失う自らの体験により、内面に初めて今迄の成功とは違う世界が作られたんじゃないか。その心で外の世界を見ると人間のありのままを描きたい衝動に駆られたじゃないかしら。それは教会から頼まれる宗教的高貴なドラマと相反する現実そのものを。

 それを堀田氏は「水平にみる」という表現で説明されたのだと思います。

 さあ~、現在でも世界を水平に見れて、ゴヤのように自分自身を水平に見る努力は、そう簡単にはいかない。その作業は、暗闇のどろどろとした沼地を彷徨う恐怖と一体なのです。しかし、その勇気がないと芸術の領域には入らない。

 それでも、堀田氏は番組最後に言われたのを思い出します。それは『ゴヤの人生が最後に描いた「ミルク売りの少女」の絵で、清純な明るい絵で終わるので、ほっとします。』

 本来、宗教の博愛などは「水平にみる」とこから、入らないと分かり合えない。民族紛争などは、上から見ても、下から見ても解決などはありえない。事実を水平に見る努力からの認識が大事であるが、この言葉ひとつ(水平にみる)理解するには年月がかかると思うのです。